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八章『悪鬼羅刹 後編』

その一

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 これはあくまで仮定の譚で、私の描いた夢物語にすぎない。
 もしかしたら存在したかもしれない、一つの未来の譚だ。
 
 私は椿井家のメイドとして、旦那様にお仕えしていて。
 朝ご飯のお手伝いをして、食器を洗って、お茶を入れて。
 ひと休みしたらお洗濯をして。
 太陽の下で汗を流しながら、風に乗ってやって来た土の匂いを感じる。
 何ということもない、普通の日常だ。
 旦那様は相変わらず仕事熱心で。
 イシさんや赤塚さんたちと、休憩の合間に世間話をして。
 そして、傍にはいつも彼がいて。
 彼――夏目世助。
 可愛い、可愛い私の恋人。
 明るくて朗らかで、粗野なところもあるけれど、優しくて。
 私よりも年下なのに、しっかりしていて。
 いつも私のことを気にかけてくれて。
 けれど本当は誰よりも甘えたがりで。
 甘え下手で。
 執心深くて。
 嫉妬深くて。
 そんな自分を隠して強がって。
 不器用で、どうしようもなく愛しい人。
 どうしようもなく愛したい人。
「世助、大丈夫? そろそろ休憩したら?」
「ん、この章が終わったら」
 世助は毎朝早くから起きているくせに、夜更けまで勉強勉強と頑張りすぎる。
 日付が変わっても自室の机に齧り付いている彼を見た私が呆れることは、もはや日常茶飯事だ。
「何回その台詞を言うのよ……医者から無理しないように言われてるでしょ。それでも医者の卵なの?」
「今冴えてるから」
「それ寝不足で頭が麻痺してるだけだから」
 私が心配して声をかけても、彼は参考書に目を向けたまま生返事だ。
 私の言葉にはちっとも注意を向けてはくれない。
 なんだかそれが面白くなくて、私は油断している彼に、少しばかり悪戯をする。
「うぉッ!?」
「はい、集中力切れた」
 悪戯とは言っても、ちょっと抱きつくだけ。
 初心な彼はそれだけで、顔を真っ赤にして反応してくれる。
「おま、お前っ、男にそういうことすんじゃない!」
「こうでもしないとやめないでしょ。世助以外にはやらないわよ」
「うっ」
 最近得た知識。
 世助は『貴方以外にはしない』という台詞にめっぽう弱い。
 本当は独占欲の強い彼だから、こう言えば嬉しくて黙ってしまうのだ。
 無論、彼以外にこんな悪戯をする気はない、というのは本当のこと。
 私がこんなふうに抱きしめたいと思うのは、世助ただ一人だ。
「また倒れるのが心配なのよ。お願いだから、そろそろちゃんと休んで」
「…………わかっ、た」
 恥じらいで勉強どころじゃなくなった彼は、ようやく鉛筆を置いて布団に入る。
 そこへすかさず、私も一緒に潜り込んだ。
「ちょ、リツも寝るのかよ?」
「当然でしょ。そうしないとまた起きて勉強しだすもの」
 風邪を引いて倒れても無理をしようとした彼だ。
 こうしないと、しばらくしてまた鉛筆を手に取るに決まっている。
「添い寝したいの。駄目かしら?」
 わざと上目遣いで言えば、ぐう、と言葉を詰まらせる世助。
「……ずるい」
「ふふ、まあね」
 世助の弱点を狙っての行動だけど、私は嘘なんて一つもついていない。
 世助が心配なのも、添い寝がしたいのも、本当のことだ。
 暑苦しく思われそうな気がしないでもないけど、私は彼の体にぴったりとくっついて、胸の鼓動に耳を傾けた。
 ほんの数秒置いて、彼がゆるりと腕を回してくる。
 私の髪を、世助の太い指が梳いている。
 まだおっかなびっくりな指先から、熱と脈動が伝わってくる。
 けれど、私を閉じ込める腕はがっしりと逞しくて、胸板は分厚くて、『可愛いなんて言わせないぞ』という男の子らしさを感じる。
「ねえ、世助。私ね、こうやって貴方に触れられるの、好きよ」
 自然に動いた私の手は、世助の頬に添えられる。
「…………おれも」
 私の手に遠慮がちに擦り寄りながらとろりと目を細めているのは、やっぱり可愛らしくて。
 けれど、その手の上から指を絡め取られると、ごつごつした男の子らしい骨の感触が伝わってきてどきどきしてしまう。
 世助は可愛いとかっこいいがごちゃまぜだ。
「リツ、小さい」
「世助が大きいの」
「指ほっそい」
「貴方は太いのね」
「胸はでかい」
「こら」
「……目が、綺麗だ」
 うっとりとした様子で見つめられると、さすがに私も恥ずかしくなってくる。
 でも、お互いの視線は鎖で繋がれてしまったかのようで、そらすことができない。
 しばらく見つめ合ったあとで、世助は私の首筋にもぞもぞと顔を埋める。
 茶色い癖毛が肌につんつん触れてきて、なんだかこそばゆい。
「リツ。大好き」
「うん。私も」
「どこにも行かないでほしい」
「どこにも行かないよ」
「ずっと、ここにいて」
「ずっと、ここにいる」
 世助の体をきゅっと抱き寄せ、頭をゆっくり撫でてあげる。
 すると、彼は胸に顔を埋めたままで、目だけを私に向ける。
「貴方のことも、それにこの場所も、私は大好きだから。だから、ずっとここにいさせて」
 微笑みかければ、世助は小さな子供のようにふにゃりと笑った。
 
 ――そんな夢を。
 大好きな人と過ごす、夢のような日々を、私は描いていた。
 めいっぱいの憧れを詰めた、子供じみたおとぎ譚。
 それに手を伸ばすなんて、私はなんて身の程知らずだったのだろう。

 全身を引き裂くような悲鳴をあげて、私は崖下に落ちていく彼に手を伸ばす。
 けれど、もう遅い。
 すべてを思い出し、余計なものまで取り戻してしまった私は、あろうことか愛した人を斬りつけてしまった。
 私は、少し変わった個性を持った、普通の女の子などではなかった。
 醜悪で凶悪な、人殺しの化け物だったのだ。

 *****

 人がときに譚を、記憶を失うことがあるのは、つらいことを乗り越えて生き延びるためだという。
 私が記憶を失ったのは、きっとそのためだった――私が体験した惨劇は、その生が危ぶまれるほどに、重すぎる譚だったのだ。 
 この島に漂着した時から、私の記憶は蘇りかけていたのだろう。
 嫌な気配が常に周囲にまとわりついていて、私はずっと頭が痛くて、気分が悪かった。
 ――ここは私の生まれ育った土地で、私の中でなによりも忌まわしい島だった。
 ここに住んでいたたくさんの人が、生物が、突如として惨殺されたのだ。
 その惨劇の引き金は――私たち姉妹と、私たちの父親だ。
 
 遡ること数ヶ月――今年の五月上旬。
「なに、これ……」
 自身の住処である小屋で寝ていた私は、ある朝に目覚めて早々、信じがたい光景を目にする。
 寝所の床が、そこらじゅう真っ赤になっていたのだ。誰かが悪戯で赤いインクをぶちまけた、ならば笑い話で済ませられるのだが、恐る恐る触ってみると、ぱりぱりと乾いた感触がして、まるでにかわのようだった。そして何より、漂ってくる鉄臭さと本能的な嫌悪感で、それは血液がこびりついたものだと分かった。
 私は寝所を飛び出し、小屋の外へ走る。爪の先で頻りにかりかり引っかかれているような不快感を覚えながら、外に繋がる扉の取っ手に手をかける。
 開け放った扉の向こうに広がっていたのは、目が痛くなるほどの、赫々かっかくとした修羅場だった。
「なによ、これ……!?」
 住み慣れた緑豊かな島の光景は、跡形もなく消え失せていた。浅くなった呼吸の中に、強烈な悪臭が混ざってくる。何に喩えることもできない濃厚な臭いに、うっと顔を歪める。一歩足を踏み出せば、ぺちゃりという音と共に、足裏が何かで濡れる感触がした。足元を見れば――そこには想像を絶するような、惨憺たる光景があった。
「う、うぁ……」
 転がっていたのは、肉の塊と化した、人間の姿。生温かい臓腑と腐って変色した体液が足にまとわりつき、思わず吐きそうになる。
 女だてらに肝が据わっている、と言われていた私だが、こればかりはとても見ていられるものではなかった――人の形を成していたパーツがそこら中に転がり、辺りには蝿がうんうんと羽音を鳴らして飛び交う光景が、どこまでも続いていたのだ。
 誰だ。一体誰が、こんなにも惨たらしい光景を生み出したというのだ。
 私は嘔気を堪えながら、一旦心を落ち着けるために小屋の奥に潜ろうとした。
「待て、この人殺し!!」
 私の背中に、言葉の刃が突き刺さる。幼い子供の声だった。一面に広がった死体の海から、生存者の声が聞こえたのに、驚いて振り返る。
「なんで皆を殺したんだ!!」
「え……」
 見覚えのある少年だった。同じ村に住んでいた子供たちのうちの一人だ。少年が足を引きずりながら、必死の形相で近づいてくる。ひい、ひい、と苦しげな呼吸をしながらも、少年はありったけの憎しみを込めて私を睨んでいた。「人殺し」という言葉を何度も口にし、私を罵倒していた。
「お前のせいで皆死んだ! 父ちゃんも母ちゃんも妹も!! みんなみんな死んだ! 逃がさない、逃がさないからな……! 殺してやるからな!! この化け物が!」
 混乱する。家の外がこうなってしまった理由が、私には分からない。ここに至るまでの記憶が、私には全く無いのだ。
「お前なんか人間じゃない! この人殺し! 鬼女おにおんな!」
「違う、違う、私は――!」
 私はやっていない。そう反論しようとしたところで、幼い少年の叫び声は、ぷっつりと途絶えた。
 静まり返った空間に、しゃりん、と金属の音が響く。
 すると、恐怖の表情で固まった少年の首は、その形のまま胴体から離れ、ぽとっと地面に落ちて転がった。頭部を失った少年の胴体はその場に倒れ、死体の海に仲間入りとなる。
 私はその背後に、一番見たくない人物の影を見た。
「姉、さん……?」
 肩で揃えた綺麗な黒髪も、人形のような顔立ちも、その全てを赤色で汚しているのも――全く同じ姿をした、私の姉だった。
 ただ、私と異なる点は――
「あぁ、違うのよ。私よ、私。私がやったのよ」
 その手に、血まみれの刀を握っていたこと。そして、瞳が血のように赤いことだった。
「なに、してるのよ……?」
 一度も振ったことはないはずの真剣を握りながら、姉さんは、見たこともないような恍惚とした表情を浮かべていた。
「ごめんね、りっちゃん。ごめんね。私が馬鹿だったばっかりに」
「姉さん……なにが、起きてるの?」
 震える声で、私は姉さんに問う。しかし、姉さんは私の質問には答えず、
「あぁ、貴方はなのね」
と言った。
「なにが、起きてるのよ!」
 再度、疑問を投げかける。混乱を極めた頭に明確な解を示してくれと、姉さんに求める。
「リツ。私たちは、とんでもない大馬鹿者だったのよ。禁書の力なんて、不用心に借りるんじゃなかった」
「え……」
「父さんに貰った薬のことよ。きっと、あれのせいだわ」
 私は、ごちゃごちゃに散らかった部屋のような頭の中を探り、少し前の記憶を掘り起こす。
 確かに、私たちは先日、父さんからある薬を処方してもらった。禁書の毒で作った、身体能力を強化してくれる秘薬。軍に入隊することを目指して邁進していた、けれど非力だった私たちにとっては、夢みたいな薬。
「そんな……父さんが、処方を間違えたの? そんな! 禁書だって正しく使えば、害はないって言ってたのに……!」
「そんな都合のいい代物、無かったのよ。私も貴方も、父さんに騙されちゃったの」
「嘘よ! 父さんが、そんなことするはずが……!」
 姉が語る真実を、私は頑なに拒む。父さんは、私たちを応援してくれていたはずだ。軍人になろうと頑張って稽古していた私たち姉妹のために、色々と手を尽くしてくれていたのに。
 姉さんは安堵の表情で、動揺しきりの私を見ていた。
「あぁ、でも、貴方はずっと眠っていたのね。その方がいい……顔見知りの人を斬りまくっている姉なんて、とても気分が良いものとは言えないから」
 姉さんの声は、溢れ出そうになる興奮を抑えているようにも聞こえる。目元や口元には、殺しきれない歪んだ笑みが浮かんでいた。
 姉さんは願いをひとつ、口にした。
「お願い、リツ。私を殺して。貴方ならできるでしょう?」
「――!?」
 涙ながらに訴える姉さんの瞳は、既に真紅に染まっていた。返り血をたっぷりと浴びた顔面に、殺しきれない笑顔を浮かべて。
「い、いやよ……そんなのできない!」
「お願いよ、リツ。私は、人のままで死にたい。化け物になりたくない。いいから早く、この場で首を刎ねて。ひと思いに死なせて」
「いや! 自分の力で正気に戻ってよ! そうだ、刀を手放せばいい! 姉さんならできるでしょ!」
 鬼のような所業をしておきながら、それでも姉さんには、まだ人らしい感情と理性があったのだ。人のまま死にたいと願っていたから、現場に居合わせた妹の私に、自分を殺すよう懇願していた。
 けれど、姉さんの涙ながらの懇願を、私は拒否した。どんなに豹変していようと、幼い頃から共に育った姉だから。大切なひとをこの手で殺めるなどしたくない、自分にはできない、と。
 殺してほしい、殺したくない、と押し問答していたのもつかの間のこと――島の皆を切り刻んだその刀で、姉さんは私に斬りかかってきた。
「殺せないなら、私が殺しちゃうから」
「ひ……!?」
 間近で姉さんの笑顔を見て、私は腰を抜かしそうになる。美人で優しい姉さんの笑顔は今、見たこともない禍々しさを孕んでいた。
 理解した。理解してしまった。姉さんは、もう私の知る姉さんではなくなったのだ。化け物に堕ちてしまったのだ。私がもたもたしていたから。その間に、身も心も化け物になってしまったのだ。
 恍惚とした笑みを浮かべながら、姉さんは逃げる私の体を斬りつけていった。大事な宝物に触れて、撫でて、慈しむかのように――肌を刃で何度も斬りつけた。
 命の危機を前にようやく踏ん切りのついた私は、小屋にあった訓練用の刀を手に取り、姉さんの――否、元姉の凄まじい剣戟を相手取った。
 皮肉な話だが、父さんの秘薬を飲んでいなかったら、私はあっという間に負けていただろう。私と姉さんの実力は、ごくごく僅差だった――私は死に物ぐるいで刀を振り続けて、ようやく姉さんの心臓を貫いて殺した。ギリギリのところで姉殺しを成し遂げたのだ。
 私の身体には、無数の切り傷があった。けれど、心に受けた傷は、身体に受けた傷の何倍も重かった。
 胸に突き刺さるような、想像を絶する苦痛に泣き叫びながら、私は姉だったモノの亡骸を置き去りにして逃げ出した。
 そうして心に深手を負ったまま、気がつけば島から脱走し――最終的に私は越午の山に辿り着いていた。
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