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遊郭阿片事件編
遊郭阿片事件 最終話
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桜は霧右衛門が逃げ込んだ離れの戸を開けると、霧右衛門が小太刀を持って一人の遊女を盾にしていた。
中には他に六人の遊女がいるが、みな死んだような目をしてキセルを燻らせている。
まるで何事もないように目の前の出来事に無関心であった。
「霧右衛門、平田長安は捕獲され酒井と奥村の二人も奉行所に連行されるだろう。お前が暗殺を企んでいた上州屋の娘さんも無事に保護した。観念して大人しくお縄につきな」
「やかましい。それ以上近付くとこいつの首をかき切るぞ」
桜は突きの構えを取るが、霧右衛門は遊女の影に自分の身体を隠している。
桜がその気なら遊女ごと霧右衛門の身体に突き技である「華一閃(はないっせん)」を繰り出す事も出来るが、何の関係もない遊女を犠牲には出来なかった。
「刀を捨てろ!」
霧右衛門がそう叫んだその時であった。
人質となっていた遊女が肘うちを霧右衛門に食らわせ、それを合図に遊女たちが一斉に霧右衛門に襲い掛かったのである。
「な。。なんだと?」
「よくもこんな目にあわせたな」
「お前だけは許せない」
その光景に桜も唖然とする。
遊女たちは状況を察して咄嗟の判断であえて無関心を装い、霧右衛門が油断しているところを一斉に襲い掛かろうと互いに目配せしていたのだ。
「お姉さん、今のうちに霧右衛門を」
遊女たちの声に桜は素早く反応する。
「みんな、ありがとう」
桜が霧右衛門を抑え付けると南町奉行所の同心たちが雪崩打ってやって来た。
「玉屋楼主霧右衛門だな。阿片密売の罪は明白である。大人しく縛(ばく)に就け!」
大岡越前の号令で霧右衛門は捕らえられ、南町奉行へと連行された。
「お姉さん」
「あなたは?」
「この羅生門河岸で女郎をしているおたかと言います」
「あなたがおたかさん」
「調べはついているでしょうが、私は玉屋霧右衛門にそそのかされて阿片に手を出しました。一度は絶望感から阿片の快楽を求めましたが、私たちだって遊女である前に人間です。やり直しが効くならもう一度やり直したいんです」
それを聞いた桜が大岡越前に何とかならないか直訴する。
「桜、阿片に手を出した罪は罪。それを見逃すわけにはいかぬ。だが、情状酌量の余地はある。刑期を終えた後には真っ当な社会で働けるように私も出来る限りの事はしよう」
「大岡様、ありがとうございます」
「桜はん!」
「朝霧姐さん、無事で良かった」
桜と朝霧がお互いの無事を喜んでいる中、紅玉は一人大岡越前の前に歩み寄る。
「お奉行様。。」
そう言って大岡越前の前に両手を差し出す紅玉。
それを見た朝霧がすかさず横から口添えをする。
「お奉行様、紅玉はんは自ら阿片に手を出してはござりんせん。霧右衛門に無理矢理吸わされたんでありんす」
二人を見て大岡越前はくるりと踵を返してその場で判決を申し渡した。
「紅玉の件は源心から聞いている。紅玉は当面謹慎とせよ。そしてその間に静養して身体から阿片が抜けたらまた復職するがよい」
「お奉行様。。ありがとうござりんす」
紅玉と朝霧は大岡越前に深々とお辞儀をして礼を言った。
「桜、上様には甘いと言われるかも知れないな」
「いえ、上様ならきっと良きにはからえって言って下さいますよ」
桜がそう言うと大岡越前は笑いながら後は任せたと吉原を後にした。
こうして玉屋霧右衛門と町医者平田長安が起こした阿片事件は幕を閉じた。
その後、遊女たちの証言から客として離れに出入りして阿片を吸っていた商人たちも一人残らず捕らえられた。
南町奉行にて白洲にて吟味の上、霧右衛門と平田長安は獄門。
酒井高山と奥村又右衛門の二人に上州屋の花を襲おうとした彦蔵は島流し、阿片に手を染めた商人たちはお取り潰しの上、江戸所払いを命じられた。
七人の遊女たちは江戸十里四方払〔日本橋を起点に半径五里四方〔二十キロ〕外への追放〕となり、三年後に恩赦された。
恩赦後、遊女たちは玉屋に引き取られて女中として働く事となった。
今回の一件は楼主霧右衛門の単独犯行という事で、玉屋はお取り潰しは免れ、一ヶ月の営業停止処分を受けるだけで済んだ。
営業再開後は遣手婆のお里が楼主となった。
本来なら花車(かしゃ)と呼ばれる楼主の妻が見世を運営して楼主に万一の時があれば後を継ぐのだが、霧右衛門の妻は十年以上前に他界していて、以降その役目を遣手婆のお里が務めていた。
花車は江戸末期には遣手婆を事を指し示すようになったが、この当時は楼主の妻の事であった。
だが、遣手婆が花車を兼務するのはこの頃から見世によってあったという。
お里は霧右衛門とは特別な関係はなく、楼主と雇われる側の立場ではあったが、遊女時代から姉御肌の性格で遊女たちからも慕われていた。
その実績と人望で霧右衛門に花車的な役割を担われ、本人も自分がやらなければという責任感でこの十年見世を切り盛りして来た。
霧右衛門がいなくなった後継者には彼女しかいないと見世の総意で選ばれたのだ。
紅玉の阿片中毒の件は伏せられて、彼女は初期の瘡毒〔梅毒〕にかかって静養中と見世の面々に伝えられた。
唯一、新楼主のお里だけには真実を伝え、はじめは数ヶ月も売り上げが無くなる事に怪訝な表情をしていたが、大岡越前自ら「そうしないとこの見世も阿片密売の罪でお取潰しとなる」と諭して渋々認めたのである。
紅玉は小石川養生所の榊原彩雲監修の元、離れで治療に専念した。
この離れは事件後、今度は正真正銘に遊女たちの静養所として使用される事となる。
⭐︎⭐︎⭐︎
一件落着から三日後、朝霧は吉原の最深部、京町二丁目の隅にある九郎助稲荷(くろすけいなり)に出向き、穂花とおふじに事件の完了を報告した。
「穂花姐さん、おふじ。霧右衛門と長安が企てた阿片事件は解決致しんした。もう阿片に苦しむ者はおりんせん。どうか安心しておくんなし」
稲荷の前に立ち、手を合わせていると静養中であるはずの紅玉がやって来た。
「紅玉はん?」
「今日は彩雲先生に外出許可を頂いたでござりんす。あっちも二人に報告がしたいんでありんす」
紅玉はそう言って手を合わせながら謝罪する。
「穂花姐さん、おふじ。すまん事をしたでありんす。許されると思うておりんせんが、どうか堪忍しておくんなし」
穂花とおふじへの報告を終えると朝霧は紅玉に後を託した。
「これでわっちも心置きなく吉原を出られるでありんす。紅玉はん、白菊とおしのをよろしゅうお頼みしなんす」
「あい。任せておくんなし」
「紅玉はんにこんな事を頼む日が来なんすとは、不思議な感じでありんすな」
「わっちは朝霧はんがいなくなるのが寂しいでござりんすよ。ずっと一緒でありんしたから」
「ほんざんすか?いなくなってせいせいじゃありんせん?」
「そりゃあ、いなくなればわっちがお職になりんしょうが、それを自慢する相手がおらん事には張り合いもなくなりんすな」
「わっちも紅玉はんがいてくれなんしたからここまで上がれたんでありんす。わっちら今まで意識いたしんせんしたが、お互いに認めあっていたんでありんしょうな」
「そうでありんすな」
「紅玉はん、お世話になりんした」
「それはわっちの台詞でありんす。今回の一件で命を助けられんした。せっかく助けて頂いた命でありんす。わっちはこれから自分に出来る限りの事をしなんして償っていきなんすよ」
「お礼は桜はんに申しんせ。あの子がいなんせんでしたら今回の事件は解決致しんかったでありんしょう」
「桜はんにはほんに悪い事を致しんした。あの時はわっちは薬のせいで気が立っていたでありんす。それも合わせて謝るでござりんす」
紅玉の言葉に朝霧は肩をポンと叩く。
「さあ、わっちは最後の奉公に参りんす。紅玉はんも一日も早く戻ってきなんし」
⭐︎⭐︎⭐︎
そして朝霧が身請けされ、見世を出る日がやって来た。
身請け金は八百両であった。
年季も一年を切り、新楼主のお里は千両は欲しかったが年季まで待たれたら無料になってしまうので、八百両で妥協したのである。
玉屋は惣仕舞(そうじまい)〔店を買い切ること〕となり、遊女、新造、禿を揚げての盛大に盛り立てられた。
紅玉もこの日は特別に祝いの席に参加する事が許可された。
みんなに赤飯と酒が振る舞われ、三味線と琴が奏でられる。
桜も朝霧の門出を祝うために三味線を披露した。
桜との挨拶を済ませると朝霧は馴染み客、近隣の見世、茶屋、舟宿へ挨拶回りをし、髪型も立兵庫髷(たてひょうごまげ)から島田髷(しまだまげ)に変わっていた。
朝霧は慣れない髪型に「まだ慣れんせんか、頭に何もない気がしなんすな。まるで髪ごとなくなりんしたような」と笑いを誘う。
そして町娘の着物に着替えると大門まで見送られた。
「朝霧姐さん、おめでとうございます」
「桜花。いえ、桜はん。色々とお世話になりんした」
「どうかお幸せに」
「朝霧はん、よかったでありんすな」
「紅玉はん。後は頼んだでありんすよ」
「あい。任せておくんなし。わっちもいつかいい身請け人を見つけてここから出るでありんす」
「紅玉はんならきっといい人が見つかるでありんすよ」
「朝霧姐さん、お世話になりんした」
「おしの。お前は必ず大夫になれるでありんす。元気でいておくんなし」
「あい。朝霧姐さんもどうかお幸せに」
おしのは涙で顔がふやけるんじゃないかと思うくらいずっと泣いていた。
「朝霧姐さん、わっちの目標でありんした。わっちは必ず姐さんのような大夫になりんす」
「白菊、あんたはわっちを遥かに超える大夫になりんすよ。わっち程度を目標にしなんすな。この吉原で最高の大夫を目指しんさい」
「そうなりんすように頑張るでござりんす」
紅玉は桜の前に来ると唇を噛み締めるように申し訳なさげな表情で謝罪の言葉を伝える。
「桜はん、わっちはあんたに悪い事したでありんす。謝る事しか出来んせんが、どうか堪忍しておくんなし」
頭を下げて謝罪する紅玉に桜はにこりと笑って両手を握りしめる。
「紅玉さん、あなたは病気だったんです。私は何も気にしていません。頭を上げて下さい」
「桜はん、ありがとうござりんす」
大門の前で全員で一本締めをして朝霧を見送る。
「みなさん、おさらばえ」
こうして朝霧は本名であるあやめに戻り、駕籠に乗って上州屋へと向かっていったのである。
朝霧を見送ると新楼主のお里が桜に話しかけて来た。
「あんたも仕事を終えてここから出ていくんだろ」
「お里さん。。いつから気がついていたんですか?」
「最初からだよ。これでも私しゃ元遊女だし人を見る目はそれなりに持っているつもりだからね。あんたは男相手に商売している女の目じゃなかったよ。何かの重責を背負って来ている仕事人の目だった」
「お里さんには敵いませんね。。それを霧右衛門に?」
「言うわけないだろ。理由は何であれ、私しゃ商売人だからね。店が儲かりゃそれでいいのさ。あんたは隠密とはいえそれなりに稼がせてくれたからね。どうだい?いっそ隠密やめて芸者やらないか?」
お里の誘いに桜は慌てて両手を振り、首を横に振って拒絶した。
「それはお断りします」
「勿体無いね。ま、仕方ないさ。公方様〔この場合将軍の事を指す〕お抱えの方じゃ私らの手には余りあるからね」
お里はそうは言いつつも桜のお客を呼べる美貌と才能に少し未練があった。
「そうなると最初の段階で霧右衛門と朝霧姐さんにお里さんにまで私は正体を見破られていた事になる。。今回は朝霧姐さんもお里さんも知らぬふりしていてくれたから助かったけど、私はまだまだ未熟なんだな。。」
桜は剣客としては超一流だが御庭番としてはまだまだ未熟。
人を見る目に関しては達人揃いの吉原という特別な場所だったとはいえ、これは反省すべきと思うのだった。
朝霧が見世を出た後、阿片から見事に立ち直った紅玉がお職となり、禿であったおしのとおうめは紅玉付きの新造に出世した。
そして紅玉はこの二年後、二十三歳でさる大名に身請けされ武家の妻となった。
その後を受けた白菊は若干十七歳で一気に大夫に昇格し、花香(はなか)大夫の名で見世のお職になり、艶やかな美貌で香を巧みに使いこなし、その贔屓筋には大名や公家が並ぶほどの伝説の大夫となった。
おしの、おうめは花香に継いで玉屋で最後の大夫となるのだが、それは別の話しとなる。
※吉宗の倹約令もあり、育成に金のかかり過ぎる大夫は年々減っていき、一七五二年に最後の一人が引退した事で消滅した。
以降、高級遊女は呼出昼三(よびだしちゅうざん)、昼三(ちゅうざん)、附廻(つけまわし)の三つとなり、これが花魁と呼ばれるようになる。
⭐︎⭐︎⭐︎
「まさかあれから半年後に大旦那様が急な病に倒れて亡くなるなんて思いもしませんでした」
あやめは大旦那の死後は自ら申し出て上州屋から出た。
大旦那がいなくなった以上、奥様や花たちのお世話になるわけにもいかないし、奥様や花にとっても妾の自分がいてはやりづらいであろうと自ら引く決心をした。
自分は遊女としてひと通りの教育を身につけている。
それを生かして三味線や琴、習字などを教えて行けば一人で生活するに困らない程度の稼ぎは何とかなると楽観的だった。
そして、今もこうして子供たちに習い事を教えながら生計を立てている。
「正直言えば思い出したくもない事件でしたけど、桜さんのおかげで私も紅玉さんも救われました」
「紅玉さんも立ち直って復帰出来て良かったですね」
桜とあやめは談笑しながら楽しいひと時を過ごした。
「あやめさん、私はこれから大奥に潜入しなくてはなりません。しばらく会えないと思いますが、どうかお元気で」
「大奥。。桜さんも大変ですね。私は何も手助け出来ませんが、ここで無事をお祈りしています。またお会いできるのを心待ちにしていますよ」
桜はあやめに手を振って別れを済ませると、江戸城へと向かう。
「吉原の次は大奥か。。こんな経験そうはないと思えば私は恵まれているのかな」
吉宗に会わなければこんな人生を送ることもなかっただろう。
そんな事を考えながら桜は次の役目へと向かうのであった。
それが御庭番として最後の役目になるとは知る良しもなく。
中には他に六人の遊女がいるが、みな死んだような目をしてキセルを燻らせている。
まるで何事もないように目の前の出来事に無関心であった。
「霧右衛門、平田長安は捕獲され酒井と奥村の二人も奉行所に連行されるだろう。お前が暗殺を企んでいた上州屋の娘さんも無事に保護した。観念して大人しくお縄につきな」
「やかましい。それ以上近付くとこいつの首をかき切るぞ」
桜は突きの構えを取るが、霧右衛門は遊女の影に自分の身体を隠している。
桜がその気なら遊女ごと霧右衛門の身体に突き技である「華一閃(はないっせん)」を繰り出す事も出来るが、何の関係もない遊女を犠牲には出来なかった。
「刀を捨てろ!」
霧右衛門がそう叫んだその時であった。
人質となっていた遊女が肘うちを霧右衛門に食らわせ、それを合図に遊女たちが一斉に霧右衛門に襲い掛かったのである。
「な。。なんだと?」
「よくもこんな目にあわせたな」
「お前だけは許せない」
その光景に桜も唖然とする。
遊女たちは状況を察して咄嗟の判断であえて無関心を装い、霧右衛門が油断しているところを一斉に襲い掛かろうと互いに目配せしていたのだ。
「お姉さん、今のうちに霧右衛門を」
遊女たちの声に桜は素早く反応する。
「みんな、ありがとう」
桜が霧右衛門を抑え付けると南町奉行所の同心たちが雪崩打ってやって来た。
「玉屋楼主霧右衛門だな。阿片密売の罪は明白である。大人しく縛(ばく)に就け!」
大岡越前の号令で霧右衛門は捕らえられ、南町奉行へと連行された。
「お姉さん」
「あなたは?」
「この羅生門河岸で女郎をしているおたかと言います」
「あなたがおたかさん」
「調べはついているでしょうが、私は玉屋霧右衛門にそそのかされて阿片に手を出しました。一度は絶望感から阿片の快楽を求めましたが、私たちだって遊女である前に人間です。やり直しが効くならもう一度やり直したいんです」
それを聞いた桜が大岡越前に何とかならないか直訴する。
「桜、阿片に手を出した罪は罪。それを見逃すわけにはいかぬ。だが、情状酌量の余地はある。刑期を終えた後には真っ当な社会で働けるように私も出来る限りの事はしよう」
「大岡様、ありがとうございます」
「桜はん!」
「朝霧姐さん、無事で良かった」
桜と朝霧がお互いの無事を喜んでいる中、紅玉は一人大岡越前の前に歩み寄る。
「お奉行様。。」
そう言って大岡越前の前に両手を差し出す紅玉。
それを見た朝霧がすかさず横から口添えをする。
「お奉行様、紅玉はんは自ら阿片に手を出してはござりんせん。霧右衛門に無理矢理吸わされたんでありんす」
二人を見て大岡越前はくるりと踵を返してその場で判決を申し渡した。
「紅玉の件は源心から聞いている。紅玉は当面謹慎とせよ。そしてその間に静養して身体から阿片が抜けたらまた復職するがよい」
「お奉行様。。ありがとうござりんす」
紅玉と朝霧は大岡越前に深々とお辞儀をして礼を言った。
「桜、上様には甘いと言われるかも知れないな」
「いえ、上様ならきっと良きにはからえって言って下さいますよ」
桜がそう言うと大岡越前は笑いながら後は任せたと吉原を後にした。
こうして玉屋霧右衛門と町医者平田長安が起こした阿片事件は幕を閉じた。
その後、遊女たちの証言から客として離れに出入りして阿片を吸っていた商人たちも一人残らず捕らえられた。
南町奉行にて白洲にて吟味の上、霧右衛門と平田長安は獄門。
酒井高山と奥村又右衛門の二人に上州屋の花を襲おうとした彦蔵は島流し、阿片に手を染めた商人たちはお取り潰しの上、江戸所払いを命じられた。
七人の遊女たちは江戸十里四方払〔日本橋を起点に半径五里四方〔二十キロ〕外への追放〕となり、三年後に恩赦された。
恩赦後、遊女たちは玉屋に引き取られて女中として働く事となった。
今回の一件は楼主霧右衛門の単独犯行という事で、玉屋はお取り潰しは免れ、一ヶ月の営業停止処分を受けるだけで済んだ。
営業再開後は遣手婆のお里が楼主となった。
本来なら花車(かしゃ)と呼ばれる楼主の妻が見世を運営して楼主に万一の時があれば後を継ぐのだが、霧右衛門の妻は十年以上前に他界していて、以降その役目を遣手婆のお里が務めていた。
花車は江戸末期には遣手婆を事を指し示すようになったが、この当時は楼主の妻の事であった。
だが、遣手婆が花車を兼務するのはこの頃から見世によってあったという。
お里は霧右衛門とは特別な関係はなく、楼主と雇われる側の立場ではあったが、遊女時代から姉御肌の性格で遊女たちからも慕われていた。
その実績と人望で霧右衛門に花車的な役割を担われ、本人も自分がやらなければという責任感でこの十年見世を切り盛りして来た。
霧右衛門がいなくなった後継者には彼女しかいないと見世の総意で選ばれたのだ。
紅玉の阿片中毒の件は伏せられて、彼女は初期の瘡毒〔梅毒〕にかかって静養中と見世の面々に伝えられた。
唯一、新楼主のお里だけには真実を伝え、はじめは数ヶ月も売り上げが無くなる事に怪訝な表情をしていたが、大岡越前自ら「そうしないとこの見世も阿片密売の罪でお取潰しとなる」と諭して渋々認めたのである。
紅玉は小石川養生所の榊原彩雲監修の元、離れで治療に専念した。
この離れは事件後、今度は正真正銘に遊女たちの静養所として使用される事となる。
⭐︎⭐︎⭐︎
一件落着から三日後、朝霧は吉原の最深部、京町二丁目の隅にある九郎助稲荷(くろすけいなり)に出向き、穂花とおふじに事件の完了を報告した。
「穂花姐さん、おふじ。霧右衛門と長安が企てた阿片事件は解決致しんした。もう阿片に苦しむ者はおりんせん。どうか安心しておくんなし」
稲荷の前に立ち、手を合わせていると静養中であるはずの紅玉がやって来た。
「紅玉はん?」
「今日は彩雲先生に外出許可を頂いたでござりんす。あっちも二人に報告がしたいんでありんす」
紅玉はそう言って手を合わせながら謝罪する。
「穂花姐さん、おふじ。すまん事をしたでありんす。許されると思うておりんせんが、どうか堪忍しておくんなし」
穂花とおふじへの報告を終えると朝霧は紅玉に後を託した。
「これでわっちも心置きなく吉原を出られるでありんす。紅玉はん、白菊とおしのをよろしゅうお頼みしなんす」
「あい。任せておくんなし」
「紅玉はんにこんな事を頼む日が来なんすとは、不思議な感じでありんすな」
「わっちは朝霧はんがいなくなるのが寂しいでござりんすよ。ずっと一緒でありんしたから」
「ほんざんすか?いなくなってせいせいじゃありんせん?」
「そりゃあ、いなくなればわっちがお職になりんしょうが、それを自慢する相手がおらん事には張り合いもなくなりんすな」
「わっちも紅玉はんがいてくれなんしたからここまで上がれたんでありんす。わっちら今まで意識いたしんせんしたが、お互いに認めあっていたんでありんしょうな」
「そうでありんすな」
「紅玉はん、お世話になりんした」
「それはわっちの台詞でありんす。今回の一件で命を助けられんした。せっかく助けて頂いた命でありんす。わっちはこれから自分に出来る限りの事をしなんして償っていきなんすよ」
「お礼は桜はんに申しんせ。あの子がいなんせんでしたら今回の事件は解決致しんかったでありんしょう」
「桜はんにはほんに悪い事を致しんした。あの時はわっちは薬のせいで気が立っていたでありんす。それも合わせて謝るでござりんす」
紅玉の言葉に朝霧は肩をポンと叩く。
「さあ、わっちは最後の奉公に参りんす。紅玉はんも一日も早く戻ってきなんし」
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そして朝霧が身請けされ、見世を出る日がやって来た。
身請け金は八百両であった。
年季も一年を切り、新楼主のお里は千両は欲しかったが年季まで待たれたら無料になってしまうので、八百両で妥協したのである。
玉屋は惣仕舞(そうじまい)〔店を買い切ること〕となり、遊女、新造、禿を揚げての盛大に盛り立てられた。
紅玉もこの日は特別に祝いの席に参加する事が許可された。
みんなに赤飯と酒が振る舞われ、三味線と琴が奏でられる。
桜も朝霧の門出を祝うために三味線を披露した。
桜との挨拶を済ませると朝霧は馴染み客、近隣の見世、茶屋、舟宿へ挨拶回りをし、髪型も立兵庫髷(たてひょうごまげ)から島田髷(しまだまげ)に変わっていた。
朝霧は慣れない髪型に「まだ慣れんせんか、頭に何もない気がしなんすな。まるで髪ごとなくなりんしたような」と笑いを誘う。
そして町娘の着物に着替えると大門まで見送られた。
「朝霧姐さん、おめでとうございます」
「桜花。いえ、桜はん。色々とお世話になりんした」
「どうかお幸せに」
「朝霧はん、よかったでありんすな」
「紅玉はん。後は頼んだでありんすよ」
「あい。任せておくんなし。わっちもいつかいい身請け人を見つけてここから出るでありんす」
「紅玉はんならきっといい人が見つかるでありんすよ」
「朝霧姐さん、お世話になりんした」
「おしの。お前は必ず大夫になれるでありんす。元気でいておくんなし」
「あい。朝霧姐さんもどうかお幸せに」
おしのは涙で顔がふやけるんじゃないかと思うくらいずっと泣いていた。
「朝霧姐さん、わっちの目標でありんした。わっちは必ず姐さんのような大夫になりんす」
「白菊、あんたはわっちを遥かに超える大夫になりんすよ。わっち程度を目標にしなんすな。この吉原で最高の大夫を目指しんさい」
「そうなりんすように頑張るでござりんす」
紅玉は桜の前に来ると唇を噛み締めるように申し訳なさげな表情で謝罪の言葉を伝える。
「桜はん、わっちはあんたに悪い事したでありんす。謝る事しか出来んせんが、どうか堪忍しておくんなし」
頭を下げて謝罪する紅玉に桜はにこりと笑って両手を握りしめる。
「紅玉さん、あなたは病気だったんです。私は何も気にしていません。頭を上げて下さい」
「桜はん、ありがとうござりんす」
大門の前で全員で一本締めをして朝霧を見送る。
「みなさん、おさらばえ」
こうして朝霧は本名であるあやめに戻り、駕籠に乗って上州屋へと向かっていったのである。
朝霧を見送ると新楼主のお里が桜に話しかけて来た。
「あんたも仕事を終えてここから出ていくんだろ」
「お里さん。。いつから気がついていたんですか?」
「最初からだよ。これでも私しゃ元遊女だし人を見る目はそれなりに持っているつもりだからね。あんたは男相手に商売している女の目じゃなかったよ。何かの重責を背負って来ている仕事人の目だった」
「お里さんには敵いませんね。。それを霧右衛門に?」
「言うわけないだろ。理由は何であれ、私しゃ商売人だからね。店が儲かりゃそれでいいのさ。あんたは隠密とはいえそれなりに稼がせてくれたからね。どうだい?いっそ隠密やめて芸者やらないか?」
お里の誘いに桜は慌てて両手を振り、首を横に振って拒絶した。
「それはお断りします」
「勿体無いね。ま、仕方ないさ。公方様〔この場合将軍の事を指す〕お抱えの方じゃ私らの手には余りあるからね」
お里はそうは言いつつも桜のお客を呼べる美貌と才能に少し未練があった。
「そうなると最初の段階で霧右衛門と朝霧姐さんにお里さんにまで私は正体を見破られていた事になる。。今回は朝霧姐さんもお里さんも知らぬふりしていてくれたから助かったけど、私はまだまだ未熟なんだな。。」
桜は剣客としては超一流だが御庭番としてはまだまだ未熟。
人を見る目に関しては達人揃いの吉原という特別な場所だったとはいえ、これは反省すべきと思うのだった。
朝霧が見世を出た後、阿片から見事に立ち直った紅玉がお職となり、禿であったおしのとおうめは紅玉付きの新造に出世した。
そして紅玉はこの二年後、二十三歳でさる大名に身請けされ武家の妻となった。
その後を受けた白菊は若干十七歳で一気に大夫に昇格し、花香(はなか)大夫の名で見世のお職になり、艶やかな美貌で香を巧みに使いこなし、その贔屓筋には大名や公家が並ぶほどの伝説の大夫となった。
おしの、おうめは花香に継いで玉屋で最後の大夫となるのだが、それは別の話しとなる。
※吉宗の倹約令もあり、育成に金のかかり過ぎる大夫は年々減っていき、一七五二年に最後の一人が引退した事で消滅した。
以降、高級遊女は呼出昼三(よびだしちゅうざん)、昼三(ちゅうざん)、附廻(つけまわし)の三つとなり、これが花魁と呼ばれるようになる。
⭐︎⭐︎⭐︎
「まさかあれから半年後に大旦那様が急な病に倒れて亡くなるなんて思いもしませんでした」
あやめは大旦那の死後は自ら申し出て上州屋から出た。
大旦那がいなくなった以上、奥様や花たちのお世話になるわけにもいかないし、奥様や花にとっても妾の自分がいてはやりづらいであろうと自ら引く決心をした。
自分は遊女としてひと通りの教育を身につけている。
それを生かして三味線や琴、習字などを教えて行けば一人で生活するに困らない程度の稼ぎは何とかなると楽観的だった。
そして、今もこうして子供たちに習い事を教えながら生計を立てている。
「正直言えば思い出したくもない事件でしたけど、桜さんのおかげで私も紅玉さんも救われました」
「紅玉さんも立ち直って復帰出来て良かったですね」
桜とあやめは談笑しながら楽しいひと時を過ごした。
「あやめさん、私はこれから大奥に潜入しなくてはなりません。しばらく会えないと思いますが、どうかお元気で」
「大奥。。桜さんも大変ですね。私は何も手助け出来ませんが、ここで無事をお祈りしています。またお会いできるのを心待ちにしていますよ」
桜はあやめに手を振って別れを済ませると、江戸城へと向かう。
「吉原の次は大奥か。。こんな経験そうはないと思えば私は恵まれているのかな」
吉宗に会わなければこんな人生を送ることもなかっただろう。
そんな事を考えながら桜は次の役目へと向かうのであった。
それが御庭番として最後の役目になるとは知る良しもなく。
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フリードリヒ二世がメインですが、彼と文通相手、およびその周辺の人間たちの群像劇です。そして最後は美味しいところをかっさらっていく奴が……(笑)。
ファ ンタジー要素なし。転 生もチ ートもありません。
「小説家になろう」様の公式企画「秋の歴史2022」向けに執筆・投稿した作品ですが、より多くの方に読んでいただきたく、この度「アルファポリス」様にも投稿させていただくことにしました。
よろしくお願いします。
「カクヨム」様にも掲載しています。
北武の寅 <幕末さいたま志士伝>
海野 次朗
歴史・時代
タイトルは『北武の寅』(ほくぶのとら)と読みます。
幕末の埼玉人にスポットをあてた作品です。主人公は熊谷北郊出身の吉田寅之助という青年です。他に渋沢栄一(尾高兄弟含む)、根岸友山、清水卯三郎、斎藤健次郎などが登場します。さらにベルギー系フランス人のモンブランやフランスお政、五代才助(友厚)、松木弘安(寺島宗則)、伊藤俊輔(博文)なども登場します。
根岸友山が出る関係から新選組や清河八郎の話もあります。また、渋沢栄一やモンブランが出る関係からパリ万博などパリを舞台とした場面が何回かあります。
前作の『伊藤とサトウ』と違って今作は史実重視というよりも、より「小説」に近い形になっているはずです。ただしキャラクターや時代背景はかなり重複しております。『伊藤とサトウ』でやれなかった事件を深掘りしているつもりですので、その点はご了承ください。
(※この作品は「NOVEL DAYS」「小説家になろう」「カクヨム」にも転載してます)
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
吼えよ! 権六
林 本丸
歴史・時代
時の関白豊臣秀吉を嫌う茶々姫はあるとき秀吉のいやがらせのため自身の養父・故柴田勝家の過去を探ることを思い立つ。主人公の木下半介は、茶々の命を受け、嫌々ながら柴田勝家の過去を探るのだが、その時々で秀吉からの妨害に見舞われる。はたして半介は茶々の命を完遂できるのか? やがて柴田勝家の過去を探る旅の過程でこれに関わる人々の気持ちも変化して……。
西涼女侠伝
水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超
舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。
役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。
家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。
ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。
荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。
主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。
三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)
涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
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