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遊郭阿片事件編
遊郭阿片事件八
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「桜花姐さん、明日また長安先生が来なんすようだと朝霧姐さんが言っておりんしたよ」
夜見世の支度をしていた桜にそう話しかけてきたのはおしのの先輩にあたる新造の白菊であった。
十四歳で身長は一五〇センチほどあり、大人の雰囲気が漂う名前の通り肌が白くて綺麗な子だ。
薄い化粧と桃色の口紅がまたその美しさを引き立てている。
見習いとは言え、すでに贔屓の客が十人以上付く次期大夫候補の少女は貫禄すらあった。
桜はさすが朝霧の後釜に選ばれるだけの事はあると感心して見ていた。
「白菊ちゃん、わざわざ教えてくれてありがとう」
「とんでもござりんせん。それよりさっき見世を出なんしたのは平蔵はんでありんしたか?」
「平蔵を知っているの?」
「あい。しばらく見かけんしたから病気かと思うておりんした」
「しばらく?どれくらい見なかったの?」
白菊は指をほっぺたに当てて思い出している。
「たしか。。桜花姐さんが見世に来なんす少し前からでありんしたから十日は見なんせんでした。平蔵はんは霧右衛門はんのお気に入りでありんすから。この見世で楼主に気に入られなんすのは出世の近道でありんすからね。だから十日も顔を見なんせんで、何かありんしたのかと」
〔たぶん私が来るのがわかっていたのね。それで自分が見世にいてはまずい何かがあった。。それが今頃になって姿を現したという事は〕
桜は疑惑が確信に変わっていった。
「平蔵はちょっと別の用件があって、吉原の外に出て仕事をしてもらっているんだよ。男ならここから出られるからね」
「そうでありんしたか」
疑う事なく笑顔を見せる白菊に桜は嘘を言った罪悪感ですまないと心の中で思いながら白菊にお礼を言った。
「白菊ちゃん、教えてくれてありがとう」
〔平蔵。。出来れば仲間を斬りたくはない。そのまま大岡様の元に戻ってくれれば。襲ってくるとしたら今夜あたりか。。〕
⭐︎⭐︎⭐︎
暁九つ〔夜の十二時〕を過ぎると、大門が閉じられ、遊女たちは張見世〔客が外から遊女たちを見定める部屋〕から引き、高級遊女は客と床に付く時間。
桜は自分の部屋に戻るために階段を二階から一階へと降りる。
居住区間は右側だが、桜はそのまま真っ直ぐ張見世を抜けて外に出た。
手には三味線。薄い青色に桜の模様が入った着物は芸者としての仕事着である。
大門が閉められれば吉原は眠りの時間に付く。
賑わっていた人並みも今はなく、鮮やかに彩られた提灯も火が消されて幻想的な世界は暗闇に包まれていた。
その暗闇の中、桜の背後から殺気が忍び寄る。
鯉口を切る音とともに闇を切り裂くような剣が桜を襲うが、桜は上体を軽く逸らして難なくかわした。
御庭番は暗闇でも相手と戦えるよう夜目も効くように訓練している。
「平蔵、最初にあった時から怪しいと思っていたよ。何故裏切った?」
平蔵は桜の問いに青ざめていたが返事を返してこない。
「裏切り者はどうなるかわかっているよね?」
「桜、お前には俺の苦しさがわからないさ」
それを聞いて桜は平蔵が阿片に侵されている事を察知する。
「平蔵、あなたも阿片中毒になっていたのね」
「霧右衛門からお前を始末するように命じられている。悪いが死んでもらうぞ」
「あなたの腕で私は斬れない。裏切り者の制裁を受けてもらう」
平蔵が桜に再度斬りかかるが実力の差は歴然であった。
桜は三味線に仕込まれている剣を居合いで抜く。
「迅速斬(じんそくざん)」
目にも止まらぬ鋭い剣が一閃され、平蔵は血飛沫をあげて膝をつき倒れた。
裏切り者は粛清する御庭番の掟に従い、桜は平蔵を斬った。
「御庭番が何故阿片に手を染めた?」
「。。霧右衛門はこの吉原のあちこちに手下がいて完全な情報網を敷いていた。俺たち御庭番が忍び込んでいる事も既に察知されていたんだ。そこに飛んで火に入る夏の虫の如く、入り込んでしまった。。俺は夜寝ている時に阿片を吸わされて中毒にされてしまったんだ」
「後に忍び込んだお松さんとおそねさんも平蔵がやったのね?」
「ああ、阿片欲しさに霧右衛門に命じられて今と同じように小太刀で背後から斬った」
「あなたが襲ってきたという事は、霧右衛門は私の事も既に知っているのね」
「霧右衛門は桜が芸者として見世に来た時からお前を隠密だと察知していた。奴はこの吉原に侵入してくる部外者はすべて把握している。だからそれ以外の人間が来た時は隠密の可能性を疑るという訳だ」
「平蔵、阿片は羅生門河岸の離れにあるのは間違いないか?」
「間違いない。あそこには阿片中毒にかかった遊女が七人ほどいて、出入りの許された客の相手をしている。紅玉もその一人だ」
「何ですって?」
紅玉の名が出るとさすがの桜も驚きを隠せなかった。
「霧右衛門は腕の立つ用心棒を二人雇っている。酒井高山(さかいこうざん)と奥村又右衛門(おくむらまたえもん)の二人に気をつけろ」
平蔵はそれだけ言うと息絶えた。
「。。許せない」
桜の仲間を斬らざるを得なくなった怒りは霧右衛門と平田長安に向けられた。
「桜大丈夫か?」
源心が情報共有のために合流し、状況からおおよその成り行きを察した。
「平蔵。。お前が裏切るとはな」
源心は平蔵とは一緒に修行した仲間であっただけに苦渋の表情であった。
だが、これも御庭番の宿命。
明日は自分もこうなるかも知れないのだと二人はすぐに気持ちを切り替えた。
「源心、何かわかった?」
源心と桜はそれぞれの状況を報告し合う。
「穂花さんは霧右衛門の金目当てで、そんな目に。。おふじちゃんも」
桜の目に怒りの炎が宿る。
「上州屋の娘さんは左近が助ける手筈になっている。明日、俺と左近で平田長安を捕らえて阿片を押さえる。証拠の阿片を抑えたらすぐに大岡様が動いてく下さる。
桜は霧右衛門と用心棒二人を捕らえて離れの遊女たちを解放してくれ。大岡様と奉行所の同心たちが到着されるまで霧右衛門を逃さないように頼んだぞ」
「わかったわ。源心もよろしく頼むね」
⭐︎⭐︎⭐︎
時を同じくして、夜の暗闇にまぎれて上州屋に忍び寄る怪しげな人影が一人。
上州屋の大旦那の娘、花は今年で十歳になる。
女の子とはいえ、将来は婿をもらって店を継ぐ役割を担っているため、日々読み書きに算術の勉学に励んでいた。
玉屋霧右衛門に雇われた刺客は屋根裏から花の部屋に侵入し、首を絞めて殺害した後、自殺に見せかけて阿片を隠しておくという手筈で店に侵入しようとした。
そこに左近が待ったをかける。
「待ちな。花ちゃんを手にかけるつもりだろうけど、そうはさせないよ。不寝番(ねずばん)の彦蔵さん」
「。。何故、俺の名を?」
彦蔵は自分の正体が判明している事に驚きの表情を浮かべた。
「桜が最初に見世に入った時にあんたが怪しいと睨んでいたんだよ。人殺しの殺気は同じく人を斬った事のある人間の前では隠せない」
「桜花か。。只者じゃないと思ってはいたが。すでに調べはついているってわけだな」
「不審番は油を各部屋に継ぎ足して回る仕事。遊女の部屋に怪しまれずに潜入出来るのはあんたくらいだろうからね。寝込みに部屋に入って油を継ぎ足すと見せて穂花大夫に阿片を吸わせたのもあんただろ?」
彦蔵は観念したようにため息をつく。
「どうやら霧右衛門の旦那も年貢の納め時のようだな。俺は気が進まなかったが、雇われの身では楼主に逆らえなかったからな」
「おや、物分かりが良くて話しが早いね。大人しくお縄につくかい?」
「お前一人だけなら何とかなりそうだが、どうせ奉行所に手を回しているんだろ」
「ご察知がいいね。周りを見てみな」
彦蔵があたりを見渡すと、そこに左近からの知らせを受けて南町奉行所同心、三浦をはじめとする同心たちが取り囲んでいた。
「用意周到なこったな」
そう言った直後、彦蔵は取り押さえられた。
「三浦様、これは序の口。本番はこれからです」
「わかっている」
大岡越前の命により出動していた三浦たち同心は上州屋の娘、花を無事に助け出した。
「さて、次は平田長安。そして玉屋霧右衛門と大物取りだね」
⭐︎⭐︎⭐︎
暁七つ〔朝四時〕から七つ半〔朝五時〕になると起床の時間で遊女たちは客を大門までお見送りする。
この時、気の利く上客であれば茶屋で見送りの遊女と禿たちに玉子粥や湯豆腐をご馳走するのが通とされる。
その後明け六つ〔朝六時〕から朝四つ〔朝十時〕までがようやく高級遊女たちの就寝時間である。
ここから昼見世が始まる昼九つ〔正午〕までは自由時間で、遊女たちは入浴や化粧したり客への手紙を書く時間にあてる。
遊女の朝食は昼も兼ねて昼見世の前に取ることが多く、自分の部屋を待つ高級遊女は自室に食事を運ばせて、質素な食事で足りなければ料亭から出前を取る事も出来るが、禿たちは大部屋で小ぶり茶碗にほんの少しもられたご飯一杯だけ。
育ち盛りの禿たちはそれだけでは当然足りないので、夜見世で客が残した料理をこっそり取って、それを残しておいて朝食の時に食べていた。
その際に食べ物を入れるために姐さんたち高級遊女の余っている道具箱を貸してもらい、その中に食べ物を入れて置くのだが、油断大敵。
それを見られるとちょっと目を離した隙に他の禿たちに盗み食いされてしまうのだ。
「あっちのかまぼこを盗りなんしたな!」
「知らんせん。あっちが食べたといいなんす証拠でもありんすか?」
という禿どうしの食べ物争奪戦もあったという。
紅玉は昨夜見世に姿を見せなかった。
朝霧に次ぐ見世の二番手がいなくなっても霧右衛門が何も言わないところをみると、周知の事実という事らしい。
楼主が何も言わなければ遣手婆のお里も口を出さない。
紅玉は月に何度か離れで客を相手にしていた。
無論、大夫であるから最上級の相手になり、会員制ともなると一晩で五十両は取れる。
見世と併用して使えばお職の朝霧を上回る売り上げを取る紅玉は霧右衛門にとって使い勝手のいい商売道具であった。
紅玉が見世に戻ろうと離れを出た時、目の前に意外な人物が立っていた。朝霧である。
「朝霧はん、何であんたがここに?」
「それはわっちが聞く事でありんす。何故、紅玉はんがここにいるんでありんすか?」
「あんたには関係ござりんせん」
離れの各部屋には匂いを誤魔化すためか、お香がふんだんに焚かれている。
紅玉の身体や着物にはその匂いが付いていた。
遊女なら普段から使っているお香だが、病気の遊女を養生させるはずの部屋にお香はいかにも不自然であった。
「紅玉はん、あんたまで霧右衛門の傀儡になってもうたんですな」
朝霧の言葉に紅玉はキッと朝霧を睨みつける。
「朝霧はん。わっちはあんたが憎かったんでありんす。この玉屋に売られてきたのはほぼ同期。禿として穂花姐さんに付いていたのも一緒だったのに、あんたは出世街道をまっしぐら。わっちは何とか追いつこうと必死に頑張ったつもりでありんすが、あんたとの差は縮まらんかったでありんす」
「紅玉はんは決してわっちより劣ってなんかありんせん」
「気休めをいいなんすな。あんたにわっちの何がわかるんね?わっちは貧しい農民の子供で、毎日空腹のところに野良仕事をやらされたせいでここに来た頃はガリガリに痩せていて、禿の時は痩せ犬と呼ばれていたんざんす。
わっちの住んでいた村はその日の食べ物にも困るほどの飢饉で野草はもちろんの事、野良犬まで生捕りにして食べてたほどでありんした。
父親は母を捨てて他の女を作って逃げていき、残されたのはわっちと母と妹の三人。
そんな村の噂を聞きつけた女衒(ぜげん)がやって来て、妹を買っていこうとしたんでありんす。
わっちは妹を助けるため、自分が行くと言いなんしたが、女衒はお前より妹の方が顔立ちがいいし遊女として見込みがあると言われたでありんす。
わっちは妹だけは堪忍してしておくんなしと散々頼み込んで、女衒は渋々五両でわっちを買ったんでありんす。
玉屋で働くことになったわっちはあんたと二人で禿として穂花姐さんに付き、遊郭や遊女のイロハから教わったんでありんす。
あんたは禿の頃から色白で穂花姐さんに目をかけられていたんしょう。
大口のお客はんはみんなあんたのとこにいきよる。
わっちは悔しい気持ちを押し殺してあんたの客のおこぼれを拾い上げてどうにか売り上げを上げていったでありんす」
夜見世の支度をしていた桜にそう話しかけてきたのはおしのの先輩にあたる新造の白菊であった。
十四歳で身長は一五〇センチほどあり、大人の雰囲気が漂う名前の通り肌が白くて綺麗な子だ。
薄い化粧と桃色の口紅がまたその美しさを引き立てている。
見習いとは言え、すでに贔屓の客が十人以上付く次期大夫候補の少女は貫禄すらあった。
桜はさすが朝霧の後釜に選ばれるだけの事はあると感心して見ていた。
「白菊ちゃん、わざわざ教えてくれてありがとう」
「とんでもござりんせん。それよりさっき見世を出なんしたのは平蔵はんでありんしたか?」
「平蔵を知っているの?」
「あい。しばらく見かけんしたから病気かと思うておりんした」
「しばらく?どれくらい見なかったの?」
白菊は指をほっぺたに当てて思い出している。
「たしか。。桜花姐さんが見世に来なんす少し前からでありんしたから十日は見なんせんでした。平蔵はんは霧右衛門はんのお気に入りでありんすから。この見世で楼主に気に入られなんすのは出世の近道でありんすからね。だから十日も顔を見なんせんで、何かありんしたのかと」
〔たぶん私が来るのがわかっていたのね。それで自分が見世にいてはまずい何かがあった。。それが今頃になって姿を現したという事は〕
桜は疑惑が確信に変わっていった。
「平蔵はちょっと別の用件があって、吉原の外に出て仕事をしてもらっているんだよ。男ならここから出られるからね」
「そうでありんしたか」
疑う事なく笑顔を見せる白菊に桜は嘘を言った罪悪感ですまないと心の中で思いながら白菊にお礼を言った。
「白菊ちゃん、教えてくれてありがとう」
〔平蔵。。出来れば仲間を斬りたくはない。そのまま大岡様の元に戻ってくれれば。襲ってくるとしたら今夜あたりか。。〕
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暁九つ〔夜の十二時〕を過ぎると、大門が閉じられ、遊女たちは張見世〔客が外から遊女たちを見定める部屋〕から引き、高級遊女は客と床に付く時間。
桜は自分の部屋に戻るために階段を二階から一階へと降りる。
居住区間は右側だが、桜はそのまま真っ直ぐ張見世を抜けて外に出た。
手には三味線。薄い青色に桜の模様が入った着物は芸者としての仕事着である。
大門が閉められれば吉原は眠りの時間に付く。
賑わっていた人並みも今はなく、鮮やかに彩られた提灯も火が消されて幻想的な世界は暗闇に包まれていた。
その暗闇の中、桜の背後から殺気が忍び寄る。
鯉口を切る音とともに闇を切り裂くような剣が桜を襲うが、桜は上体を軽く逸らして難なくかわした。
御庭番は暗闇でも相手と戦えるよう夜目も効くように訓練している。
「平蔵、最初にあった時から怪しいと思っていたよ。何故裏切った?」
平蔵は桜の問いに青ざめていたが返事を返してこない。
「裏切り者はどうなるかわかっているよね?」
「桜、お前には俺の苦しさがわからないさ」
それを聞いて桜は平蔵が阿片に侵されている事を察知する。
「平蔵、あなたも阿片中毒になっていたのね」
「霧右衛門からお前を始末するように命じられている。悪いが死んでもらうぞ」
「あなたの腕で私は斬れない。裏切り者の制裁を受けてもらう」
平蔵が桜に再度斬りかかるが実力の差は歴然であった。
桜は三味線に仕込まれている剣を居合いで抜く。
「迅速斬(じんそくざん)」
目にも止まらぬ鋭い剣が一閃され、平蔵は血飛沫をあげて膝をつき倒れた。
裏切り者は粛清する御庭番の掟に従い、桜は平蔵を斬った。
「御庭番が何故阿片に手を染めた?」
「。。霧右衛門はこの吉原のあちこちに手下がいて完全な情報網を敷いていた。俺たち御庭番が忍び込んでいる事も既に察知されていたんだ。そこに飛んで火に入る夏の虫の如く、入り込んでしまった。。俺は夜寝ている時に阿片を吸わされて中毒にされてしまったんだ」
「後に忍び込んだお松さんとおそねさんも平蔵がやったのね?」
「ああ、阿片欲しさに霧右衛門に命じられて今と同じように小太刀で背後から斬った」
「あなたが襲ってきたという事は、霧右衛門は私の事も既に知っているのね」
「霧右衛門は桜が芸者として見世に来た時からお前を隠密だと察知していた。奴はこの吉原に侵入してくる部外者はすべて把握している。だからそれ以外の人間が来た時は隠密の可能性を疑るという訳だ」
「平蔵、阿片は羅生門河岸の離れにあるのは間違いないか?」
「間違いない。あそこには阿片中毒にかかった遊女が七人ほどいて、出入りの許された客の相手をしている。紅玉もその一人だ」
「何ですって?」
紅玉の名が出るとさすがの桜も驚きを隠せなかった。
「霧右衛門は腕の立つ用心棒を二人雇っている。酒井高山(さかいこうざん)と奥村又右衛門(おくむらまたえもん)の二人に気をつけろ」
平蔵はそれだけ言うと息絶えた。
「。。許せない」
桜の仲間を斬らざるを得なくなった怒りは霧右衛門と平田長安に向けられた。
「桜大丈夫か?」
源心が情報共有のために合流し、状況からおおよその成り行きを察した。
「平蔵。。お前が裏切るとはな」
源心は平蔵とは一緒に修行した仲間であっただけに苦渋の表情であった。
だが、これも御庭番の宿命。
明日は自分もこうなるかも知れないのだと二人はすぐに気持ちを切り替えた。
「源心、何かわかった?」
源心と桜はそれぞれの状況を報告し合う。
「穂花さんは霧右衛門の金目当てで、そんな目に。。おふじちゃんも」
桜の目に怒りの炎が宿る。
「上州屋の娘さんは左近が助ける手筈になっている。明日、俺と左近で平田長安を捕らえて阿片を押さえる。証拠の阿片を抑えたらすぐに大岡様が動いてく下さる。
桜は霧右衛門と用心棒二人を捕らえて離れの遊女たちを解放してくれ。大岡様と奉行所の同心たちが到着されるまで霧右衛門を逃さないように頼んだぞ」
「わかったわ。源心もよろしく頼むね」
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時を同じくして、夜の暗闇にまぎれて上州屋に忍び寄る怪しげな人影が一人。
上州屋の大旦那の娘、花は今年で十歳になる。
女の子とはいえ、将来は婿をもらって店を継ぐ役割を担っているため、日々読み書きに算術の勉学に励んでいた。
玉屋霧右衛門に雇われた刺客は屋根裏から花の部屋に侵入し、首を絞めて殺害した後、自殺に見せかけて阿片を隠しておくという手筈で店に侵入しようとした。
そこに左近が待ったをかける。
「待ちな。花ちゃんを手にかけるつもりだろうけど、そうはさせないよ。不寝番(ねずばん)の彦蔵さん」
「。。何故、俺の名を?」
彦蔵は自分の正体が判明している事に驚きの表情を浮かべた。
「桜が最初に見世に入った時にあんたが怪しいと睨んでいたんだよ。人殺しの殺気は同じく人を斬った事のある人間の前では隠せない」
「桜花か。。只者じゃないと思ってはいたが。すでに調べはついているってわけだな」
「不審番は油を各部屋に継ぎ足して回る仕事。遊女の部屋に怪しまれずに潜入出来るのはあんたくらいだろうからね。寝込みに部屋に入って油を継ぎ足すと見せて穂花大夫に阿片を吸わせたのもあんただろ?」
彦蔵は観念したようにため息をつく。
「どうやら霧右衛門の旦那も年貢の納め時のようだな。俺は気が進まなかったが、雇われの身では楼主に逆らえなかったからな」
「おや、物分かりが良くて話しが早いね。大人しくお縄につくかい?」
「お前一人だけなら何とかなりそうだが、どうせ奉行所に手を回しているんだろ」
「ご察知がいいね。周りを見てみな」
彦蔵があたりを見渡すと、そこに左近からの知らせを受けて南町奉行所同心、三浦をはじめとする同心たちが取り囲んでいた。
「用意周到なこったな」
そう言った直後、彦蔵は取り押さえられた。
「三浦様、これは序の口。本番はこれからです」
「わかっている」
大岡越前の命により出動していた三浦たち同心は上州屋の娘、花を無事に助け出した。
「さて、次は平田長安。そして玉屋霧右衛門と大物取りだね」
⭐︎⭐︎⭐︎
暁七つ〔朝四時〕から七つ半〔朝五時〕になると起床の時間で遊女たちは客を大門までお見送りする。
この時、気の利く上客であれば茶屋で見送りの遊女と禿たちに玉子粥や湯豆腐をご馳走するのが通とされる。
その後明け六つ〔朝六時〕から朝四つ〔朝十時〕までがようやく高級遊女たちの就寝時間である。
ここから昼見世が始まる昼九つ〔正午〕までは自由時間で、遊女たちは入浴や化粧したり客への手紙を書く時間にあてる。
遊女の朝食は昼も兼ねて昼見世の前に取ることが多く、自分の部屋を待つ高級遊女は自室に食事を運ばせて、質素な食事で足りなければ料亭から出前を取る事も出来るが、禿たちは大部屋で小ぶり茶碗にほんの少しもられたご飯一杯だけ。
育ち盛りの禿たちはそれだけでは当然足りないので、夜見世で客が残した料理をこっそり取って、それを残しておいて朝食の時に食べていた。
その際に食べ物を入れるために姐さんたち高級遊女の余っている道具箱を貸してもらい、その中に食べ物を入れて置くのだが、油断大敵。
それを見られるとちょっと目を離した隙に他の禿たちに盗み食いされてしまうのだ。
「あっちのかまぼこを盗りなんしたな!」
「知らんせん。あっちが食べたといいなんす証拠でもありんすか?」
という禿どうしの食べ物争奪戦もあったという。
紅玉は昨夜見世に姿を見せなかった。
朝霧に次ぐ見世の二番手がいなくなっても霧右衛門が何も言わないところをみると、周知の事実という事らしい。
楼主が何も言わなければ遣手婆のお里も口を出さない。
紅玉は月に何度か離れで客を相手にしていた。
無論、大夫であるから最上級の相手になり、会員制ともなると一晩で五十両は取れる。
見世と併用して使えばお職の朝霧を上回る売り上げを取る紅玉は霧右衛門にとって使い勝手のいい商売道具であった。
紅玉が見世に戻ろうと離れを出た時、目の前に意外な人物が立っていた。朝霧である。
「朝霧はん、何であんたがここに?」
「それはわっちが聞く事でありんす。何故、紅玉はんがここにいるんでありんすか?」
「あんたには関係ござりんせん」
離れの各部屋には匂いを誤魔化すためか、お香がふんだんに焚かれている。
紅玉の身体や着物にはその匂いが付いていた。
遊女なら普段から使っているお香だが、病気の遊女を養生させるはずの部屋にお香はいかにも不自然であった。
「紅玉はん、あんたまで霧右衛門の傀儡になってもうたんですな」
朝霧の言葉に紅玉はキッと朝霧を睨みつける。
「朝霧はん。わっちはあんたが憎かったんでありんす。この玉屋に売られてきたのはほぼ同期。禿として穂花姐さんに付いていたのも一緒だったのに、あんたは出世街道をまっしぐら。わっちは何とか追いつこうと必死に頑張ったつもりでありんすが、あんたとの差は縮まらんかったでありんす」
「紅玉はんは決してわっちより劣ってなんかありんせん」
「気休めをいいなんすな。あんたにわっちの何がわかるんね?わっちは貧しい農民の子供で、毎日空腹のところに野良仕事をやらされたせいでここに来た頃はガリガリに痩せていて、禿の時は痩せ犬と呼ばれていたんざんす。
わっちの住んでいた村はその日の食べ物にも困るほどの飢饉で野草はもちろんの事、野良犬まで生捕りにして食べてたほどでありんした。
父親は母を捨てて他の女を作って逃げていき、残されたのはわっちと母と妹の三人。
そんな村の噂を聞きつけた女衒(ぜげん)がやって来て、妹を買っていこうとしたんでありんす。
わっちは妹を助けるため、自分が行くと言いなんしたが、女衒はお前より妹の方が顔立ちがいいし遊女として見込みがあると言われたでありんす。
わっちは妹だけは堪忍してしておくんなしと散々頼み込んで、女衒は渋々五両でわっちを買ったんでありんす。
玉屋で働くことになったわっちはあんたと二人で禿として穂花姐さんに付き、遊郭や遊女のイロハから教わったんでありんす。
あんたは禿の頃から色白で穂花姐さんに目をかけられていたんしょう。
大口のお客はんはみんなあんたのとこにいきよる。
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この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
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