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第三章 名無しのエトランゼ
3‐12
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「ヨハン殿」
ヨハンが要塞を出て、兵達のところに向かおうとしたところで、背後から声を掛けられて振り返る。
立っていたのは先程まで同じ部屋にいた、ディッカーだった。
「ディッカー卿」
空は晴天。
戦いの気配を感じてか、辺りの兵達は慌ただしく動き回っており、ヨハン達二人に注目する者は誰もいない。
「エレオノーラ様を頼みます」
「うむ。それから兵站の手配も私がやっておこう。責任者は誰かな?」
「アラーモという男に一任してあります。手を貸してやってください」
「承知した。……しかし、よかったのかな? 君の言う通り、エレオノーラ様には事を語らずにおいたが」
「代償がこれだけなら安いものです。間に合わなくなるよりは」
張られた頬を指さすと、それを見てディッカーは苦笑した。
「いやいや、笑い事ではないな。なるほど、確かに君の言葉通りに事は進んでいるようだが」
以前からディッカーには話を付けてあった。
エレオノーラを信頼していないわけではないが、彼女は少しばかり理想に縋り過ぎている。彼女のそのつもりがなくても、ヘルフリートは容赦なく戦いを仕掛けてくるであろうことは明白だった。
とはいえあくまでも保険程度のもので、まさか民間人を含めた虐殺行為などを行うとはヨハンとて予想できなかったことではあるが。
「だが、支払ったものはそれだけではないだろう?」
「……? 何も思い当たりませんが?」
「姫様の信頼を裏切った。これは大きな損失ではないのかな?」
「――ああ、はい。それはそうですね。ですが、大きな問題ではありませんよ。勝てばそのまま処分を待ち、負ければ……全てを俺の責任にしてもらえばいい」
負けるとしての精々無様に足掻いて死ねば、ヘルフリートも多少の溜飲は下がるだろう。
その間に、エレオノーラにはイシュトナルを放棄するなりなんなりして生きながらえるだけの時間は稼げる。
彼女の理想を完遂できないことは残念だが、それでも死ぬよりはずっといい。
「それが君の真意か」
何かを納得したような顔をするディッカーだったが、次の瞬間彼の表情は憤怒に染まる。それこそ、ヨハンだけでなく彼を知る誰もが見たこともないような顔だった。
「どうやら君は、随分と思い上がっているようだな」
「……は?」
「君のギフトはその目で見た。あれは凄まじい、全能と言ってもいいほどの力だ。だが、今の君にそれはない」
「そんなことは……」
「判っていないな、君は」
ディッカーの言葉は間違っている。少なくともヨハンの中では。
力は確かに失った。もう求めても帰ってこない。だから、自分の無力さに嘆くこともあった。
「全盛期の君は全知全能だったのだろう。全てが思い通りになり、ともすれば……不遜ではあるが、神のような視点で世界を見ていたのではないかな?」
ヨハンは否定も肯定もしない。
ギフトを持っていたときヨハンは人ではあったが、確かに人であることを遥かに超越していた。
「そして今も、何処か人とは違った視点で世界を見ている。だがな、私のような年寄りから見れば、それは世界を判ったようなつもりになっている若者の驕りに過ぎない。
君は人だよ、ヨハン殿。だからこそ人の視点で世界を見る必要がある」
「……仰ることの意味が、よく判りません」
「簡単なことだ。人として欲を持ち、何かに焦がれ、前に進む。ヨハン君、君の目的は何かな?」
「……エレオノーラ様の理想を」
「それはエレオノーラ様の目的だよ」
「……それは……」
切って捨てられた言葉が、宙に溶ける。
それ以上にヨハンが言えることは何もない。ヨハン自身に、そんなものはなかったのだから。
「まぁ、色々言ったがね。私の怒りの幹にあるのはただの一点。エレオノーラ様は君を信頼している、その上で自分を切り捨ててくれとは、残酷にもほどがあるだろう」
ディッカーが言いたいことは、つまりただのそれだけだった。
「私は幼いころのエレオノーラ様をよく知っている。娘、とは些か僭越だが、近い感情を抱かせてもらっている。君の物言いが我慢できなかったのだ」
「……それは、失礼しました」
「だから、君は生きて帰って来てくれ。そしてエレオノーラ様に謝り、その上で今後のことを決めてほしい。君達二人でね」
「何故そこまで俺を? 先程の言葉通りなら、俺は驕っているだけの若造なのでしょう?」
「簡単なことだ。エレオノーラ様が君を信頼しているからだよ。私が日に何度、あの方から君の話を聞かされてると思う?」
「いえ、それは……。判りませんが」
いつの間にかディッカーの顔からは険が取れている。
いつも通りの穏やかな表情で、ディッカーの手がヨハンの方に置かれた。
「私が見たいのだ。あの方と、君が作るこれから先の未来を」
「……はい」
ただ、そう返事をすることしかできなかった。
ヨハンが要塞を出て、兵達のところに向かおうとしたところで、背後から声を掛けられて振り返る。
立っていたのは先程まで同じ部屋にいた、ディッカーだった。
「ディッカー卿」
空は晴天。
戦いの気配を感じてか、辺りの兵達は慌ただしく動き回っており、ヨハン達二人に注目する者は誰もいない。
「エレオノーラ様を頼みます」
「うむ。それから兵站の手配も私がやっておこう。責任者は誰かな?」
「アラーモという男に一任してあります。手を貸してやってください」
「承知した。……しかし、よかったのかな? 君の言う通り、エレオノーラ様には事を語らずにおいたが」
「代償がこれだけなら安いものです。間に合わなくなるよりは」
張られた頬を指さすと、それを見てディッカーは苦笑した。
「いやいや、笑い事ではないな。なるほど、確かに君の言葉通りに事は進んでいるようだが」
以前からディッカーには話を付けてあった。
エレオノーラを信頼していないわけではないが、彼女は少しばかり理想に縋り過ぎている。彼女のそのつもりがなくても、ヘルフリートは容赦なく戦いを仕掛けてくるであろうことは明白だった。
とはいえあくまでも保険程度のもので、まさか民間人を含めた虐殺行為などを行うとはヨハンとて予想できなかったことではあるが。
「だが、支払ったものはそれだけではないだろう?」
「……? 何も思い当たりませんが?」
「姫様の信頼を裏切った。これは大きな損失ではないのかな?」
「――ああ、はい。それはそうですね。ですが、大きな問題ではありませんよ。勝てばそのまま処分を待ち、負ければ……全てを俺の責任にしてもらえばいい」
負けるとしての精々無様に足掻いて死ねば、ヘルフリートも多少の溜飲は下がるだろう。
その間に、エレオノーラにはイシュトナルを放棄するなりなんなりして生きながらえるだけの時間は稼げる。
彼女の理想を完遂できないことは残念だが、それでも死ぬよりはずっといい。
「それが君の真意か」
何かを納得したような顔をするディッカーだったが、次の瞬間彼の表情は憤怒に染まる。それこそ、ヨハンだけでなく彼を知る誰もが見たこともないような顔だった。
「どうやら君は、随分と思い上がっているようだな」
「……は?」
「君のギフトはその目で見た。あれは凄まじい、全能と言ってもいいほどの力だ。だが、今の君にそれはない」
「そんなことは……」
「判っていないな、君は」
ディッカーの言葉は間違っている。少なくともヨハンの中では。
力は確かに失った。もう求めても帰ってこない。だから、自分の無力さに嘆くこともあった。
「全盛期の君は全知全能だったのだろう。全てが思い通りになり、ともすれば……不遜ではあるが、神のような視点で世界を見ていたのではないかな?」
ヨハンは否定も肯定もしない。
ギフトを持っていたときヨハンは人ではあったが、確かに人であることを遥かに超越していた。
「そして今も、何処か人とは違った視点で世界を見ている。だがな、私のような年寄りから見れば、それは世界を判ったようなつもりになっている若者の驕りに過ぎない。
君は人だよ、ヨハン殿。だからこそ人の視点で世界を見る必要がある」
「……仰ることの意味が、よく判りません」
「簡単なことだ。人として欲を持ち、何かに焦がれ、前に進む。ヨハン君、君の目的は何かな?」
「……エレオノーラ様の理想を」
「それはエレオノーラ様の目的だよ」
「……それは……」
切って捨てられた言葉が、宙に溶ける。
それ以上にヨハンが言えることは何もない。ヨハン自身に、そんなものはなかったのだから。
「まぁ、色々言ったがね。私の怒りの幹にあるのはただの一点。エレオノーラ様は君を信頼している、その上で自分を切り捨ててくれとは、残酷にもほどがあるだろう」
ディッカーが言いたいことは、つまりただのそれだけだった。
「私は幼いころのエレオノーラ様をよく知っている。娘、とは些か僭越だが、近い感情を抱かせてもらっている。君の物言いが我慢できなかったのだ」
「……それは、失礼しました」
「だから、君は生きて帰って来てくれ。そしてエレオノーラ様に謝り、その上で今後のことを決めてほしい。君達二人でね」
「何故そこまで俺を? 先程の言葉通りなら、俺は驕っているだけの若造なのでしょう?」
「簡単なことだ。エレオノーラ様が君を信頼しているからだよ。私が日に何度、あの方から君の話を聞かされてると思う?」
「いえ、それは……。判りませんが」
いつの間にかディッカーの顔からは険が取れている。
いつも通りの穏やかな表情で、ディッカーの手がヨハンの方に置かれた。
「私が見たいのだ。あの方と、君が作るこれから先の未来を」
「……はい」
ただ、そう返事をすることしかできなかった。
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