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第三章 名無しのエトランゼ

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 事態が大きく動いたのは、それから数週間後のことだった。

 ヨハンはゼクスから報告を受けて、それまでやりかけていた仕事を全てアーデルハイトに任せてエレオノーラの部屋に参上する。

 そこには既に伝令の兵士と、それからディッカーとエレオノーラが険しい顔つきで立っていた。


「……ヨハン殿」

「エレオノーラ様。こちらでも報告は受けました」

「う、む。お前はもう下がってもよいぞ」


 伝令の兵士はその言葉を受けて、部屋を後にする。

 エレオノーラは緊張を通り越して、その顔色は蒼白と言ってもいい。

 だが、それも無理はないことだった。


「ヘルフリートが派遣した尖兵隊がフィノイ河を越えて、南方へと到着しました。そして、すぐ傍にあるネフシルの街へと進軍。そこを守備していた部隊と、住民を一人も残らず……」


 報告を読み上げるディッカーは、それより先のことは何も言わなかった。

 民間人を含む、住人の虐殺。敵は聖別騎士を用いて街の守りを瞬く間に突破、その後無差別に攻撃を仕掛けられたという話だった。


「……何を考えているのだ、兄上は……! 民に罪はないだろうに!」

「……エトランゼを匿う者達もまた、罪人ということでしょう。有事の際には周辺の街に駐屯している部隊に防備だけを固めるように指示は出してありました。これで、当面は時間が稼げると思います」

「時間を稼ぎ、どうする? 果たして兄上は妾の話を聞いてくれるのだろうか……? ヨハン殿、何かよい策はないか?」

「……策は、ありません」

「なんだと?」

「この期に及んで、ヘルフリートと対話をすることは不可能と考えます。いえ、こちらが無条件降伏をすればそれも叶うとは思いますが、エレオノーラ様の御身の安全とエトランゼ達の今後を思えばそれはできない」


 強い意志を込めて、エレオノーラを見つめる。

 もう後戻りをすることはできないのだ、お互いに。


「迎撃を進言します。こちらから軍を出し、ヘルフリートの軍へと反撃。然る後、相手の領土へと侵攻し」

「待て! 待つのだヨハン殿! そんな必要が何処にある? どうして同じ国の者同士で領土を食いあう必要がある!?」

「あくまでも侵攻は脅し、こちらにもそれだけの戦力があるとの示威行為に過ぎません。相手に身の危険を感じさせてこそ、交渉の場に引きずり出すことができます」

「そ、そんな戦力が何処にある? 妾達はここを間借りしているだけに過ぎぬのだぞ?」


 エレオノーラの声は震えていた。

 その可能性を全く考慮していなかったわけではないが、それでも心の何処かで兄は判ってくれるはずと信じていた。

 事実、ヘルフリートがオルタリア南方に侵略する必要は殆どない。会談こそ喧嘩別れに終わってしまったが、エレオノーラの意志を多少なりとも尊重したうえで、使者でも派遣して穏便に事を進めることの方が遥かにお互いのためになる。

 だというのに、彼はそれをしなかった。同じ血が流れる肉親に対して、殺意を持って答えた。


「戦力ならばあります。エトランゼの遊撃隊に加えてバーナー卿が率いる本隊。その力を合わせれば事を果たすことは充分に可能だと考えます」

「いつの間にそれほどの戦力を蓄えた? 妾はそんな相談は受けていないぞ!」


 エレオノーラがヨハンに歩み寄る。


「こちらの方で事を進めておきましたので」

「ヨハン殿!」


 ぱんと、乾いた音が響いた。

 頬に痺れるような痛みが走る。戦いで受けた苦痛に比べれば万分の一程度のものだが、逆に心には嫌に響く。


「妾を信用していなかったのか? つまりはそういうことだな?」

「一刻を争う事態でした。もしこのことに対してエレオノーラ様が認めなかった場合、間に合わなかった可能性を考慮しての独断です。処分の程は、今回の件が全て片付いてからどうぞご自由に」

「そなたは! ……そなたは全く妾のことを信じていなかったのか! つまらぬ小娘だと、役に立たぬ飾りに過ぎぬと……!」


 怒鳴りつけるエレオノーラの身体は小さく震えていた。


「以前お話しした通りです。エレオノーラ様のお役目は先頭に立ち、人の標となること。それは他ならない貴方にしかできないことですので」

「妾は……! 妾はそんなのは嫌だ!」


 今度はヨハンからエレオノーラの手を握る。


「ヨハン殿……?」

「今はそんなことを話している時間ではありません。他に方法がなければ、俺は今すぐにでも出撃します」


 突き放すように、彼女の身体を優しく押した。

 崩れ落ちてしまいそうなほどに不安定なエレオノーラは、それだけでふらふらと身体を揺らす。


「……他に方法は、ないでしょうな」


 横合いから、今まで黙っていたディッカーがそう言った。


「ならばそのように」


 頭を下げてから、ヨハンは部屋を出ていく。

 エレオノーラはその背に掛ける言葉もなく、ただそれを呆然と見送ることしかできなかった。
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