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第三十一章 象牙の塔の賢者たち
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何かが音を立てている。
耳障りな機械音で、彼を目覚めさせようとしている。
意識はもう、水面のすぐ下まで浮上している。
瞼を開けば、また一日が始まるだろう。新しい一日。まだ誰にも汚されていない一日。
けれど浅い眠りの中、ふと彼は疑問を覚える。
自分はそれを、かつて一度でも望んだことがあっただろうか。
一日が始まってしまうことを。この人生が続いてしまうことを。
電話が、鳴っている。
「――母さん」
カーテンが引かれた薄暗い室内。ベッドに横たわったまま、彼は携帯電話を耳に当てた。
『誓。今、大丈夫?』
聞こえてきた母親の声は、張りつめて、怯えたように震えている。
彼は枕元に目をやり、淡い闇の中、時計の針を読んだ。午前四時十分。間違いなく、悪い知らせだ。
「どうしたの」
唾を飲む音が、微かに聞こえた。押し殺した声がそれに続く。
『義隆さん、東京出張中に行方不明になりよったって……もう三日も前から』
彼は中指を握った。大量の着信が蘇る。最近の姉の常軌を逸した行動は、義兄が失踪したせいだったのだろう。そして恐らく姉は自分を疑っている。だからこうして母親に電話をかけさせている。
「姉さんに何を言われたか知らないけど、俺は関わってないよ」
『誓……』
「義兄さんの会社には?」
『……暫く休むって、義隆さん本人から連絡が』
「じゃあ、仕方ないね」
電話の向こうに沈黙が広がる。彼には決して手の届かない、底のない冷たい空白として。
けれど沈黙は沈黙でしかない。空白の深さを測ることに意味はない。
「こっちにも、姉さんから電話があったよ」
灰色の視界を瞼で塞ぎ、彼は呟いた。目を閉じても、闇の濃度はほとんど変わらなかった。このままじっと目を塞いでいれば、何も始まらなかったことにできそうな気がした。
「……でも、何を言っているのか、俺には全然解らなかった」
姉の言葉を聞き取れなかったのは、本当に彼女の不明瞭な涙声のせいなのだろうか。彼女の訴えを理解できなかった原因は、自分の方にあるのではないのか。判断することなど、もうできなかった。
色々なものが、綻びつつある。
「父さんは?」
『……お父さんは……まだ、寝とう』
「……そう」
彼は自分のためにだけ肯いた。
「とりあえず、義兄さんの件について何かわかったら、俺から連絡を――」
言いかけた言葉は、しかし、喉の奥に沈んだ。小さな機械の先の、静寂の奥に耳を澄ませる。きっとこれは、耳鳴りではない。
『誓?』
――母親のほかに、もう一人いる。
「ねえ、母さんは今、何処にいるの?」
突然、電話は切れた。
ディスプレイを暫く眺めてから、彼は携帯電話を閉じた。そしてベッドから身体を起こす。床へと静かに素足を下ろす。
カーテンを開くと、日の出前の街が広がる。ガラスの向こうは、まだ濃い藍色の闇に包まれている。沈黙する街に、間引きされた電灯とコンビニエンスストアの光が、冷えた精液の残滓のように散っている。
その目はもう星を探すことも、月を求めることもしない。代わりに彼は何か言おうと思う。自分のためだけの言葉を口にしようと思う。
唇が上下し、喉が震える。けれどこの小さな檻の中で初めて紡いだ独り言は、彼の耳にさえ意味を成しはしなかった。
緩やかに温度を失っていく異邦人のパロール。
ローテーブルの上には、閉じたノートパソコンと、一冊の本。
刑事の溜め息が、鼓膜に引っかかって耳障りな音を立てた。通された部屋は狭く、相手の呼気が室内に溜まっていくさまが目視できそうなほどだった。
「――またですか」
呆れたような相手の呟きを、由比は警察署の薄汚れた壁を見つめたまま聞いている。歪んだパイプ椅子のせいなのか、地盤が傾いているのか、視界が僅かに傾斜しているように感じられる。
「確か昨日は電柱に張り紙で、一昨日はアパートの前で車の中に押し込まれそうになり、一昨昨日は大学で襲われかけた、でしたっけ」
本当は耳を塞いでしまいたい。けれどそんなことをしても、何の解決にもならない。
今朝、部屋のドアを開けると、目の前に白っぽい液体の詰まったコンドームが三つほど転がっていた。ドアを見ると、やはり何らかの液体がかけられたような痕があった。昨日はアパートから駅にかけて、十本以上の電柱に張り紙があった。文面はいつもと変わらない。『由比誓は淫売だ』。ただ、今回はその下に由比の住所がつけ加えられていた。そして一昨日は……もう、数えても仕方がない。
オートロックであるということを考えると、今朝の嫌がらせはアパートの住人によるものという可能性が高かった。しかし完全に外部の人間が入り込めないわけではない。またエントランスの防犯カメラの映像を確認することになるのだろう。
けれど映像を見るまでもなく、彼には分かっていた。加害者はアパートの外にも中にも存在するのだということ。まるで空気のように悪意が自分を取り巻いていること。そしてその悪意が間断なく増殖し続けているということ。恐らくもう、誰にも止められないのだということ。
あの浅黒い指が、忌まわしいテクストが、音もなく引き金を引いたのだ。
そして、何もかもが歪み始めた。
「鹿島冴子は?」
「ええ、あのあと事情を聞きました。自分はやっていない、関係ない、とのことです。確かに映像の女性と似ていないことはありませんが、しかし現段階でこれ以上は」
本当に捜査しているんですか、捜査する気があるんですか。そんな言葉を、彼は飲み込んだ。刑事に噛みついたところで、相手の心証を害するだけだ。そうなるとますます立場が不利になる。もうこれ以上不利になることなど、ないのかもしれないが。
「状況から見てこの一連の嫌がらせは、同一犯による犯行ではなく、互いに無関係な複数の人間による同時多発的な犯行のように思われます。そんなことはありえないと言いたいところですが、動画が流出してから劇的に被害が増加したことを踏まえると、完全にないとは言い切れません。とにかく、これまでトラブルがあった人間を、もう一度洗い出してみましょう。凄まじい量になりそうですが」
由比は黙って壁を見つめ続けた。その名を口にすべきなのか。それとも一人で戦い抜くべきなのか。
どちらが正しい判断なのか。
どちらが有利な賭けなのか。
もしも間違えてしまったら、自分はいったいどうなるのか。
「……添嶋、秋長」
それは不自然にか細い声だった。
刑事は小さく首を傾げ、添嶋、と繰り返した。
「もしかして、作家の?」
由比は肯いた。呼吸が若干浅くなり、背中に冷たい汗が滲む。
「先月、添嶋から対談を申し入れられました。なんでも、以前私が発表した彼の作品についての論文に反駁したいとかで……それで、実際に会って話を」
「そこでトラブルが?」
そうだ。そこから全てが狂い始めた。――いや。
もしかしたら、その前から狂っていたのかもしれない。
「何があったんですか」
「何が……」
彼はホテルでの記憶を辿ろうとした。手を伸ばし、必死で掴み取ろうとした。だが手探りで掴んだ糸は、手繰る前にぷつりと切れた。
「由比さん?」
彼は開いた掌を見下ろした。右の中指が、微かに震えていた。
「……事件のあと田宮が私を襲おうとしたときも、添嶋が現れました」
言葉を紡がなければならない。もしここがあの男のテクストなら、沈黙は敗北に直結する。
――ここがあの男のテクストなら?
駄目だ、呑まれている。これは俺のテクストだ。俺だけの地獄だ。
だから誰にも触れさせはしない。
「少なくとも田宮の件に関しては、黒幕はあの男です。それにきっと高校の事件も……動画の流出も一連の嫌がらせも、たぶんあの男が裏で……」
自身の掌に目を落としたまま必死になって言葉を並べていると、不意にぬめった何かに気づいた。彼は反射的に身を引いた。それは視線だった。ヘドロのような眼差しが、彼を捉えていた。
刑事の顔が、歪んでいく。
「――由比さん。添嶋との間に何があったか、具体的に教えてください」
辛うじて声だけは聞き取れる。だが、顔はもう識別できなかった。
「……テ、テクストを……小説を読めば、解るはずです……あの小説に全てが書かれていると、本人も……そう、言っていましたし……」
「だったら、それがどういう小説なのか教えてください」
由比は頭の中で本を開いた。しかしページは白紙だった。いくらめくっても、言葉は一つもなかった。
「由比さん、あなたは少し疲れているようですね」
刑事の言葉が、与えられたシナリオをなぞるように打ち出されていく。
「こう言っては失礼かもしれませんが、あなたはただの学生ですよ。そんな人間に作品をどうこう言われたくらいで、小説家が逆恨みなどするわけがないじゃありませんか。ましてやそんな大がかりな復讐などするわけがない」
「あの男は研究者です。本名は柄島永明、日本では八十年代頃に流行したテクスト論を復権させようとしている人間で、テクストを……テクスト……」
何かが符合しようとしている。
「テクスト……引用の織物……作者の死……溺死者……」
けれど掴めない。嵌め込むことができない。
「残念ですが、そういう話は大学でなさってください」
言葉が届かない。他人にも、自分自身にさえも。
温度のない指で、蝋のような自身の指先を握り締める。
もしこの世に言葉がなければ、こんな思いをせずに済んだのだろうか。
「おい、まだやってんのか」
声と共に、ノックもなくドアが開いた。
由比は首を僅かに声の方へ向けた。しかし闖入者の顔を見ることはできなかった。目の前で、恐らく刑事が――もう顔が判らない――何か低く呟く。しかし彼には聞き取れない。もしかしたら耳鳴りかもしれない。
「代われよ。お前まで妙な目つきになりやがって。ミイラ取りがミイラになってどうする」
がたがたと物音が続く。どうやら席を替わったらしい。目を見開いて俯く由比のすぐ前方で、ぎしりとパイプ椅子の軋む音がする。視界の上端に、身を乗り出す闖入者の組んだ指が侵入する。ずんぐりとした指先に、縦に筋の入った短い爪。
男の指。
「もうさ、正直に言ってごらんよ。本当は全部、あんたが仕向けたんじゃないの」
それらはいつも奇妙な角度で曲がっている。いつも血と精液の匂いをこびりつかせている。そしていつも彼を傷つけようとする。だから。
「だいたいね、あんた男だろう。どんなエロい美女だって、こんな馬鹿みたいに頻繁に強姦されたりしないよ。いったい何を隠してる?」
だから男の指は、嫌いだ。
「加害者が……加害者が、犯行を認めているのに……それでも私を疑うんですか」
「確かに朝倉もガキ共も、とりあえずは認めたな。認めてないのは、まだ逃げ回ってる田宮とその愉快な仲間たちだけだ」
奇怪な指は異様なほど視界に迫り、今にも彼を抉ろうとせんばかりなのに、相手の声はひどく遠い。
「だけどどうだろうねえ。俺は長いことこの仕事をやってるが、その刑事の勘ってのが言ってるんだ。由比誓って男は信用できない、とね」
もう、駄目なのだろうか。
「あんたの声、あんたの目、あんたの表情、あんたの仕種、何もかもが嘘つきのそれだ」
駄目だろう。
この世に言葉があり、言葉がこの世を作る限り。
「嘘……」
――あなたは自分に嘘をついている。
『あるいはそれが嘘だということにさえ、気づいていないのかもしれない』
虚構は。
『たかがセックスだと思わなければ、あなたはきっと――』
虚構はそう、言葉の中にだけ。
言葉がなければ、虚構はない。世界もない。もちろん、テクストも。
沈黙。
「由比さん」
肩を掴まれる。よじれた顔が視界を塞ぐ。
「今日は午後から研究会の司会があるとおっしゃっていましたね。もう結構です。どうかお気をつけて。これ以上――」
そこでいったん言葉を切り、目の前の誰かは顔の筋肉をぴくぴくと動かした。唇が捲れて、鋭い犬歯の先端が白く光る。
「――これ以上、哀れな加害者を増やさないように」
ここにも、悪意しかない。
研究会の会場に指定されていたのは、文学部の講義棟にある比較的大きな教室の一つだった。
土曜日ということもあり、キャンパス内にも講義棟にも、一般の学生の姿は少なかった。階段を上りながら彼は腕時計に目を落とした。時刻は午後一時十分だった。警察署に寄ったせいで到着がかなり遅れてしまったが、問題はなさそうだった。
彼に任されたのは、午後の発表の司会だった。総合司会は別にいるため、由比の仕事は発表者を紹介し、時間内に収まるよう質疑応答を円滑に進めること、ただそれだけである。午後の部は一時半からとなっている。午前の部には出られなかったが、別に構わなかった。どうせたいした発表ではない。それに今の彼には、何かに集中することがひどく困難だった。
会場に入ると、既にほとんどの参加者が昼休憩から戻ってきていた。小規模の研究会のはずなのだが、席はかなり埋まっている。彼が前方に据えられた司会席につくと、周囲のざわめきがぴたりとやんだ。奇妙な静寂の帳が落ちる。しかし彼は気づかぬふりをして、卓上の資料に視線を落とした。
「由比君」
眺めていた文字列の上に、不意に影が差した。僅かに顔を上げると、男物のスーツが目に入る。乾いた声が鼓膜を引っ掻く。
「由比君。研究会のあと、五〇一番演習室に来るように」
池内なのだろう。恐らく。
「でも先生、懇親会は?」
「私は出ない。君も出ない」
かさかさと、身体の奥で音がした。
「すみません。体調が悪いので、司会が終わったら今日は帰ります。話があるのでしたら、メールかあるいは日を改めて……」
「君は研究会のあと、五〇一番演習室に来るんだ」
「……」
心臓の裏側を、名前のない虫が這っている。乾いた足と細い触角をかさかさと動かして、彼の鼓動を窺っている。心臓ごと握り潰せてしまえたら、きっと楽になれるのだろう。
由比は唇を噛み、右の中指を握り締めた。
「私は行きません」
そう言い切って、資料に視線を戻そうとした。そのときだった。
「――『溺死者の回顧録』」
突然、空気が消えてしまった。
「君にはまだ、あれが理解できないようだな」
由比は口を開いた。しかしいくら息を吸おうとしても、彼の生命に役立ちそうなものは何一つ舌に触れなかった。
空気のない空間で、言葉だけがずるりと彼の体内に侵入する。
「あれは、君のイストワールだ」
それは大気を振動させて生み出された声ではなく、誰かによって予め織られていたテクストの、その無残な一断片だった。
「真実が知りたければ、来るように」
彼は宙を見つめた。遠ざかる足音は、耳鳴りに紛れて聞こえなかった。
心が壊れてしまいそうだ。
会場の硬い椅子に腰を下ろし、黒木は司会席を見つめていた。
今日ここに来るかどうか、朝までずっと迷っていた。由比が司会の代打をするという話は、別の発表者の司会を担当する先輩から聞いていた。会って話をすればきっと、自分と彼との関係が終わる。そもそも口をきいてもらうことすら叶わないかもしれない。それでもこうして会場に足を運んだのは、遠くからでも構わない、彼の顔を見たかったからだ。退院したという話を人づてに聞いてから、まだ一度もその姿を見ていなかった。
『由比のやつ、この前、図書館にいたらしい。座って啄木を読んでたってさ。確かにあいつ、二月の研究会で啄木論を発表することになってはいたけど、しかしあんなことがあってもまだ研究か。いったいどういう神経をしているんだろうな』
事務補助の院生が、そんなことを言っていた。
学部生、院生、教員。決して大声で話しはしないが、しかし誰もが由比の事件のことを知っていた。SNS経由で情報が爆発的に拡散される時代だ、避けられないことではある。そして動画はURLを変えながら、今も情報の海の中に存在し続けていた。一人が消せば、三人が複製を投稿する。その繰り返し。ポスト複製技術時代の哀れなポルノビデオは、あと何十年、何百年すれば、この世界から完全に抹消されるのだろうか。
あたりは静まり返っていた。人々は司会席に座る男を凝視している。怪物を見る瞳で。あるいは獣の眼球で。
当の由比は、何も気にしていない様子で資料を読んでいた。無機質なほど整った顔立ち、血の気のない肌の色、細く真っ直ぐな身体の線、全てが以前と全く同じだった。まるで何事もなかったかのような、ただひたすら完璧な姿に、黒木の心臓は冷たくなった。
やはりあの男は、ただの化け物なのだろうか。
しかしその完璧な姿には、うっすらとではあるが小さな破綻の気配に似たものがあった。何だろう、と黒木は目を凝らした。そして息を呑んだ。
中指だ。
由比の右手の中指が、微かに痙攣している。
黒木は思わず瞼を下ろした。
そのささやかな癖を、黒木は知っていた。苛立ったとき、不安なとき、感情が昂ったとき、いつもあの細い指は、持ち主の心の揺らぎを静かに訴えていた。
そうだ、由比には感情がある。たとえ無情な化け物であったとしても、その身体には血が流れ、胸には心が宿っている。どうしてそのことを忘れてしまっていたのだろう。
彼は思う。今すぐ駆け寄って、その手を握って駆け出して、由比の過去も自らの将来も何もかも全て切り落として捨て去って、そうして何処か遠くへ行ってしまいたい。
誰も由比誓を知らない、遠い、遠い場所へ。
動け、と黒木は思った。動け。立て。立ってあの男のところへ行くのだ。今すぐに。そしてあの閉じた地獄から救い出すのだ。
膝の上で、拳が震えた。肩が怒り、掠れた吐息が漏れる。
食いしばった歯が、ぎしりと音を立てた。
動けなかった。
「――では時間になりましたので、午後の部を開始したいと思います」
総合司会の事務的なアナウンスが、無力な彼を嘲笑うかのように会場に響く。一人の男が緊張の面持ちで登壇する。すると由比がマイクを手に取った。滑らかな声が、まるで清水のように淀んだ空間に広がる。
「発表者の西山輝巳さんについて司会から簡単にご紹介します。西山さんはK大学文学部をご卒業後、M大学文学研究科修士課程に入学し――」
動けるわけが、なかった。
由比誓が由比誓である限り、その本質が変わらない限り、何処へ行こうと何も変わらない。待っているのは終わりなき反復だ。たとえ黒木が動いたところで、そのテクストが書き換えられることはない。
「――ご専門は小説の映画化、特に明治期の小説とその映像化作品における差異ということで、主な業績としては『近現代文芸』二〇××年七月号掲載の……」
漸く黒木は悟った。
もし本当に救おうとするのなら、殺さねばならないのだ。
「……エトランジェ……」
太陽が眩しくて引き金を引いた男。死刑宣告を受けたその首には、しかし、縄が巻きつくことはなかった。男が絞首台に上る前に物語は終わった。だからテクストの中で、異邦人は永遠に生き続ける、永久に自由であり続ける、常しえに祝福され続ける。
「……『可哀想な僕のエトランジェ』……」
果たして自分に殺せるだろうか。
あの冷たい化け物を。由比誓という、異邦人を。
研究会は異様な雰囲気に包まれつつも、しかし順調に進んだ。発表と質疑応答が終わると、発表者は降壇した。それと同時に由比も司会席を離れ、空席の一つに腰を下ろした。すぐに次の発表者が壇上に立ち、次の司会者がその紹介を行う。そうやって予定されていた発表が全て終了し、最後に磯谷喬――以前由比を絶賛していたW大名誉教授だ――が講演をした。誰もが話すことに、あるいは聴くことに対し、熱心であろうとしていた。だがそれに成功している人間がどのくらいいるのか、黒木には分からなかった。
閉会の辞が述べられて、研究会はお開きとなった。黒木は最後に由比の顔を見てから帰ろうと考え、学生による撤収作業の始まった会場内を見回した。黒っぽいスーツに覆われた痩身は、さして苦労することなくすぐに見つかった。
由比は鞄とコートを左腕に抱え、さっきまで自身が座っていた席の前に佇んでいた。その姿は何事かを一心に考えているようでもあり、また何も考えていないようでもあった。だらりと垂れた右の中指は、神経が切れたかのように動かなかった。
嫌な予感がした。
会場の片づけが終わっても、由比は同じ姿勢のまま立っていた。誰もが彼に視線を向けるが、しかし声をかける者はいない。最終的に会場には、由比と黒木の二人だけが残された。
やがて由比はゆっくりと歩き始めた。信じられないことに、黒木の存在には気づいていないようだった。重い足取りで会場を出て、階段に向かう。帰宅するのであれば下りるはずのステップを、しかし由比は上っていった。黒木は一瞬逡巡したのち、そのあとを追った。
連絡通路を抜けて、由比は研究棟の五階の廊下を進んでいた。研究室が並ぶそこは、いつもと異なり人気がなく、いやにひっそりとしている。いったい何処へ行くのだろう。彼が廊下の途中で立ち止まって注視していると、由比は一つのドアの前で足を止めた。のろのろと手を上げ、ドアをノックする。するとすぐにドアが開いた。男のものと思われる手が部屋の中から伸びてきて、由比の腕を掴み、中へ引きずり込む。コートと鞄が、由比の手から離れ廊下に落下した。
気づくと黒木は走っていた。閉じたばかりのドアの前に行き、乱暴にドアノブを回す。しかしドアは開かなかった。研究棟の演習室は講義棟の通常教室とは異なり、使用申請した者には鍵が渡され、施錠が可能だ。
だから彼は狂ったようにドアを殴った。
「開けろ! そこで何をしているか、こっちには全部分かっている!」
中からは声一つ聞こえなかった。それでも黒木はドアを叩き、怒鳴り続けた。
「開けないと警察を呼ぶ! そうしたらあんたら全員終わりだぞ!」
すると、かちりという音がした。ノブが回り、ドアが開く。
そこに立っていたのは池内だった。
「何を騒いでいるんだ、黒木」
黒木は返事をせず、池内を押しのけて部屋の中を見た。室内には男が十人近くいた。そしてその輪の中に、由比がいた。シャツのボタンがいくつか弾け飛んだようで、はだけたところから細い鎖骨が剥き出しになっていた。床にはさっきまで彼が身につけていたはずのスーツの上着とネクタイとが、奇妙によじれた形で放り出されている。うずくまった由比は、表情のない顔を黒木に向けた。唇の端には、赤いものが滲んでいた。それは血だった。
「お前も参加したいのか。まあ一人くらい増えても問題ないだろう。なあ、由比?」
由比は返事をしなかった。そして黒木も返事を待つつもりはなかった。彼は静かに深呼吸した。それから拳を握ると、渾身の力で池内を殴り飛ばした。
「ふざけるな……!」
たとえ室内の男たちにリンチにされても構わないと思った。ただ絶対に由比だけは逃がそうと思った。しかし男たちは倒れた池内を目にすると、怯えたように後ずさりした。よく見ると、その誰もがついさっきまで研究会に出席していた中高年の研究者たちだった。中には磯谷までいた。
反吐が出る、と黒木は思った。
彼は落ちていた上着を拾った。うずくまったままの男にそっと着せようとすると、由比は黒木の手からそれを取り、自ら羽織った。ひどく落ち着いた様子だった。上着を着た由比は、ネクタイを掴むと立ち上がった。男たちにも池内にも、黒木にさえも目を向けず、開いたままのドアから部屋の外に出る。それから廊下に落ちていたコートと鞄を拾い上げ、しっかりした足取りで元来た道を引き返していく。
「由比さん」
黒木はその後ろ姿を追いかけ、名前を呼んだ。しかし由比は何も言わず、振り返りもしなかった。黙って歩き続ける由比に追いつき並んだ黒木は、しかしいったいどんな言葉ならその凍った瞳を自分に向けさせることができるのか、全く分からなかった。
「アパートまで送りますよ。タクシーを拾うので、待っていてください」
正門を出て道路に出たとき初めて、黒木はまともな言葉を発した。すると由比の足がぴたりと動きを止めた。
「くだらない」
小さく呟く声がした。
「みんな、何もかも」
白い唇が動いていた。オルゴールのように単調な声が、かちかちと弾き出されていく。
「全部、くだらない」
一陣の風が吹き、艶やかな髪が揺れた。ネクタイの端が、白い指の間から逃げたがってもがく。由比は躊躇いを見せずに指を解いた。細い布の切れ端は、日の暮れた街の中を瀕死の水蛇のように泳いで消えた。
「俺も、……くだらない」
からくり人形の動きで、白い顔が、大粒の眼球が、立ち尽くす黒木へと向けられる。
「君は」
底なしの暗い瞳孔が、彼を射抜いた。
「君は馬鹿だ」
それだけ言うと、由比は歩き出した。
薄い背中が十一月の夕闇の波間に溶けていくのを、黒木はただ見つめていた。
耳障りな機械音で、彼を目覚めさせようとしている。
意識はもう、水面のすぐ下まで浮上している。
瞼を開けば、また一日が始まるだろう。新しい一日。まだ誰にも汚されていない一日。
けれど浅い眠りの中、ふと彼は疑問を覚える。
自分はそれを、かつて一度でも望んだことがあっただろうか。
一日が始まってしまうことを。この人生が続いてしまうことを。
電話が、鳴っている。
「――母さん」
カーテンが引かれた薄暗い室内。ベッドに横たわったまま、彼は携帯電話を耳に当てた。
『誓。今、大丈夫?』
聞こえてきた母親の声は、張りつめて、怯えたように震えている。
彼は枕元に目をやり、淡い闇の中、時計の針を読んだ。午前四時十分。間違いなく、悪い知らせだ。
「どうしたの」
唾を飲む音が、微かに聞こえた。押し殺した声がそれに続く。
『義隆さん、東京出張中に行方不明になりよったって……もう三日も前から』
彼は中指を握った。大量の着信が蘇る。最近の姉の常軌を逸した行動は、義兄が失踪したせいだったのだろう。そして恐らく姉は自分を疑っている。だからこうして母親に電話をかけさせている。
「姉さんに何を言われたか知らないけど、俺は関わってないよ」
『誓……』
「義兄さんの会社には?」
『……暫く休むって、義隆さん本人から連絡が』
「じゃあ、仕方ないね」
電話の向こうに沈黙が広がる。彼には決して手の届かない、底のない冷たい空白として。
けれど沈黙は沈黙でしかない。空白の深さを測ることに意味はない。
「こっちにも、姉さんから電話があったよ」
灰色の視界を瞼で塞ぎ、彼は呟いた。目を閉じても、闇の濃度はほとんど変わらなかった。このままじっと目を塞いでいれば、何も始まらなかったことにできそうな気がした。
「……でも、何を言っているのか、俺には全然解らなかった」
姉の言葉を聞き取れなかったのは、本当に彼女の不明瞭な涙声のせいなのだろうか。彼女の訴えを理解できなかった原因は、自分の方にあるのではないのか。判断することなど、もうできなかった。
色々なものが、綻びつつある。
「父さんは?」
『……お父さんは……まだ、寝とう』
「……そう」
彼は自分のためにだけ肯いた。
「とりあえず、義兄さんの件について何かわかったら、俺から連絡を――」
言いかけた言葉は、しかし、喉の奥に沈んだ。小さな機械の先の、静寂の奥に耳を澄ませる。きっとこれは、耳鳴りではない。
『誓?』
――母親のほかに、もう一人いる。
「ねえ、母さんは今、何処にいるの?」
突然、電話は切れた。
ディスプレイを暫く眺めてから、彼は携帯電話を閉じた。そしてベッドから身体を起こす。床へと静かに素足を下ろす。
カーテンを開くと、日の出前の街が広がる。ガラスの向こうは、まだ濃い藍色の闇に包まれている。沈黙する街に、間引きされた電灯とコンビニエンスストアの光が、冷えた精液の残滓のように散っている。
その目はもう星を探すことも、月を求めることもしない。代わりに彼は何か言おうと思う。自分のためだけの言葉を口にしようと思う。
唇が上下し、喉が震える。けれどこの小さな檻の中で初めて紡いだ独り言は、彼の耳にさえ意味を成しはしなかった。
緩やかに温度を失っていく異邦人のパロール。
ローテーブルの上には、閉じたノートパソコンと、一冊の本。
刑事の溜め息が、鼓膜に引っかかって耳障りな音を立てた。通された部屋は狭く、相手の呼気が室内に溜まっていくさまが目視できそうなほどだった。
「――またですか」
呆れたような相手の呟きを、由比は警察署の薄汚れた壁を見つめたまま聞いている。歪んだパイプ椅子のせいなのか、地盤が傾いているのか、視界が僅かに傾斜しているように感じられる。
「確か昨日は電柱に張り紙で、一昨日はアパートの前で車の中に押し込まれそうになり、一昨昨日は大学で襲われかけた、でしたっけ」
本当は耳を塞いでしまいたい。けれどそんなことをしても、何の解決にもならない。
今朝、部屋のドアを開けると、目の前に白っぽい液体の詰まったコンドームが三つほど転がっていた。ドアを見ると、やはり何らかの液体がかけられたような痕があった。昨日はアパートから駅にかけて、十本以上の電柱に張り紙があった。文面はいつもと変わらない。『由比誓は淫売だ』。ただ、今回はその下に由比の住所がつけ加えられていた。そして一昨日は……もう、数えても仕方がない。
オートロックであるということを考えると、今朝の嫌がらせはアパートの住人によるものという可能性が高かった。しかし完全に外部の人間が入り込めないわけではない。またエントランスの防犯カメラの映像を確認することになるのだろう。
けれど映像を見るまでもなく、彼には分かっていた。加害者はアパートの外にも中にも存在するのだということ。まるで空気のように悪意が自分を取り巻いていること。そしてその悪意が間断なく増殖し続けているということ。恐らくもう、誰にも止められないのだということ。
あの浅黒い指が、忌まわしいテクストが、音もなく引き金を引いたのだ。
そして、何もかもが歪み始めた。
「鹿島冴子は?」
「ええ、あのあと事情を聞きました。自分はやっていない、関係ない、とのことです。確かに映像の女性と似ていないことはありませんが、しかし現段階でこれ以上は」
本当に捜査しているんですか、捜査する気があるんですか。そんな言葉を、彼は飲み込んだ。刑事に噛みついたところで、相手の心証を害するだけだ。そうなるとますます立場が不利になる。もうこれ以上不利になることなど、ないのかもしれないが。
「状況から見てこの一連の嫌がらせは、同一犯による犯行ではなく、互いに無関係な複数の人間による同時多発的な犯行のように思われます。そんなことはありえないと言いたいところですが、動画が流出してから劇的に被害が増加したことを踏まえると、完全にないとは言い切れません。とにかく、これまでトラブルがあった人間を、もう一度洗い出してみましょう。凄まじい量になりそうですが」
由比は黙って壁を見つめ続けた。その名を口にすべきなのか。それとも一人で戦い抜くべきなのか。
どちらが正しい判断なのか。
どちらが有利な賭けなのか。
もしも間違えてしまったら、自分はいったいどうなるのか。
「……添嶋、秋長」
それは不自然にか細い声だった。
刑事は小さく首を傾げ、添嶋、と繰り返した。
「もしかして、作家の?」
由比は肯いた。呼吸が若干浅くなり、背中に冷たい汗が滲む。
「先月、添嶋から対談を申し入れられました。なんでも、以前私が発表した彼の作品についての論文に反駁したいとかで……それで、実際に会って話を」
「そこでトラブルが?」
そうだ。そこから全てが狂い始めた。――いや。
もしかしたら、その前から狂っていたのかもしれない。
「何があったんですか」
「何が……」
彼はホテルでの記憶を辿ろうとした。手を伸ばし、必死で掴み取ろうとした。だが手探りで掴んだ糸は、手繰る前にぷつりと切れた。
「由比さん?」
彼は開いた掌を見下ろした。右の中指が、微かに震えていた。
「……事件のあと田宮が私を襲おうとしたときも、添嶋が現れました」
言葉を紡がなければならない。もしここがあの男のテクストなら、沈黙は敗北に直結する。
――ここがあの男のテクストなら?
駄目だ、呑まれている。これは俺のテクストだ。俺だけの地獄だ。
だから誰にも触れさせはしない。
「少なくとも田宮の件に関しては、黒幕はあの男です。それにきっと高校の事件も……動画の流出も一連の嫌がらせも、たぶんあの男が裏で……」
自身の掌に目を落としたまま必死になって言葉を並べていると、不意にぬめった何かに気づいた。彼は反射的に身を引いた。それは視線だった。ヘドロのような眼差しが、彼を捉えていた。
刑事の顔が、歪んでいく。
「――由比さん。添嶋との間に何があったか、具体的に教えてください」
辛うじて声だけは聞き取れる。だが、顔はもう識別できなかった。
「……テ、テクストを……小説を読めば、解るはずです……あの小説に全てが書かれていると、本人も……そう、言っていましたし……」
「だったら、それがどういう小説なのか教えてください」
由比は頭の中で本を開いた。しかしページは白紙だった。いくらめくっても、言葉は一つもなかった。
「由比さん、あなたは少し疲れているようですね」
刑事の言葉が、与えられたシナリオをなぞるように打ち出されていく。
「こう言っては失礼かもしれませんが、あなたはただの学生ですよ。そんな人間に作品をどうこう言われたくらいで、小説家が逆恨みなどするわけがないじゃありませんか。ましてやそんな大がかりな復讐などするわけがない」
「あの男は研究者です。本名は柄島永明、日本では八十年代頃に流行したテクスト論を復権させようとしている人間で、テクストを……テクスト……」
何かが符合しようとしている。
「テクスト……引用の織物……作者の死……溺死者……」
けれど掴めない。嵌め込むことができない。
「残念ですが、そういう話は大学でなさってください」
言葉が届かない。他人にも、自分自身にさえも。
温度のない指で、蝋のような自身の指先を握り締める。
もしこの世に言葉がなければ、こんな思いをせずに済んだのだろうか。
「おい、まだやってんのか」
声と共に、ノックもなくドアが開いた。
由比は首を僅かに声の方へ向けた。しかし闖入者の顔を見ることはできなかった。目の前で、恐らく刑事が――もう顔が判らない――何か低く呟く。しかし彼には聞き取れない。もしかしたら耳鳴りかもしれない。
「代われよ。お前まで妙な目つきになりやがって。ミイラ取りがミイラになってどうする」
がたがたと物音が続く。どうやら席を替わったらしい。目を見開いて俯く由比のすぐ前方で、ぎしりとパイプ椅子の軋む音がする。視界の上端に、身を乗り出す闖入者の組んだ指が侵入する。ずんぐりとした指先に、縦に筋の入った短い爪。
男の指。
「もうさ、正直に言ってごらんよ。本当は全部、あんたが仕向けたんじゃないの」
それらはいつも奇妙な角度で曲がっている。いつも血と精液の匂いをこびりつかせている。そしていつも彼を傷つけようとする。だから。
「だいたいね、あんた男だろう。どんなエロい美女だって、こんな馬鹿みたいに頻繁に強姦されたりしないよ。いったい何を隠してる?」
だから男の指は、嫌いだ。
「加害者が……加害者が、犯行を認めているのに……それでも私を疑うんですか」
「確かに朝倉もガキ共も、とりあえずは認めたな。認めてないのは、まだ逃げ回ってる田宮とその愉快な仲間たちだけだ」
奇怪な指は異様なほど視界に迫り、今にも彼を抉ろうとせんばかりなのに、相手の声はひどく遠い。
「だけどどうだろうねえ。俺は長いことこの仕事をやってるが、その刑事の勘ってのが言ってるんだ。由比誓って男は信用できない、とね」
もう、駄目なのだろうか。
「あんたの声、あんたの目、あんたの表情、あんたの仕種、何もかもが嘘つきのそれだ」
駄目だろう。
この世に言葉があり、言葉がこの世を作る限り。
「嘘……」
――あなたは自分に嘘をついている。
『あるいはそれが嘘だということにさえ、気づいていないのかもしれない』
虚構は。
『たかがセックスだと思わなければ、あなたはきっと――』
虚構はそう、言葉の中にだけ。
言葉がなければ、虚構はない。世界もない。もちろん、テクストも。
沈黙。
「由比さん」
肩を掴まれる。よじれた顔が視界を塞ぐ。
「今日は午後から研究会の司会があるとおっしゃっていましたね。もう結構です。どうかお気をつけて。これ以上――」
そこでいったん言葉を切り、目の前の誰かは顔の筋肉をぴくぴくと動かした。唇が捲れて、鋭い犬歯の先端が白く光る。
「――これ以上、哀れな加害者を増やさないように」
ここにも、悪意しかない。
研究会の会場に指定されていたのは、文学部の講義棟にある比較的大きな教室の一つだった。
土曜日ということもあり、キャンパス内にも講義棟にも、一般の学生の姿は少なかった。階段を上りながら彼は腕時計に目を落とした。時刻は午後一時十分だった。警察署に寄ったせいで到着がかなり遅れてしまったが、問題はなさそうだった。
彼に任されたのは、午後の発表の司会だった。総合司会は別にいるため、由比の仕事は発表者を紹介し、時間内に収まるよう質疑応答を円滑に進めること、ただそれだけである。午後の部は一時半からとなっている。午前の部には出られなかったが、別に構わなかった。どうせたいした発表ではない。それに今の彼には、何かに集中することがひどく困難だった。
会場に入ると、既にほとんどの参加者が昼休憩から戻ってきていた。小規模の研究会のはずなのだが、席はかなり埋まっている。彼が前方に据えられた司会席につくと、周囲のざわめきがぴたりとやんだ。奇妙な静寂の帳が落ちる。しかし彼は気づかぬふりをして、卓上の資料に視線を落とした。
「由比君」
眺めていた文字列の上に、不意に影が差した。僅かに顔を上げると、男物のスーツが目に入る。乾いた声が鼓膜を引っ掻く。
「由比君。研究会のあと、五〇一番演習室に来るように」
池内なのだろう。恐らく。
「でも先生、懇親会は?」
「私は出ない。君も出ない」
かさかさと、身体の奥で音がした。
「すみません。体調が悪いので、司会が終わったら今日は帰ります。話があるのでしたら、メールかあるいは日を改めて……」
「君は研究会のあと、五〇一番演習室に来るんだ」
「……」
心臓の裏側を、名前のない虫が這っている。乾いた足と細い触角をかさかさと動かして、彼の鼓動を窺っている。心臓ごと握り潰せてしまえたら、きっと楽になれるのだろう。
由比は唇を噛み、右の中指を握り締めた。
「私は行きません」
そう言い切って、資料に視線を戻そうとした。そのときだった。
「――『溺死者の回顧録』」
突然、空気が消えてしまった。
「君にはまだ、あれが理解できないようだな」
由比は口を開いた。しかしいくら息を吸おうとしても、彼の生命に役立ちそうなものは何一つ舌に触れなかった。
空気のない空間で、言葉だけがずるりと彼の体内に侵入する。
「あれは、君のイストワールだ」
それは大気を振動させて生み出された声ではなく、誰かによって予め織られていたテクストの、その無残な一断片だった。
「真実が知りたければ、来るように」
彼は宙を見つめた。遠ざかる足音は、耳鳴りに紛れて聞こえなかった。
心が壊れてしまいそうだ。
会場の硬い椅子に腰を下ろし、黒木は司会席を見つめていた。
今日ここに来るかどうか、朝までずっと迷っていた。由比が司会の代打をするという話は、別の発表者の司会を担当する先輩から聞いていた。会って話をすればきっと、自分と彼との関係が終わる。そもそも口をきいてもらうことすら叶わないかもしれない。それでもこうして会場に足を運んだのは、遠くからでも構わない、彼の顔を見たかったからだ。退院したという話を人づてに聞いてから、まだ一度もその姿を見ていなかった。
『由比のやつ、この前、図書館にいたらしい。座って啄木を読んでたってさ。確かにあいつ、二月の研究会で啄木論を発表することになってはいたけど、しかしあんなことがあってもまだ研究か。いったいどういう神経をしているんだろうな』
事務補助の院生が、そんなことを言っていた。
学部生、院生、教員。決して大声で話しはしないが、しかし誰もが由比の事件のことを知っていた。SNS経由で情報が爆発的に拡散される時代だ、避けられないことではある。そして動画はURLを変えながら、今も情報の海の中に存在し続けていた。一人が消せば、三人が複製を投稿する。その繰り返し。ポスト複製技術時代の哀れなポルノビデオは、あと何十年、何百年すれば、この世界から完全に抹消されるのだろうか。
あたりは静まり返っていた。人々は司会席に座る男を凝視している。怪物を見る瞳で。あるいは獣の眼球で。
当の由比は、何も気にしていない様子で資料を読んでいた。無機質なほど整った顔立ち、血の気のない肌の色、細く真っ直ぐな身体の線、全てが以前と全く同じだった。まるで何事もなかったかのような、ただひたすら完璧な姿に、黒木の心臓は冷たくなった。
やはりあの男は、ただの化け物なのだろうか。
しかしその完璧な姿には、うっすらとではあるが小さな破綻の気配に似たものがあった。何だろう、と黒木は目を凝らした。そして息を呑んだ。
中指だ。
由比の右手の中指が、微かに痙攣している。
黒木は思わず瞼を下ろした。
そのささやかな癖を、黒木は知っていた。苛立ったとき、不安なとき、感情が昂ったとき、いつもあの細い指は、持ち主の心の揺らぎを静かに訴えていた。
そうだ、由比には感情がある。たとえ無情な化け物であったとしても、その身体には血が流れ、胸には心が宿っている。どうしてそのことを忘れてしまっていたのだろう。
彼は思う。今すぐ駆け寄って、その手を握って駆け出して、由比の過去も自らの将来も何もかも全て切り落として捨て去って、そうして何処か遠くへ行ってしまいたい。
誰も由比誓を知らない、遠い、遠い場所へ。
動け、と黒木は思った。動け。立て。立ってあの男のところへ行くのだ。今すぐに。そしてあの閉じた地獄から救い出すのだ。
膝の上で、拳が震えた。肩が怒り、掠れた吐息が漏れる。
食いしばった歯が、ぎしりと音を立てた。
動けなかった。
「――では時間になりましたので、午後の部を開始したいと思います」
総合司会の事務的なアナウンスが、無力な彼を嘲笑うかのように会場に響く。一人の男が緊張の面持ちで登壇する。すると由比がマイクを手に取った。滑らかな声が、まるで清水のように淀んだ空間に広がる。
「発表者の西山輝巳さんについて司会から簡単にご紹介します。西山さんはK大学文学部をご卒業後、M大学文学研究科修士課程に入学し――」
動けるわけが、なかった。
由比誓が由比誓である限り、その本質が変わらない限り、何処へ行こうと何も変わらない。待っているのは終わりなき反復だ。たとえ黒木が動いたところで、そのテクストが書き換えられることはない。
「――ご専門は小説の映画化、特に明治期の小説とその映像化作品における差異ということで、主な業績としては『近現代文芸』二〇××年七月号掲載の……」
漸く黒木は悟った。
もし本当に救おうとするのなら、殺さねばならないのだ。
「……エトランジェ……」
太陽が眩しくて引き金を引いた男。死刑宣告を受けたその首には、しかし、縄が巻きつくことはなかった。男が絞首台に上る前に物語は終わった。だからテクストの中で、異邦人は永遠に生き続ける、永久に自由であり続ける、常しえに祝福され続ける。
「……『可哀想な僕のエトランジェ』……」
果たして自分に殺せるだろうか。
あの冷たい化け物を。由比誓という、異邦人を。
研究会は異様な雰囲気に包まれつつも、しかし順調に進んだ。発表と質疑応答が終わると、発表者は降壇した。それと同時に由比も司会席を離れ、空席の一つに腰を下ろした。すぐに次の発表者が壇上に立ち、次の司会者がその紹介を行う。そうやって予定されていた発表が全て終了し、最後に磯谷喬――以前由比を絶賛していたW大名誉教授だ――が講演をした。誰もが話すことに、あるいは聴くことに対し、熱心であろうとしていた。だがそれに成功している人間がどのくらいいるのか、黒木には分からなかった。
閉会の辞が述べられて、研究会はお開きとなった。黒木は最後に由比の顔を見てから帰ろうと考え、学生による撤収作業の始まった会場内を見回した。黒っぽいスーツに覆われた痩身は、さして苦労することなくすぐに見つかった。
由比は鞄とコートを左腕に抱え、さっきまで自身が座っていた席の前に佇んでいた。その姿は何事かを一心に考えているようでもあり、また何も考えていないようでもあった。だらりと垂れた右の中指は、神経が切れたかのように動かなかった。
嫌な予感がした。
会場の片づけが終わっても、由比は同じ姿勢のまま立っていた。誰もが彼に視線を向けるが、しかし声をかける者はいない。最終的に会場には、由比と黒木の二人だけが残された。
やがて由比はゆっくりと歩き始めた。信じられないことに、黒木の存在には気づいていないようだった。重い足取りで会場を出て、階段に向かう。帰宅するのであれば下りるはずのステップを、しかし由比は上っていった。黒木は一瞬逡巡したのち、そのあとを追った。
連絡通路を抜けて、由比は研究棟の五階の廊下を進んでいた。研究室が並ぶそこは、いつもと異なり人気がなく、いやにひっそりとしている。いったい何処へ行くのだろう。彼が廊下の途中で立ち止まって注視していると、由比は一つのドアの前で足を止めた。のろのろと手を上げ、ドアをノックする。するとすぐにドアが開いた。男のものと思われる手が部屋の中から伸びてきて、由比の腕を掴み、中へ引きずり込む。コートと鞄が、由比の手から離れ廊下に落下した。
気づくと黒木は走っていた。閉じたばかりのドアの前に行き、乱暴にドアノブを回す。しかしドアは開かなかった。研究棟の演習室は講義棟の通常教室とは異なり、使用申請した者には鍵が渡され、施錠が可能だ。
だから彼は狂ったようにドアを殴った。
「開けろ! そこで何をしているか、こっちには全部分かっている!」
中からは声一つ聞こえなかった。それでも黒木はドアを叩き、怒鳴り続けた。
「開けないと警察を呼ぶ! そうしたらあんたら全員終わりだぞ!」
すると、かちりという音がした。ノブが回り、ドアが開く。
そこに立っていたのは池内だった。
「何を騒いでいるんだ、黒木」
黒木は返事をせず、池内を押しのけて部屋の中を見た。室内には男が十人近くいた。そしてその輪の中に、由比がいた。シャツのボタンがいくつか弾け飛んだようで、はだけたところから細い鎖骨が剥き出しになっていた。床にはさっきまで彼が身につけていたはずのスーツの上着とネクタイとが、奇妙によじれた形で放り出されている。うずくまった由比は、表情のない顔を黒木に向けた。唇の端には、赤いものが滲んでいた。それは血だった。
「お前も参加したいのか。まあ一人くらい増えても問題ないだろう。なあ、由比?」
由比は返事をしなかった。そして黒木も返事を待つつもりはなかった。彼は静かに深呼吸した。それから拳を握ると、渾身の力で池内を殴り飛ばした。
「ふざけるな……!」
たとえ室内の男たちにリンチにされても構わないと思った。ただ絶対に由比だけは逃がそうと思った。しかし男たちは倒れた池内を目にすると、怯えたように後ずさりした。よく見ると、その誰もがついさっきまで研究会に出席していた中高年の研究者たちだった。中には磯谷までいた。
反吐が出る、と黒木は思った。
彼は落ちていた上着を拾った。うずくまったままの男にそっと着せようとすると、由比は黒木の手からそれを取り、自ら羽織った。ひどく落ち着いた様子だった。上着を着た由比は、ネクタイを掴むと立ち上がった。男たちにも池内にも、黒木にさえも目を向けず、開いたままのドアから部屋の外に出る。それから廊下に落ちていたコートと鞄を拾い上げ、しっかりした足取りで元来た道を引き返していく。
「由比さん」
黒木はその後ろ姿を追いかけ、名前を呼んだ。しかし由比は何も言わず、振り返りもしなかった。黙って歩き続ける由比に追いつき並んだ黒木は、しかしいったいどんな言葉ならその凍った瞳を自分に向けさせることができるのか、全く分からなかった。
「アパートまで送りますよ。タクシーを拾うので、待っていてください」
正門を出て道路に出たとき初めて、黒木はまともな言葉を発した。すると由比の足がぴたりと動きを止めた。
「くだらない」
小さく呟く声がした。
「みんな、何もかも」
白い唇が動いていた。オルゴールのように単調な声が、かちかちと弾き出されていく。
「全部、くだらない」
一陣の風が吹き、艶やかな髪が揺れた。ネクタイの端が、白い指の間から逃げたがってもがく。由比は躊躇いを見せずに指を解いた。細い布の切れ端は、日の暮れた街の中を瀕死の水蛇のように泳いで消えた。
「俺も、……くだらない」
からくり人形の動きで、白い顔が、大粒の眼球が、立ち尽くす黒木へと向けられる。
「君は」
底なしの暗い瞳孔が、彼を射抜いた。
「君は馬鹿だ」
それだけ言うと、由比は歩き出した。
薄い背中が十一月の夕闇の波間に溶けていくのを、黒木はただ見つめていた。
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