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第二十四章 失錯
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由比の言葉に、黒木は顔を上げた。それは今にも亀裂が入りそうなほど強張っている。促されてパイプ椅子を引き寄せる動作も、いくらかぎこちない。
相手が口を開く前に、由比は切り出した。
「『溺死者の回顧録』、君は読んだ?」
予期しない問いだったのだろう、黒木の表情から一瞬翳りが消える。
「添嶋秋長の、ですか?」
彼が肯くと、黒木は記憶を辿るように宙に視線を這わせた。
「ええと、最初の方は普通に読みました。でも途中から斜め読みだったので、きちんと読んだとはいえません」
「構わないよ。どう思った?」
「とにかく長いですね。今までの添嶋作品は、かなりきっちり構成されていたと思いますが、これは全く違う……まるで思いつくままに書き散らしたみたいだ。それが計算されたものなのかどうかは、俺には判りませんけど、あれだけ長いのにストーリーらしいストーリーもないし、そういう意味では前衛的な作品かな、と」
「解るよ。それは解る」
そんなことはどうでもいい。聞きたいのは別のことだ。もっと別の――。
「内容については? あれはどういう話だと思う?」
けれど黒木は当惑したように眉を顰め、内容も何もないですよ、と言う。
「書いてあるとおり、あのままです」
「あのまま……」
由比はシーツの表面を見つめて復唱した。
視界が思考から、あるいは思考が視界から、緩やかに遠のいていく気配。
忘れていた耳鳴りが、また始まる予感がする。
「……池内先生にもあれをどう思うか訊いたんだ。でもあまり参考にはならなかった。……そうだ、そういえばあのとき先生は一つだけ、よくわからないことを言っていたな……」
「何ですか」
由比は束の間逡巡した。
「先生はあの小説が――」
そこまで言いかけて、彼は頭を振った。そして額にかかる髪を苛々と掻き上げる。いったい自分は何を考えているのだろう。
「いや、いい。何でもない。関係ない。テクスト論者にとって、作者は死んだ存在のはずだ」
「あの男? 添嶋のことですか?」
そうだ、これは妄想だ。
しかし、と彼は思う。自分は間違えているのかもしれない。肝心なのは、それが「誰の」妄想かということなのかもしれない……。
「そういえば、『溺死者の回顧録』の語り手は、確か作家って設定でしたよね」
黙って考え込んでいる彼の傍らで、黒木が思い出したように話し始める。
「作中で執筆されている小説がそのまま作品になる……典型的というか、古典的なメタフィクションです」
由比は、もういい、と呟いた。もういいよ、もういい。
「あれは三流作家が書いた駄作だ。それで終わりだ」
言い放って、シーツの上の中指を見つめる。
何にもならないと解っているのに、馬鹿なことを訊いた。池内も黒木も役に立つわけがない。他人になど期待すべきではない。これは戦いなのだ。今までそうしてきたように、全て自力で乗り越えねばならない。別にたいしたことではない。ここまで仕掛けられた罠は全て、どれも自分がいつもどおりの自分であれば乗り切れる程度のものだ。けれど少しでもいつもの自分を見失ってしまうと、そしてそれが重なってしまうと、自分は恐らくあるべき自分を、「由比誓」という聖域を――
不意に彼は軽い眩暈を覚えた。
同じようなエクリチュールを、何処かで目にした覚えがある。
「由比さん?」
視線を向けると気遣わしげな視線にぶつかる。注がれるひたすら真摯なだけの眼差しが、心をざらつかせる。何を勘違いしたのか、疲れているんですよ、と黒木は呟いた。
「少し休んだ方がいいです。……あ、そうだ。急いでいたからこんなものしか買ってこられなかったんですけど、もしよかったら」
差し出されたのはチョコレートだった。戸惑って焦げ茶色の包装紙を見ていると、黒木は小さく笑った。
「前に、板チョコを買ってきてほしいって言いましたよね。――俺があなたのところに初めて泊まった夜です」
馬鹿みたいだ、と由比は思う。
あのときはただ、あの封蝋じみた滑らかな欠片をふと割りたくなっただけなのだ。甘いものを食べたいと思ったことは一度もない。いや、何かを食べたいと思ったこと自体、一度もない。
由比がなかなか受け取ろうとしないので、黒木はチョコレートをサイドテーブルに置いた。
「ここに置いておくので、気が向いたときに食べてください」
彼が黙っていると、筋肉質な腕が伸びてきて、そっとシーツの乱れを直す。少し疲れた顔で、それでも穏やかにこちらを見つめる目。その目が、由比には耐えられなかった。
「初めに言っておくべきだったな」
考える前に声が出ていた。恐ろしく冷淡な声だった。
「わざわざ来てくれたのに悪いけど、さすがの俺でも病室でセックスはできないよ」
黒木の手が止まった。
数秒か数十秒、沈黙がその場の空気を停滞させる。
「由比さんは、俺がここへセックスをしに来たと思っているんですか?」
それは静かな声だった。
「暴行されて入院している人に、自分の性欲をぶつけに来たと? 俺のことをそういう人間だと思っているんですか?」
だが、何かを無理やり抑えつけているような、不穏なうねりが底の方に感じられる。
由比はふいと目を逸らした。そうして病室の何もない白い壁を見つめて答える。
「違うっていうのか。訳の解らない御託を並べながら、君は結局いつだって俺とセックスするじゃないか」
「……本気で言っているんですか」
彼は壁に視線を留めたまま肯定した。
「本気だ」
「由比さん」
強く手首を掴まれて、仕方なしに黒木の方を見る。そして相手の目から労わるような色が消えたことに、僅かな安堵を覚える。その目が湛えているのは怒りだ。そういう眼差しを向けられることには慣れているからよく分かる。よく分かるから不安もない。
「何度言えば解るんですか。俺は、由比さんが好きなんです。好きな人が酷い目に遭ったら会いに行くのが普通でしょう」
「普通? 何が普通だ?」
怒りをぶつけられたなら、それと同等の質量の冷酷さでもって相手と対峙すればいい。
「そっちこそ何度言えば解るんだろうな。恋愛感情なんてどうせ性欲を綺麗に言い換えただけのものだろう。俺にはそういうものは理解できないって言ったはずだ」
尋常かそうでないか、そうやって根拠の不明な線引きをして、自らとは異質なものを異常だと見なし否定することは一種の暴力であると、この二十一世紀を生きる人間がどうして気づけないのか。
「理解できないのは知っています」
黒木の声が僅かに揺れた。暗い水面に風が吹いたように。あるいは海底で訳の解らない何かが蠢き始めたように。
「でもだからといって、俺のあなたへの気持ちを貶めるようなことは言わないでほしい」
「貶める? 恋愛感情と性欲を同一視することが?」
由比は失笑した。
「そうだね、君にとって性欲は下卑たものだった。だったら、それなのによく俺とセックスができるね。ああ、自分より年長で優秀な人間に下卑た真似をして肉体を支配するっていうのが、君にとっては快楽になるのかな」
「戯れ言はやめてください」
「俺はふざけているつもりなんてない。何処までも果てしなく揺るぎなく本気だよ」
「そういうのが戯れ言だって言ってるんです」
激しい怒気を孕んだ口調だった。吐き出される言葉の内部には、見覚えのある激情が充満している。それは由比の持ち合わせていないものだ。由比には理解できないものだ。ただ見ているほかないものだ。
どうしてだろう。
どうしていつもこうなるのだろう。
いつだって、と黒木は言う。
「いつだってそうだ。由比さんが口にする言葉は由比さんに似ている。空虚で不実だ。自分が真面目じゃないから、相手も真面目じゃないと考えている。だから何も通じない。誰もあなたの言葉を信じない。誰もあなたの言葉を理解しない」
由比は目を見開いた。
黒木が発した言葉なのに、それは黒木の言葉のようには聞こえなかった。
「信じない……理解しない……」
――誰も君のことを信じないよ、誓。
――誰も君の言葉を理解しないよ、誓。
――本当はもうそのことに気づいているんだろう、誓。
何故黒木があの男と同じことを言うのだろう?
まるであの男のテクストをなぞるように。あるいは引用するように。
「その台詞は、いったい誰から……」
言いかけた言葉は、しかし切断されて宙に漂う。
判るはずがない。テクストは引用の織物である。自分自身の発した言葉ですら、誰のものであるのか特定することなどできはしないのだから。
「由比さん? あの、どうしたんですか」
由比は自らの手首を捕らえる手を見下ろした。それから無防備なまま晒されている自身の指を見た。中指が不毛な計器のように細かく振れ始めていた。
言葉が。
言葉が、必要だ。
「『もし私の命が真面目なものなら』……」
切り落としてしまいたい。指も、目の前にいるこの男も。
「……『私の今いった事も真面目です』」
口にしてから彼は不安に襲われる。テクストをそのまま引用するということは、最早自身のテクストを織る力を失っていることの証明になりはしないだろうか。
だから彼は続ける。懸命に言葉を縒る。
「漱石の……『こゝろ』の言葉だ」
自力で言葉を組み立てなければならない。独自のテクストを構成しなくてはならない。そうしなければきっと、最後の拠り所すら喪失してしまう。だから彼は言葉を織り上げていく。
「あれはいいね。テクストの構造は再三指摘されているとおりいびつだけど、だからこそ多くの人間が魅入られる。小説は論文じゃないからね、無疵であることにさほど価値はない。むしろ綺麗にできあがりすぎたものは時として退屈だ。でも俺のテクストは……」
テクスト、テクスト、テクスト。
気づけばまるで馬鹿の一つ覚えみたいにその単語を繰り返している。時代遅れと笑ったはずが、いつの間に憑かれたのか。
「……俺の論文は、いつだって無疵だ。俺の人生と同じように」
由比誓という人生は完璧なのだ。そこには髪の毛一筋ほどの瑕疵もない。
「俺や俺の発する言葉は不実で空虚で理解不能で不真面目だと、君にはそう映るのかもしれない。もしかしたら、俺を知る他のあらゆる人間もそう思っているのかもしれない。そしてそうであったとしても、仕方のないことだと俺は思う。人間は誰も真に他人と解り合うことができない。自分自身のことですら完全に理解することは能わないのだから、それは当然のことだ」
でもね、と由比は続ける。でもね、だとしてもだ。
「俺はいつも真面目だ。そうでなければ生き残れない。君が俺の命を貶めることを、俺は許されない」
黒木は無言だった。由比もまた黙って黒木の顔を眺めた。怒っているのか呆れているのか、全く何も感じていないのか、相手の浮かべている表情からは欠片ほども読み取ることができない。
文字になっていないものは、と彼は思う。
文字になっていないものは、どうしても上手く掴めない。
やがて、黒木は深く息を吐いた。それからゆっくりと空気を吸い込む。そうして紡がれたのは、耳が痛くなるほど凪いだ声だった。
「解りました。じゃあ俺も真面目に、本気で話します」
視線で射抜こうとでもするかのように、感情の読めない眼差しが真っ直ぐに由比へと注がれる。
「あなたは間違っています。強姦も和姦も本質的に同じだなんてありえない。セックスというのはあなたが思うほど軽いものじゃないし、そしてあなたの身体も、そんなふうに安易に他人に投げ出されるべきものではありません」
「……安易。君は俺が安易に他人と寝ていると言うのか」
「安易です」
強い口調で問い返しても、黒木は引かなかった。
「由比さん、あなたは以前、自分の身を守るために男と寝ると言いました。そこに至るまでにはきっと、あなたにしか解らない葛藤や苦悩があったんだと思います。でも、やっぱりそれは安易です。あなたはもっと自分を大切にすべきです。セックスは、自分が本当に繋がりたいと思う相手とだけしてください。もしあなたにとって俺がそういう相手ではないのだとしたら、俺ともセックスはしないでください」
安っぽい言葉だ。どうしてこの男はこんなにも愚かしいことばかり口にするのだろう。
「君の貞操観念なんて俺の知ったことじゃない。いいか、俺と君は他人だ。だから当然見える景色が違う。聞こえる音が違う。自分にとって正しいことが他人にとっても正しいのだと考える、そんな思考こそ安易だよ」
「人それぞれ考え方が違うのは当たり前です」
煽るような由比の発言に、だが、黒木は声の調子を変えずに続ける。
「でもこの件に関しては、俺は間違っていません。絶対に」
「だったら根拠は何だ?」
由比は掌を握り締めた。苛々する。
「いや、聞かなくても解るよ。要するに倫理的問題、一般論、つまりは『制度』なんだろう? 言うまでもないことだけどね、そういう制度ってものは社会が社会を維持するために人間に強制したものなんだよ。もちろん強制されている側はそれが強制されたものだとは気づかない。それが『普通』だ、そういうものなんだって信じてる。家父長制、男性中心社会を維持するために、異性愛なるものが強制されている――そういえば強制的異性愛なんて概念もあるね――というのであるなら、セックスにまつわる倫理だって同じなんじゃないか。誰もが俺みたいに不特定多数の人間と『安易に』セックスしていたら、血縁とか家とかいうものの社会的意味合いは百八十度変わるはずだ。誰の子か判らない子供が世の中に溢れるわけだからね、結婚という制度もほとんど意味をなさなくなるか、あるいはその意味を大きく変えることになるだろう。そして社会とはすなわち関係性だ。人と人との繋がりの意味が変われば、社会制度も変わらなければならない。きっと現行の諸々はことごとく崩壊するだろう。現に、結婚や出産や家のありかたは少しずつ多様化しつつある。でもそれはまだ始まったばかりだ。世間は未だに家父長制時代の名残の思考回路を切断しきれていない。そして黒木君、君もその世間を構成する一人だ。要するに君はこの社会を維持するために強制された思考の枠組みで物事を捉えている。もちろんそういう部分は俺にだってある。というか大部分がそうだろう。万物を相対的に捉える視点なんて俺にはないし、そしてたぶん誰もそんなものは持っていない。だから別に君だけを非難したり批判したりするつもりはないよ。だけどね、俺がこのあまりに強大かつ堅固な社会の強制から幸か不幸か先天的かつ個人的に逃れたものを、制度に盲目的に集団的に絡め取られている側の人間から押しつけられるのは、はっきりいって迷惑なんてレベルではなく不愉快だ。君は今が西暦何年だと思ってる? 絶対的な倫理を信奉するなんて――それもよりによって貞操観念か――時代錯誤もいいところだな」
ひたすら言葉を積み重ねた。
まるで要塞を築くように。
誰もここには入れない。誰もここに入れてはならない。
ここは、聖域なのだから。
けれど静かな声が、積み上げた言葉の隙間から侵入する。
「もし本当に、その制度から逃れているのだとしたら――」
自分は間違ってしまったのだろうか。
「――どうしてあなたは苦しんでいるんですか」
由比は唇を動かそうとした。だが、それは何故か膠で固められたかのように動かなかった。
黒木は全く表情を変えないまま、ただ由比を見つめて言った。
「最初は本当に何も感じていないんだと思っていました」
握られたままの手首は、もう感覚がない。
「でも傍にいるうちに、解ってきた。あなたは由比誓という悲惨な人生を生き延びるために、自分に嘘をついている。あるいはそれが嘘だということにさえ、気づいていないのかもしれない」
嘘を。
「たかがセックスだと思わなければ、あなたはきっと――」
「黙れ」
黙れ。黙れ黙れ黙れ黙れ。
「由比さん。俺はあなたを傷つける気はありません。ただ、痛みを感じないふりをやめてほしいだけです。そんな破滅的な生き方を続けていたら、あなたはじきに壊れてしまう」
何だろう。
喉の奥が冷たく疼いている。
喉許に意識を集中させると、そこは細かく振動していた。
それは押し殺された笑いだった。
そうか、と彼は思った。これは笑い話なのだ。
だから笑った。
「なるほど、無自覚なのか」
笑いが止まらなかった。
「じゃあ、俺も君に倣ってみようか。本音を言えばこういうのは嫌いなんだけどね」
まともに話をしようとしたのが馬鹿みたいだ。
結局誰もが自分に危害を加えようとする。この男だって例外ではない。
「だが、コミュニケーションとは相手と刺し違えることだ。諦めて付き合ってもらうよ」
手首に絡む指を振り払い、逆にそれを掴む。乱暴に引き寄せると、顔と顔とが近づいた。由比は至近距離にある二つの瞳孔を見つめた。黒い円の中には、縮小された自らの虚像が映っている。恐ろしく端整で、そして無機質な顔だ。そこに埋め込まれた瞳が、デッド・マター・アイズと揶揄された冷たい眼球が、実像である由比を無情な眼差しで刺し貫こうとしている。
この光景は、誰にも脅かせない。
「君は俺のことを欠陥品だと思っている。憐れんでいる。可哀想な奴だから助けてやらなきゃならないと思っている。つまり俺のことを自分よりも下位に、劣位に置いている。そうすることで俺への感情に折り合いをつけようとしている。じきに壊れてしまう? 笑わせないでくれ。俺を壊したがっているのは、ほかでもない君自身だ」
瞳孔が拡張した。
「俺は、そんな」
「違うと言えるのか」
鋭く遮ると、黒木は息を呑んだ。
言えないだろう。言えるわけがないのだ。いったい誰に否定できるだろう。
由比は相手の手首を投げ捨てるように放した。男の身体は支えを失ったように後ろへ傾き、それを受け止めた椅子の背もたれがぎしりと音を立てた。しかしそれでもやはり、黒木は何も言わない。
切りつけられる覚悟もなく他者に刃を向ける、そんな浅はかな人間に、容赦などいらないだろう。
由比は嘲笑の名残を瞬き一つで払い落とし、口を開いた。
「気持ちは分からないでもないな。君は今までヘテロとして生きてきたんだろう? 絵に描いたように平和で順調で予定調和な人生を歩んできたんだろうね? それが男に、それもこんな男に対して欲情してしまった。俺は常識的には考えられない頻度で異性愛者の男から性欲の対象にされる。それも非常な暴力性を伴った性欲だ。なのに俺自身は不能で不感症でおまけに無性愛者――それもアセクシャルなわけだからね。こんな馬鹿げた話はない。だけどそのお陰で君は俺を憐れむことができる。Pity's akin to love……君も文学をやっている人間なら知っているだろう。そう、『三四郎』だ。こうして君は、君が固執する『普通』から大きく逸脱した欲望にそれらしい理由をつけることができる。要するにね、君は不能で不感症で無性愛者で性犯罪被害者であるということを根拠に、俺を欠陥品と見なして差別しているんだよ。気づいていたかな?」
ねえ、黒木君。
君は加害者になろうとしている。
その覚悟はあったのか?
「何が『普通』だ? 勃起することが? 射精することが? 誰かに執着することが? 被害者にならずに生きることが? 仮にそれが『普通』だとしても、それは『普通』じゃないことを糾弾する理由にはならない。それに、お互いアマチュアとはいえ研究に携わる身だ。どちらが正常でどちらが異常かなんて、そんな時代錯誤な議論をするつもりなのだとしたら、不毛だからやめておけと言わなければならない」
「糾弾なんてしていません。異常だとは……思います。思いますが、でも俺が言いたいのは、あなたの生き方は……」
「だが君は俺を是正しようとしている」
正直に答えなよ、と由比は言った。
「君には俺が、化け物に見えるんだろう?」
黒木は絶句した。
「滑稽だね」
由比は歌うようにそう言って、瞼を下ろした。
可哀想な化け物に、清潔で愚かで無力な王子様。そんな出来損ないの童話みたいな幻想を、この男は独りで織っていたのだろう。それが己の解釈だというのなら構わない。しかしそれは、由比には徹頭徹尾関係のない話だ。
「俺にしてみたら、君たちの方が化け物に見える」
返事はなかった。
目を開くと、黒木は先刻と同じ姿勢、同じ表情のままそこにいた。
それが何を意味しているのか、由比には解らない。永遠に解らない。だから彼は彼自身のためだけに微笑した。
「潮時じゃないか」
そう言って、窓の方に目をやる。空は鉛を薄く伸ばしたように曇っていた。十一月だ、と彼は思った。間もなく冬が来る。季節が変わる。秋は終わる。由比誓というテクストだけは、決して誰にも明け渡さない。
「ど……いう、意味、ですか」
数十秒の空白を経て、黒木は漸く言葉を発した。乾燥して、ひどく耳に障る声だった。
愚昧な男だ。溜め息すら出ない。
「もう充分だろう? 君は君の思う『普通』の相手といればいい。例えばそうだね、この間デートしたっていう学部の女の子とか。――ああ、説明しなくていいよ、興味ないから」
相手の口が開きかけるのを、由比は冷え切った眼差しで退けた。そしてそのまま続ける。
「君は今年度で修了できるはずだ。君が大学を出れば顔を合わせる機会はなくなるし、関わりを断つにはちょうどいいタイミングだと思うけど」
すると黒木は苦いものでも呑み込んだような顔をした。由比は薄く笑った。
「何? 違うの?」
僅かな躊躇いを見せたあと、黒木は強張った顔で、それでもはっきりと言った。
「俺は進学を希望しています」
由比は軽く肩を竦めた。全く酔狂としかいいようがない。
「まさかとは思うけど、俺がいるから残りたいんだなんて馬鹿なことは言わないよね」
「……理由の一つでは、あります」
振り絞るような声だった。
不要なものを切り捨てるように、彼は顔を背けて視界から男を排除した。
「みっともないな」
笑い飛ばす気も起きない。
「まあ、好きにすればいい。今は誰でも博士課程に進める時代だ。でも、君が十年後も研究を続けているとは思えないな。確かに修士としてはある程度優秀だけどね、それだけだ。要するに時代遅れなんだよ。君と話していると、思考や発想が致命的に古くてうんざりする。まるで――」
由比は抑揚を欠いた声で言った。
「――まるで、柄島永明みたいだ」
相手は無言だった。微動だにしなかった。恐らく瞬きすらしていなかった。
けれどその瞬間、黒木の周囲の空気が、白く凍った気がした。
終わりだ、と由比は思った。
これで終わりだ。いつもどおりだ。
だから最後の台詞を呟いた。
「帰りなよ」
黒木は黙っていた。湖底の石のように硬く凝った沈黙だった。
もう、この男と関わることはないだろう。
早くいなくなればいい。
誰もいなくなってしまえばいい。
由比は胸に手を当てた。心臓が奇妙に重く感じられた。まるで相手の沈黙を呑み込んでしまったような気がした。そのときだった。
「……図星です」
耳にすっと溶けて消えるような声だった。
「由比さんの言うとおりです。俺はあなたのことを欠陥品だと思っていた」
黒木は大きく息を吸い、静かに吐き出した。
「――でも、それは由比さんも同じなんじゃないですか。由比さんも、自分のことをそう思っているんじゃないですか」
心臓を押さえながら、黙れ、と由比は呟いた。
しかし声はやまなかった。
「あなたはどうしようもなく傷ついて、たった独り、あなただけの地獄の中で、もがき苦しんでいる」
黙れ、と彼はもう一度繰り返す。
「生き延びるためだけに目を背けているのなら、いい加減あなたは本当の自分を見つめ直すべきだ。たとえ今のあなたを保てなくなるとしても――『由比誓』が、死ぬことになるとしても」
もう一度。もう一度。
黙れ。黙るんだ。
「そうしなければ、あなたはもうすぐ、駄目になる」
「黙れと言っているだろう!」
すると黒木は笑った。笑ったように由比には見えた。しかし確証はなかった。
「――否定は、しないんですね」
由比は沈黙した。
ぎし、と椅子の軋む音が鳴る。男が椅子から立ち上がったのだ。
由比は男を見上げた。
男も由比を見下ろしていた。
「俺は間違ったことを言ったのかもしれない。それでもあなたは……そんなふうに生きるべきじゃない」
さよなら、という短い挨拶が耳を掠め、そして彼は独りになった。
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・「作者の死」「テクストとは引用の織物である」…ロラン・バルト
・「強制的異性愛」…アドリエンヌ・リッチ
・「もし私の命が真面目なものなら、私の今いった事も真面目です」…夏目漱石『こゝろ』
・「Pity's akin to love」…夏目漱石『三四郎』
相手が口を開く前に、由比は切り出した。
「『溺死者の回顧録』、君は読んだ?」
予期しない問いだったのだろう、黒木の表情から一瞬翳りが消える。
「添嶋秋長の、ですか?」
彼が肯くと、黒木は記憶を辿るように宙に視線を這わせた。
「ええと、最初の方は普通に読みました。でも途中から斜め読みだったので、きちんと読んだとはいえません」
「構わないよ。どう思った?」
「とにかく長いですね。今までの添嶋作品は、かなりきっちり構成されていたと思いますが、これは全く違う……まるで思いつくままに書き散らしたみたいだ。それが計算されたものなのかどうかは、俺には判りませんけど、あれだけ長いのにストーリーらしいストーリーもないし、そういう意味では前衛的な作品かな、と」
「解るよ。それは解る」
そんなことはどうでもいい。聞きたいのは別のことだ。もっと別の――。
「内容については? あれはどういう話だと思う?」
けれど黒木は当惑したように眉を顰め、内容も何もないですよ、と言う。
「書いてあるとおり、あのままです」
「あのまま……」
由比はシーツの表面を見つめて復唱した。
視界が思考から、あるいは思考が視界から、緩やかに遠のいていく気配。
忘れていた耳鳴りが、また始まる予感がする。
「……池内先生にもあれをどう思うか訊いたんだ。でもあまり参考にはならなかった。……そうだ、そういえばあのとき先生は一つだけ、よくわからないことを言っていたな……」
「何ですか」
由比は束の間逡巡した。
「先生はあの小説が――」
そこまで言いかけて、彼は頭を振った。そして額にかかる髪を苛々と掻き上げる。いったい自分は何を考えているのだろう。
「いや、いい。何でもない。関係ない。テクスト論者にとって、作者は死んだ存在のはずだ」
「あの男? 添嶋のことですか?」
そうだ、これは妄想だ。
しかし、と彼は思う。自分は間違えているのかもしれない。肝心なのは、それが「誰の」妄想かということなのかもしれない……。
「そういえば、『溺死者の回顧録』の語り手は、確か作家って設定でしたよね」
黙って考え込んでいる彼の傍らで、黒木が思い出したように話し始める。
「作中で執筆されている小説がそのまま作品になる……典型的というか、古典的なメタフィクションです」
由比は、もういい、と呟いた。もういいよ、もういい。
「あれは三流作家が書いた駄作だ。それで終わりだ」
言い放って、シーツの上の中指を見つめる。
何にもならないと解っているのに、馬鹿なことを訊いた。池内も黒木も役に立つわけがない。他人になど期待すべきではない。これは戦いなのだ。今までそうしてきたように、全て自力で乗り越えねばならない。別にたいしたことではない。ここまで仕掛けられた罠は全て、どれも自分がいつもどおりの自分であれば乗り切れる程度のものだ。けれど少しでもいつもの自分を見失ってしまうと、そしてそれが重なってしまうと、自分は恐らくあるべき自分を、「由比誓」という聖域を――
不意に彼は軽い眩暈を覚えた。
同じようなエクリチュールを、何処かで目にした覚えがある。
「由比さん?」
視線を向けると気遣わしげな視線にぶつかる。注がれるひたすら真摯なだけの眼差しが、心をざらつかせる。何を勘違いしたのか、疲れているんですよ、と黒木は呟いた。
「少し休んだ方がいいです。……あ、そうだ。急いでいたからこんなものしか買ってこられなかったんですけど、もしよかったら」
差し出されたのはチョコレートだった。戸惑って焦げ茶色の包装紙を見ていると、黒木は小さく笑った。
「前に、板チョコを買ってきてほしいって言いましたよね。――俺があなたのところに初めて泊まった夜です」
馬鹿みたいだ、と由比は思う。
あのときはただ、あの封蝋じみた滑らかな欠片をふと割りたくなっただけなのだ。甘いものを食べたいと思ったことは一度もない。いや、何かを食べたいと思ったこと自体、一度もない。
由比がなかなか受け取ろうとしないので、黒木はチョコレートをサイドテーブルに置いた。
「ここに置いておくので、気が向いたときに食べてください」
彼が黙っていると、筋肉質な腕が伸びてきて、そっとシーツの乱れを直す。少し疲れた顔で、それでも穏やかにこちらを見つめる目。その目が、由比には耐えられなかった。
「初めに言っておくべきだったな」
考える前に声が出ていた。恐ろしく冷淡な声だった。
「わざわざ来てくれたのに悪いけど、さすがの俺でも病室でセックスはできないよ」
黒木の手が止まった。
数秒か数十秒、沈黙がその場の空気を停滞させる。
「由比さんは、俺がここへセックスをしに来たと思っているんですか?」
それは静かな声だった。
「暴行されて入院している人に、自分の性欲をぶつけに来たと? 俺のことをそういう人間だと思っているんですか?」
だが、何かを無理やり抑えつけているような、不穏なうねりが底の方に感じられる。
由比はふいと目を逸らした。そうして病室の何もない白い壁を見つめて答える。
「違うっていうのか。訳の解らない御託を並べながら、君は結局いつだって俺とセックスするじゃないか」
「……本気で言っているんですか」
彼は壁に視線を留めたまま肯定した。
「本気だ」
「由比さん」
強く手首を掴まれて、仕方なしに黒木の方を見る。そして相手の目から労わるような色が消えたことに、僅かな安堵を覚える。その目が湛えているのは怒りだ。そういう眼差しを向けられることには慣れているからよく分かる。よく分かるから不安もない。
「何度言えば解るんですか。俺は、由比さんが好きなんです。好きな人が酷い目に遭ったら会いに行くのが普通でしょう」
「普通? 何が普通だ?」
怒りをぶつけられたなら、それと同等の質量の冷酷さでもって相手と対峙すればいい。
「そっちこそ何度言えば解るんだろうな。恋愛感情なんてどうせ性欲を綺麗に言い換えただけのものだろう。俺にはそういうものは理解できないって言ったはずだ」
尋常かそうでないか、そうやって根拠の不明な線引きをして、自らとは異質なものを異常だと見なし否定することは一種の暴力であると、この二十一世紀を生きる人間がどうして気づけないのか。
「理解できないのは知っています」
黒木の声が僅かに揺れた。暗い水面に風が吹いたように。あるいは海底で訳の解らない何かが蠢き始めたように。
「でもだからといって、俺のあなたへの気持ちを貶めるようなことは言わないでほしい」
「貶める? 恋愛感情と性欲を同一視することが?」
由比は失笑した。
「そうだね、君にとって性欲は下卑たものだった。だったら、それなのによく俺とセックスができるね。ああ、自分より年長で優秀な人間に下卑た真似をして肉体を支配するっていうのが、君にとっては快楽になるのかな」
「戯れ言はやめてください」
「俺はふざけているつもりなんてない。何処までも果てしなく揺るぎなく本気だよ」
「そういうのが戯れ言だって言ってるんです」
激しい怒気を孕んだ口調だった。吐き出される言葉の内部には、見覚えのある激情が充満している。それは由比の持ち合わせていないものだ。由比には理解できないものだ。ただ見ているほかないものだ。
どうしてだろう。
どうしていつもこうなるのだろう。
いつだって、と黒木は言う。
「いつだってそうだ。由比さんが口にする言葉は由比さんに似ている。空虚で不実だ。自分が真面目じゃないから、相手も真面目じゃないと考えている。だから何も通じない。誰もあなたの言葉を信じない。誰もあなたの言葉を理解しない」
由比は目を見開いた。
黒木が発した言葉なのに、それは黒木の言葉のようには聞こえなかった。
「信じない……理解しない……」
――誰も君のことを信じないよ、誓。
――誰も君の言葉を理解しないよ、誓。
――本当はもうそのことに気づいているんだろう、誓。
何故黒木があの男と同じことを言うのだろう?
まるであの男のテクストをなぞるように。あるいは引用するように。
「その台詞は、いったい誰から……」
言いかけた言葉は、しかし切断されて宙に漂う。
判るはずがない。テクストは引用の織物である。自分自身の発した言葉ですら、誰のものであるのか特定することなどできはしないのだから。
「由比さん? あの、どうしたんですか」
由比は自らの手首を捕らえる手を見下ろした。それから無防備なまま晒されている自身の指を見た。中指が不毛な計器のように細かく振れ始めていた。
言葉が。
言葉が、必要だ。
「『もし私の命が真面目なものなら』……」
切り落としてしまいたい。指も、目の前にいるこの男も。
「……『私の今いった事も真面目です』」
口にしてから彼は不安に襲われる。テクストをそのまま引用するということは、最早自身のテクストを織る力を失っていることの証明になりはしないだろうか。
だから彼は続ける。懸命に言葉を縒る。
「漱石の……『こゝろ』の言葉だ」
自力で言葉を組み立てなければならない。独自のテクストを構成しなくてはならない。そうしなければきっと、最後の拠り所すら喪失してしまう。だから彼は言葉を織り上げていく。
「あれはいいね。テクストの構造は再三指摘されているとおりいびつだけど、だからこそ多くの人間が魅入られる。小説は論文じゃないからね、無疵であることにさほど価値はない。むしろ綺麗にできあがりすぎたものは時として退屈だ。でも俺のテクストは……」
テクスト、テクスト、テクスト。
気づけばまるで馬鹿の一つ覚えみたいにその単語を繰り返している。時代遅れと笑ったはずが、いつの間に憑かれたのか。
「……俺の論文は、いつだって無疵だ。俺の人生と同じように」
由比誓という人生は完璧なのだ。そこには髪の毛一筋ほどの瑕疵もない。
「俺や俺の発する言葉は不実で空虚で理解不能で不真面目だと、君にはそう映るのかもしれない。もしかしたら、俺を知る他のあらゆる人間もそう思っているのかもしれない。そしてそうであったとしても、仕方のないことだと俺は思う。人間は誰も真に他人と解り合うことができない。自分自身のことですら完全に理解することは能わないのだから、それは当然のことだ」
でもね、と由比は続ける。でもね、だとしてもだ。
「俺はいつも真面目だ。そうでなければ生き残れない。君が俺の命を貶めることを、俺は許されない」
黒木は無言だった。由比もまた黙って黒木の顔を眺めた。怒っているのか呆れているのか、全く何も感じていないのか、相手の浮かべている表情からは欠片ほども読み取ることができない。
文字になっていないものは、と彼は思う。
文字になっていないものは、どうしても上手く掴めない。
やがて、黒木は深く息を吐いた。それからゆっくりと空気を吸い込む。そうして紡がれたのは、耳が痛くなるほど凪いだ声だった。
「解りました。じゃあ俺も真面目に、本気で話します」
視線で射抜こうとでもするかのように、感情の読めない眼差しが真っ直ぐに由比へと注がれる。
「あなたは間違っています。強姦も和姦も本質的に同じだなんてありえない。セックスというのはあなたが思うほど軽いものじゃないし、そしてあなたの身体も、そんなふうに安易に他人に投げ出されるべきものではありません」
「……安易。君は俺が安易に他人と寝ていると言うのか」
「安易です」
強い口調で問い返しても、黒木は引かなかった。
「由比さん、あなたは以前、自分の身を守るために男と寝ると言いました。そこに至るまでにはきっと、あなたにしか解らない葛藤や苦悩があったんだと思います。でも、やっぱりそれは安易です。あなたはもっと自分を大切にすべきです。セックスは、自分が本当に繋がりたいと思う相手とだけしてください。もしあなたにとって俺がそういう相手ではないのだとしたら、俺ともセックスはしないでください」
安っぽい言葉だ。どうしてこの男はこんなにも愚かしいことばかり口にするのだろう。
「君の貞操観念なんて俺の知ったことじゃない。いいか、俺と君は他人だ。だから当然見える景色が違う。聞こえる音が違う。自分にとって正しいことが他人にとっても正しいのだと考える、そんな思考こそ安易だよ」
「人それぞれ考え方が違うのは当たり前です」
煽るような由比の発言に、だが、黒木は声の調子を変えずに続ける。
「でもこの件に関しては、俺は間違っていません。絶対に」
「だったら根拠は何だ?」
由比は掌を握り締めた。苛々する。
「いや、聞かなくても解るよ。要するに倫理的問題、一般論、つまりは『制度』なんだろう? 言うまでもないことだけどね、そういう制度ってものは社会が社会を維持するために人間に強制したものなんだよ。もちろん強制されている側はそれが強制されたものだとは気づかない。それが『普通』だ、そういうものなんだって信じてる。家父長制、男性中心社会を維持するために、異性愛なるものが強制されている――そういえば強制的異性愛なんて概念もあるね――というのであるなら、セックスにまつわる倫理だって同じなんじゃないか。誰もが俺みたいに不特定多数の人間と『安易に』セックスしていたら、血縁とか家とかいうものの社会的意味合いは百八十度変わるはずだ。誰の子か判らない子供が世の中に溢れるわけだからね、結婚という制度もほとんど意味をなさなくなるか、あるいはその意味を大きく変えることになるだろう。そして社会とはすなわち関係性だ。人と人との繋がりの意味が変われば、社会制度も変わらなければならない。きっと現行の諸々はことごとく崩壊するだろう。現に、結婚や出産や家のありかたは少しずつ多様化しつつある。でもそれはまだ始まったばかりだ。世間は未だに家父長制時代の名残の思考回路を切断しきれていない。そして黒木君、君もその世間を構成する一人だ。要するに君はこの社会を維持するために強制された思考の枠組みで物事を捉えている。もちろんそういう部分は俺にだってある。というか大部分がそうだろう。万物を相対的に捉える視点なんて俺にはないし、そしてたぶん誰もそんなものは持っていない。だから別に君だけを非難したり批判したりするつもりはないよ。だけどね、俺がこのあまりに強大かつ堅固な社会の強制から幸か不幸か先天的かつ個人的に逃れたものを、制度に盲目的に集団的に絡め取られている側の人間から押しつけられるのは、はっきりいって迷惑なんてレベルではなく不愉快だ。君は今が西暦何年だと思ってる? 絶対的な倫理を信奉するなんて――それもよりによって貞操観念か――時代錯誤もいいところだな」
ひたすら言葉を積み重ねた。
まるで要塞を築くように。
誰もここには入れない。誰もここに入れてはならない。
ここは、聖域なのだから。
けれど静かな声が、積み上げた言葉の隙間から侵入する。
「もし本当に、その制度から逃れているのだとしたら――」
自分は間違ってしまったのだろうか。
「――どうしてあなたは苦しんでいるんですか」
由比は唇を動かそうとした。だが、それは何故か膠で固められたかのように動かなかった。
黒木は全く表情を変えないまま、ただ由比を見つめて言った。
「最初は本当に何も感じていないんだと思っていました」
握られたままの手首は、もう感覚がない。
「でも傍にいるうちに、解ってきた。あなたは由比誓という悲惨な人生を生き延びるために、自分に嘘をついている。あるいはそれが嘘だということにさえ、気づいていないのかもしれない」
嘘を。
「たかがセックスだと思わなければ、あなたはきっと――」
「黙れ」
黙れ。黙れ黙れ黙れ黙れ。
「由比さん。俺はあなたを傷つける気はありません。ただ、痛みを感じないふりをやめてほしいだけです。そんな破滅的な生き方を続けていたら、あなたはじきに壊れてしまう」
何だろう。
喉の奥が冷たく疼いている。
喉許に意識を集中させると、そこは細かく振動していた。
それは押し殺された笑いだった。
そうか、と彼は思った。これは笑い話なのだ。
だから笑った。
「なるほど、無自覚なのか」
笑いが止まらなかった。
「じゃあ、俺も君に倣ってみようか。本音を言えばこういうのは嫌いなんだけどね」
まともに話をしようとしたのが馬鹿みたいだ。
結局誰もが自分に危害を加えようとする。この男だって例外ではない。
「だが、コミュニケーションとは相手と刺し違えることだ。諦めて付き合ってもらうよ」
手首に絡む指を振り払い、逆にそれを掴む。乱暴に引き寄せると、顔と顔とが近づいた。由比は至近距離にある二つの瞳孔を見つめた。黒い円の中には、縮小された自らの虚像が映っている。恐ろしく端整で、そして無機質な顔だ。そこに埋め込まれた瞳が、デッド・マター・アイズと揶揄された冷たい眼球が、実像である由比を無情な眼差しで刺し貫こうとしている。
この光景は、誰にも脅かせない。
「君は俺のことを欠陥品だと思っている。憐れんでいる。可哀想な奴だから助けてやらなきゃならないと思っている。つまり俺のことを自分よりも下位に、劣位に置いている。そうすることで俺への感情に折り合いをつけようとしている。じきに壊れてしまう? 笑わせないでくれ。俺を壊したがっているのは、ほかでもない君自身だ」
瞳孔が拡張した。
「俺は、そんな」
「違うと言えるのか」
鋭く遮ると、黒木は息を呑んだ。
言えないだろう。言えるわけがないのだ。いったい誰に否定できるだろう。
由比は相手の手首を投げ捨てるように放した。男の身体は支えを失ったように後ろへ傾き、それを受け止めた椅子の背もたれがぎしりと音を立てた。しかしそれでもやはり、黒木は何も言わない。
切りつけられる覚悟もなく他者に刃を向ける、そんな浅はかな人間に、容赦などいらないだろう。
由比は嘲笑の名残を瞬き一つで払い落とし、口を開いた。
「気持ちは分からないでもないな。君は今までヘテロとして生きてきたんだろう? 絵に描いたように平和で順調で予定調和な人生を歩んできたんだろうね? それが男に、それもこんな男に対して欲情してしまった。俺は常識的には考えられない頻度で異性愛者の男から性欲の対象にされる。それも非常な暴力性を伴った性欲だ。なのに俺自身は不能で不感症でおまけに無性愛者――それもアセクシャルなわけだからね。こんな馬鹿げた話はない。だけどそのお陰で君は俺を憐れむことができる。Pity's akin to love……君も文学をやっている人間なら知っているだろう。そう、『三四郎』だ。こうして君は、君が固執する『普通』から大きく逸脱した欲望にそれらしい理由をつけることができる。要するにね、君は不能で不感症で無性愛者で性犯罪被害者であるということを根拠に、俺を欠陥品と見なして差別しているんだよ。気づいていたかな?」
ねえ、黒木君。
君は加害者になろうとしている。
その覚悟はあったのか?
「何が『普通』だ? 勃起することが? 射精することが? 誰かに執着することが? 被害者にならずに生きることが? 仮にそれが『普通』だとしても、それは『普通』じゃないことを糾弾する理由にはならない。それに、お互いアマチュアとはいえ研究に携わる身だ。どちらが正常でどちらが異常かなんて、そんな時代錯誤な議論をするつもりなのだとしたら、不毛だからやめておけと言わなければならない」
「糾弾なんてしていません。異常だとは……思います。思いますが、でも俺が言いたいのは、あなたの生き方は……」
「だが君は俺を是正しようとしている」
正直に答えなよ、と由比は言った。
「君には俺が、化け物に見えるんだろう?」
黒木は絶句した。
「滑稽だね」
由比は歌うようにそう言って、瞼を下ろした。
可哀想な化け物に、清潔で愚かで無力な王子様。そんな出来損ないの童話みたいな幻想を、この男は独りで織っていたのだろう。それが己の解釈だというのなら構わない。しかしそれは、由比には徹頭徹尾関係のない話だ。
「俺にしてみたら、君たちの方が化け物に見える」
返事はなかった。
目を開くと、黒木は先刻と同じ姿勢、同じ表情のままそこにいた。
それが何を意味しているのか、由比には解らない。永遠に解らない。だから彼は彼自身のためだけに微笑した。
「潮時じゃないか」
そう言って、窓の方に目をやる。空は鉛を薄く伸ばしたように曇っていた。十一月だ、と彼は思った。間もなく冬が来る。季節が変わる。秋は終わる。由比誓というテクストだけは、決して誰にも明け渡さない。
「ど……いう、意味、ですか」
数十秒の空白を経て、黒木は漸く言葉を発した。乾燥して、ひどく耳に障る声だった。
愚昧な男だ。溜め息すら出ない。
「もう充分だろう? 君は君の思う『普通』の相手といればいい。例えばそうだね、この間デートしたっていう学部の女の子とか。――ああ、説明しなくていいよ、興味ないから」
相手の口が開きかけるのを、由比は冷え切った眼差しで退けた。そしてそのまま続ける。
「君は今年度で修了できるはずだ。君が大学を出れば顔を合わせる機会はなくなるし、関わりを断つにはちょうどいいタイミングだと思うけど」
すると黒木は苦いものでも呑み込んだような顔をした。由比は薄く笑った。
「何? 違うの?」
僅かな躊躇いを見せたあと、黒木は強張った顔で、それでもはっきりと言った。
「俺は進学を希望しています」
由比は軽く肩を竦めた。全く酔狂としかいいようがない。
「まさかとは思うけど、俺がいるから残りたいんだなんて馬鹿なことは言わないよね」
「……理由の一つでは、あります」
振り絞るような声だった。
不要なものを切り捨てるように、彼は顔を背けて視界から男を排除した。
「みっともないな」
笑い飛ばす気も起きない。
「まあ、好きにすればいい。今は誰でも博士課程に進める時代だ。でも、君が十年後も研究を続けているとは思えないな。確かに修士としてはある程度優秀だけどね、それだけだ。要するに時代遅れなんだよ。君と話していると、思考や発想が致命的に古くてうんざりする。まるで――」
由比は抑揚を欠いた声で言った。
「――まるで、柄島永明みたいだ」
相手は無言だった。微動だにしなかった。恐らく瞬きすらしていなかった。
けれどその瞬間、黒木の周囲の空気が、白く凍った気がした。
終わりだ、と由比は思った。
これで終わりだ。いつもどおりだ。
だから最後の台詞を呟いた。
「帰りなよ」
黒木は黙っていた。湖底の石のように硬く凝った沈黙だった。
もう、この男と関わることはないだろう。
早くいなくなればいい。
誰もいなくなってしまえばいい。
由比は胸に手を当てた。心臓が奇妙に重く感じられた。まるで相手の沈黙を呑み込んでしまったような気がした。そのときだった。
「……図星です」
耳にすっと溶けて消えるような声だった。
「由比さんの言うとおりです。俺はあなたのことを欠陥品だと思っていた」
黒木は大きく息を吸い、静かに吐き出した。
「――でも、それは由比さんも同じなんじゃないですか。由比さんも、自分のことをそう思っているんじゃないですか」
心臓を押さえながら、黙れ、と由比は呟いた。
しかし声はやまなかった。
「あなたはどうしようもなく傷ついて、たった独り、あなただけの地獄の中で、もがき苦しんでいる」
黙れ、と彼はもう一度繰り返す。
「生き延びるためだけに目を背けているのなら、いい加減あなたは本当の自分を見つめ直すべきだ。たとえ今のあなたを保てなくなるとしても――『由比誓』が、死ぬことになるとしても」
もう一度。もう一度。
黙れ。黙るんだ。
「そうしなければ、あなたはもうすぐ、駄目になる」
「黙れと言っているだろう!」
すると黒木は笑った。笑ったように由比には見えた。しかし確証はなかった。
「――否定は、しないんですね」
由比は沈黙した。
ぎし、と椅子の軋む音が鳴る。男が椅子から立ち上がったのだ。
由比は男を見上げた。
男も由比を見下ろしていた。
「俺は間違ったことを言ったのかもしれない。それでもあなたは……そんなふうに生きるべきじゃない」
さよなら、という短い挨拶が耳を掠め、そして彼は独りになった。
-------------
・「作者の死」「テクストとは引用の織物である」…ロラン・バルト
・「強制的異性愛」…アドリエンヌ・リッチ
・「もし私の命が真面目なものなら、私の今いった事も真面目です」…夏目漱石『こゝろ』
・「Pity's akin to love」…夏目漱石『三四郎』
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