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第二十章 滅びゆく言葉に宛てて
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「ちゃんと食べなきゃ駄目ですよ」
俯いて容器の上のものを箸でつつくだけの様子に、見るに見かねて口を出すと、目の前の男は顔を上げた。
「ごめん、なに?」
その顔色がいつにも増して白っぽく見えて、黒木は声を柔らかくした。
「美味しくないですか」
由比は箸を持ったまま、考え込むように斜め下を見つめた。睫の影が頬に落ちる。そこには皺一つ、くすみ一つない。まるで白い蜜のよう。
綺麗な人だ。いつ見ても、そう思う。
「考えるってことは、美味しくないんですね」
彼は首を横に振った。
「そんなことない。――そうだよね?」
「どうして俺に訊くんですか」
しかし由比はもう一度首を振り、そして今度は何も言わなかった。黒木は物悲しい気分で、八割以上残っている弁当を眺めた。
由比が衣食住に関心のない人間だということは知っていた。しかし絵画のように美しい男が、殺風景な部屋の中、量販店で買ったワイシャツを着て、コンビニ弁当を前にぼんやりしている姿を見ると、何かが決定的に間違っているような気がした。恐らく黒木が何も言わなければ、弁当も温めずにそのまま食べようとしたはずだ。否、そもそも黒木が弁当を買って部屋を訪れなければ、きっと何も食べずに論文を書いて寝てしまったに違いない。逢瀬を重ねるほどに、彼のアンバランスな部分から受ける痛々しさは増していく。
「食欲がないんだったら、もうご馳走様でいいですよ」
優しく告げれば白けた目が向けられた。
「何なのその言い方。子供じゃないんだから」
似たようなものだろう、という言葉を呑み込んで、黒木は由比の背後に回り込んだ。後ろから抱き締める。柔らかな髪に頬をそっと寄せると、腕の中の男は怪訝そうに首を回した。
「なに?」
「背中が寒そうに見えたので。どうぞ気にせず食べてください」
「気になるし、寒くないよ」
「でもほら、凄く冷えてる」
相手の背中に胸を押しつけ、さらりと嘘をつく。
「そう?」
「そうですよ。自分で分かりませんか?」
問い返すと、由比は再び黙り込んだ。黒木は掌で相手の心臓の辺りを探った。肌に伝わる鼓動はあまりに密やかで、心許なかった。
「わからない」
長い沈黙のあとで、彼はそう言った。
食事のあと、二人で映画を観た。
由比の部屋にはテレビがない。いつだったか理由を訊ねたことがある。するといつもの調子で、「必要ないから」と返された。そこで黒木は、由比の部屋を訪れる際にたびたびDVDを持ち込んだ。映画論を専門にしている学生も多いため、研究室には映画のDVDがかなり揃っていた。最新の話題作はない代わりに映画史的に重要なものは豊富で、だからこの一ヶ月ほどで、二人は様々な名作を脈絡なく観た。『赤い砂漠』、『吸血鬼』、『ブレードランナー』、『七人の侍』、『サイコ』、『アンダルシアの犬』、『メトロポリス』。由比を後ろから抱いたまま、彼の肩に顎を乗せ、あるいはただ頭と頭をくっつけて、そうやって二人でノートパソコンのコンパクトな画面を覗き込む。分析するでも批評するでもなく、ただ黙って映像を見て、音声を聞く。エンドロールが終わるまで、いつも一言も口をきかない。
今日もまた一つの物語が終わり、何事もなかったかのようにタイトル画面が表示された。
「由比さんは、映画は研究しないんですか」
エンドロールが消えると世界が終わったような気分になるのは、果たして自分だけだろうか?
「しない」
ディスクをケースに戻す黒木の指を見つめて、彼は言う。
「文字になっていないものは、上手く掴めないから」
「文学を専門にしたのもそのせいですか」
ケースをテーブルに戻して、黒木は再び腕を相手の身体に絡ませる。抵抗はない。相手が抵抗らしい抵抗をしたことなど、一度もない。
「知りたいことがあったんだ」
「何を知りたかったんです?」
数秒、間があった。
「くだらないことだよ」
追及すべきか否か迷って、黒木もまた数秒沈黙した。
「じゃあ、それを知ることはできましたか?」
「知ることができない、ということを知ることならできた。文学的な結論だ」
「……淋しいな」
思わず零れた素朴な感想を、しかし由比は咎めなかった。ただ、吐息だけで笑う。
「研究っていうのはそういうものだよ。くだらないことを探し求めて、結局それには触れることさえ叶わないんだと痛感する。問題はそのあとどうするかじゃないかな」
「由比さんは、そのあとも研究を続けているわけですね。どうしてですか」
「才能があったからだよ」
言い切ったあとで、由比は脆い笑みを浮かべた。
「……嫌みに聞こえる?」
「単なる事実でしょう。あなたは正真正銘の天才だ。『由比誓が一つの時代を終わらせた』、そう磯谷喬が書いていましたよ」
何処か危ういような表情に、由比を高く評価している著名な批評家の名を出して褒めてみたが、返ってきたのは呆れたような溜め息だった。
「あの人の書くものは、あんまりよくない」
W大名誉教授も形無しだ。
「だとしてもこの件に関しては、磯谷は正しいと思いますよ。まあ、仮に由比さんが世間の人が言うような天才じゃなかったとしても、俺はやっぱりあなたのことを個性的で魅力的な人だと思うし、好きですけど」
今度は溜め息をつかれなかった。しかし、返事もなかった。不意に、放置されたパソコンの画面が暗くなる。黒い画面に男の顔が映った。それはまるで写真のように、奇妙に静止していた。
訳も分からず、ただ、ぞくりとした。
彼は目を逸らしたい衝動に駆られた。だが、敢えてその虚像を見つめた。見なければならない、そんな気がした。
暫くして耳に届いた声は、小さく掠れていた。
「冗談だろう?」
黒木は首を横に振った。
「本気です」
「君は」
ディスプレイの上で、唇だけが動いている。
「……君は……、変わってる」
顔を背けたのは、黒木ではなく画面の中の男だった。壊れた玩具のように視線を放り出す。かしゃん、という音が聞こえてきそうだった。
「個性的か。いい表現だね。まるで俺の全部がただの個性みたいに聞こえる」
嘲るような響きが、ただ、切ない。
「だってそうでしょう」
「だってそうでしょう?」
由比は復唱した。それから笑った。声を立てずに笑った。自虐も皮肉もそこには感じられなかった。けれど空気がしんと冷えるのが、黒木には分かった。
「傑作だね。世の中みんな君みたいな人間だったら、きっと俺も――」
彼の顔に現れたそれは、まるで雪の結晶のような笑みだった。何かの奇跡のように美しく、何かの間違いのようにすぐに消え失せる類のもの。黒木は咄嗟に自らの胸を押さえた。そこには静かに凍っていく痛みがあった。
痛みに耐えながら、黒木は続きを待った。だがそれはいつまでたっても訪れなかった。由比は失われた言葉の行方を探すように宙を見ていた。きっと何処かに正しい言葉が漂っている、そんな眼差しだった。黒木もまた虚空に視線を彷徨わせた。だが、空気はあまりにも透明だった。視線をパソコンの画面に戻すと、あの奇跡のような微笑が、先刻観ていた映画のラストシーンのように融けて消えていくさまが映し出されていた。まるで世界が終わるさまを見ているかのようだった。
由比は暫く何もない空間を見つめていた。それから黒木にとって見慣れた、けれどやはりどうしようもなく綺麗な顔で、そっと呟いた。
「いや、何でもない」
不意に黒木は泣きたいような気分になった。
「言ってください」
「何でもないよ」
「そんなはずない」
「本当に何でもないんだ」
「お願いですから言ってください」
すると由比は口を閉ざした。一切の動きを停止して沈黙する。黒いディスプレイに映るその虚像はモノクロームで、黒木はその不吉さの意味を知った。そう、遺影に似ているのだ。
「何でもないなんてことはない。絶対にないです」
耐えきれず、首を捻じ曲げて実像の横顔を見つめ言い募った。すると由比の眼球が微かに揺れた。視線が遠くに向けられたのだ。
「よくわからないんだ」
黒木には決して届かない、場所ですらない、遠くへ。
「どうしてだろうね」
それは俺の言葉だ。そう黒木は思う。
「どうして……」
どうしてなのだろう。
どうして彼の眼差しはいつも遠ざかっていくのだろう。オニキスに似たその瞳は、いったい何を映しているのだろう。そこに映し出されるためには、何を差し出せばよいのだろう。あるいは何を引き受ければよいのだろう。
何一つ分からぬまま、ただしっかりと腕の中の不確かな温もりを包み込む。彼の膝の上で死体のようにじっとしている白い手に、自らの手を重ねて握る。氷の欠片を拾うように。自分の熱で融かしてしまわぬように。
触れ合った中指が、僅かに震える。
この震えは、自分がもたらしたものなのだろうか。
黒木君、と呼ぶ声がする。
自動筆記された文字をなぞるような、体温のない声。
「セックスしよう」
心臓が止まった。
身体中の血液が真水に変わったような気がする。
そのせいか、問う声はひどく穏やかなものになった。
「――何故ですか」
「セックスするのに理由なんていらないだろう」
相手の声は、空気に紛れてしまいそうなほど澄んでいる。
「いります」
「気分だよ。そういう気分なんだ」
中身のない台詞が零れては消えていく。
「でもあなたには性欲がない」
「そうだね」
「俺に恋愛感情をもっているわけでもない」
「そうだ」
「同情したわけでもない」
「そのとおり」
「じゃあ、どうして?」
わからない、と彼は言った。
「わからない、わからないよ」
わからないんだ、わからない。由比は歌うように繰り返した。わからない。わからない。わからない。それから唇の端だけで笑った。
「ねえ、俺はいったい今日何回わからないって言ったかな」
「……分かりません」
上がったばかりの口角を下げ、由比は低く呟いた。
「セックス、しよう」
きっと今の由比には、そんな心を伴わない言葉しか見つけられないのだ。
「由比さん――」
たぶん、と黒木は思う。
たぶん俺は、この人の心に一時でも安らぎを与えるためならば、全てを擲つことができるだろう。痛みも苦しみも、嫉妬も欲望も葛藤も、どうしようもないこの愛しささえも捨てて、ほんの束の間の錯覚であっても構わない、彼が幸福に似た何かを感じることを願うだろう。だが、それは叶わないことだ。この病める異邦人は、いつか故郷へ戻るように遠いところに行ってしまう。根拠はない。けれど自分には、まるで未来に書かれた回顧録を読むように、その哀しい顛末が見えている。
「――あなたが望むのであれば」
無言で肯いた由比は、バスルームへと消えた。
交代でシャワーを浴び、明かりを消してベッドに入った。
横たわる男の額に口づける。
愛も欲も知らない人間にとって、この営みがどれほどグロテスクなものであるのか、黒木には分からない。そしてその答えを知ることもない。ただ一つ感じることがある。由比が自分に、否、自分たちにとって異邦人であるのなら、由比にとって自分たちは異邦人なのだ。
「好きです」
冷えてしまった身体を抱いて、何処にも辿り着けない言葉を繰り返す。
「あなたが好きです」
たとえ言葉が通じなくても、心が通わなくても、人が人に恋をしてしまうのは、何故だろう。
「好きなんです」
答えは、ない。
唇と唇が重なると、それが始まりになった。
水のような時間。
由比は声を出さず、表情も変えなかった。あるいは目を開けたまま眠っていたのかもしれない。そうだったらいいと、ふと、そう思った。
けれど身体を解くと、彼は黒木に背を向けた。
「初めてだ」
唐突に言って、男は沈黙する。きっと今、空気の中に言葉を探している。
もうそんなことはしなくていい、そう言ってやりたいと黒木は思う。けれどそれは自分の、黒木のためだけの言葉だ。だから息を詰めて見守る。
しかし、いつまでたっても続きは聞こえてこなかった。
冷たい沈黙を抱えた男を、遣り切れなさと共に胸に抱き込む。ねえ俺はいったい今日何回あなたを抱き締めましたか。何回あなたを愛しいと思いましたか。
だが、声に出して問うことはできない。もうこれ以上、わからないと言わせたくなかった。
「さっき、ドリップコーヒーと牛乳を買ってきたんです」
湖水に指を浸すように、つうっと髪を梳いてやる。
「朝になったら飲みましょう。うんと甘くして」
すると、まるで偶然何かのスイッチに触れたように、由比の口から声が零れた。
それは、失われた言葉の続きだった。
「――自分から、誰かを誘ったのは」
悲しくて、堪らなかった。
翌朝、彼はネクタイを締める後ろ姿に向かって訊ねた。
「今夜、また会えますか」
「別に構わな……いや」
言いかけて、由比は首を横に振った。
「……二年の教科担当は参加しろって言われてたんだった」
「仕事ですか?」
「そう。何時に終わるか分からないけど、そのあとでいいなら」
「非常勤なのに大変ですね。補習ですか」
「セミナーだって言われた」
メールするよ、と彼は呟いた。
俯いて容器の上のものを箸でつつくだけの様子に、見るに見かねて口を出すと、目の前の男は顔を上げた。
「ごめん、なに?」
その顔色がいつにも増して白っぽく見えて、黒木は声を柔らかくした。
「美味しくないですか」
由比は箸を持ったまま、考え込むように斜め下を見つめた。睫の影が頬に落ちる。そこには皺一つ、くすみ一つない。まるで白い蜜のよう。
綺麗な人だ。いつ見ても、そう思う。
「考えるってことは、美味しくないんですね」
彼は首を横に振った。
「そんなことない。――そうだよね?」
「どうして俺に訊くんですか」
しかし由比はもう一度首を振り、そして今度は何も言わなかった。黒木は物悲しい気分で、八割以上残っている弁当を眺めた。
由比が衣食住に関心のない人間だということは知っていた。しかし絵画のように美しい男が、殺風景な部屋の中、量販店で買ったワイシャツを着て、コンビニ弁当を前にぼんやりしている姿を見ると、何かが決定的に間違っているような気がした。恐らく黒木が何も言わなければ、弁当も温めずにそのまま食べようとしたはずだ。否、そもそも黒木が弁当を買って部屋を訪れなければ、きっと何も食べずに論文を書いて寝てしまったに違いない。逢瀬を重ねるほどに、彼のアンバランスな部分から受ける痛々しさは増していく。
「食欲がないんだったら、もうご馳走様でいいですよ」
優しく告げれば白けた目が向けられた。
「何なのその言い方。子供じゃないんだから」
似たようなものだろう、という言葉を呑み込んで、黒木は由比の背後に回り込んだ。後ろから抱き締める。柔らかな髪に頬をそっと寄せると、腕の中の男は怪訝そうに首を回した。
「なに?」
「背中が寒そうに見えたので。どうぞ気にせず食べてください」
「気になるし、寒くないよ」
「でもほら、凄く冷えてる」
相手の背中に胸を押しつけ、さらりと嘘をつく。
「そう?」
「そうですよ。自分で分かりませんか?」
問い返すと、由比は再び黙り込んだ。黒木は掌で相手の心臓の辺りを探った。肌に伝わる鼓動はあまりに密やかで、心許なかった。
「わからない」
長い沈黙のあとで、彼はそう言った。
食事のあと、二人で映画を観た。
由比の部屋にはテレビがない。いつだったか理由を訊ねたことがある。するといつもの調子で、「必要ないから」と返された。そこで黒木は、由比の部屋を訪れる際にたびたびDVDを持ち込んだ。映画論を専門にしている学生も多いため、研究室には映画のDVDがかなり揃っていた。最新の話題作はない代わりに映画史的に重要なものは豊富で、だからこの一ヶ月ほどで、二人は様々な名作を脈絡なく観た。『赤い砂漠』、『吸血鬼』、『ブレードランナー』、『七人の侍』、『サイコ』、『アンダルシアの犬』、『メトロポリス』。由比を後ろから抱いたまま、彼の肩に顎を乗せ、あるいはただ頭と頭をくっつけて、そうやって二人でノートパソコンのコンパクトな画面を覗き込む。分析するでも批評するでもなく、ただ黙って映像を見て、音声を聞く。エンドロールが終わるまで、いつも一言も口をきかない。
今日もまた一つの物語が終わり、何事もなかったかのようにタイトル画面が表示された。
「由比さんは、映画は研究しないんですか」
エンドロールが消えると世界が終わったような気分になるのは、果たして自分だけだろうか?
「しない」
ディスクをケースに戻す黒木の指を見つめて、彼は言う。
「文字になっていないものは、上手く掴めないから」
「文学を専門にしたのもそのせいですか」
ケースをテーブルに戻して、黒木は再び腕を相手の身体に絡ませる。抵抗はない。相手が抵抗らしい抵抗をしたことなど、一度もない。
「知りたいことがあったんだ」
「何を知りたかったんです?」
数秒、間があった。
「くだらないことだよ」
追及すべきか否か迷って、黒木もまた数秒沈黙した。
「じゃあ、それを知ることはできましたか?」
「知ることができない、ということを知ることならできた。文学的な結論だ」
「……淋しいな」
思わず零れた素朴な感想を、しかし由比は咎めなかった。ただ、吐息だけで笑う。
「研究っていうのはそういうものだよ。くだらないことを探し求めて、結局それには触れることさえ叶わないんだと痛感する。問題はそのあとどうするかじゃないかな」
「由比さんは、そのあとも研究を続けているわけですね。どうしてですか」
「才能があったからだよ」
言い切ったあとで、由比は脆い笑みを浮かべた。
「……嫌みに聞こえる?」
「単なる事実でしょう。あなたは正真正銘の天才だ。『由比誓が一つの時代を終わらせた』、そう磯谷喬が書いていましたよ」
何処か危ういような表情に、由比を高く評価している著名な批評家の名を出して褒めてみたが、返ってきたのは呆れたような溜め息だった。
「あの人の書くものは、あんまりよくない」
W大名誉教授も形無しだ。
「だとしてもこの件に関しては、磯谷は正しいと思いますよ。まあ、仮に由比さんが世間の人が言うような天才じゃなかったとしても、俺はやっぱりあなたのことを個性的で魅力的な人だと思うし、好きですけど」
今度は溜め息をつかれなかった。しかし、返事もなかった。不意に、放置されたパソコンの画面が暗くなる。黒い画面に男の顔が映った。それはまるで写真のように、奇妙に静止していた。
訳も分からず、ただ、ぞくりとした。
彼は目を逸らしたい衝動に駆られた。だが、敢えてその虚像を見つめた。見なければならない、そんな気がした。
暫くして耳に届いた声は、小さく掠れていた。
「冗談だろう?」
黒木は首を横に振った。
「本気です」
「君は」
ディスプレイの上で、唇だけが動いている。
「……君は……、変わってる」
顔を背けたのは、黒木ではなく画面の中の男だった。壊れた玩具のように視線を放り出す。かしゃん、という音が聞こえてきそうだった。
「個性的か。いい表現だね。まるで俺の全部がただの個性みたいに聞こえる」
嘲るような響きが、ただ、切ない。
「だってそうでしょう」
「だってそうでしょう?」
由比は復唱した。それから笑った。声を立てずに笑った。自虐も皮肉もそこには感じられなかった。けれど空気がしんと冷えるのが、黒木には分かった。
「傑作だね。世の中みんな君みたいな人間だったら、きっと俺も――」
彼の顔に現れたそれは、まるで雪の結晶のような笑みだった。何かの奇跡のように美しく、何かの間違いのようにすぐに消え失せる類のもの。黒木は咄嗟に自らの胸を押さえた。そこには静かに凍っていく痛みがあった。
痛みに耐えながら、黒木は続きを待った。だがそれはいつまでたっても訪れなかった。由比は失われた言葉の行方を探すように宙を見ていた。きっと何処かに正しい言葉が漂っている、そんな眼差しだった。黒木もまた虚空に視線を彷徨わせた。だが、空気はあまりにも透明だった。視線をパソコンの画面に戻すと、あの奇跡のような微笑が、先刻観ていた映画のラストシーンのように融けて消えていくさまが映し出されていた。まるで世界が終わるさまを見ているかのようだった。
由比は暫く何もない空間を見つめていた。それから黒木にとって見慣れた、けれどやはりどうしようもなく綺麗な顔で、そっと呟いた。
「いや、何でもない」
不意に黒木は泣きたいような気分になった。
「言ってください」
「何でもないよ」
「そんなはずない」
「本当に何でもないんだ」
「お願いですから言ってください」
すると由比は口を閉ざした。一切の動きを停止して沈黙する。黒いディスプレイに映るその虚像はモノクロームで、黒木はその不吉さの意味を知った。そう、遺影に似ているのだ。
「何でもないなんてことはない。絶対にないです」
耐えきれず、首を捻じ曲げて実像の横顔を見つめ言い募った。すると由比の眼球が微かに揺れた。視線が遠くに向けられたのだ。
「よくわからないんだ」
黒木には決して届かない、場所ですらない、遠くへ。
「どうしてだろうね」
それは俺の言葉だ。そう黒木は思う。
「どうして……」
どうしてなのだろう。
どうして彼の眼差しはいつも遠ざかっていくのだろう。オニキスに似たその瞳は、いったい何を映しているのだろう。そこに映し出されるためには、何を差し出せばよいのだろう。あるいは何を引き受ければよいのだろう。
何一つ分からぬまま、ただしっかりと腕の中の不確かな温もりを包み込む。彼の膝の上で死体のようにじっとしている白い手に、自らの手を重ねて握る。氷の欠片を拾うように。自分の熱で融かしてしまわぬように。
触れ合った中指が、僅かに震える。
この震えは、自分がもたらしたものなのだろうか。
黒木君、と呼ぶ声がする。
自動筆記された文字をなぞるような、体温のない声。
「セックスしよう」
心臓が止まった。
身体中の血液が真水に変わったような気がする。
そのせいか、問う声はひどく穏やかなものになった。
「――何故ですか」
「セックスするのに理由なんていらないだろう」
相手の声は、空気に紛れてしまいそうなほど澄んでいる。
「いります」
「気分だよ。そういう気分なんだ」
中身のない台詞が零れては消えていく。
「でもあなたには性欲がない」
「そうだね」
「俺に恋愛感情をもっているわけでもない」
「そうだ」
「同情したわけでもない」
「そのとおり」
「じゃあ、どうして?」
わからない、と彼は言った。
「わからない、わからないよ」
わからないんだ、わからない。由比は歌うように繰り返した。わからない。わからない。わからない。それから唇の端だけで笑った。
「ねえ、俺はいったい今日何回わからないって言ったかな」
「……分かりません」
上がったばかりの口角を下げ、由比は低く呟いた。
「セックス、しよう」
きっと今の由比には、そんな心を伴わない言葉しか見つけられないのだ。
「由比さん――」
たぶん、と黒木は思う。
たぶん俺は、この人の心に一時でも安らぎを与えるためならば、全てを擲つことができるだろう。痛みも苦しみも、嫉妬も欲望も葛藤も、どうしようもないこの愛しささえも捨てて、ほんの束の間の錯覚であっても構わない、彼が幸福に似た何かを感じることを願うだろう。だが、それは叶わないことだ。この病める異邦人は、いつか故郷へ戻るように遠いところに行ってしまう。根拠はない。けれど自分には、まるで未来に書かれた回顧録を読むように、その哀しい顛末が見えている。
「――あなたが望むのであれば」
無言で肯いた由比は、バスルームへと消えた。
交代でシャワーを浴び、明かりを消してベッドに入った。
横たわる男の額に口づける。
愛も欲も知らない人間にとって、この営みがどれほどグロテスクなものであるのか、黒木には分からない。そしてその答えを知ることもない。ただ一つ感じることがある。由比が自分に、否、自分たちにとって異邦人であるのなら、由比にとって自分たちは異邦人なのだ。
「好きです」
冷えてしまった身体を抱いて、何処にも辿り着けない言葉を繰り返す。
「あなたが好きです」
たとえ言葉が通じなくても、心が通わなくても、人が人に恋をしてしまうのは、何故だろう。
「好きなんです」
答えは、ない。
唇と唇が重なると、それが始まりになった。
水のような時間。
由比は声を出さず、表情も変えなかった。あるいは目を開けたまま眠っていたのかもしれない。そうだったらいいと、ふと、そう思った。
けれど身体を解くと、彼は黒木に背を向けた。
「初めてだ」
唐突に言って、男は沈黙する。きっと今、空気の中に言葉を探している。
もうそんなことはしなくていい、そう言ってやりたいと黒木は思う。けれどそれは自分の、黒木のためだけの言葉だ。だから息を詰めて見守る。
しかし、いつまでたっても続きは聞こえてこなかった。
冷たい沈黙を抱えた男を、遣り切れなさと共に胸に抱き込む。ねえ俺はいったい今日何回あなたを抱き締めましたか。何回あなたを愛しいと思いましたか。
だが、声に出して問うことはできない。もうこれ以上、わからないと言わせたくなかった。
「さっき、ドリップコーヒーと牛乳を買ってきたんです」
湖水に指を浸すように、つうっと髪を梳いてやる。
「朝になったら飲みましょう。うんと甘くして」
すると、まるで偶然何かのスイッチに触れたように、由比の口から声が零れた。
それは、失われた言葉の続きだった。
「――自分から、誰かを誘ったのは」
悲しくて、堪らなかった。
翌朝、彼はネクタイを締める後ろ姿に向かって訊ねた。
「今夜、また会えますか」
「別に構わな……いや」
言いかけて、由比は首を横に振った。
「……二年の教科担当は参加しろって言われてたんだった」
「仕事ですか?」
「そう。何時に終わるか分からないけど、そのあとでいいなら」
「非常勤なのに大変ですね。補習ですか」
「セミナーだって言われた」
メールするよ、と彼は呟いた。
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