ヴァルネラブル

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第十六章 螺子と発条と歯車と

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 校長室のドアが閉まっていることをもう一度確認してから、渡辺は目の前の応接ソファに座る男に向き合った。
「変な文書が届いてね」
 そう言って折り目のついたA4のコピー用紙を男に差し出す。男はそれを受け取り、目を通している様子だった。実際に読んでいるのかは判らない。渡辺にはこの男のことが全く解らない。
「事実ではないと、もちろん分かってはいるんだが」
 男は肯いて、紙をテーブルに置いた。
「そうですね、事実ではありません」
「心当たりは?」
「似たような嫌がらせが先月にも。同じような手紙が、自宅アパートのポストに投函されていました。既に警察にも相談しています。恐らく今回も犯人は同じだと思いますが、誰なのかはまだ分かっていません」
 渡辺は男を眺めた。取り乱したところは全くなかった。何も感じていないようですらあった。冷たいくらい落ち着き払った男の表情を注視しているうちに、眼球の奥の辺りがどろりと重く濁ってくるのを感じた。それは男を見つめたときにいつも起きる症状だった。
「校長先生」
 ほんの数十センチ先で、色の薄い唇が動く。頭蓋骨が液状化していくような錯覚。
「先日、男子生徒の一人に関係を迫られました」
 何を言っているのか、理解できなかった。
「私は拒絶しましたが、向こうは諦めていない可能性があります」
「ちょっと待て。か、関係というのはつまり……」
「セックスです」
 男が口にすると、その言葉はまるで天文学の専門用語のように聞こえた。
「今回の文書との関係は不明ですが、しかし黙っていると何かあったときにこちらの不利益になる可能性があるので、ご報告まで」
「何かあったときって、いったい何がありうるというんだ」
 彼は呻くように言った。辛うじて出たその声は、ねばねばとした感触を自身の鼓膜に与えた。なんて耳障りな音を立てる声帯だろう。まるで内耳が腐りそうだ。そう思ったとき、突然渡辺は自らがどうしようもなく下卑て不潔な存在であることを悟った。それは何か天啓のようですらあった。そしてその啓示をもたらしたのは、間違いなく眼前の男だった。
 男は渡辺の問いには答えなかった。ただ右の中指で自身の膝を数回叩き、拳を握った。
「二年の小野田です」
 その声は何処までも清潔だった。
「対応を誤ると命取りになるんです」
 渡辺は反射的に目を閉じた。本当は耳も塞ぎたかった。できることなら部屋から飛び出してしまいたかった。
 この男を前にすると、心が震える。
 その震えは何に由来するものなのか。嫌悪なのか恐怖なのか、あるいはもっと別の衝動なのか。
 別の衝動?
 たとえば?
 たとえば、
「『由比誓は淫売だ』」
「なっ……」
 思わず目を開ければ、そこには美しい異物。
「『男と見れば誰とでも寝る淫乱だ』」
 鼓動が躓く。相手は単にテーブルの上の文書を読んだだけなのだと分かっていても、動揺を隠せない。だが男は彼には目もくれなかった。こちらの存在など忘れてしまったように、視線を落としたまま呟く。
「くだらない」
 それはしかし、まるで彼に突きつけられた言葉であるかのような鋭さで、今にもどろどろと腐った内容物が溢れ出てきそうな渡辺の耳を抉った。



 チョークを握る硝子細工のように繊細な指先が、右肩上がりのやはり繊細な文字を紡いでいく。上着を脱いでいるせいで露わになっている薄い肩に、ほっそりとした腰に、袖口から覗く手首にさえ、苛立つほど視線を奪われる。そしてそれは自分に限ったことではない。
 不思議なものだ、と小野田は思う。この場にいる全ての人間があまりにも強烈な違和感を無言のうちに共有しているのに、その根源である男は、何も気づかないようにひたすら板書を続けている。
 いったい何故こんな男がこの世に存在するのだろう。そしてよりによって何故ここに、俺の目の前にいるのだろう。
 先日見た光景が、今も角膜に張りついている。
『私は教師なんですよ、小野田君』
 そう言って男は笑った。一瞬、眼球が凍りつくのではないかと思った。それくらい冷徹で残忍で、そして美しい笑みだった。
 これまでの十七年の人生で、あの瞬間ほど強烈な恐怖を覚えたことはない。そして同時に、あれほどまで激烈に欲情したことも。男によって与えられた凄まじい衝撃は、最早暴力といってよかった。だから男が階段を下りていったときも、瞼さえ動かせずに見送るほかなかった。そして近づいてくる別の足音に我に返ったとき、尋常ならざる混乱に襲われた。スラックスの中で、下着が濡れていた。視認するまでもなかった。小野田は吐精していた。
 以来、彼は何かに取り憑かれてしまった。ただひたすら、硬い鑿で自身の骨に彫り込むように、音のない言葉を繰り返している。
 ――あの男を、壊したい。
 放課後、学校の最寄駅から少し離れたファストフード店に足を運んだ。金がなく女もいない連中がたむろする場所など、限られている。かねてから目をつけていた同級生の一群は、案の定店の二階にいた。近寄ると彼らの会話が耳に入ってくる。
「一年の三村ってさあ、胸でけえよな」
「Eは余裕だな」
「うわーやりてー」
「マジかよ。俺無理。あいつ顔面陥没してんじゃん」
「ヤるとき顔に紙袋でも被せときゃいいだろ」
「ははっそりゃいいわ」
 他の客が気の毒になるほど下品な内容に辟易する。正直にいえば、周囲の人間にこれらと同類だとは思われたくない。しかし数分の我慢だと思い、彼は集団に声をかけた。
「なんだお前ら、男ばっかでお茶してんの。寒いな」
 五人ほどいた同級生は、小野田を見ると揃って嫌な顔をした。
「小野田かよ。聞いてたのか?」
「つか、ぼっちで来たお前が他人のこと言えねえだろ」
「俺は一人の時間を過ごしに来たんだよ」
 もてない男の僻みは醜い、そう考えながら小野田は愛想笑いをした。
「――でも、気が変わったわ。お前らさ、そんなに溜まってんなら、特別にヤれる奴紹介してやってもいいよ」
 椅子にふんぞり返っていた同級生らは、彼の言葉を聞いた途端身を乗り出した。
「マジで?」
「マジで」
 小野田は肯いた。
「金ならねえぞ」
「俺をお前らと一緒にすんなよ。ちょっとした慈善事業だからな。タダだ、タダ」
「うわっマジかよ」
「おい、ここに神がいるぞ」
「よろしくお願いします小野田さん」
 さすが低能の猿どもだ。嘲笑いたい気分になって、頬の筋肉に力を入れて、彼は笑いの波を抑え込む。
「……あ、けどさ、すげえブスとかババアとかはやめろよ」
「おお、そうだな、お前冷静だわ」
「まずは向こうのスペックを教えてくれ。話はそれからだ」
 一人の声をきっかけに、たちまち全員が我に返る。小野田は有無を言わさず片っ端から殴りつけてやりたい衝動に駆られた。
「スペックねえ……そうだな、俺らより十くらい上だけど超美人だな。あとはまあ、黒髪色白細身」
 マジで、マジかよ、の大合唱が湧き起こった。耳を塞ぐわけにもいかないので、片眉だけを用心深く顰めるにとどめる。しかしこの猿どもは「マジ」しか言えないのだろうか。頭の悪い人間といると、自分まで知能が低下していくような気分になる。
「おいおいおい清楚系じゃん」
「なのに高校生とヤるような淫乱なのかよ。エッロ」
「なあなあ、巨乳? 童顔? ОL? 看護師?」
「つか小野田、お前そんな美女と何処で知り合ったんだよ」
 はしゃぐ猿の群れに、やれやれ、と小野田は肩を竦めた。
「美女じゃねえよ」
「へ?」
 五人はゼンマイが切れたように静かになって、それぞれ異なった醜さを備えた顔面を並べ、こちらをぽかんと見つめた。にきびだらけの脂ぎった顔できょとんとされてもむさ苦しいだけなのに、よくも堂々とそんな間の抜けた顔を晒せるものだと思う。だが、頭の中に精液が詰まっているような低能なのだ、そこまで気が回るはずもない。きっとこの猿どもはがっついた汚らしいセックスをするのだろう。AV男優の真似をして、滑稽な言葉を吐いて相手を辱めるのだろう。息も腋も、性器だって臭いに違いない。もしこんな畜生どもに欲望のまま輪姦されたら、まず大怪我は免れないし、もし自分なら確実に発狂する。
「……だって、超美人、なんだろ?」
 そうだ、狂ってしまえばいい。
「男だから」
 がたん、と音を立ててテーブルが跳ねた。誰かが勢いよく拳を叩きつけたらしい。幼稚な行為だ。
「小野田……そんなに俺らの煩悩を弄ぶのが面白いのか」
「ふざけんな。多少女受けがいいからって調子に乗りやがって」
「表に出ろ」
 騒ぎだす集団に、小野田は敢えて冷たい視線を向けた。
「落ち着けよ見苦しい。俺は別に冗談を言ってるわけじゃない。確かに相手がお前らみたいな不細工だったら萎えるどころの話じゃねえけどさ、あいつなら大丈夫だ」
「アホか。無理に決まってるだろ男なんて」
「誰が男相手で勃つかよ」
「まさか小野田、お前ってもしかしてそっちの……」
「――由比だよ」
 小野田の一言で、低能たちは低能らしく沈黙した。理解できないらしい。
「分かんねえの? 由比だよ、由比。現代文の由比誓。あいつなら勃つだろ」
 苛立ってまくしたてると、漸く低能たちは反応を示した。
「お前それ……マジで洒落になんねえって……」
「そ、それにあいつ、教師だし、無理無理無理」
 明らかに腰が引けている。小野田は思わず舌打ちした。
「けどお前ら、由比で抜いたことあんだろ?」
「なっ、何言ってんだよ。んなことするわけねえだろ!」
「おおお男で抜くほどオカズに困ってねえし。なあ?」
「目が泳いでんだよ馬鹿。別に隠す必要ねえだろ。俺は抜いたね、あいつ無駄にエロいからさ。近寄るとすげえいい匂いするし、肌とか女より綺麗だし。授業中の顔とか声とか思い出すだけで余裕だわ」
 誰かの喉が鳴る、ごくり、という音が、いやに大きく生々しく響く。
「特にあの目がいいんだよな。冷たいけど濡れてて、ぞくぞくする。俺のしゃぶらせながら見上げられたらやばいだろうな」
「や、やめろよ……」
「腰なんか細いだろ、ほんと堪んねえよな。突っ込んだらきっとぎゅうぎゅう締めつけてくるぜあれ」
「小野田ぁ、マジやめてくれよ……」
「でも慣れてるっぽいから、締めつけはきつくても中はトロトロだろうな」
「……慣れて、る?」
「あいつ、ビッチだぜ」
 今度こそ、完全な沈黙が訪れた。
「手紙貰ったんだ。差出人は書いてなかったけど、その中にUSBメモリも入ってて、そこにあいつの画像とか動画とかのデータが大量にあってさあ、さすがにハメ撮りまではなかったけど、でもまあ要するに、そういうことだよな。……って、おい、何処行くんだよお前ら」
 ほぼ何も入っていないような薄い鞄を抱え通路へ出ていこうとした低能集団は、小野田の声に怯えたように振り返った。
「いや、その、俺らそういう危ない系はちょっと……」
「どういうことだよ」
「確かに由比ならいけるとは思うけどさ、でもあいつうちの教師だし、それになんか上手く言えねえんだけど、由比って……なあ?」
「ああ。なんか……あれだよな」
 猿の群れは顔を見合わせて言葉を濁らせる。それを見て、小野田は徐に席を立った。五人に近づき、いきなりすぐ脇にあった椅子を蹴る。周囲の客が一斉にこちらを見るほど大袈裟な悲鳴を上げて、椅子は床に転がった。
「知性と語彙が足りねえのはよく解ったから、はっきり喋れカスどもが」
 しかし次の瞬間には、猿たちは後ろも見ずに階段を駆け下りていた。
「死ね」
 短く吐き捨てて、テーブルに戻る。散らかったトレーや紙コップを睨みつけ、それからちらちらとこちらを窺っている隣席の客にも、同質の視線をぶつけてやる。女子大生風のその二人組は、顔を強張らせて慌てて俯いた。
 いったい何が拙かったのだろう。そう小野田は自問する。あの男が教師だから怖気づいたのだろうか。いや、それだけではないはずだ。彼らは恐らくあの男の中にある何かに気づいていた。猿に相応しい動物的本能で、人間であるところの小野田には解らない何かに。
 あるいは、自分は実は既にそれに気づいていて、だからこそあの男を傷つけたいと思うのだろうか?
 不意に、肩に生温かいものが触れた。
「見ぃちゃったぁ」
 驚いて振り向くと、背後に眼鏡の男が立っていて、小野田の肩に手をかけていた。
「……またあんたかよ」
 白衣を着ていないせいで、一瞬誰か判らなかった。
 顔をしかめて馴れ馴れしい手を振り払うと、相手はにやにや笑って勝手に隣の席に座った。
「言ったでしょう。こういうのはね、絶対的な指導者が必要なんですよ。例えば、僕のような」
 そう言って朝倉は、テーブルに残されていた紙コップを取った。それから蓋を外し、氷が融けてコーラとも水ともいえない液体になった中身を、ぐいっと飲み干す。小野田は吐き気を覚えた。
「で、この間の話ですが、僕と組む気にはなりましたか?」
 袖で口許を拭う朝倉から目を背け、小野田はトレーに敷かれた広告を見つめる。それによると、なんでもこのチェーン店でアルバイトをすると、友達が増えて社会経験が積めて彼女ができるらしい。
「……あの手紙、差出人は本当にあんたじゃないんだな?」
「違いますよ。僕にも同じものが送られてきたと言ったでしょう?」
 食べ残しのポテトを摘んでいるらしく、相手の声はひどくもそもそとしていた。
「同じ手紙とデータを受け取った人間が同じ学校に二人いた……つまりこれは協力してこの『事業』に取りかかれという神の啓示です」
「神ねえ……」
 こいつは頭がおかしい。それは分かっている。巧みな話術で面白い授業をすると生徒には人気だが、小野田は最初からこの人間に気味の悪いものを感じていた。話を聞いていると、化学の授業のはずなのに、何か新興宗教にでも勧誘されているような気がしてくるのだ。
「男子高校生の性欲とその適切な処理方法に関するセミナーを開きましょう。手伝ってくれますね?」
 小野田の考えを知ってか知らずか、朝倉はそんなことを言って、油塗れの指を舐めて笑った。



 遅い夕食の席で、明後日から出張に行くと告げると、それまでぼんやりと自分の掌を見ていた妻の様子が一変した。
「……何処へ? 東京?」
 大きく見開かれた眼球はまるでガラス玉のよう。それが徐々に血走るさまを思い描きながら、そうだ、と義隆は短く答えた。続く台詞は分かっていたが、先回りしてやる義理はない。
「あの子に会うの?」
「あの子?」
 はぐらかせば妻は唇を歪める。青白い歯が、その隙間からちらりと見えた。
「誓よ」
「都合がつけばな」
「それで、あの子と寝るのね?」
「いい加減にしろ。彼とは何もない。いったい何度言えば分かるんだ」
 すると妻は笑っているのか泣いているのか判じがたい表情で低く唸った。
「でも、抱きたいんでしょう?」
 淡く彩られた桜貝のような爪が、がりがりとテーブルクロスを引っ掻いている。銀糸の百合の刺繍が無残にほつれていくのを彼は眺めた。
「あなたたちはみんな一緒よ」
 初めて出会ったとき、透き通るように美しい女性だと思った。その美貌は衰えていない。けれどもう、以前のように妻の美しさに感じ入ることができなくなっていた。それは慣れではなく、恐らくは相対的な問題だった。今なら彼女が、婚約後もなかなか自分を弟に会わせようとしなかった理由が解る。
「いいか、俺は同性愛者じゃない。男など願い下げだ」
「そんなの関係ないわ」
「関係ない?」
 底なし沼のように暗い瞳孔が、二つ並んで奇妙な光を浮かべている。
「関係ないのよ、あの子の前ではそんなこと。あの子自身、関係がないんだもの」
「彼はゲイなのか?」
「違う」
「だったらどうして」
「知っているからよ」
 知っているの、私はよく知っている、あの子がどういう人間なのか、今までどんなふうに生きてきたのか、これからどんなふうに生きていくのか、私がいちばんよく知っている。
 言いながら妻は顔を手で覆った。針金のように細い指だった。こんなに痩せていただろうか、そんな疑問がちらりと頭を掠めて消える。
「お前は弟に嫉妬しているだけだ」
「あなたが何も解っていないだけよ」
 指の隙間から目が覗いた。それは獣の眼球だった。人間の瞳ではなかった。
「あの子は怪物なの。世界でいちばん恐ろしい怪物、人を怪物に変えてしまう怪物なの。それは誰にも、チカ君自身にも、どうにもできないことなの。だからお願い、あの子に近づかないで」
 付き合っていられない、そう思った。だから無言で席を立った。そして名古屋を発つまで、妻とはろくに口をきかなかった。しかし彼女の発した言葉は、東京にやってきてからも頭の隅に留まり続けていた。それは静かに、けれど確実に、脳髄の内部へ冷たい根を下ろしている。
 怪物。あれはいったいどういう意味なのだろう……。
「義隆さん」
 名を呼ばれ、我に返った。客で埋まったテーブルの間を縫って、一人の男がこちらに向かって歩いてくる。その顔には、相変わらず見る者の網膜をじかに愛撫するような笑みが浮かべられている。
「お待たせしました。わざわざこんなところまで来ていただいて、すみません」
「いや、来たばかりだ」
 時計は午後八時二十分を指していた。約束の時間より十分も早い。
 職場まで迎えに来られると目立つので、と義弟に訴えられ、彼の知っている店で待ち合わせをしていた。そこは学生が時間を潰すために使うような全国チェーンの喫茶店だった。自分ならまずこんな店には入ろうとさえ思わない。時刻も時刻なのだ、気のきいたバーを指定するだろう。しかしそのあたりの飾り気のなさが彼らしいともいえた。存在自体が既に眩いほどの男なのだ。何を取り繕ったり気取ったりする必要があるだろう。こういった無頓着ささえ魅力になるような優雅さは、決して意図して身にまとえるものではない。
「行こうか」
 促すと、義弟は肯いた。黒い髪がさらりと揺れて、甘い香りがした。
 予約を入れておいたのは代官山のレストランで、義弟はいつものように清潔だが安物のスーツを着ており、そしてやはりいつものように、その場にいるどんな人間よりも上等だった。まるでこの男だけ異なる物質から組成されているかのようだ。ふと、妻のことが脳裏に浮かんだ。妻は血の繋がった弟に対し、憎悪に近い劣等感を覚えている。彼女が纏う慎ましさは、実は単なる自己卑下の産物であり、庇護欲をそそるか弱さは、ただの自信のなさの表れに過ぎないのだということに、自分は結婚するまで気づかなかった。あるいは新堂叶――由比叶と言い換えた方がよいのだろうか――という人間の人格は、この男の存在によって形成されたのかもしれない。
 だが、仮にそうだとして、それがいったいどんな意味をもちうるだろう?
 なんにせよ、妻の指摘は正しかった。彼は義弟に対して、密かに欲望を抱いている。
「どうして飲まないんだ」
 アペリティフを断るさまを咎めると、義弟は軽く頭を振った。上品だが頑なな仕種だった。
「前にもお話ししませんでしたか。お酒は苦手なんです」
「カクテルの一杯や二杯、飲めないでどうする」
「飲めないわけではありません。飲まないと決めているんです」
「まさか、酔うと暴れるのか」
「いいえ」
「泣くのか」
「いいえ」
「じゃあどうなるんだ」
 どうもなりませんよ、と義弟は笑った。
「それなら飲めばいい」
 しかし義弟は肯こうとしなかった。しつこく追及するのは彼の性に合わない。それでも今夜はどうしても、相手の本音を引き出したかった。
「はっきり言え。何故飲まない」
 彼が強い口調で迫ると、男はテーブルの上で拳を握った。筋と関節が白く浮き上がり、まるで抽象彫刻のよう。
「飲むと、判断力が鈍るので」
 いやに抑揚を欠いた声だった。そして、あまりにも無意味な答えだった。義隆は思わず眉間に皺を寄せた。そんなつまらない理由で飲酒を忌避する人間が何処にいるだろう。
「馬鹿だな、酒を飲めば誰でもそうなる」
 すると突然、義弟は声をあげて笑った。鈴を転がすような、澄んだ響きだった。けれどそれは氷でできた鈴だった。
「ええ、そうなんです。そのとおりなんです。全く馬鹿げた話なんですよ。解っています」
 そう言って男は顔をこちらに向ける。笑っているのに、表情がなかった。
「でも、あなたにそれを言う資格があるんですか」
 黒い瞳孔が二つ、まるで、底のない沼のように。
 食事は失敗に終わった。義弟は何事もなかったかのように振る舞ってはいた。しかし酒には一切手をつけず、不機嫌とまではいかないものの時折無表情になった。柄にもなく相手の機嫌を取るはめになった彼は、とりあえず研究を褒めておけばよいのだろうと考えた。
「お前はその世界じゃ随分有名らしいな」
 義弟は口許だけで笑った。
「そんなことありませんよ。ただの院生ですから」
「いいや。前に話さなかったか? 以前知り合いのパーティで、ある文学者を紹介された。素人の俺でもテレビで見て知っているような有名人なんだが、彼に婚約者の弟が研究者の卵だと言ったら、向こうは由比誓の名を知っていた」
「それは光栄ですね。その方とは今もお付き合いが?」
 義弟は眉一つ動かさず、魚にナイフを立てた。興味がないらしい。それでも義隆は続けた。
「ああ。俺も商売をやっている人間だ、有名人と付き合って損はない。お前だって繋がりは大事だろう? この前の結婚式にも呼んでいたんだが、あいにく急な仕事が入ったとかで来なかった。本当はその場で紹介しようと思っていたんだが」
「残念ですね。ちなみに、何という方ですか」
 会話を成立させるためだけの問いをさらりと口にして、男はグラスの水を飲む。濡れた唇に意識を根こそぎ持って行かれそうになりながら、義隆は必死に言葉を紡いだ。
「柄島永明だ。知っているか?」
 返事はなかった。
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