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第十二章 全き異端者のためのサラバンド
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「先生、『こゝろ』って教科書に載ってるぶんで全部じゃないんですよね?」
「このあとどうなるのか凄く気になります」
「本買っちゃおうかと思うんですけど、先生的にはオススメですか?」
授業が終わるといつものように女子生徒に囲まれた。彼は愛想よくそして適当に返事をする。
「ええ、教科書に掲載されているのはほんの一部です。興味があったら是非読んでみてください。学校の図書室にもあるはずですよ」
少女たちの視線は空気に等しい。ふわふわと軽く、ただそれだけである。だが男の視線は鬱陶しい。粘ついた不特定多数の眼差しが頬に、首筋に、腰に纏わりついて離れない。慣れたはずのその粘着質な視線に今日は何故か苛立ちを覚え、彼は話しかけてくる生徒に肯きながら教室を見渡した。すると慌てて目を逸らす男子生徒の群れの中で、ただ一人睨み返してくる生徒がいた。ああ、こいつか、と彼は納得した。以前自分を脅そうとした生徒、小野田だ。
由比は話しかけてくる誰かに対し相槌を打ちながら考える。俺はいつかこの男に強姦されるのだろうか。そしてこの男はそれにより破滅するのだろうか。前にも同じようなことがあった。きっとまた同じだろう。たとえ小野田が思いとどまったとしても、別の誰かがやるだろう。何もかもが同じことの繰り返しだ。くだらない。つまらない。
授業が全て終わったので、由比は職員室に戻ると荷物をまとめた。鞄を持って扉に手をかけようとすると、それは勝手に開いた。白衣の男が目の前に立っている。
「お先に失礼します」
標準装備の微笑を浮かべ、彼は滑らかに挨拶した。すると男は眼鏡越しの瞳で一瞬彼を凝視してから、すぐに目を伏せた。何やら口の中で呟いているのが見えたが、その声はやはり、彼の耳には届かなかった。
あんな調子で授業ができるのだろうか、と由比は玄関に向かって歩きながら考えた。だが、授業中と普段とでは別人のようになる教員もいる。この男もその類の人間なのかもしれない。けれどそんなことはどうだってよかった。今は考えるべきことが山ほどある。彼は軽く頭を振り、溜め息を噛み殺した。これから警察署に行くのが、ひどく億劫だった。田宮の件に関して、まだ警察に話していないことなどあっただろうか。
田宮は行方不明になっていた。田宮と一緒になって彼を輪姦した共犯者たちも、まだ見つかっていない。
田宮とその仲間に解放されたあと、由比は眩暈が酷く自力では動けなかった。彼が高架線の下でぐったりしていると、通りがかったカップルが彼を発見して救急車を呼び、結果的に警察沙汰となった。もちろん彼は被害者であったため、救急隊員も医者も警官も誰もが真摯に対応してくれた。だが自分が持て余されていることを由比は知っていた。何せ初めてではない。年に一度は必ず厄介になっている。本当はお前が誘ったんだろう、と面と向かって言われることはないが、忌まわしい存在として認識されていることは確かだ。
くだらない、と彼は思う。これからまた度重なる事情聴取と煩雑な手続きに追われ、時間を浪費する。それもわざわざ自分を手籠めにした加害者のために。全く馬鹿げている。
研究がしたい、と彼は思う。他のことは全て忘れ、ただ、読んで、考えて、書きたい。そうだ、『こゝろ』だっていい。たとえそれがどんなに大勢の研究者によって徹底的に読み込まれたテクストであろうと、自分の手は誰も触れられなかったものを掴むことができる。誰も目にすることの叶わなかった完璧な展望を提示することができる。由比誓という人間の価値は、そこにある。ほかには何もないし、何もいらない。
「借金?」
由比が繰り返すと、目の前の男は肯いた。慎重な語り口と神経質そうな青白い額は、刑事というより、それこそ由比と同じ文学研究に携わる人間のように感じられる。専門は堀辰雄といったところだろうか。
「田宮はギャンブルにのめり込み、消費者金融から多額の借金をしていました。返済は滞りがちで、職場にもたびたび督促の電話がかけられ、かなり追い詰められていたようです。それが、あなたを暴行する一週間前に借金を完済し、おまけに仕事をやめ住んでいたアパートも引き払っている。五百万もの金を田宮がどうやって工面したのか、そして何処へ姿を消したのか……」
由比は溜め息をついた。そんなことを俺に話して何の意味がある。
「つまり、それらと私の事件との間に何らかの繋がりがあると考えているわけですか」
「数多ある可能性の一つとして」
思わず眉間に皺を寄せる。何だそれは。ふざけているのだろうか。
こつこつこつ。
「田宮に飲みに呼び出され薬を盛られ車に連れ込まれ何処かに連れて行かれ輪姦され放り出された、ただそれだけの私に可能性の一つの話をしても仕方ないでしょう」
由比は苛々と続けた。
「別に私は不確定要素で組み立てられた一個人の妄想を聞きたいわけではありませんが、かといって事実が知りたいというわけでもありません。田宮が違法な手段で金を入手していたとしても、そして今頃何処かで別件の加害者なり被害者なりになっていたとしても、私の関知するところでは――」
「――ところで由比さんは、学費はどうやって工面なさっているんですか?」
こつこつこつ。
「は?」
彼が低く問い返すと、刑事は外国映画の俳優がするように両の掌を開いて彼に晒した。
「私立は授業料が高いと聞きます。アルバイトだけではやっていけないんじゃありませんか」
「……答えても構いませんが、その前にどういう意図でそんな質問をしたのか教えていただけませんかね」
苛立ちが怒りに変わっていくのが分かる。
いったいこの男は何を考えているのだろう。
まさか田宮が得た金の一部が由比に流れたと考えているのだろうか?
そして田宮と由比が金を巡って仲間割れしたか、あるいは単に由比が田宮を嵌めたとでも?
刑事は妙に泰然と構えている。ずれてもいないネクタイの位置を直し、ついてもいない袖の埃を払う。
「意図などありません。ただの世間話ですよ、由比さん」
由比は心の中で悪態をついた。
こつこつこつ。
「今日は世間話をするためにわざわざ私を呼んだんですか? 刑事さんというのは庶民の想像以上にお暇なんですね。ところで共犯者の方も見つかっていないそうですね? 暇を持て余している場合ではないと思いますが」
彼の攻撃に、刑事は芝居がかった仕種で首を竦めた。
「ああ、今日はそのためにわざわざお呼びしたんです。本題から逸れてしまって申し訳ない」
こつこつこつ。
「――不安ですか?」
「……何ですって?」
「お気持ちは分かります。強がる必要はありません」
「何ですか、急に」
この男は頭がおかしいんじゃないか、そう思いかけて由比は相手の視線の先にあるものに気づいた。中指だ。すぐに彼は指をきつく握り込んだ。音はやんだ。
「犯人が全員捕まるまで、用心してください。特に夜道の一人歩きは危険ですよ。あなたのアパートの周辺は、電灯が少ないから」
そう言って刑事は歯を見せて笑った。濡れた犬歯がやけに尖って見えた。
外に出ても、ざらついた気持ちは元に戻らなかった。家に帰る気もしなかった。大学に行こう、そう決めて歩調を速めたとき、手にした鞄から微かな振動が伝わった。着信だ。
「――もしもし」
「由比さん、黒木です。今、話せますか?」
彼は小さく息をついて、後輩の声に耳を傾けた。世間知らずで真面目な学生の声だ。そこには犯罪とは無縁の、社会とも何処か隔たった、象牙の塔にこもる者だけがまとう浮世離れした空気がある。今の彼がもっとも吸いたいものだ。
「構わないよ。何?」
「今夜、会ってもらえませんか」
ああ――なんだ、セックスがしたいのか。由比は薄く笑って首を横に振った。だが、笑った理由が自分でもよく分からなかった。それで、首を振りながら了承した。
「いいよ、おいで。うちは何もないから、何か食べてきた方がいい」
「……一緒に食事でも、と思ったんですが」
「食事?」
「美味い石窯ピザを出す店なんです。値段もそんなに高くないし。行きませんか?」
「どうして?」
彼は首を傾げた。食事というものは、寝ない相手と行くものだ。あるいは、寝た相手とは食事には行かないものだ。
しかし黒木の方は由比の反応に戸惑ったようだった。
「どうしてって……好きな人には美味しいものを食べてほしいし、美味しいものは好きな人と一緒に食べたいと思うものでしょう」
解らない、と由比は思う。理屈は知っている。そんなものは今までテクストの中に死ぬほど見てきた。けれどそれらはフィクションだ。現実とは違う。現実の知覚、生身の感覚は、もっと鈍麻している。それとも俺が、俺だけが、平坦なのだろうか?
「君は俺が好きなんだ」
彼は目を閉じて言った。確認でも皮肉でもなく、単なる一事実として。
「はい。俺はあなたが好きです」
返された言葉もまた、確認でも皮肉でもない、単なる一事実として響いた。
「俺には……」
由比は目を開けた。眼前を、大量の人や車が流れていく。
「……君の気持ちが、絶対に解らないんだろうな」
返事はなかった。由比は足を止めて、目の前のものを眺めた。
横断歩道を親子が手を繋いで渡っていく。若い母親と幼い姉弟。その後ろを大学生くらいの男女が寄り添って歩く。女の髪留めが傾き始めた陽光を弾く。サラリーマンなのだろうか、スーツを着た中年と若者の二人組が前を横切る。中年の話に若い方が熱心に肯いている。新人なのだろうか、その胸元の青いネクタイは、まだこなれずに浮いている。彼はそっと瞼を下ろす。自分はある種の営みから、恐らくは先天的に排斥されている。
電話の向こうは奇妙に静かだった。このまま通話を切ってくれないだろうか、と彼は思った。だがそのとき、静かな返事が彼の鼓膜を揺らした。
「――たぶん、あなたの気持ちも俺には解らないと思います」
相手の言葉に、由比は笑った。今度ははっきりとした理由の下に笑った。
そうだ、解らないのだ。だからお前はもう、ここまでだ。誰もこの先には進めない。どんな人間もここで踵を返す。
由比誓という人間の、病的なまでの浅さから逃げ出すように。
「由比さん」
それなのに。
「解り合えない者同士、美味い飯を食って同じベッドで眠りましょう」
それなのにこの年下の男は、ひっそりと笑って受け入れてしまう。
何故、と訊ねたい。だが、好きだから、と返されたらそれ以上何も訊けなくなってしまう。どうしたって由比には解らない。この指は、テクストの織り目以外のものを解くことができない。
「……何時に何処に行けばいい?」
「このあとどうなるのか凄く気になります」
「本買っちゃおうかと思うんですけど、先生的にはオススメですか?」
授業が終わるといつものように女子生徒に囲まれた。彼は愛想よくそして適当に返事をする。
「ええ、教科書に掲載されているのはほんの一部です。興味があったら是非読んでみてください。学校の図書室にもあるはずですよ」
少女たちの視線は空気に等しい。ふわふわと軽く、ただそれだけである。だが男の視線は鬱陶しい。粘ついた不特定多数の眼差しが頬に、首筋に、腰に纏わりついて離れない。慣れたはずのその粘着質な視線に今日は何故か苛立ちを覚え、彼は話しかけてくる生徒に肯きながら教室を見渡した。すると慌てて目を逸らす男子生徒の群れの中で、ただ一人睨み返してくる生徒がいた。ああ、こいつか、と彼は納得した。以前自分を脅そうとした生徒、小野田だ。
由比は話しかけてくる誰かに対し相槌を打ちながら考える。俺はいつかこの男に強姦されるのだろうか。そしてこの男はそれにより破滅するのだろうか。前にも同じようなことがあった。きっとまた同じだろう。たとえ小野田が思いとどまったとしても、別の誰かがやるだろう。何もかもが同じことの繰り返しだ。くだらない。つまらない。
授業が全て終わったので、由比は職員室に戻ると荷物をまとめた。鞄を持って扉に手をかけようとすると、それは勝手に開いた。白衣の男が目の前に立っている。
「お先に失礼します」
標準装備の微笑を浮かべ、彼は滑らかに挨拶した。すると男は眼鏡越しの瞳で一瞬彼を凝視してから、すぐに目を伏せた。何やら口の中で呟いているのが見えたが、その声はやはり、彼の耳には届かなかった。
あんな調子で授業ができるのだろうか、と由比は玄関に向かって歩きながら考えた。だが、授業中と普段とでは別人のようになる教員もいる。この男もその類の人間なのかもしれない。けれどそんなことはどうだってよかった。今は考えるべきことが山ほどある。彼は軽く頭を振り、溜め息を噛み殺した。これから警察署に行くのが、ひどく億劫だった。田宮の件に関して、まだ警察に話していないことなどあっただろうか。
田宮は行方不明になっていた。田宮と一緒になって彼を輪姦した共犯者たちも、まだ見つかっていない。
田宮とその仲間に解放されたあと、由比は眩暈が酷く自力では動けなかった。彼が高架線の下でぐったりしていると、通りがかったカップルが彼を発見して救急車を呼び、結果的に警察沙汰となった。もちろん彼は被害者であったため、救急隊員も医者も警官も誰もが真摯に対応してくれた。だが自分が持て余されていることを由比は知っていた。何せ初めてではない。年に一度は必ず厄介になっている。本当はお前が誘ったんだろう、と面と向かって言われることはないが、忌まわしい存在として認識されていることは確かだ。
くだらない、と彼は思う。これからまた度重なる事情聴取と煩雑な手続きに追われ、時間を浪費する。それもわざわざ自分を手籠めにした加害者のために。全く馬鹿げている。
研究がしたい、と彼は思う。他のことは全て忘れ、ただ、読んで、考えて、書きたい。そうだ、『こゝろ』だっていい。たとえそれがどんなに大勢の研究者によって徹底的に読み込まれたテクストであろうと、自分の手は誰も触れられなかったものを掴むことができる。誰も目にすることの叶わなかった完璧な展望を提示することができる。由比誓という人間の価値は、そこにある。ほかには何もないし、何もいらない。
「借金?」
由比が繰り返すと、目の前の男は肯いた。慎重な語り口と神経質そうな青白い額は、刑事というより、それこそ由比と同じ文学研究に携わる人間のように感じられる。専門は堀辰雄といったところだろうか。
「田宮はギャンブルにのめり込み、消費者金融から多額の借金をしていました。返済は滞りがちで、職場にもたびたび督促の電話がかけられ、かなり追い詰められていたようです。それが、あなたを暴行する一週間前に借金を完済し、おまけに仕事をやめ住んでいたアパートも引き払っている。五百万もの金を田宮がどうやって工面したのか、そして何処へ姿を消したのか……」
由比は溜め息をついた。そんなことを俺に話して何の意味がある。
「つまり、それらと私の事件との間に何らかの繋がりがあると考えているわけですか」
「数多ある可能性の一つとして」
思わず眉間に皺を寄せる。何だそれは。ふざけているのだろうか。
こつこつこつ。
「田宮に飲みに呼び出され薬を盛られ車に連れ込まれ何処かに連れて行かれ輪姦され放り出された、ただそれだけの私に可能性の一つの話をしても仕方ないでしょう」
由比は苛々と続けた。
「別に私は不確定要素で組み立てられた一個人の妄想を聞きたいわけではありませんが、かといって事実が知りたいというわけでもありません。田宮が違法な手段で金を入手していたとしても、そして今頃何処かで別件の加害者なり被害者なりになっていたとしても、私の関知するところでは――」
「――ところで由比さんは、学費はどうやって工面なさっているんですか?」
こつこつこつ。
「は?」
彼が低く問い返すと、刑事は外国映画の俳優がするように両の掌を開いて彼に晒した。
「私立は授業料が高いと聞きます。アルバイトだけではやっていけないんじゃありませんか」
「……答えても構いませんが、その前にどういう意図でそんな質問をしたのか教えていただけませんかね」
苛立ちが怒りに変わっていくのが分かる。
いったいこの男は何を考えているのだろう。
まさか田宮が得た金の一部が由比に流れたと考えているのだろうか?
そして田宮と由比が金を巡って仲間割れしたか、あるいは単に由比が田宮を嵌めたとでも?
刑事は妙に泰然と構えている。ずれてもいないネクタイの位置を直し、ついてもいない袖の埃を払う。
「意図などありません。ただの世間話ですよ、由比さん」
由比は心の中で悪態をついた。
こつこつこつ。
「今日は世間話をするためにわざわざ私を呼んだんですか? 刑事さんというのは庶民の想像以上にお暇なんですね。ところで共犯者の方も見つかっていないそうですね? 暇を持て余している場合ではないと思いますが」
彼の攻撃に、刑事は芝居がかった仕種で首を竦めた。
「ああ、今日はそのためにわざわざお呼びしたんです。本題から逸れてしまって申し訳ない」
こつこつこつ。
「――不安ですか?」
「……何ですって?」
「お気持ちは分かります。強がる必要はありません」
「何ですか、急に」
この男は頭がおかしいんじゃないか、そう思いかけて由比は相手の視線の先にあるものに気づいた。中指だ。すぐに彼は指をきつく握り込んだ。音はやんだ。
「犯人が全員捕まるまで、用心してください。特に夜道の一人歩きは危険ですよ。あなたのアパートの周辺は、電灯が少ないから」
そう言って刑事は歯を見せて笑った。濡れた犬歯がやけに尖って見えた。
外に出ても、ざらついた気持ちは元に戻らなかった。家に帰る気もしなかった。大学に行こう、そう決めて歩調を速めたとき、手にした鞄から微かな振動が伝わった。着信だ。
「――もしもし」
「由比さん、黒木です。今、話せますか?」
彼は小さく息をついて、後輩の声に耳を傾けた。世間知らずで真面目な学生の声だ。そこには犯罪とは無縁の、社会とも何処か隔たった、象牙の塔にこもる者だけがまとう浮世離れした空気がある。今の彼がもっとも吸いたいものだ。
「構わないよ。何?」
「今夜、会ってもらえませんか」
ああ――なんだ、セックスがしたいのか。由比は薄く笑って首を横に振った。だが、笑った理由が自分でもよく分からなかった。それで、首を振りながら了承した。
「いいよ、おいで。うちは何もないから、何か食べてきた方がいい」
「……一緒に食事でも、と思ったんですが」
「食事?」
「美味い石窯ピザを出す店なんです。値段もそんなに高くないし。行きませんか?」
「どうして?」
彼は首を傾げた。食事というものは、寝ない相手と行くものだ。あるいは、寝た相手とは食事には行かないものだ。
しかし黒木の方は由比の反応に戸惑ったようだった。
「どうしてって……好きな人には美味しいものを食べてほしいし、美味しいものは好きな人と一緒に食べたいと思うものでしょう」
解らない、と由比は思う。理屈は知っている。そんなものは今までテクストの中に死ぬほど見てきた。けれどそれらはフィクションだ。現実とは違う。現実の知覚、生身の感覚は、もっと鈍麻している。それとも俺が、俺だけが、平坦なのだろうか?
「君は俺が好きなんだ」
彼は目を閉じて言った。確認でも皮肉でもなく、単なる一事実として。
「はい。俺はあなたが好きです」
返された言葉もまた、確認でも皮肉でもない、単なる一事実として響いた。
「俺には……」
由比は目を開けた。眼前を、大量の人や車が流れていく。
「……君の気持ちが、絶対に解らないんだろうな」
返事はなかった。由比は足を止めて、目の前のものを眺めた。
横断歩道を親子が手を繋いで渡っていく。若い母親と幼い姉弟。その後ろを大学生くらいの男女が寄り添って歩く。女の髪留めが傾き始めた陽光を弾く。サラリーマンなのだろうか、スーツを着た中年と若者の二人組が前を横切る。中年の話に若い方が熱心に肯いている。新人なのだろうか、その胸元の青いネクタイは、まだこなれずに浮いている。彼はそっと瞼を下ろす。自分はある種の営みから、恐らくは先天的に排斥されている。
電話の向こうは奇妙に静かだった。このまま通話を切ってくれないだろうか、と彼は思った。だがそのとき、静かな返事が彼の鼓膜を揺らした。
「――たぶん、あなたの気持ちも俺には解らないと思います」
相手の言葉に、由比は笑った。今度ははっきりとした理由の下に笑った。
そうだ、解らないのだ。だからお前はもう、ここまでだ。誰もこの先には進めない。どんな人間もここで踵を返す。
由比誓という人間の、病的なまでの浅さから逃げ出すように。
「由比さん」
それなのに。
「解り合えない者同士、美味い飯を食って同じベッドで眠りましょう」
それなのにこの年下の男は、ひっそりと笑って受け入れてしまう。
何故、と訊ねたい。だが、好きだから、と返されたらそれ以上何も訊けなくなってしまう。どうしたって由比には解らない。この指は、テクストの織り目以外のものを解くことができない。
「……何時に何処に行けばいい?」
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