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第八章 憂き被害者のためのアルマンド
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その日、彼は朝から女子生徒に取り囲まれていた。球技大会だった。
彼は時間講師なので、授業時間ぶんしか給与が支払われない。したがって、行事に出席する必要はなかった。しかし、他の教員や生徒の執拗な誘いに負け、やってきたのだった。彼は体育館の壁際に立って、バスケットボールの試合を眺めていた。由比が行事に参加するのは初めてだったので、生徒は試合よりも彼に関心を持った。由比はほとんど惰性でボールを目で追いながら、生徒たちから浴びせられる質問――彼女はいるのかとか、何処に住んでいるのかとか、そういったことだ――に対しエレガントな微笑を浮かべた。
「皆さんの想像どおりだと思いますよ」
言い終えてから彼は心の中で付け加える。俺には君たちの想像を想像することはできないけど。
他所ではだいたい男につきまとわれる彼だが、高校では逆だった。由比は女子生徒に人気があった。男子生徒の多くは彼が近寄ると恥ずかしそうな顔をした。しかし、この生徒に関しては例外だった。
「由比先生、竹内先生が呼んでるよ」
不意に手首を掴まれて振り向くと、一人の男子生徒が女子の輪の外から手を伸ばしていた。
彼は少し考える。小野田、だろうか?
「こっち」
女子生徒たちの不満の声を背に、由比は手を引かれるまま小野田のあとをついていった。途中で何処に行くのかと訊ねたが、返事はなかった。手を放すように言っても無視された。連れていかれたのは屋上に通じる階段の踊り場だった。壁に押しつけられると、逃げ場はもうなかった。
「竹内先生がお呼びだというのは嘘ですか。いけませんね」
掴まれたままの左手を見下ろして彼は言った。
「球技大会も立派な授業ですよ」
この男は右手を掴んではくれないのだ。
「先生に訊きたいことがある」
妙に切迫した口調に、由比は顔を上げた。小野田は恐ろしく真面目な顔をしていた。普段の軽い調子がなかった。何ですか、と彼は言った。
「あんた、ホモなの?」
単刀直入だった。由比は失笑した。
「どうしてそんなことを?」
言いながら相手を観察する。半袖のTシャツにアッシュグレーのジャージを着た小野田は、由比よりも五センチほど背が高く、体重は少なくとも十キロは重そうだった。
「……まあ、いいでしょう。答えは『違う』です。さあ、戻りますよ」
「だったら、どうしていつも男が部屋に泊まってくんだよ」
小野田はぐっと顔を近づけた。
「いい男だったね。学生っぽかったけど、もしかして大学の後輩?」
「君は私のストーカーですか。基本的なことですが、教員と生徒の間にも法は存在するんですよ」
由比は微笑を浮かべたまま冷たい目で教え子を見つめた。
「あんた、あいつと付き合ってんの」
「彼はただの友人ですよ」
「じゃあセフレか」
「妄言は大概にしなさい」
「とぼけても無駄だよ、先生。俺は知ってる」
「知ってる?」
硬い壁を背に感じながら、彼は小野田が実力行使に出た場合のことを考えた。体格的には相手に分がある。だがここは学校である。持久戦に持ち込んで大騒ぎすれば、そのうち誰かが来るだろう。
「先生さあ、男好きだなんて学校に知られたらやばいんじゃない? もしかしたらクビになるかも」
彼は首を横に振った。
「君は勘違いをしているようですが、私には男性に対し恋愛感情を抱く傾向はありませんし、ついでに言わせてもらえば、そんなくだらない理由で解雇されるわけがありません。君は今が西暦何年だと思っているんですか?」
甘い声と豪奢な笑顔で、由比は冷淡に言い放った。だが、小野田は彼の言葉を無視して更に接近した。下半身を擦り寄せ、左腕を彼の顔の真横につく。
「いいぜ、そんなに秘密にしたいなら黙っててやる。その代わり、俺にもあんたを抱かせろよ」
押しつけられた腰が立てる衣擦れの音が生々しく響く。
「話になりませんね」
「あのさあ、今肯いておいた方があんたのためだよ。俺、無理矢理ヤるの嫌いじゃないし」
下衆が、と彼は思った。
「君は私をレイプする、と?」
「まさか生徒にヤられたなんて誰にも言えないよな、センセイ?」
「やれやれ」
彼は溜め息をついた。教師として、教育者として、そして人生の先輩として、本当の意味での立場の違いというものを、教えてやらねばならないようだ。
どちらが強者でどちらが弱者なのか。自分はどちらの側なのか。それを見誤るとどうなるのか。
「――いいことを教えてあげましょう。君が思いつくようなことは、大抵既に誰かが考えて実行しています」
漢詩でも詠うような独特の抑揚。それは彼が出来の悪い生徒を指導するときのものだった。
「誰にでも言えるんですよ、私は。学校にも保護者にもPTAにも、もちろん警察にも。私に手を出して、退学程度で済むと思ったら大間違いです。君は君自身のあらゆる可能性を断たれる。そして過去の所業を悔いながら生きることになる。もしかしたら思い余って自殺を図ることになるかもしれない。これまで私を強姦した全ての教え子たちと同じようにね」
由比が軽く左手を引くと、小野田の手は簡単に外れた。
「前途有望な若者が道を踏み外すさまを目の当たりにするのは、とても悲しいことです。まあ、性犯罪者に同情の余地など皆無ですがね」
「あ、あんた……それでも教師かよ」
「君は解っていませんね。法を犯した生徒には贖罪させねばなりません。教え子を庇うために泣き寝入りするような愚かな人間は、教師とは呼べない」
彼は一際華やかに笑った。
「私は教師なんですよ、小野田君」
立ち尽くす小野田を置いて、由比は階段を下りていった。足元から歓声が響いていた。どうやら点数が入ったらしい。三階から二階へ下る踊り場で、彼は足を止めた。誰かが階段の前に立っていた。白衣を着て、眼鏡をかけた男。
「巡回ですか? お疲れ様です」
にこやかに声をかけると、白衣の男は何も言わずに階段を上がっていった。擦れ違いざま、男が口の中で何かを呟いた。その言葉が聞き取れず、由比は振り返って問い返したが、しかし返事はなかった。彼は一度小さく首を傾げてから、体育館へと戻っていった。
その日は大勢の生徒に囲まれてすごした。小野田はあれきり姿を現さなかった。試合が全て終わると、彼は終礼の間に学校を出た。そうすればもう誰にもつきまとわれない。そして真っ直ぐ大学に向かった。発表の準備をしなければならなかったし、図書館で『溺死者の回顧録』を借り直す必要もあった。あまりにも退屈な作品だったので内容を忘れてしまったのだが、作者と会談するならもう一度読み直さなければならない。面倒なことだ、と彼は思った。
研究室で資料を作っていると、携帯電話が振動した。ディスプレイに表示されたのは知らない番号だった。彼は電話とカードキーを持って外に出た。
「もしもし」
十秒ほど沈黙があった。悪戯電話かと思い始めた頃に、漸く相手が喋り始めた。
「…………チカ君。……私よ、叶」
「姉さん?」
姉から電話がかかってくるのは初めてだった。連絡は常に親を経由していたので、お互いに電話番号を知らなかった。母親にでも聞いたのだろうか。
「どうかした?」
ホールに向かって歩きながら彼は訊ねた。校内は閑散としている。時刻は午後八時を回っていた。この時間になると、もう学部生も教員も殆どいない。残っているのは彼のような院生ばかりである。
「…………義隆さんに、会った?」
姉は語尾を震わせた。それが彼女の喋り方だった。常に見えない何かに怯えている人なのだ。
「会ったよ。一昨日だったかな」
寝た相手のことは思い出せない由比だが、さすがに義兄との食事は覚えていた。
すると電話の向こうから、奇妙な音が聞こえた。何かが擦れるような音だった。
「……チカ君。お願いよ。義隆さんとはもう二度と会わないで。お願い」
冷たくて硬い声だった。いつもは不安定な発声が、このときだけは凍土のように固まっていた。由比は音のない溜息をついた。それから優しく問いかけた。
「どうして会ってほしくないと思うの?」
「お願い……会わないで……会わないで……」
「そういうわけにはいかないよ。だってあの人は俺の兄さんでもあるんだから。……姉さん?」
「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、」
「どうしたの? 具合でもわる……」
「ああああああああああああああなたはっ、あ、あ、悪魔よっ!」
金切り声が響いた。
「何でいつも私のものを横取りするの? 何でも持ってる癖に、どうして……どうして私の夫まで自分のものにしてしまうのっねえどうしてっ!」
彼は耳から携帯電話を離して姉の絶叫を聞いていた。彼女が何を言っているのかさっぱり解らなかった。ただ、何かを誤解しているということ、ひどく腹を立てているということ、その怒りの矛先が自分に向けられているらしいということは、何となく理解できた。
「ちょっと落ち着いて。新婚でストレスが溜まってるんだね。今、独り?」
「あなたはいつだってそうよ……夫だけじゃないわ、初めて付き合った人も、その次に付き合った人も、全員あなたに奪われた……あなたは男で、おまけに不能で不感症の癖に、何でこんなことをするの……私にどんな恨みがあるっていうの……」
姉が黙ると、こつこつ、という音が聞こえた。その音で、彼は自分の中指が壁を叩いていることに気づいた。彼はぎゅっと拳を握った。
姉は錯乱している、と由比は考えた。自分は姉の男を欲しいと思ったこともなければ、盗ったつもりもなかった。ただ男たちが勝手に彼を強姦していっただけだった。彼女に恨まれる筋合いはなかったし、彼女に恨みがあるわけもなかった。彼にとって姉の存在は、実家の傘立てとほぼ同等の質と量でしかなかった。
それでも彼はなるべく相手を刺激しないように、静かな口調で訊ねた。
「義兄さんは何処にいるの?」
だが、それが姉の気に障ったらしかった。小さく呻いていた彼女は、再び大声をあげ始めた。
「あの人がいたら何だっていうのよ。どうせ二人して口裏を合わせようとでも思ってるんでしょうけどね、でもそうは行かないわよ! もう全部……全部知ってるんだから!」
「知ってるって、何を?」
指は再び動きだしていた。彼は諦めてそのままにした。
「電話がっ、電話があったんだから! あなた頭がおかしいわ! 姉の新郎を寝取る弟なんて、そんな馬鹿な話、聞いたことない!」
電話? 由比は離していた携帯を再び耳に当てた。
「誰から、どんな電話があったの?」
「誰かなんて知らないわよ! あなたが彼と寝たって、一昨日レストランで食事したあとアパートまでタクシーで行って、それで、あなたの部屋で、か、彼とあなたが、や、や、やったって! あああああああああああ汚らわしいっ!」
脳裏をよぎったのはあの封書だった。『淫売』の二文字。それからあの鬱陶しい生徒。格の違いをわきまえずに、彼を脅迫しようとしてきた。そして過去の修羅場の数々。彼は溜息をついた。ただ我が身を守りたいだけなのに、何故自分は恨みばかり買うのだろう? 何故誰もが俺を傷つけようとするのだろう? そこまで考えて彼は頭を振った。自分は決して一方的に攻撃されているわけではない。コミュニケーションとは刺し違えることなのだ。きっと自分が彼らを理解できないように、彼らもまた自分のことを理解できず、そうやって互いに切りつけ合っているのだ。他者同士の接触とはそういう血に塗れたものなのだ。もしそれが嫌なら、己の手首を切る他ない。そして彼は自身の手首ではなく他者と切りつけ合うことを選んだのだ。自分で決めたからには、そうやって生きていく。
しかしそれでも、と彼は思う。いくら慣れているとはいえ、これ以上厄介事に巻き込まれるのはもううんざりだ。こんなストレスに蝕まれ続けるくらいなら、強姦のリスクに晒される方がまだましかもしれない。
そんなことを考えながら、由比はホールの壁によりかかり、姉の荒い息遣いが治まるのを待った。
「姉さん、誰がどういう目的でそんな電話をかけてきたのか知らないけどね、それは嘘だよ。確かに食事をして送ってもらったのは事実だ。でも義兄さんはタクシーから降りなかった。何もなかった」
姉は答えなかった。啜り泣くような不鮮明な声だけが聞こえていた。由比は窓から中庭を見下ろした。校舎の灯りがぼんやりと照らす芝生は、暗い海面のように深く静まり返っていた。
姉の泣き声は、彼に遠い昔を思い出させた。恋人を失うたび、彼女はそうやって泣いていた。彼女の怒りや悲しみは、いつも由比に向けられた。彼には理解できない呪詛を並べ、刃物を持ち出したことさえあった。だが、彼はいつだって被害者だった。誰にも彼を責める権利などなかった。だから彼を責めれば責めるほど、彼女は加害者へと堕していった。
「……仮に……仮にあなたの言うとおりだとしても……でもいずれ彼はあなたを口説くわ。今までの人だって皆そうだったもの。私が好きになった人は皆、私を捨ててあなたを好きになる……」
「そうかもしれないね」
啜り泣きが、咽び泣きに変わる。
「……あなたがいると……っ、私は、幸せに……なれない……」
窓枠にそっと片手を置いて、彼は視線を上げる。
「そうだね。でも」
星のない東京の空。今夜は月さえも隠れている。まるで底の知れない海原のよう。二つの海に挟まれているような四階からの展望に、ぽつりと言葉が零れる。
「俺も幸せにはなれないよ」
この身には愛がない。現実も小説のように、愛なき幸福などありえないというのなら、自分もまた彼女同様、幸せになることはない。
解らない。
人は何故、愛に、性に、拘るのか。
そして何故、そのために破滅していくのか。
本能という言葉で片づけられるものならば、何故自分にはそれが欠けているのか。
どんな小説を読んでも、どんな論文を読んでも、解らない。
導く星も、照らす月もなく、ただひたすらに深く暗い藍色のテクスト。
彼は目を閉じる。海鳴りが、聞こえた気がした。
彼は時間講師なので、授業時間ぶんしか給与が支払われない。したがって、行事に出席する必要はなかった。しかし、他の教員や生徒の執拗な誘いに負け、やってきたのだった。彼は体育館の壁際に立って、バスケットボールの試合を眺めていた。由比が行事に参加するのは初めてだったので、生徒は試合よりも彼に関心を持った。由比はほとんど惰性でボールを目で追いながら、生徒たちから浴びせられる質問――彼女はいるのかとか、何処に住んでいるのかとか、そういったことだ――に対しエレガントな微笑を浮かべた。
「皆さんの想像どおりだと思いますよ」
言い終えてから彼は心の中で付け加える。俺には君たちの想像を想像することはできないけど。
他所ではだいたい男につきまとわれる彼だが、高校では逆だった。由比は女子生徒に人気があった。男子生徒の多くは彼が近寄ると恥ずかしそうな顔をした。しかし、この生徒に関しては例外だった。
「由比先生、竹内先生が呼んでるよ」
不意に手首を掴まれて振り向くと、一人の男子生徒が女子の輪の外から手を伸ばしていた。
彼は少し考える。小野田、だろうか?
「こっち」
女子生徒たちの不満の声を背に、由比は手を引かれるまま小野田のあとをついていった。途中で何処に行くのかと訊ねたが、返事はなかった。手を放すように言っても無視された。連れていかれたのは屋上に通じる階段の踊り場だった。壁に押しつけられると、逃げ場はもうなかった。
「竹内先生がお呼びだというのは嘘ですか。いけませんね」
掴まれたままの左手を見下ろして彼は言った。
「球技大会も立派な授業ですよ」
この男は右手を掴んではくれないのだ。
「先生に訊きたいことがある」
妙に切迫した口調に、由比は顔を上げた。小野田は恐ろしく真面目な顔をしていた。普段の軽い調子がなかった。何ですか、と彼は言った。
「あんた、ホモなの?」
単刀直入だった。由比は失笑した。
「どうしてそんなことを?」
言いながら相手を観察する。半袖のTシャツにアッシュグレーのジャージを着た小野田は、由比よりも五センチほど背が高く、体重は少なくとも十キロは重そうだった。
「……まあ、いいでしょう。答えは『違う』です。さあ、戻りますよ」
「だったら、どうしていつも男が部屋に泊まってくんだよ」
小野田はぐっと顔を近づけた。
「いい男だったね。学生っぽかったけど、もしかして大学の後輩?」
「君は私のストーカーですか。基本的なことですが、教員と生徒の間にも法は存在するんですよ」
由比は微笑を浮かべたまま冷たい目で教え子を見つめた。
「あんた、あいつと付き合ってんの」
「彼はただの友人ですよ」
「じゃあセフレか」
「妄言は大概にしなさい」
「とぼけても無駄だよ、先生。俺は知ってる」
「知ってる?」
硬い壁を背に感じながら、彼は小野田が実力行使に出た場合のことを考えた。体格的には相手に分がある。だがここは学校である。持久戦に持ち込んで大騒ぎすれば、そのうち誰かが来るだろう。
「先生さあ、男好きだなんて学校に知られたらやばいんじゃない? もしかしたらクビになるかも」
彼は首を横に振った。
「君は勘違いをしているようですが、私には男性に対し恋愛感情を抱く傾向はありませんし、ついでに言わせてもらえば、そんなくだらない理由で解雇されるわけがありません。君は今が西暦何年だと思っているんですか?」
甘い声と豪奢な笑顔で、由比は冷淡に言い放った。だが、小野田は彼の言葉を無視して更に接近した。下半身を擦り寄せ、左腕を彼の顔の真横につく。
「いいぜ、そんなに秘密にしたいなら黙っててやる。その代わり、俺にもあんたを抱かせろよ」
押しつけられた腰が立てる衣擦れの音が生々しく響く。
「話になりませんね」
「あのさあ、今肯いておいた方があんたのためだよ。俺、無理矢理ヤるの嫌いじゃないし」
下衆が、と彼は思った。
「君は私をレイプする、と?」
「まさか生徒にヤられたなんて誰にも言えないよな、センセイ?」
「やれやれ」
彼は溜め息をついた。教師として、教育者として、そして人生の先輩として、本当の意味での立場の違いというものを、教えてやらねばならないようだ。
どちらが強者でどちらが弱者なのか。自分はどちらの側なのか。それを見誤るとどうなるのか。
「――いいことを教えてあげましょう。君が思いつくようなことは、大抵既に誰かが考えて実行しています」
漢詩でも詠うような独特の抑揚。それは彼が出来の悪い生徒を指導するときのものだった。
「誰にでも言えるんですよ、私は。学校にも保護者にもPTAにも、もちろん警察にも。私に手を出して、退学程度で済むと思ったら大間違いです。君は君自身のあらゆる可能性を断たれる。そして過去の所業を悔いながら生きることになる。もしかしたら思い余って自殺を図ることになるかもしれない。これまで私を強姦した全ての教え子たちと同じようにね」
由比が軽く左手を引くと、小野田の手は簡単に外れた。
「前途有望な若者が道を踏み外すさまを目の当たりにするのは、とても悲しいことです。まあ、性犯罪者に同情の余地など皆無ですがね」
「あ、あんた……それでも教師かよ」
「君は解っていませんね。法を犯した生徒には贖罪させねばなりません。教え子を庇うために泣き寝入りするような愚かな人間は、教師とは呼べない」
彼は一際華やかに笑った。
「私は教師なんですよ、小野田君」
立ち尽くす小野田を置いて、由比は階段を下りていった。足元から歓声が響いていた。どうやら点数が入ったらしい。三階から二階へ下る踊り場で、彼は足を止めた。誰かが階段の前に立っていた。白衣を着て、眼鏡をかけた男。
「巡回ですか? お疲れ様です」
にこやかに声をかけると、白衣の男は何も言わずに階段を上がっていった。擦れ違いざま、男が口の中で何かを呟いた。その言葉が聞き取れず、由比は振り返って問い返したが、しかし返事はなかった。彼は一度小さく首を傾げてから、体育館へと戻っていった。
その日は大勢の生徒に囲まれてすごした。小野田はあれきり姿を現さなかった。試合が全て終わると、彼は終礼の間に学校を出た。そうすればもう誰にもつきまとわれない。そして真っ直ぐ大学に向かった。発表の準備をしなければならなかったし、図書館で『溺死者の回顧録』を借り直す必要もあった。あまりにも退屈な作品だったので内容を忘れてしまったのだが、作者と会談するならもう一度読み直さなければならない。面倒なことだ、と彼は思った。
研究室で資料を作っていると、携帯電話が振動した。ディスプレイに表示されたのは知らない番号だった。彼は電話とカードキーを持って外に出た。
「もしもし」
十秒ほど沈黙があった。悪戯電話かと思い始めた頃に、漸く相手が喋り始めた。
「…………チカ君。……私よ、叶」
「姉さん?」
姉から電話がかかってくるのは初めてだった。連絡は常に親を経由していたので、お互いに電話番号を知らなかった。母親にでも聞いたのだろうか。
「どうかした?」
ホールに向かって歩きながら彼は訊ねた。校内は閑散としている。時刻は午後八時を回っていた。この時間になると、もう学部生も教員も殆どいない。残っているのは彼のような院生ばかりである。
「…………義隆さんに、会った?」
姉は語尾を震わせた。それが彼女の喋り方だった。常に見えない何かに怯えている人なのだ。
「会ったよ。一昨日だったかな」
寝た相手のことは思い出せない由比だが、さすがに義兄との食事は覚えていた。
すると電話の向こうから、奇妙な音が聞こえた。何かが擦れるような音だった。
「……チカ君。お願いよ。義隆さんとはもう二度と会わないで。お願い」
冷たくて硬い声だった。いつもは不安定な発声が、このときだけは凍土のように固まっていた。由比は音のない溜息をついた。それから優しく問いかけた。
「どうして会ってほしくないと思うの?」
「お願い……会わないで……会わないで……」
「そういうわけにはいかないよ。だってあの人は俺の兄さんでもあるんだから。……姉さん?」
「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、」
「どうしたの? 具合でもわる……」
「ああああああああああああああなたはっ、あ、あ、悪魔よっ!」
金切り声が響いた。
「何でいつも私のものを横取りするの? 何でも持ってる癖に、どうして……どうして私の夫まで自分のものにしてしまうのっねえどうしてっ!」
彼は耳から携帯電話を離して姉の絶叫を聞いていた。彼女が何を言っているのかさっぱり解らなかった。ただ、何かを誤解しているということ、ひどく腹を立てているということ、その怒りの矛先が自分に向けられているらしいということは、何となく理解できた。
「ちょっと落ち着いて。新婚でストレスが溜まってるんだね。今、独り?」
「あなたはいつだってそうよ……夫だけじゃないわ、初めて付き合った人も、その次に付き合った人も、全員あなたに奪われた……あなたは男で、おまけに不能で不感症の癖に、何でこんなことをするの……私にどんな恨みがあるっていうの……」
姉が黙ると、こつこつ、という音が聞こえた。その音で、彼は自分の中指が壁を叩いていることに気づいた。彼はぎゅっと拳を握った。
姉は錯乱している、と由比は考えた。自分は姉の男を欲しいと思ったこともなければ、盗ったつもりもなかった。ただ男たちが勝手に彼を強姦していっただけだった。彼女に恨まれる筋合いはなかったし、彼女に恨みがあるわけもなかった。彼にとって姉の存在は、実家の傘立てとほぼ同等の質と量でしかなかった。
それでも彼はなるべく相手を刺激しないように、静かな口調で訊ねた。
「義兄さんは何処にいるの?」
だが、それが姉の気に障ったらしかった。小さく呻いていた彼女は、再び大声をあげ始めた。
「あの人がいたら何だっていうのよ。どうせ二人して口裏を合わせようとでも思ってるんでしょうけどね、でもそうは行かないわよ! もう全部……全部知ってるんだから!」
「知ってるって、何を?」
指は再び動きだしていた。彼は諦めてそのままにした。
「電話がっ、電話があったんだから! あなた頭がおかしいわ! 姉の新郎を寝取る弟なんて、そんな馬鹿な話、聞いたことない!」
電話? 由比は離していた携帯を再び耳に当てた。
「誰から、どんな電話があったの?」
「誰かなんて知らないわよ! あなたが彼と寝たって、一昨日レストランで食事したあとアパートまでタクシーで行って、それで、あなたの部屋で、か、彼とあなたが、や、や、やったって! あああああああああああ汚らわしいっ!」
脳裏をよぎったのはあの封書だった。『淫売』の二文字。それからあの鬱陶しい生徒。格の違いをわきまえずに、彼を脅迫しようとしてきた。そして過去の修羅場の数々。彼は溜息をついた。ただ我が身を守りたいだけなのに、何故自分は恨みばかり買うのだろう? 何故誰もが俺を傷つけようとするのだろう? そこまで考えて彼は頭を振った。自分は決して一方的に攻撃されているわけではない。コミュニケーションとは刺し違えることなのだ。きっと自分が彼らを理解できないように、彼らもまた自分のことを理解できず、そうやって互いに切りつけ合っているのだ。他者同士の接触とはそういう血に塗れたものなのだ。もしそれが嫌なら、己の手首を切る他ない。そして彼は自身の手首ではなく他者と切りつけ合うことを選んだのだ。自分で決めたからには、そうやって生きていく。
しかしそれでも、と彼は思う。いくら慣れているとはいえ、これ以上厄介事に巻き込まれるのはもううんざりだ。こんなストレスに蝕まれ続けるくらいなら、強姦のリスクに晒される方がまだましかもしれない。
そんなことを考えながら、由比はホールの壁によりかかり、姉の荒い息遣いが治まるのを待った。
「姉さん、誰がどういう目的でそんな電話をかけてきたのか知らないけどね、それは嘘だよ。確かに食事をして送ってもらったのは事実だ。でも義兄さんはタクシーから降りなかった。何もなかった」
姉は答えなかった。啜り泣くような不鮮明な声だけが聞こえていた。由比は窓から中庭を見下ろした。校舎の灯りがぼんやりと照らす芝生は、暗い海面のように深く静まり返っていた。
姉の泣き声は、彼に遠い昔を思い出させた。恋人を失うたび、彼女はそうやって泣いていた。彼女の怒りや悲しみは、いつも由比に向けられた。彼には理解できない呪詛を並べ、刃物を持ち出したことさえあった。だが、彼はいつだって被害者だった。誰にも彼を責める権利などなかった。だから彼を責めれば責めるほど、彼女は加害者へと堕していった。
「……仮に……仮にあなたの言うとおりだとしても……でもいずれ彼はあなたを口説くわ。今までの人だって皆そうだったもの。私が好きになった人は皆、私を捨ててあなたを好きになる……」
「そうかもしれないね」
啜り泣きが、咽び泣きに変わる。
「……あなたがいると……っ、私は、幸せに……なれない……」
窓枠にそっと片手を置いて、彼は視線を上げる。
「そうだね。でも」
星のない東京の空。今夜は月さえも隠れている。まるで底の知れない海原のよう。二つの海に挟まれているような四階からの展望に、ぽつりと言葉が零れる。
「俺も幸せにはなれないよ」
この身には愛がない。現実も小説のように、愛なき幸福などありえないというのなら、自分もまた彼女同様、幸せになることはない。
解らない。
人は何故、愛に、性に、拘るのか。
そして何故、そのために破滅していくのか。
本能という言葉で片づけられるものならば、何故自分にはそれが欠けているのか。
どんな小説を読んでも、どんな論文を読んでも、解らない。
導く星も、照らす月もなく、ただひたすらに深く暗い藍色のテクスト。
彼は目を閉じる。海鳴りが、聞こえた気がした。
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