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第四章 液晶の視線
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不感の無性愛者。彼を一言で表せば、そういうことになる。
性欲、生殖能力、そして恋愛感情。由比はそれらを決定的に欠いている。彼にとって、慕情劣情の類は虚構ですらない。そしてそれは彼の論文においてもいえることであり、むしろそれらを欠いているからこそ、彼は論文を書くことができる。
肉について、欲について、彼は一言も論じることができない。その代わり、彼だけが有機的な次元を超越した眼差しを持っている。性愛への無理解は、ある限界であると同時に、それとは別の限界を撃ち抜く凶器となる。
性も愛もない彼が書く作品論は、彼同様、緻密で美しい。眩暈がするほど詳細で、一分の隙も存在しえないそれは、一個の複雑にして壮麗な装置に喩えられる。扱う作品が川端康成だろうと谷崎潤一郎だろうと、彼の論からはエロティシズムが完全に排斥され、代わりにマイクロプロセッサの光沢が添えられる。そこに広がるのは精密機械の細密画的展望である。
由比が初めて論文を発表したのは学部生の時分だった。彼の登場は文壇に衝撃を与えた。それは一つの事件、もしくは災害であった。そうとしかいいようのない破壊力がその論にはあった。彼が文壇の寵児となるのに時間はかからなかった。実のところ、彼に対する評価は絶賛もしくは酷評のいずれかであった。否定派の多くは、作品を無残なまでにばらばらに解体する手法に不快感を示した。〈まるで機械の部品か何かのように分解し、最早テクストはその原形を留めない〉〈有機物から無機物へのおぞましい転成〉〈ある種の冒涜〉、しかしそのような感情的な次元でしか批判ができないのもまた事実だった。
孤高の天才なのか、おぞましい異端者なのか。いずれにせよ、彼は唯一無二の論者であり、そしてそれこそが、研究者としての彼の価値である。だが、由比の異端さはこれだけではない。もし彼が単なる不感無情の天才文学評論家であったなら、これほど素晴らしいことはなかっただろう。けれど不幸なことに、現実はそうではなかった。『M大のファム・ファタール』、この二つ名が全てを物語っていた。たとえ由比の研究を認めたがらない人間でも、研究会や学会で実際に彼に会うと、嫉妬や敵愾心といったものをひとまず保留にして、彼の歓心を買おうとする。彼の魅力の前に、誰もが屈服してしまうのだ。彼はそういう人間である。人心を惑わせ、破滅へと誘う。彼自身にすらその力を制御することはできない。
そういったわけで、彼に懸想する人間は過去から現在に至るまで途切れることがなかった。中には果敢に挑む者もいるが、それはごく一部だった。大多数の人間は、彼と自分では釣り合わないと考える。したがって彼を口説くのは、よほど己に自信のある者か、あるいは自己を顧みる余裕もないほど彼に入れ込んだ者だった。そして犠牲者は男性が主だった(彼女たちが恋愛の対象とするには、容姿が優れすぎていたのかもしれない)。だが、性も愛も欠いた彼にとっては、慕情と劣情は虚構内虚構よりもリアリティの希薄なただの単語にすぎない。だが彼はその種の行為を要請あるいは強要されることがあまりにも多かったので、性欲や性交というものを完全に無視してしまうわけにもいかなかった。そのため、由比は性行為を、カジュアルなレクリエーションとして捉えることにしていた。もちろん彼自身にとっては痛いだけなのでレクリエーション的要素は何一つないのだが、そこは割り切ることにしていた。そうでなければ立ち行かない。
さて、誰かに口説かれた場合、彼はまず体力的に抵抗できる相手か否かを考える(セックスが好きなわけではないのだから、力で捻じ伏せられるような相手と寝てやる義理などない)。次に倫理的な側面で考える。彼には一般的な倫理観が欠如してはいたが、しかしそれとは別に、成人男性が守るべき最低限のモラルというものを自分なりに理解していた。そのため、この段階で未成年が除外された(教員という立場もあって、彼は未成年とは和姦しない主義を貫いてきた。未成年者に襲われると彼は全力で抵抗し、それでも行為がなされた場合には真っ直ぐ病院へ行き、警察に被害届を出した。だが、相手がしかるべき誠意を見せればすぐに訴えは取り下げることにしていた。何故なら彼は多忙なのだ)。続いて相手と寝ることに重大なデメリットがないかを考える。しかしこれはおざなりになされがちだった。理由は至極簡単で、無駄だからである。経験上、自分を口説いてくる男は百戦錬磨の自信家か頭の沸騰した粘着質なので、拒んだとしても大抵は抜き差しならない状況に陥る。そこで第三段階で落とされる者は少ない。要するに、彼は決して少なくない数の男と寝てきた。そしてどれも長続きしなかった。男たちは気づくのだ。肉体的にも精神的にも他者を欲さないという意味において、由比はある自己完結性の中に生きており、その心身は一種の聖域であって、何ものにもそれを侵すことはできないと。感じない男を抱くこと、愛なき男に焦がれること、その虚しさに耐えられる者はいなかった。だから彼を別の人間に盗られても、取り戻す気力は生まれなかった。
かくして彼は、無意識的に多くの人間を翻弄しつつも、自らは翻弄されることなく生きてきた。大抵のことは思いどおりに運んだし、不愉快な出来事も上手く乗り切ってきた。彼の人生は完璧だった。少なくとも、彼自身にとっては。
だが、二十六年で、そんな彼の人生は終わってしまった。
彼は今、見知らぬ運命の中を生きている。
性欲、生殖能力、そして恋愛感情。由比はそれらを決定的に欠いている。彼にとって、慕情劣情の類は虚構ですらない。そしてそれは彼の論文においてもいえることであり、むしろそれらを欠いているからこそ、彼は論文を書くことができる。
肉について、欲について、彼は一言も論じることができない。その代わり、彼だけが有機的な次元を超越した眼差しを持っている。性愛への無理解は、ある限界であると同時に、それとは別の限界を撃ち抜く凶器となる。
性も愛もない彼が書く作品論は、彼同様、緻密で美しい。眩暈がするほど詳細で、一分の隙も存在しえないそれは、一個の複雑にして壮麗な装置に喩えられる。扱う作品が川端康成だろうと谷崎潤一郎だろうと、彼の論からはエロティシズムが完全に排斥され、代わりにマイクロプロセッサの光沢が添えられる。そこに広がるのは精密機械の細密画的展望である。
由比が初めて論文を発表したのは学部生の時分だった。彼の登場は文壇に衝撃を与えた。それは一つの事件、もしくは災害であった。そうとしかいいようのない破壊力がその論にはあった。彼が文壇の寵児となるのに時間はかからなかった。実のところ、彼に対する評価は絶賛もしくは酷評のいずれかであった。否定派の多くは、作品を無残なまでにばらばらに解体する手法に不快感を示した。〈まるで機械の部品か何かのように分解し、最早テクストはその原形を留めない〉〈有機物から無機物へのおぞましい転成〉〈ある種の冒涜〉、しかしそのような感情的な次元でしか批判ができないのもまた事実だった。
孤高の天才なのか、おぞましい異端者なのか。いずれにせよ、彼は唯一無二の論者であり、そしてそれこそが、研究者としての彼の価値である。だが、由比の異端さはこれだけではない。もし彼が単なる不感無情の天才文学評論家であったなら、これほど素晴らしいことはなかっただろう。けれど不幸なことに、現実はそうではなかった。『M大のファム・ファタール』、この二つ名が全てを物語っていた。たとえ由比の研究を認めたがらない人間でも、研究会や学会で実際に彼に会うと、嫉妬や敵愾心といったものをひとまず保留にして、彼の歓心を買おうとする。彼の魅力の前に、誰もが屈服してしまうのだ。彼はそういう人間である。人心を惑わせ、破滅へと誘う。彼自身にすらその力を制御することはできない。
そういったわけで、彼に懸想する人間は過去から現在に至るまで途切れることがなかった。中には果敢に挑む者もいるが、それはごく一部だった。大多数の人間は、彼と自分では釣り合わないと考える。したがって彼を口説くのは、よほど己に自信のある者か、あるいは自己を顧みる余裕もないほど彼に入れ込んだ者だった。そして犠牲者は男性が主だった(彼女たちが恋愛の対象とするには、容姿が優れすぎていたのかもしれない)。だが、性も愛も欠いた彼にとっては、慕情と劣情は虚構内虚構よりもリアリティの希薄なただの単語にすぎない。だが彼はその種の行為を要請あるいは強要されることがあまりにも多かったので、性欲や性交というものを完全に無視してしまうわけにもいかなかった。そのため、由比は性行為を、カジュアルなレクリエーションとして捉えることにしていた。もちろん彼自身にとっては痛いだけなのでレクリエーション的要素は何一つないのだが、そこは割り切ることにしていた。そうでなければ立ち行かない。
さて、誰かに口説かれた場合、彼はまず体力的に抵抗できる相手か否かを考える(セックスが好きなわけではないのだから、力で捻じ伏せられるような相手と寝てやる義理などない)。次に倫理的な側面で考える。彼には一般的な倫理観が欠如してはいたが、しかしそれとは別に、成人男性が守るべき最低限のモラルというものを自分なりに理解していた。そのため、この段階で未成年が除外された(教員という立場もあって、彼は未成年とは和姦しない主義を貫いてきた。未成年者に襲われると彼は全力で抵抗し、それでも行為がなされた場合には真っ直ぐ病院へ行き、警察に被害届を出した。だが、相手がしかるべき誠意を見せればすぐに訴えは取り下げることにしていた。何故なら彼は多忙なのだ)。続いて相手と寝ることに重大なデメリットがないかを考える。しかしこれはおざなりになされがちだった。理由は至極簡単で、無駄だからである。経験上、自分を口説いてくる男は百戦錬磨の自信家か頭の沸騰した粘着質なので、拒んだとしても大抵は抜き差しならない状況に陥る。そこで第三段階で落とされる者は少ない。要するに、彼は決して少なくない数の男と寝てきた。そしてどれも長続きしなかった。男たちは気づくのだ。肉体的にも精神的にも他者を欲さないという意味において、由比はある自己完結性の中に生きており、その心身は一種の聖域であって、何ものにもそれを侵すことはできないと。感じない男を抱くこと、愛なき男に焦がれること、その虚しさに耐えられる者はいなかった。だから彼を別の人間に盗られても、取り戻す気力は生まれなかった。
かくして彼は、無意識的に多くの人間を翻弄しつつも、自らは翻弄されることなく生きてきた。大抵のことは思いどおりに運んだし、不愉快な出来事も上手く乗り切ってきた。彼の人生は完璧だった。少なくとも、彼自身にとっては。
だが、二十六年で、そんな彼の人生は終わってしまった。
彼は今、見知らぬ運命の中を生きている。
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