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14. ガール・ミーツ・ガール(ボーイ)
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七葉学園高等部二年B組向坂縁といえば、立てば神様座ればゴッド、歩く姿はディバイン・ビーイングであり、学園内では知らぬ者はいない雲の上の存在である。そしてその名は遠く離れてもいないというかむしろご近所の城咲学園にも轟いており、七葉に兄弟が通っている生徒は、自らの兄または弟に向坂縁の情報(誕生日に血液型、恋人はいるのかいないのか、卵焼きは甘い方が好きかしょっぱい方が好きかつぶあん派こしあん派きのこたけのこ等々)を無心することもあるとかないとかなのであった。しかし、向坂縁の生態に詳しい人間は七葉学園内ではごく限られており、そのごく限られた人間すなわちハイスペッカーズは第三者に情報を漏らすような真似は決してしなかった。そのため、向坂縁とは城咲において謎に包まれた存在であり、非実在美少年、都市伝説、ネッシーイエティツチノコ食べて痩せるダイエットの類なのではないかという噂まであるほどなのだが――。
「――花見? 早船非常識秋尾の企画で? 七葉のボンクラたちと? ない」
放課後のざわつく廊下で、友人が差し出したチラシを一瞥したあいみは、舌打ちを堪えて淑女的なコメントをした。
「えー、行かないの? でもあいみ、こないだ七葉と合コンしたじゃん」
「してない。ふざけた野郎のせいで中止になった」
本当はふざけたクソ童貞野郎と言いたいところだったが、あまりに品がないのでクソと童貞は省略した。気心知れた音々ではなくまあまあ仲がいい程度のクラスメイトに対し、完全に素で喋る気にはなれない。
「なるほど。それで七葉に恨みが」
七葉に恨みがあるわけではない。精神年齢の低いボンクラどもと程度の低い会話をしながら毎年毎年同じように咲くだけの代わり映えのしない桜をぼけっと眺めるくらいなら、自宅で録画したブルーム氏の出演番組を見返すか、ブルーム氏に関する雑誌記事の整理をするか、ディア・ブルームの編集をしている方がよほど有意義だというだけのことである。が、そんなふうに説明するのも面倒だったので、あいみは適当に肯いておいた。すると級友は、あいみが行かないなら誰を誘おうかな、と、この花見企画に乗り気であることを明かした。
「行くの? あんまり面白くないと思うな、きっと退屈だよ」
正気か? クッソつまんねーぞ、時間を無駄にするのが趣味かよ。を、可能な限りマイルドな表現に直して口にする。これに対し原文を知るよしもない級友は、私は行くよ、と笑顔で答えた。
「だって向坂縁が来るんでしょ。私まだ生で見たことないんだよね」
「――は?」
あいみの声が突然低くなる。向坂縁スイッチがオンに、あるいは対級友スイッチがオフになった証である。
「なんで向坂縁が来るってわかんの?」
「だって書いてあんじゃん、『特別講演・向坂縁』って」
「残念、実は向坂『緑』でしたー、とかじゃなく?」
「とかじゃなく」
級友の指差す箇所を見ると、確かに『向』『坂』『縁』という祝福されし三つの活字が紙上に燦然と輝いていた。あいみはチラシを凝視した。『向坂縁』。愛しのブルーム氏によく似た男。そして芸能人であり成人男性であるブルーム氏とは異なり、仮に未成年である自分と交際したとしてもスキャンダルにはなりえず、相手を失脚させる恐れもない男。唯一絶対究極の安牌。ジェネリックブルーム氏。
「早船非常識秋尾神奉るまであるなこれ」
「あきおしん? たてまつる? まである?」
「『早船サンキュな』ってこと。じゃあまた明日ね!」
一方的に別れの挨拶を告げ、あいみは一階下の四年生の教室に向かった。
「あー、あいみさーん!」
彼女が四階に着いてあたりを見回すか見回さないかのタイミングで、くるくるツインテの可愛らしい少女が、ぶんぶん手を振りながら廊下の向こうから近づいてくる。探さずとも現れ呼ばずとも挙手する舎弟の鑑である。
「四年のところまでわざわざ来てくれるなんて嬉しいです。どうしたんですか? もしかしてお茶しに行きたいんですか? それともカラオケ? あるいは買い物? 何であろうと何があろうと地平線の向こう銀河の彼方まで付き合いますよ!」
「音々、お前ほんとタイミングも性格もいいな」
あいみが感心して呟くと、音々はえへんと胸を張った。
「だって私はあいみさんのことが大好きですからね」
「……そう? ふうん……大好き……へえ……じゃなくて、おい音々、花見企画のチラシ見た?」
「さっき廊下でギャルが配ってたやつですね。貰いましたけどよく見ないで鞄に突っ込んじゃいました。えーっと、どれだっけ」
音々は鞄に手を突っ込むと、これじゃないこれも違うと言いながら、どう見ても昨年度からそこに存在している数学テスト(あまりよくない)と英単語テスト(筆舌に尽くしがたい)と漢字テスト(知の終焉)と日本史テスト(世界が事切れる音がした)を次々に取り出し、最後に一枚の紙を引っ張り出した。
「これですねあいみさん! お花見……七葉と?」
「向坂縁が来るんだってよ。いいか音々、この機会を逃すわけにはいかねえ。今度こそ私の連絡先を渡す、そしてあわよくば向こうの連絡先をゲットする、そのためにまず作戦を……茶店だと壁に耳あり障子に目ありってやつだよな、よしカラオケ屋で会議だ」
「えええあいみさんまだ諦めてなかったんですかぁ? 意味がないって自分でも言ってたじゃないですかー」
「うっせ。銀河の彼方まで付き合うって言ったろ?」
「そりゃもうあたぼうよってなもんですよ! あいみさんの背景になれるならブラックホールの底までついていきますって!」
こうして城咲の凸凹コンビは、連れ立って行きつけのカラオケ店、『わきわき歌クラブ』を目指したのだった。
その頃、七葉学園の凸凹コンビはというと、諸悪の根源であるところの早船を探して6―Aの教室にやってきていた。
「失礼します。5―Bの向坂です。早船さんはいますか」
「ギャッ」
6―Aでのんびり教室清掃を行っていた生徒たちは、向坂に対する畏怖の念と久野に対する単なる恐怖に震えた。相手が自分たちより学年が下だということは、少なくともこの二人に関しては何の意味も持たないのである。
「えええええええと、もういないんじゃないかな」
「では、彼が立ち寄りそうな場所に心当たりは?」
「ここここころあたり」
美少女仕様のゴッドに真正面から見つめられ、話しかけられた生徒は狼狽えて赤面した。が、不敬罪の三文字が頭をよぎったのか、咳払いすると他の生徒たちに声をかけた。
「なあ、早船さんが何処にいそうかわかる奴いる?」
他の生徒たちもまた狼狽し赤面しつつ、首を横に振った。空振りか、と久野が思ったとき、一人の生徒が声を上げた。
「早船さんなら、休み時間にたまたま電話してるのが聞こえたんだけど、城咲の生徒と花見の打ち合わせって名目で、カラオケに行くみたいだった」
早船は現クラスメイトにも『さん』づけで呼ばれているらしい。留年組だとクラスに馴染むのが大変そうだと、同い年であるにも拘らずクラスに馴染めず学校全体・寮全体でもアウトサイダー認定されている久野は思った。少し考えれば、受験勉強や評定平均に必死なクラスメイトたちに、あの非常識男が興味を示すはずなどないとわかるのだが、そこまでは想像力が及ばないのだ。
「かかかかかカラオケみたいだ」
「わかりました。どうもありがとうございます。ではこれで失礼します」
棒読みで礼を述べると、ゴッド向坂はくるりと方向転換した。長い髪がふわりと広がり、そのキューティクルの神々しい煌めきに、六年生たちが思わず顔を覆い祝福と畏敬の念を込めた呻き声を漏らす。この光景に、久野も違う意味で顔を覆い呻きたくなった。後輩が一人女体化しただけでこのざまとは七葉学園最高学年らしからぬ失態、率直に申し上げて悲惨、ジーザス、不敬罪に問われて股間を蹴り上げられてしまえ、それか俺と代わってくれ。
だが、実際問題身体が男性であったときから祝福と畏敬の念を太陽光より浴びまくってきた向坂には、六年生たちの露骨な反応は特に気になるものではなかったらしい。教室を出ると、腰に手を当て顔を斜めに向け短く溜め息をつくというイケメン専売特許のスタイリッシュやれやれをキメてから、久野を見上げた。
「早船が立ち寄りそうなカラオケ店は何処だ」
「まさか今から行くのか? 明日でいいだろ」
久野は頑張って異を唱えてみせた。しかし頑張れば報われるというのは情操教育用フィクションの世界にのみ通用するルールである。したがって向坂は当然のごとく久野の頑張りを打ち砕いた。
「いいわけないだろう。一秒でも早く無断で僕の名前を使ったことを謝罪させ、なおかつチラシを配布した生徒全てに対しこの情報が嘘偽りであることを明らかにするべきだ。これは僕の信用問題に係わることだからな。で、何処の店が有力だ?」
ゴッドに反抗する術などない。彼は仕方なしに、七葉と城咲の生徒がよく行くカラオケ店の名前を口にした。
「……『わきわき歌クラブ』」
「わきわき?」
「わきわき」
「では行くか、そのわきわきとやらに」
こうして七葉の凸凹コンビも、連れ立って『わきわき歌クラブ』を目指したのだった。
その頃、凸凹たちが目指す『わきわき歌クラブ』の右隣の広場に、複数の少年少女の姿があった。内訳は、少年一、少女五である。
「えーっ勝手に名前使ったのぉ? きゃははひっどーい」
「やだぁ、今頃向坂君怒ってるよぉ」
「じゃあ向坂君は来ないんだねーもー超がっかりなんだけどー」
「そんな悪さばっかしてるから留年するんだよー早船君はー」
城咲女子の生徒五名にきゃっきゃと囲まれ、真ん中でへらへらにやにやしているのは、七葉の非常識男こと早船だった。彼らは打ち合わせという名目でここにやってきたのだが、城咲ガールズがテイクアウト専門店のドリンクを飲みたがったので、カラオケ店に入る前に広場でお茶をしているのだった。
「向坂が来るかどうかはわからないし、少なくとも城咲の皆が期待している形では現れないだろうが、しかしあの男ならとりあえず何処かしらに何かしらの風穴はぶち開けてくれちゃうはずだ。だから我々はただ粛々と花見を執り行えばいい。どう転んでも必勝楽勝GGWPという寸法だし、万が一何かあった場合責任は全部俺が負うから、皆安心してよし」
早船が堂々と言ってのけると、城咲ガールズは、やっぱ来ないんじゃんー完全に詐欺だよー夜道に気をつけなねー、と口々に言って再びきゃっきゃと笑った。元々本当に向坂が来るとは思っていないあたり、彼女らはネッシーイエティツチノコ食べて痩せるダイエットの類を信じない堅実賢明なリアリストなのである。ここがクレバーなリアリストであろうとしつつもポンコツ感満載のロマンチストとして生きてしまう御苑あいみとの違いでもある。
「――そういえば、そっちの一年の醒井ちゃんは花見に来るのかな? いちおう兄貴の然の方にも声をかけてみるつもりだけども、まあこっちの醒井は十割百パー十中十で来ないだろうな!」
それは早船が何の気なしに口にした言葉だった。しかし城咲ガールズは笑うのをやめ、目を泳がせた。
「ど、どうかな……来ないんじゃないかな……?」
「うん……だって、七葉の生徒には……ねえ?」
途端にガールズの声量が落ちる。先ほどまでのキャッキャウフフが嘘のように、彼女らは一斉にあらぬ方向を見てもごもごし始めた。早船は、おや、という顔をしたが、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「どうやら城咲にも、ぶち開けてくれちゃいそうな人間がいるようだな!」
その頃、『わきわき歌クラブ』の左隣のゲームセンターに、一人の少年の姿があった。七葉学園の制服を身にまとい、高等部の生徒であることを表す藍色のタイを締めている。身長は一六〇センチと少し、体重は五〇キロと少しといったところだろうか。制服の着方もタイの締め方も鞄も頭髪も規範のド真ん中、更に中の下か下の上レベルの冴えない顔立ちということもあって、至極地味な雰囲気を醸し出しており、ゲームセンターよりも予備校が似合う印象である。これで天才ゲーマーであるなら多少カリスマ性も出てくるのかもしれないが、しかし現在彼がプレイしているシューティングゲームの腕前はごく普通、上手いか下手かでいえばどちらかというと下手寄りである。しかし、そんな地味なうえにゲームが上手いわけでもない少年を見た常連客は、彼の姿に気づくと同時にさっと目を逸らし、少し離れたゲーム機へと急いだ。
やがて少年は一ゲーム終えたようだった。やる気のない溜め息をつくと席を立ち、自動販売機スペースに向かう。と、そこへ数人の男性客が近寄ってきた。年の頃は十代後半、見た目は田舎の不良のテンプレートをそのまま立体化し生命を吹き込んだような集団である。それぞれあまり出来のよろしくない顔面に薄ら笑いを浮かべ、壁際に少年を追い詰めるようにして立つ。これ以上ないほどわかりやすいカツアゲの儀である。
「もしかしてーえ、ジュース買うのーお?」
「いいないいなーねえ俺らにも奢ってくんない?」
「一人頭一万でいいからさぁー? 七葉のお坊ちゃまならそれくらい持ってんだろ?」
この集団、実は新たなシマを求め、わざわざ数駅離れたショッピングモールから出張してきた不良グループである。とりま初手陰キャカツアゲで自分たちの力を周囲に知らしめようというわけだ。もちろん前述のように常連客は少年を避けているため、周囲に人などいないのだが、残念ながら一見さんにはわからないのである。そしてそんな不良軍団の顔を、少年は無言かつ無表情で見ていた。まるで遠い昔に感情というものをゆりかごに置き忘れてしまったかのような、底の浅い、無感動な眼差し。ここで勘のいいまたは実戦経験豊富な不良であれば、こいつは何かやばいぞ、と直感できたかもしれない。しかしこれまた残念ながら、勘が悪く実戦経験も乏しい出張テンプレ不良らには、相手の沈黙と眼差しの意味を推し量ることができなかった。そこで、うんともすんとも言わずに突っ立っている少年を脅すために、一人が彼の肩のあたりを小突いてやろうと手を伸ばした。が――。
「うわあああああああ」
テンプレ少年漫画のごとく、不良は床にひっくり返って悶絶した。伸ばされた手が捻り上げられ、そのうえ更に投げ飛ばされたのである。他の不良たちは一瞬何が起きたのかわからずぽかんとした。だが、とりあえず仲間がやられたのだということを理解すると、一呼吸おいてから一斉に少年に襲い掛かった。そしてきっかり十秒後には、一人残らず床に伸びて泥落としマットの代わりとなるという、ベタベタな結末を迎えたのだった。
「ま、まさかお前があの……七葉の、『鮫』……」
不良の一人が、お決まりの台詞を口にしかける。けれど少年はそれを許さなかった。
「うるさい」
小さく呟いた少年は、不良の脇腹を異様な素早さで蹴り上げた。重くこもった音が、あたりに鈍く響く。不良は背を折り身体を縮め、激しく咳き込んだ。少年はそんな相手の様子を無表情で見下ろしていたが、ふらりと自動販売機に近づくと、ジュースのペットボトルを一本買った。そうして床に転がっている不良の傍らに戻る。
「望みどおり奢ってやるよ」
ペットボトルが逆さにされる。じょぼじょぼという音を立てて、不良の顔に、髪に、派手なスカジャンに、オレンジ色の液体が注がれていく。
「げほっ、かはっ、ううう……嘘だろ……醒井は去年卒業したはずじゃ……」
「うるさいって言ったんだけど?」
「ゴフッ」
空になったペットボトルが、お喋りな不良の口に押し込まれる。もう不良は何も言わなかった。耳障りな呼吸音と微かな呻き声だけが、店内の騒々しいBGMの下で、重い気体のように滞る。少年――七葉のアンタッチャブル――『鮫』こと醒井然は、急に興味をなくしたように前を向くと、自動販売機コーナーを後にした。
「あー……馬鹿みたい」
微かな独り言が、口の端から投げやりに吐き出される。学生鞄を提げて店から出て行くその姿に、店員も常連客も何が起きたかを悟ったようだったが、誰もが見て見ぬふりをした。
「――あれ、あそこにいるのうちの生徒ですよね? 何年だろ」
「あーほんとだ、六年かな……って、早船もいんじゃん。何やってんだ」
わきわき歌クラブを目指していた城咲の凸凹は、目的地の右隣に位置する広場を通り過ぎようとしたところで足を止めた。城咲ガールズと早船も二人に気づいたらしく、おや、という顔をしている。
「どうします? 挨拶していきます?」
「いや、向こうはこっちのこと知らないからスルー安定」
早船は城咲の生徒と派手に遊んでいるため、遊んでいない生徒にもそれなりに知名度があり、なおかつ顔も知られている。しかしあいみはそういうタイプの人間ではなかった。当然早船は彼女を知らないはずだ。
「でも、早船企画のお花見で向坂縁が特別講演をするってことは、早船秋尾と向坂縁は、親しいかどうかまではわからないけど、少なくとも連絡を取り合う仲ではあるってことになりません? だったら今から接近しておくのは、アリよりのアリなんじゃないですか?」
音々が真面目くさった顔で訊ねてくる。確かに、とあいみは思った。仮に花見会場でタイミングを見計らって向坂縁に話しかけようと動いても、あのゴールデングラブ賞級に守備力の高い取り巻き連中に阻まれてしまうのがオチだ。
「音々、お前賢くなったな……確かに先に早船と親しくなっておけば、花見当日、向坂縁を紹介してもらえるかもしれん」
「へへへ、でしょ!」
そんなわけで、あいみはお嬢様風の微笑を湛えて早船を見つめると、彼に向かって直進し始めた。当然後から音々もついてくる。二人の視線と爪先が自分に向いていることに気づいた早船は、隣の城咲ガールに訊ねた。
「誰この子ら」
ガールは声を潜めて短く答えた。
「髪が長い方が五年の御苑、ツインテが四年の桃田」
「へえ! 学年が違う君たちでも知っているということは、そっちじゃ結構有名なんだな?」
「どっちも目立つ子だからね……特に御苑は学年でいちばん美人なんじゃないかな」
「言われてみれば美人だな! こんな美人が城咲にいるとは知らずに今まで生きてきたとは、俺としたことがまさに一生の不覚!」
「まったく大袈裟なんだから……早船君にしてみたら、せいぜい一秒か一瞬の不覚でしょ」
ガールズとごにょごにょと話しているうちに、あいみは早船の目の前までやってきた。
「初めまして。私、城咲女子高等部二年の御苑あいみです。七葉学園の早船さんですね?」
「そのとおり! 俺が七葉学園の早船さんです。初めまして」
「こちらは後輩の桃田音々です。――音々」
「こんにちは! 初めまして! 城咲四年の桃田です! よろしくどうぞ!」
「今度のお花見企画のチラシ、先程拝見しました。早船さんが企画なさったそうですね」
自己紹介を音速で終えると、あいみは早速本題に入った。相手は非常識で有名な早船である。多少ぐいぐい行ったところで問題ないだろうと踏んでのことだ。
「そうです、俺の企画です。ええと、御苑さん、と、桃田さん、も、来てくれるのかな?」
「はい、もちろん。七葉と城咲の皆で一緒にお花見なんて、とっても素敵ですね」
「今からめちゃめちゃ楽しみです!」
「私も微力ながらお手伝いさせていただきたいと思っているので、何かできることがあれば、遠慮なくおっしゃってください」
「全力でお手伝いします!」
「こちら、私の連絡先です。SNSはやっていないので、メールアドレスで恐縮ですが、お手隙きの際にでも一度ご連絡いただければと」
「必ずメールしてくださいね!」
流れるようなあいみの台詞と音々の合いの手に、城咲ガールズは何かやべーなという顔をしたが、早船は笑顔でうんうんと肯き、差し出された名刺を受け取った。
「これはありがたいな! 実は今まさに花見の打ち合わせをすべく城咲の代表者と合流したところなんだが、それじゃあ御苑さんと桃田さんもこの会議にジョイナスしてくれるだろうか!」
「ええ、もちろん喜んで」
「もちのろんで!」
トントン拍子としかいいようのない展開に、あいみはほくそ笑んだ。どうやら花見の幹事に加えてくれるらしい。今回の会議に向坂縁は参加していないようだが、前日か当日には事前の打ち合わせまたは確認があるだろう。幹事になっておけば、恐らくそのときに向坂縁と直に話ができるはずだ。良い。非常に良い。
が、彼女が向坂縁と直に話をする機会は、花見やその打ち合わせよりも早く訪れることとなった。というのも、早船を追って同じくわきわき歌クラブを目指していた七葉の凸凹コンビも、広場の前を通りかかったのである。
「いたぞ、早船だ」
向坂の鋭い声に、早船は振り返った。
「おお、とつのぜんに俺の風穴が!」
「俺の風穴?」
あいみと音々、そして城咲ガールズらも声のした方へ視線をやる。そして申し合わせたように揃って驚愕の表情を浮かべた。
「え……」
天使だ、とあいみは思った。そこには天使がいた。天使――ほかの言葉では表しようのない存在。ブルーム氏以外で、見た瞬間にそれが天使であると確信した人間は、今この瞬間数メートル先に立っている美少女が初めてだ。
「いやあこんなところで出会うなんて奇遇だな! 俺に用事かい? もしかして、君らも花見に協力したいとか? ならば答えは当然ジョイナスだ!」
「何が当然だ、お前のような詐欺師に協力するわけがないだろうこのたわけ。その腐りきった性根、僕がこの場で叩き切ってやる」
「うーん、性根をどうこうするならせめて叩き直す程度にしてほしいな! 叩き切るなんてまるで男根じゃないか。男リョナラーも裸足で逃げ出す阿部定っぷりだぞ!」
「誰が性器の話をした潰すぞ黙れ」
激怒した向坂は恐ろしい剣幕で早船に詰め寄った。すかさず早船が両手を上げて降参のポーズをとる。が、その顔は依然としてへらへらしている。
さて、突然現れた美少女の天使っぷりとその可憐な容姿に似合わぬ口の悪さと一連の流れの読めなさに呆気に取られていたあいみだったが、広場の入り口あたりでどっしりと構えている(実際は、自分も『勝手に向坂の名前を使った詐欺師』であるため早船に自身を重ねて股間を縮み上がらせているだけの)いやに背の高い男の存在に気づくと、さすがに呆然としてはいられなくなった。
「そこにいるのは……クソ童貞野郎か!」
「えっ、あれが!? あいみさんあんな海外の傭兵みたいなのと連絡取ってたんですか!? 猛者ですねえ!」
天使の存在を一瞬で脳から駆逐し、あいみが吠える。すると背の高い男は、凶悪すぎる顔面を彼女に向けた。
「あ、あ、あ、あいみちゃん……」
久野は戦慄した。まさかここで、至極自業自得なトラウマを負うこととなった出来事の中心人物と再会するはめになるとは、夢にも思わなかったのである。あいみは向坂に負けぬ勢いで久野に歩み寄ると、反社会勢力も称賛を惜しまぬであろう自然な動作で、三十センチ近く身長差のある相手の胸倉を、がっしりと掴んで引き寄せた。
「よう久野、どうやら相変わらず健やかに生きてやがるようだな」
「あ、はい、お陰様で……」
「そりゃ何より。でもこっちはお前と違ってストレスで気が狂いそうなんだよ。あのときは連れが見てる手前、ぬっるい言葉で見逃してやったけどな、本当はあれからずっと、一発ぶん殴っときゃよかったと後悔してたんだ」
「あの一件であいみさんに与えられた精神的苦痛は、クソ童貞野郎さんが思うよりもずっと大きいんです!」
「というわけで、私は今この場でお前を殴ることによって、不愉快な事件にカタをつけ、一切合切忘れてしまおうと思う。さあ、歯ァ食い縛ってタマ縮めろよ」
「さあさあ食い縛ってどうぞ縮めてどうぞ!」
「ごごごごめんなさい、本当にすみません、騙すつもりはなかったんです!」
突如繰り広げられた向坂VS早船、及びあいみ・音々VS久野の図に、城咲ガールズはドン引きした。一般的な感性の持ち主であれば、このような詳細を知らずとも不毛であることが見て取れてしまうような醜い争いになど関わりたくないし、そんな争いに身をおいている人間と関わり合いがあると思われたくないと感じてしかるべきである。したがって、賢明なガールズはそれぞれ手にしていたドリンクを一気に飲み干すと、じゃあね早船君、せめて安らかにね、と言い残し、迷いのない力強い足取りでカラオケ店に行ってしまった。
自分の味方(では決してないのだが)がこぞって離脱してしまったことに気づいた早船は、迫りくる向坂から股間を庇いながら哀れっぽい悲鳴を上げ、あいみに助けを求めた。
「御苑さん! さっき協力すると言ってくれていたな! だったら今ナウ早急にどうか俺を助けてくださいお願いします! このままだと向坂に潰されちゃううう」
すると負けじと久野も声を張り上げた。
「助けてくれ向坂! 俺に何かあったらお前の生活は成り立たないだろ!? このままだとあいみちゃんに伸されちゃううう」
当然ながら、二人の願いは聞き入れられなかった。が、彼らの発した言葉が、あいみの動きを止めた。
「……こうさか?」
あいみの手が、久野の胸から離れる。その視線は、今まさに早船を締め上げようとしている美少女を捉えていた。早船が、おっといけね、と首を竦める。久野はというと、別の意味で詰んだ、と絶望した。そして向坂は――無言で俯いた。
「こうさか……『向坂』? その子、『向坂』なの?」
厄介なことになってしまった。七葉学園内ですら持て余している向坂縁女体化現象を、学園の外に漏らしてしまったらいったいどんな馬鹿でかい騒動になるか、想像しただけでストレスで胃が蜂の巣になりそうだ。どうにかフォローしなければならない、と久野は思った。思ったのだが、しかしどうフォローすればよいのかわからない。あいみは向坂を凝視して、うわマジか、ほんとだ似てるわ、言われてみりゃそっくり、こんなことってあるのかよ、と、思ったことをそのまま垂れ流していた。このままではいけない。久野は焦り、とりあえず口を開いた。
「いや、あの、あいみちゃん、これには色々と込み入った事情があって、俺が江戸前君になる危険性も孕んでいる非常にデリケートでセンシティブな事案だから、ちょっと落ち着いて俺の話を聞いて……」
しかしあいみは彼の話になど耳を傾けなかった。完全に地面を見つめている向坂ににじり寄ると、武者震いしながら、恐らくはフェータルな問いを口にしようとする。
「ねえあなた、あなたってもしかして……」
久野は目を閉じた。意識が、魂が、人生の走馬灯すらも点かない深い闇(というか東京湾の底)に包まれていく。
「――もしかして、向坂縁……」
南無三、最早これまで、確約された童貞のミンチ、間接的カニバリズムとしての江戸前寿司――。
「……の、親戚……?」
次の瞬間、地上の全生命体が死に絶えたような静けさがあたりに満ちた。断末魔の名残さえない、完全な、凪。
そんな静寂を破ったのは、人ならざるものすなわちゴッドだった。焦点が何処に合わされているのか全く読めない瞳を右斜め上に向け、短く問い返す。
「だとしたら?」
こいつ相手が誤解しているのをいいことに親戚のふりをするつもりだ、と久野は思った。確かに真実を話す義理も話さねばならぬ義務もない。ここは乗っかって誤魔化すのが正解だろう。嘘も方便というやつだ。
「そうそうそうなんだあいみちゃん、この子は向坂の親戚なんだ」
「何親等? 名前は? 年は?」
「ええとそれは……」
突っ込んだ質問をされ、久野はわかりやすくおろおろした。これでは嘘をついていますと自己申告しているようなものだ。が、あいみが疑いの眼差しを向ける前に、向坂が答えた。
「四親等。向坂ユリカ。十六歳」
童貞に比べ遥かに肝が据わっているゴッドは、二酸化炭素を吐くよりも自然に嘘をついた。お陰で、全てを知っている久野でさえ、それが嘘偽りのない真実、唯一絶対の事実、正典からの引用であるような錯覚に陥りかけたほどだった。あいみも向坂の言葉を信じたようで、オゥジーザスとばかりに額に手を当てた。
「四親等……ってことはこの子、向坂縁と結婚できんじゃん……ねえユリカさん、あなた向坂縁のことどう思ってる? まずはそこを確認しておかないと話が進められない」
「話とは何の話だ?」
「いいから答えて」
あいみがずいと一歩足を踏み出す。すると向坂は一歩後ずさりした。その目は相変わらずあいみ以外の何かを見つめている。
「どう思っているも何も、向坂縁は向坂縁だろう、ただそれだけだ」
「じゃあ、恋愛感情とかは?」
「あるわけがない」
「あなたにはなくてもあっちにはあるってことは?」
「ありえない」
自分自身に恋愛感情を抱くことなどありえない、という至極真っ当な返事である。が、何も知らないあいみはイエスと短く吠えるとガッツポーズした。それから一つ咳払いをして、髪の乱れと胸のリボンの歪みを直すと、とっておきの大和撫子スマイルを披露する。
「ユリカさん。これは直感なんだけど、私たちきっと気が合うと思う。ここで出会ったのも何かの縁、お友達になりましょ」
ずずいと前進して距離を詰めようとするあいみに対し、向坂は彼女と同じ勢いで後退した。
「遠慮する」
ずずい。
「そう言わずに。これが私のメールアドレス。よかったら――いやよくなくても受け取って」
ずずずい。
「これ以上近づかないでくれ」
ずずずい。
「私、あなたみたいな綺麗な子と仲良くなりたいの!」
ずずずずい。
「近づくなと言っているだろう、やめろ、身体を寄せるな、よせ、おい誰かこいつを止めろ!」
遂に向坂が大声を出す。綺麗な顔から血の気が引いていくのが見て取れる。だが早船は、向坂を助けることで作れる貸しでは名前の無断使用を帳消しにはできないだろうと計算したのか、少し離れたところに突っ立って無意識に股間を庇う仕種をしていた。そして音々は、あいみから何も指示されていないせいか、やはり突っ立って観戦に回っていた。要するに、久野が止めねば止まらない事態だ。
「……ウワアアアアアごめんねあいみちゃん!」
彼は両手を広げて二人の間に割り込んだ。
「ハァ? なんだお前。邪魔すんじゃねーよこのクソ童貞が」
あいみが久野を押しのける。大和撫子風の外見からは想像もつかないその怪力っぷりに、百八十センチを優に超える身体は一瞬バランスを崩した。しかし、なんとか足を踏ん張って持ちこたえると、無駄な筋肉をここぞとばかりに発揮して、今まさに向坂に迫ろうとしていたあいみを後ろから羽交い絞めにした。
「俺だって邪魔したくないけど、こっちは命がかかってるんだよ!」
「命がかかってんならちょうどいいじゃねーか。そのままくたばりやがれこのクソ童貞詐欺師。おい音々、股間だ、クソ童貞の股間を狙え!」
あいみが音々に指示を飛ばす。スタンバイモードで観戦していた音々は、即座に全力モードに切り替えると、舎弟らしく嬉々として駆け寄ってきた。
「股間ですねあいみさん! 任せてください、生涯童貞にしてやりますよ!」
「悪魔かよ!? なあ向坂頼む、そっちのもう一人を取り押さえてくれ!」
相手が応援を頼むなら、こちらも応援を頼まざるをえない。しかしゴッドを舎弟と同じように扱うことはできなかった。向坂は明後日の方向を向いたまま、クールに言い放った。
「それは無理な相談だ。僕は異性の身体に触れることができない」
「知ってた!!!!!」
絶体絶命、やはり最早これまで、さようなら未来の恋人、こんにちは永遠の純潔――。
と、そのときだった。広場の入り口の方から、数人の声がした。
「こっちです警備員さん!」
「広場で男女混合の乱闘騒ぎが!」
「恐らく痴情のもつれかと!」
その場にいる全員が、これはまずい、と思った。真っ先に声を上げたのは早船だった。
「それじゃ、捕まった奴が全責任を負うってことでよろしく!」
こうして少年少女らは無言のうちに休戦協定を結ぶと、声がしたのとは反対側の入り口を目指し、全力で駆け出したのだった。
ちょうどそのとき、ゲームセンター近くのファストフード店には、醒井の姿があった。二階席の窓際で、氷の溶けきったコーラをちびちびと不味そうにすすっている。近くのテーブルには若者のグループが何組かおり、誰もが楽しそうに談笑しているが、彼は一人きりである。退屈しきった眼差しをガラスの向こうに押しやるその様子は、まるで今すぐ世界が終わることを望んでいるようにも見える。
「……あ」
突然、彼の口から小さな声が漏れる。退屈の色以外何も浮かんでいなかった目に、変化が訪れる。表情にも微かな緊張。何かが、燻ぶった彼の心を捉えたのだ。
「……」
彼の眼差しは、今、一人の人間に注がれていた。何かひどく急いだ様子で、数人の男女と共に広場から走り出てきた、どうしようもなく美しい生き物。
「向坂縁……」
ずっと頭の中にあり続けるその名前に、誰にも聞こえぬよう口の中でそっと音を与える。そのとき、重石のように胸を押さえ続けてきた鬱屈が、ほんの僅か和らぐのがわかった。自分のためだけにその名を口にするのは、彼にとってこれが初めてだった。
一方こちらはカラオケ店の一室。一足先に離脱していた城咲ガールズは、特に曲を入れることも歌うこともなく、それぞれの端末でSNSを眺めながらお喋りをしていた。
「よくわかんないけどすごい修羅場だったね」
「今頃早船君どうしてるかな」
「まあ、自分がまいた種っぽいし、自分で何とかするでしょ」
「それにしても、あの早船君に突っかかってた子、本当に綺麗で可愛かったな」
「ね。いったい何処の子なんだろ? あれだけ美人なら城咲でも話題になってるはずだけど、それらしい噂聞いたことある?」
「ない。でも制服着てたよね。早船君と同じやつ」
「じゃあ早船君と同じ学校の生徒か」
「ってことは、つまり……」
「つまり、七葉?」
「……あれ? おかしくない?」
「……いやいやいや、まさかそんな…………え?」
そこで漸く彼女らは気づいた。美少女の美少女性に幻惑されてすっかり見落としていた、あることに。
「――七葉って、男子校だよね……?」
「――花見? 早船非常識秋尾の企画で? 七葉のボンクラたちと? ない」
放課後のざわつく廊下で、友人が差し出したチラシを一瞥したあいみは、舌打ちを堪えて淑女的なコメントをした。
「えー、行かないの? でもあいみ、こないだ七葉と合コンしたじゃん」
「してない。ふざけた野郎のせいで中止になった」
本当はふざけたクソ童貞野郎と言いたいところだったが、あまりに品がないのでクソと童貞は省略した。気心知れた音々ではなくまあまあ仲がいい程度のクラスメイトに対し、完全に素で喋る気にはなれない。
「なるほど。それで七葉に恨みが」
七葉に恨みがあるわけではない。精神年齢の低いボンクラどもと程度の低い会話をしながら毎年毎年同じように咲くだけの代わり映えのしない桜をぼけっと眺めるくらいなら、自宅で録画したブルーム氏の出演番組を見返すか、ブルーム氏に関する雑誌記事の整理をするか、ディア・ブルームの編集をしている方がよほど有意義だというだけのことである。が、そんなふうに説明するのも面倒だったので、あいみは適当に肯いておいた。すると級友は、あいみが行かないなら誰を誘おうかな、と、この花見企画に乗り気であることを明かした。
「行くの? あんまり面白くないと思うな、きっと退屈だよ」
正気か? クッソつまんねーぞ、時間を無駄にするのが趣味かよ。を、可能な限りマイルドな表現に直して口にする。これに対し原文を知るよしもない級友は、私は行くよ、と笑顔で答えた。
「だって向坂縁が来るんでしょ。私まだ生で見たことないんだよね」
「――は?」
あいみの声が突然低くなる。向坂縁スイッチがオンに、あるいは対級友スイッチがオフになった証である。
「なんで向坂縁が来るってわかんの?」
「だって書いてあんじゃん、『特別講演・向坂縁』って」
「残念、実は向坂『緑』でしたー、とかじゃなく?」
「とかじゃなく」
級友の指差す箇所を見ると、確かに『向』『坂』『縁』という祝福されし三つの活字が紙上に燦然と輝いていた。あいみはチラシを凝視した。『向坂縁』。愛しのブルーム氏によく似た男。そして芸能人であり成人男性であるブルーム氏とは異なり、仮に未成年である自分と交際したとしてもスキャンダルにはなりえず、相手を失脚させる恐れもない男。唯一絶対究極の安牌。ジェネリックブルーム氏。
「早船非常識秋尾神奉るまであるなこれ」
「あきおしん? たてまつる? まである?」
「『早船サンキュな』ってこと。じゃあまた明日ね!」
一方的に別れの挨拶を告げ、あいみは一階下の四年生の教室に向かった。
「あー、あいみさーん!」
彼女が四階に着いてあたりを見回すか見回さないかのタイミングで、くるくるツインテの可愛らしい少女が、ぶんぶん手を振りながら廊下の向こうから近づいてくる。探さずとも現れ呼ばずとも挙手する舎弟の鑑である。
「四年のところまでわざわざ来てくれるなんて嬉しいです。どうしたんですか? もしかしてお茶しに行きたいんですか? それともカラオケ? あるいは買い物? 何であろうと何があろうと地平線の向こう銀河の彼方まで付き合いますよ!」
「音々、お前ほんとタイミングも性格もいいな」
あいみが感心して呟くと、音々はえへんと胸を張った。
「だって私はあいみさんのことが大好きですからね」
「……そう? ふうん……大好き……へえ……じゃなくて、おい音々、花見企画のチラシ見た?」
「さっき廊下でギャルが配ってたやつですね。貰いましたけどよく見ないで鞄に突っ込んじゃいました。えーっと、どれだっけ」
音々は鞄に手を突っ込むと、これじゃないこれも違うと言いながら、どう見ても昨年度からそこに存在している数学テスト(あまりよくない)と英単語テスト(筆舌に尽くしがたい)と漢字テスト(知の終焉)と日本史テスト(世界が事切れる音がした)を次々に取り出し、最後に一枚の紙を引っ張り出した。
「これですねあいみさん! お花見……七葉と?」
「向坂縁が来るんだってよ。いいか音々、この機会を逃すわけにはいかねえ。今度こそ私の連絡先を渡す、そしてあわよくば向こうの連絡先をゲットする、そのためにまず作戦を……茶店だと壁に耳あり障子に目ありってやつだよな、よしカラオケ屋で会議だ」
「えええあいみさんまだ諦めてなかったんですかぁ? 意味がないって自分でも言ってたじゃないですかー」
「うっせ。銀河の彼方まで付き合うって言ったろ?」
「そりゃもうあたぼうよってなもんですよ! あいみさんの背景になれるならブラックホールの底までついていきますって!」
こうして城咲の凸凹コンビは、連れ立って行きつけのカラオケ店、『わきわき歌クラブ』を目指したのだった。
その頃、七葉学園の凸凹コンビはというと、諸悪の根源であるところの早船を探して6―Aの教室にやってきていた。
「失礼します。5―Bの向坂です。早船さんはいますか」
「ギャッ」
6―Aでのんびり教室清掃を行っていた生徒たちは、向坂に対する畏怖の念と久野に対する単なる恐怖に震えた。相手が自分たちより学年が下だということは、少なくともこの二人に関しては何の意味も持たないのである。
「えええええええと、もういないんじゃないかな」
「では、彼が立ち寄りそうな場所に心当たりは?」
「ここここころあたり」
美少女仕様のゴッドに真正面から見つめられ、話しかけられた生徒は狼狽えて赤面した。が、不敬罪の三文字が頭をよぎったのか、咳払いすると他の生徒たちに声をかけた。
「なあ、早船さんが何処にいそうかわかる奴いる?」
他の生徒たちもまた狼狽し赤面しつつ、首を横に振った。空振りか、と久野が思ったとき、一人の生徒が声を上げた。
「早船さんなら、休み時間にたまたま電話してるのが聞こえたんだけど、城咲の生徒と花見の打ち合わせって名目で、カラオケに行くみたいだった」
早船は現クラスメイトにも『さん』づけで呼ばれているらしい。留年組だとクラスに馴染むのが大変そうだと、同い年であるにも拘らずクラスに馴染めず学校全体・寮全体でもアウトサイダー認定されている久野は思った。少し考えれば、受験勉強や評定平均に必死なクラスメイトたちに、あの非常識男が興味を示すはずなどないとわかるのだが、そこまでは想像力が及ばないのだ。
「かかかかかカラオケみたいだ」
「わかりました。どうもありがとうございます。ではこれで失礼します」
棒読みで礼を述べると、ゴッド向坂はくるりと方向転換した。長い髪がふわりと広がり、そのキューティクルの神々しい煌めきに、六年生たちが思わず顔を覆い祝福と畏敬の念を込めた呻き声を漏らす。この光景に、久野も違う意味で顔を覆い呻きたくなった。後輩が一人女体化しただけでこのざまとは七葉学園最高学年らしからぬ失態、率直に申し上げて悲惨、ジーザス、不敬罪に問われて股間を蹴り上げられてしまえ、それか俺と代わってくれ。
だが、実際問題身体が男性であったときから祝福と畏敬の念を太陽光より浴びまくってきた向坂には、六年生たちの露骨な反応は特に気になるものではなかったらしい。教室を出ると、腰に手を当て顔を斜めに向け短く溜め息をつくというイケメン専売特許のスタイリッシュやれやれをキメてから、久野を見上げた。
「早船が立ち寄りそうなカラオケ店は何処だ」
「まさか今から行くのか? 明日でいいだろ」
久野は頑張って異を唱えてみせた。しかし頑張れば報われるというのは情操教育用フィクションの世界にのみ通用するルールである。したがって向坂は当然のごとく久野の頑張りを打ち砕いた。
「いいわけないだろう。一秒でも早く無断で僕の名前を使ったことを謝罪させ、なおかつチラシを配布した生徒全てに対しこの情報が嘘偽りであることを明らかにするべきだ。これは僕の信用問題に係わることだからな。で、何処の店が有力だ?」
ゴッドに反抗する術などない。彼は仕方なしに、七葉と城咲の生徒がよく行くカラオケ店の名前を口にした。
「……『わきわき歌クラブ』」
「わきわき?」
「わきわき」
「では行くか、そのわきわきとやらに」
こうして七葉の凸凹コンビも、連れ立って『わきわき歌クラブ』を目指したのだった。
その頃、凸凹たちが目指す『わきわき歌クラブ』の右隣の広場に、複数の少年少女の姿があった。内訳は、少年一、少女五である。
「えーっ勝手に名前使ったのぉ? きゃははひっどーい」
「やだぁ、今頃向坂君怒ってるよぉ」
「じゃあ向坂君は来ないんだねーもー超がっかりなんだけどー」
「そんな悪さばっかしてるから留年するんだよー早船君はー」
城咲女子の生徒五名にきゃっきゃと囲まれ、真ん中でへらへらにやにやしているのは、七葉の非常識男こと早船だった。彼らは打ち合わせという名目でここにやってきたのだが、城咲ガールズがテイクアウト専門店のドリンクを飲みたがったので、カラオケ店に入る前に広場でお茶をしているのだった。
「向坂が来るかどうかはわからないし、少なくとも城咲の皆が期待している形では現れないだろうが、しかしあの男ならとりあえず何処かしらに何かしらの風穴はぶち開けてくれちゃうはずだ。だから我々はただ粛々と花見を執り行えばいい。どう転んでも必勝楽勝GGWPという寸法だし、万が一何かあった場合責任は全部俺が負うから、皆安心してよし」
早船が堂々と言ってのけると、城咲ガールズは、やっぱ来ないんじゃんー完全に詐欺だよー夜道に気をつけなねー、と口々に言って再びきゃっきゃと笑った。元々本当に向坂が来るとは思っていないあたり、彼女らはネッシーイエティツチノコ食べて痩せるダイエットの類を信じない堅実賢明なリアリストなのである。ここがクレバーなリアリストであろうとしつつもポンコツ感満載のロマンチストとして生きてしまう御苑あいみとの違いでもある。
「――そういえば、そっちの一年の醒井ちゃんは花見に来るのかな? いちおう兄貴の然の方にも声をかけてみるつもりだけども、まあこっちの醒井は十割百パー十中十で来ないだろうな!」
それは早船が何の気なしに口にした言葉だった。しかし城咲ガールズは笑うのをやめ、目を泳がせた。
「ど、どうかな……来ないんじゃないかな……?」
「うん……だって、七葉の生徒には……ねえ?」
途端にガールズの声量が落ちる。先ほどまでのキャッキャウフフが嘘のように、彼女らは一斉にあらぬ方向を見てもごもごし始めた。早船は、おや、という顔をしたが、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「どうやら城咲にも、ぶち開けてくれちゃいそうな人間がいるようだな!」
その頃、『わきわき歌クラブ』の左隣のゲームセンターに、一人の少年の姿があった。七葉学園の制服を身にまとい、高等部の生徒であることを表す藍色のタイを締めている。身長は一六〇センチと少し、体重は五〇キロと少しといったところだろうか。制服の着方もタイの締め方も鞄も頭髪も規範のド真ん中、更に中の下か下の上レベルの冴えない顔立ちということもあって、至極地味な雰囲気を醸し出しており、ゲームセンターよりも予備校が似合う印象である。これで天才ゲーマーであるなら多少カリスマ性も出てくるのかもしれないが、しかし現在彼がプレイしているシューティングゲームの腕前はごく普通、上手いか下手かでいえばどちらかというと下手寄りである。しかし、そんな地味なうえにゲームが上手いわけでもない少年を見た常連客は、彼の姿に気づくと同時にさっと目を逸らし、少し離れたゲーム機へと急いだ。
やがて少年は一ゲーム終えたようだった。やる気のない溜め息をつくと席を立ち、自動販売機スペースに向かう。と、そこへ数人の男性客が近寄ってきた。年の頃は十代後半、見た目は田舎の不良のテンプレートをそのまま立体化し生命を吹き込んだような集団である。それぞれあまり出来のよろしくない顔面に薄ら笑いを浮かべ、壁際に少年を追い詰めるようにして立つ。これ以上ないほどわかりやすいカツアゲの儀である。
「もしかしてーえ、ジュース買うのーお?」
「いいないいなーねえ俺らにも奢ってくんない?」
「一人頭一万でいいからさぁー? 七葉のお坊ちゃまならそれくらい持ってんだろ?」
この集団、実は新たなシマを求め、わざわざ数駅離れたショッピングモールから出張してきた不良グループである。とりま初手陰キャカツアゲで自分たちの力を周囲に知らしめようというわけだ。もちろん前述のように常連客は少年を避けているため、周囲に人などいないのだが、残念ながら一見さんにはわからないのである。そしてそんな不良軍団の顔を、少年は無言かつ無表情で見ていた。まるで遠い昔に感情というものをゆりかごに置き忘れてしまったかのような、底の浅い、無感動な眼差し。ここで勘のいいまたは実戦経験豊富な不良であれば、こいつは何かやばいぞ、と直感できたかもしれない。しかしこれまた残念ながら、勘が悪く実戦経験も乏しい出張テンプレ不良らには、相手の沈黙と眼差しの意味を推し量ることができなかった。そこで、うんともすんとも言わずに突っ立っている少年を脅すために、一人が彼の肩のあたりを小突いてやろうと手を伸ばした。が――。
「うわあああああああ」
テンプレ少年漫画のごとく、不良は床にひっくり返って悶絶した。伸ばされた手が捻り上げられ、そのうえ更に投げ飛ばされたのである。他の不良たちは一瞬何が起きたのかわからずぽかんとした。だが、とりあえず仲間がやられたのだということを理解すると、一呼吸おいてから一斉に少年に襲い掛かった。そしてきっかり十秒後には、一人残らず床に伸びて泥落としマットの代わりとなるという、ベタベタな結末を迎えたのだった。
「ま、まさかお前があの……七葉の、『鮫』……」
不良の一人が、お決まりの台詞を口にしかける。けれど少年はそれを許さなかった。
「うるさい」
小さく呟いた少年は、不良の脇腹を異様な素早さで蹴り上げた。重くこもった音が、あたりに鈍く響く。不良は背を折り身体を縮め、激しく咳き込んだ。少年はそんな相手の様子を無表情で見下ろしていたが、ふらりと自動販売機に近づくと、ジュースのペットボトルを一本買った。そうして床に転がっている不良の傍らに戻る。
「望みどおり奢ってやるよ」
ペットボトルが逆さにされる。じょぼじょぼという音を立てて、不良の顔に、髪に、派手なスカジャンに、オレンジ色の液体が注がれていく。
「げほっ、かはっ、ううう……嘘だろ……醒井は去年卒業したはずじゃ……」
「うるさいって言ったんだけど?」
「ゴフッ」
空になったペットボトルが、お喋りな不良の口に押し込まれる。もう不良は何も言わなかった。耳障りな呼吸音と微かな呻き声だけが、店内の騒々しいBGMの下で、重い気体のように滞る。少年――七葉のアンタッチャブル――『鮫』こと醒井然は、急に興味をなくしたように前を向くと、自動販売機コーナーを後にした。
「あー……馬鹿みたい」
微かな独り言が、口の端から投げやりに吐き出される。学生鞄を提げて店から出て行くその姿に、店員も常連客も何が起きたかを悟ったようだったが、誰もが見て見ぬふりをした。
「――あれ、あそこにいるのうちの生徒ですよね? 何年だろ」
「あーほんとだ、六年かな……って、早船もいんじゃん。何やってんだ」
わきわき歌クラブを目指していた城咲の凸凹は、目的地の右隣に位置する広場を通り過ぎようとしたところで足を止めた。城咲ガールズと早船も二人に気づいたらしく、おや、という顔をしている。
「どうします? 挨拶していきます?」
「いや、向こうはこっちのこと知らないからスルー安定」
早船は城咲の生徒と派手に遊んでいるため、遊んでいない生徒にもそれなりに知名度があり、なおかつ顔も知られている。しかしあいみはそういうタイプの人間ではなかった。当然早船は彼女を知らないはずだ。
「でも、早船企画のお花見で向坂縁が特別講演をするってことは、早船秋尾と向坂縁は、親しいかどうかまではわからないけど、少なくとも連絡を取り合う仲ではあるってことになりません? だったら今から接近しておくのは、アリよりのアリなんじゃないですか?」
音々が真面目くさった顔で訊ねてくる。確かに、とあいみは思った。仮に花見会場でタイミングを見計らって向坂縁に話しかけようと動いても、あのゴールデングラブ賞級に守備力の高い取り巻き連中に阻まれてしまうのがオチだ。
「音々、お前賢くなったな……確かに先に早船と親しくなっておけば、花見当日、向坂縁を紹介してもらえるかもしれん」
「へへへ、でしょ!」
そんなわけで、あいみはお嬢様風の微笑を湛えて早船を見つめると、彼に向かって直進し始めた。当然後から音々もついてくる。二人の視線と爪先が自分に向いていることに気づいた早船は、隣の城咲ガールに訊ねた。
「誰この子ら」
ガールは声を潜めて短く答えた。
「髪が長い方が五年の御苑、ツインテが四年の桃田」
「へえ! 学年が違う君たちでも知っているということは、そっちじゃ結構有名なんだな?」
「どっちも目立つ子だからね……特に御苑は学年でいちばん美人なんじゃないかな」
「言われてみれば美人だな! こんな美人が城咲にいるとは知らずに今まで生きてきたとは、俺としたことがまさに一生の不覚!」
「まったく大袈裟なんだから……早船君にしてみたら、せいぜい一秒か一瞬の不覚でしょ」
ガールズとごにょごにょと話しているうちに、あいみは早船の目の前までやってきた。
「初めまして。私、城咲女子高等部二年の御苑あいみです。七葉学園の早船さんですね?」
「そのとおり! 俺が七葉学園の早船さんです。初めまして」
「こちらは後輩の桃田音々です。――音々」
「こんにちは! 初めまして! 城咲四年の桃田です! よろしくどうぞ!」
「今度のお花見企画のチラシ、先程拝見しました。早船さんが企画なさったそうですね」
自己紹介を音速で終えると、あいみは早速本題に入った。相手は非常識で有名な早船である。多少ぐいぐい行ったところで問題ないだろうと踏んでのことだ。
「そうです、俺の企画です。ええと、御苑さん、と、桃田さん、も、来てくれるのかな?」
「はい、もちろん。七葉と城咲の皆で一緒にお花見なんて、とっても素敵ですね」
「今からめちゃめちゃ楽しみです!」
「私も微力ながらお手伝いさせていただきたいと思っているので、何かできることがあれば、遠慮なくおっしゃってください」
「全力でお手伝いします!」
「こちら、私の連絡先です。SNSはやっていないので、メールアドレスで恐縮ですが、お手隙きの際にでも一度ご連絡いただければと」
「必ずメールしてくださいね!」
流れるようなあいみの台詞と音々の合いの手に、城咲ガールズは何かやべーなという顔をしたが、早船は笑顔でうんうんと肯き、差し出された名刺を受け取った。
「これはありがたいな! 実は今まさに花見の打ち合わせをすべく城咲の代表者と合流したところなんだが、それじゃあ御苑さんと桃田さんもこの会議にジョイナスしてくれるだろうか!」
「ええ、もちろん喜んで」
「もちのろんで!」
トントン拍子としかいいようのない展開に、あいみはほくそ笑んだ。どうやら花見の幹事に加えてくれるらしい。今回の会議に向坂縁は参加していないようだが、前日か当日には事前の打ち合わせまたは確認があるだろう。幹事になっておけば、恐らくそのときに向坂縁と直に話ができるはずだ。良い。非常に良い。
が、彼女が向坂縁と直に話をする機会は、花見やその打ち合わせよりも早く訪れることとなった。というのも、早船を追って同じくわきわき歌クラブを目指していた七葉の凸凹コンビも、広場の前を通りかかったのである。
「いたぞ、早船だ」
向坂の鋭い声に、早船は振り返った。
「おお、とつのぜんに俺の風穴が!」
「俺の風穴?」
あいみと音々、そして城咲ガールズらも声のした方へ視線をやる。そして申し合わせたように揃って驚愕の表情を浮かべた。
「え……」
天使だ、とあいみは思った。そこには天使がいた。天使――ほかの言葉では表しようのない存在。ブルーム氏以外で、見た瞬間にそれが天使であると確信した人間は、今この瞬間数メートル先に立っている美少女が初めてだ。
「いやあこんなところで出会うなんて奇遇だな! 俺に用事かい? もしかして、君らも花見に協力したいとか? ならば答えは当然ジョイナスだ!」
「何が当然だ、お前のような詐欺師に協力するわけがないだろうこのたわけ。その腐りきった性根、僕がこの場で叩き切ってやる」
「うーん、性根をどうこうするならせめて叩き直す程度にしてほしいな! 叩き切るなんてまるで男根じゃないか。男リョナラーも裸足で逃げ出す阿部定っぷりだぞ!」
「誰が性器の話をした潰すぞ黙れ」
激怒した向坂は恐ろしい剣幕で早船に詰め寄った。すかさず早船が両手を上げて降参のポーズをとる。が、その顔は依然としてへらへらしている。
さて、突然現れた美少女の天使っぷりとその可憐な容姿に似合わぬ口の悪さと一連の流れの読めなさに呆気に取られていたあいみだったが、広場の入り口あたりでどっしりと構えている(実際は、自分も『勝手に向坂の名前を使った詐欺師』であるため早船に自身を重ねて股間を縮み上がらせているだけの)いやに背の高い男の存在に気づくと、さすがに呆然としてはいられなくなった。
「そこにいるのは……クソ童貞野郎か!」
「えっ、あれが!? あいみさんあんな海外の傭兵みたいなのと連絡取ってたんですか!? 猛者ですねえ!」
天使の存在を一瞬で脳から駆逐し、あいみが吠える。すると背の高い男は、凶悪すぎる顔面を彼女に向けた。
「あ、あ、あ、あいみちゃん……」
久野は戦慄した。まさかここで、至極自業自得なトラウマを負うこととなった出来事の中心人物と再会するはめになるとは、夢にも思わなかったのである。あいみは向坂に負けぬ勢いで久野に歩み寄ると、反社会勢力も称賛を惜しまぬであろう自然な動作で、三十センチ近く身長差のある相手の胸倉を、がっしりと掴んで引き寄せた。
「よう久野、どうやら相変わらず健やかに生きてやがるようだな」
「あ、はい、お陰様で……」
「そりゃ何より。でもこっちはお前と違ってストレスで気が狂いそうなんだよ。あのときは連れが見てる手前、ぬっるい言葉で見逃してやったけどな、本当はあれからずっと、一発ぶん殴っときゃよかったと後悔してたんだ」
「あの一件であいみさんに与えられた精神的苦痛は、クソ童貞野郎さんが思うよりもずっと大きいんです!」
「というわけで、私は今この場でお前を殴ることによって、不愉快な事件にカタをつけ、一切合切忘れてしまおうと思う。さあ、歯ァ食い縛ってタマ縮めろよ」
「さあさあ食い縛ってどうぞ縮めてどうぞ!」
「ごごごごめんなさい、本当にすみません、騙すつもりはなかったんです!」
突如繰り広げられた向坂VS早船、及びあいみ・音々VS久野の図に、城咲ガールズはドン引きした。一般的な感性の持ち主であれば、このような詳細を知らずとも不毛であることが見て取れてしまうような醜い争いになど関わりたくないし、そんな争いに身をおいている人間と関わり合いがあると思われたくないと感じてしかるべきである。したがって、賢明なガールズはそれぞれ手にしていたドリンクを一気に飲み干すと、じゃあね早船君、せめて安らかにね、と言い残し、迷いのない力強い足取りでカラオケ店に行ってしまった。
自分の味方(では決してないのだが)がこぞって離脱してしまったことに気づいた早船は、迫りくる向坂から股間を庇いながら哀れっぽい悲鳴を上げ、あいみに助けを求めた。
「御苑さん! さっき協力すると言ってくれていたな! だったら今ナウ早急にどうか俺を助けてくださいお願いします! このままだと向坂に潰されちゃううう」
すると負けじと久野も声を張り上げた。
「助けてくれ向坂! 俺に何かあったらお前の生活は成り立たないだろ!? このままだとあいみちゃんに伸されちゃううう」
当然ながら、二人の願いは聞き入れられなかった。が、彼らの発した言葉が、あいみの動きを止めた。
「……こうさか?」
あいみの手が、久野の胸から離れる。その視線は、今まさに早船を締め上げようとしている美少女を捉えていた。早船が、おっといけね、と首を竦める。久野はというと、別の意味で詰んだ、と絶望した。そして向坂は――無言で俯いた。
「こうさか……『向坂』? その子、『向坂』なの?」
厄介なことになってしまった。七葉学園内ですら持て余している向坂縁女体化現象を、学園の外に漏らしてしまったらいったいどんな馬鹿でかい騒動になるか、想像しただけでストレスで胃が蜂の巣になりそうだ。どうにかフォローしなければならない、と久野は思った。思ったのだが、しかしどうフォローすればよいのかわからない。あいみは向坂を凝視して、うわマジか、ほんとだ似てるわ、言われてみりゃそっくり、こんなことってあるのかよ、と、思ったことをそのまま垂れ流していた。このままではいけない。久野は焦り、とりあえず口を開いた。
「いや、あの、あいみちゃん、これには色々と込み入った事情があって、俺が江戸前君になる危険性も孕んでいる非常にデリケートでセンシティブな事案だから、ちょっと落ち着いて俺の話を聞いて……」
しかしあいみは彼の話になど耳を傾けなかった。完全に地面を見つめている向坂ににじり寄ると、武者震いしながら、恐らくはフェータルな問いを口にしようとする。
「ねえあなた、あなたってもしかして……」
久野は目を閉じた。意識が、魂が、人生の走馬灯すらも点かない深い闇(というか東京湾の底)に包まれていく。
「――もしかして、向坂縁……」
南無三、最早これまで、確約された童貞のミンチ、間接的カニバリズムとしての江戸前寿司――。
「……の、親戚……?」
次の瞬間、地上の全生命体が死に絶えたような静けさがあたりに満ちた。断末魔の名残さえない、完全な、凪。
そんな静寂を破ったのは、人ならざるものすなわちゴッドだった。焦点が何処に合わされているのか全く読めない瞳を右斜め上に向け、短く問い返す。
「だとしたら?」
こいつ相手が誤解しているのをいいことに親戚のふりをするつもりだ、と久野は思った。確かに真実を話す義理も話さねばならぬ義務もない。ここは乗っかって誤魔化すのが正解だろう。嘘も方便というやつだ。
「そうそうそうなんだあいみちゃん、この子は向坂の親戚なんだ」
「何親等? 名前は? 年は?」
「ええとそれは……」
突っ込んだ質問をされ、久野はわかりやすくおろおろした。これでは嘘をついていますと自己申告しているようなものだ。が、あいみが疑いの眼差しを向ける前に、向坂が答えた。
「四親等。向坂ユリカ。十六歳」
童貞に比べ遥かに肝が据わっているゴッドは、二酸化炭素を吐くよりも自然に嘘をついた。お陰で、全てを知っている久野でさえ、それが嘘偽りのない真実、唯一絶対の事実、正典からの引用であるような錯覚に陥りかけたほどだった。あいみも向坂の言葉を信じたようで、オゥジーザスとばかりに額に手を当てた。
「四親等……ってことはこの子、向坂縁と結婚できんじゃん……ねえユリカさん、あなた向坂縁のことどう思ってる? まずはそこを確認しておかないと話が進められない」
「話とは何の話だ?」
「いいから答えて」
あいみがずいと一歩足を踏み出す。すると向坂は一歩後ずさりした。その目は相変わらずあいみ以外の何かを見つめている。
「どう思っているも何も、向坂縁は向坂縁だろう、ただそれだけだ」
「じゃあ、恋愛感情とかは?」
「あるわけがない」
「あなたにはなくてもあっちにはあるってことは?」
「ありえない」
自分自身に恋愛感情を抱くことなどありえない、という至極真っ当な返事である。が、何も知らないあいみはイエスと短く吠えるとガッツポーズした。それから一つ咳払いをして、髪の乱れと胸のリボンの歪みを直すと、とっておきの大和撫子スマイルを披露する。
「ユリカさん。これは直感なんだけど、私たちきっと気が合うと思う。ここで出会ったのも何かの縁、お友達になりましょ」
ずずいと前進して距離を詰めようとするあいみに対し、向坂は彼女と同じ勢いで後退した。
「遠慮する」
ずずい。
「そう言わずに。これが私のメールアドレス。よかったら――いやよくなくても受け取って」
ずずずい。
「これ以上近づかないでくれ」
ずずずい。
「私、あなたみたいな綺麗な子と仲良くなりたいの!」
ずずずずい。
「近づくなと言っているだろう、やめろ、身体を寄せるな、よせ、おい誰かこいつを止めろ!」
遂に向坂が大声を出す。綺麗な顔から血の気が引いていくのが見て取れる。だが早船は、向坂を助けることで作れる貸しでは名前の無断使用を帳消しにはできないだろうと計算したのか、少し離れたところに突っ立って無意識に股間を庇う仕種をしていた。そして音々は、あいみから何も指示されていないせいか、やはり突っ立って観戦に回っていた。要するに、久野が止めねば止まらない事態だ。
「……ウワアアアアアごめんねあいみちゃん!」
彼は両手を広げて二人の間に割り込んだ。
「ハァ? なんだお前。邪魔すんじゃねーよこのクソ童貞が」
あいみが久野を押しのける。大和撫子風の外見からは想像もつかないその怪力っぷりに、百八十センチを優に超える身体は一瞬バランスを崩した。しかし、なんとか足を踏ん張って持ちこたえると、無駄な筋肉をここぞとばかりに発揮して、今まさに向坂に迫ろうとしていたあいみを後ろから羽交い絞めにした。
「俺だって邪魔したくないけど、こっちは命がかかってるんだよ!」
「命がかかってんならちょうどいいじゃねーか。そのままくたばりやがれこのクソ童貞詐欺師。おい音々、股間だ、クソ童貞の股間を狙え!」
あいみが音々に指示を飛ばす。スタンバイモードで観戦していた音々は、即座に全力モードに切り替えると、舎弟らしく嬉々として駆け寄ってきた。
「股間ですねあいみさん! 任せてください、生涯童貞にしてやりますよ!」
「悪魔かよ!? なあ向坂頼む、そっちのもう一人を取り押さえてくれ!」
相手が応援を頼むなら、こちらも応援を頼まざるをえない。しかしゴッドを舎弟と同じように扱うことはできなかった。向坂は明後日の方向を向いたまま、クールに言い放った。
「それは無理な相談だ。僕は異性の身体に触れることができない」
「知ってた!!!!!」
絶体絶命、やはり最早これまで、さようなら未来の恋人、こんにちは永遠の純潔――。
と、そのときだった。広場の入り口の方から、数人の声がした。
「こっちです警備員さん!」
「広場で男女混合の乱闘騒ぎが!」
「恐らく痴情のもつれかと!」
その場にいる全員が、これはまずい、と思った。真っ先に声を上げたのは早船だった。
「それじゃ、捕まった奴が全責任を負うってことでよろしく!」
こうして少年少女らは無言のうちに休戦協定を結ぶと、声がしたのとは反対側の入り口を目指し、全力で駆け出したのだった。
ちょうどそのとき、ゲームセンター近くのファストフード店には、醒井の姿があった。二階席の窓際で、氷の溶けきったコーラをちびちびと不味そうにすすっている。近くのテーブルには若者のグループが何組かおり、誰もが楽しそうに談笑しているが、彼は一人きりである。退屈しきった眼差しをガラスの向こうに押しやるその様子は、まるで今すぐ世界が終わることを望んでいるようにも見える。
「……あ」
突然、彼の口から小さな声が漏れる。退屈の色以外何も浮かんでいなかった目に、変化が訪れる。表情にも微かな緊張。何かが、燻ぶった彼の心を捉えたのだ。
「……」
彼の眼差しは、今、一人の人間に注がれていた。何かひどく急いだ様子で、数人の男女と共に広場から走り出てきた、どうしようもなく美しい生き物。
「向坂縁……」
ずっと頭の中にあり続けるその名前に、誰にも聞こえぬよう口の中でそっと音を与える。そのとき、重石のように胸を押さえ続けてきた鬱屈が、ほんの僅か和らぐのがわかった。自分のためだけにその名を口にするのは、彼にとってこれが初めてだった。
一方こちらはカラオケ店の一室。一足先に離脱していた城咲ガールズは、特に曲を入れることも歌うこともなく、それぞれの端末でSNSを眺めながらお喋りをしていた。
「よくわかんないけどすごい修羅場だったね」
「今頃早船君どうしてるかな」
「まあ、自分がまいた種っぽいし、自分で何とかするでしょ」
「それにしても、あの早船君に突っかかってた子、本当に綺麗で可愛かったな」
「ね。いったい何処の子なんだろ? あれだけ美人なら城咲でも話題になってるはずだけど、それらしい噂聞いたことある?」
「ない。でも制服着てたよね。早船君と同じやつ」
「じゃあ早船君と同じ学校の生徒か」
「ってことは、つまり……」
「つまり、七葉?」
「……あれ? おかしくない?」
「……いやいやいや、まさかそんな…………え?」
そこで漸く彼女らは気づいた。美少女の美少女性に幻惑されてすっかり見落としていた、あることに。
「――七葉って、男子校だよね……?」
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