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13. その魔女、管理職につき
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私立七葉学園5―B学級担任兼日本史教科担任の薮内聿子は真面目な人間だった。それはただ単にしっかりしているとか責任感が強いとかいうありふれた意味ではなく、いついかなる瞬間も誠実に生きるという意味の真面目さだった。だから彼女が教員の道に進むことを決めた際、職場として男子校を選んだのは当然の帰結であった。二十四歳で修士課程を修了し専修免許状を取得してすぐに七葉学園に就職し、学級担任を任されるようになって二年目、今年の秋で三十一歳になる彼女はいついかなるときも真摯に自らの職務に取り組み、その真面目な姿勢と丁寧な仕事ぶりは同僚や生徒、保護者たちから高い評価を得ていた。しかし。
「5―Bの担任を降りたい!?」
「あららぁ、どうしてなのかしらー?」
四時間目真っ最中の校長室。校長と教頭に話があると自身の空き時間にやってきた薮内の突然の申し出に、校長の高舘は目玉をひん剥いた。教頭の冷泉も、アイロンで完璧に巻いた長い髪を揺らして小首を傾げる。薮内はやや俯き加減で、しかしはっきりと言った。
「私には、学級担任を続ける自信が――いえ、資質と資格がありません」
寝耳に水とはまさにこのことである。高舘はぶるぶると頭と頬と顎の肉を振った。
「いやいやいや、突然すぎるでしょ。いったいどうしたんですか薮内先生」
しかし薮内の気持ちは校長の顎肉の百分の一も揺れはしないようだった。本当にすみません、と頭を下げるその声と姿には、固い意志が宿っている。これに対し高舘は、よりいっそう激しく顎の肉を震わせた。新年度早々教員が学級担任をやめたいと申し出るなど七葉においては前代未聞、高舘にとっても青天の霹靂であり、謝られても困るのである。
「確か先生は去年からあのクラスを受け持っていましたよね。何も問題はなかった、というか、むしろすこぶる評判がよかったはず。それなのに急にどうしてそんな」
「状況が変わりました」
「状況? 何ですか状況って。もしかしてトラブルですか? ひょっとして我が七葉にも遂にモンスターペアレンツ襲来? あわわわわクレームが来たら自分だけで対応せずまずは冷泉先生に通すようにと前から――」
「あー、校長、ちょっと黙ってもらえるかしらー」
「うぷ」
薮内に縋りつかんばかりの勢いの高舘を書類ファイルで押しのけ、冷泉はにっこりした。
「きっととってもデリケートな問題を含んだ事情があるのよねー。聿子さん、今日の5―Bの終礼は私が代わりにやっとくから、放課後二人で少しお話ししましょ」
冷泉の言葉に、薮内は躊躇うように数秒視線を泳がせてから、わかりましたと呟くと退室の挨拶をして校長室を出て行った。
「どどどどうしましょう冷泉先生」
高舘は、後ろ足で立ち上がったレッサーパンダのような二足歩行させるにはやや不安な姿勢で、閉まったドアと冷泉を交互に見た。
「やっぱりモンペ……あるいは生徒とトラブル……まさか生徒と禁断の……あああやめて死んじゃううう」
「校長。薮内先生は真面目で誠実な人よ。保護者からクレームがあったり生徒と何かあったりしたら、すぐに学年の担任間で共有して我々にも報告するはず。とにかく、突然前触れもなくあんなことを言い出したということは、恐らく彼女にとって非常に深刻な――彼女の人間としての根幹に関わるようなとても深刻な事態が発生しているのよ。あとで私がしっかり話を聞いておくから、校長は今の件、誰にも言わないで。いいわね?」
「れ、冷泉先生がそうおっしゃるなら、はい……」
高舘がレッサーパンダ体勢のまま肯くと、冷泉はにっこりした。
「よろしい。さてさてーところで6―Aの早船君はちゃんと登校してるかしらー? 今年こそは卒業してもらいたいんだけど。それに6―Cの醒井君の様子も気になるわねー。あとで担任から聞いておかないと」
自分たちの学級担任が学校長及び教頭に対し担任を降りたいと申し出ていた頃、5―Bの生徒たちはレクリエーション以上の意味をもたないという点において非常に進学校的かつお坊ちゃん学校的な体力テストに勤しんでいた。
「いいか、絶対に視界に入れるなよ」
「見たら久野に殺されるぞ」
「万が一見えても見てないふりをするんだ」
「間違っても感想なんか口にするな」
遠い潮騒に似た微かなざわめきが、ちょっとどうかと思われる美貌の生き物(ガワは美少女で中身はゴッド)の周囲に広がる。級友たち(といっても久野にとっても向坂にとっても別に友達ではない)は、美貌の生き物のちょっとどうかと思われるサイズの胸部を思春期的な意味合いで意識していた。しかしゴッドを性的な目で見ることは聖書ですら想定していない禁忌中の禁忌であり、もしもそんなことをしたら顔面凶器のハードボイルドマッチョ(ガワは獅子で中身は小鹿)に片手で握り潰されることは避けられないため、互いに互いを戒め合っていた。級友たちの小さな囁き声は、久野の耳にはぎりぎり届かなかった。しかし連中が何を言っているかなど、ナイーブな久野にはだいたい想像がついたので、彼はともすれば消失しそうになる黒目を必死に白目の中央に繋ぎ止めようとしながら記録用紙とボールペンをきつく握り、立ち幅跳びの踏み切り線の前に立つ向坂に向かって、いつでもいいぞと緊張のせいで普段の倍くらいドスのきいた声で告げた。
「僕の足が何処についたか正確に覚えておけよ」
そう言って向坂は一つ深呼吸した。綺麗な顔と真剣な眼差しを真っ直ぐ前へ注ぐ。その瞳に輝くのは、以前と全く変わらない、冷たく澄んだ美しい灰色の虹彩だ。そしてジャージに包まれた胸は――いや駄目だ、胸は見てはならない、それは破滅への入り口である、見ようと思えばというか見たくなくても向坂の身体が元に戻るまでいくらでも生おっぱいが見られるのだからこんなところで胸を凝視してはならない。
かくして久野は視線を向坂の爪先に集中させ、凄まじい意志の力でもってそれ以外のものを視界から消した。そのため、華麗に跳躍し華麗にマット上に降り立った向坂の着地地点はこれ以上ない精度で目測されることとなり、これより前のシャトルランの際に向坂のせい(というよりも彼が童貞であるせい)で尻の筋肉が攣った影響で立ち幅跳びにおいて踏み切り線とマットの間で沈んだ久野の記録を華麗に超えていったのだった。ちなみに向坂のせい(というよりも自身の思春期的煩悩のせい)で半数以上の生徒がそれぞれ何処かのタイミングでどこかしらの筋を違えていたので、結果的に最後の項目の立ち幅跳びでクラス最高得点をマークしたのは向坂だった。なんだかんだで有終の美を飾るあたり、さすがミスター・パーフェクト、なのかどうかはさておき、かくしてあまり無事ではないもののとりあえずはつつがなく、体力テストの全項目が終了したのだった。
「やれやれ、慣れない身体で運動すると疲れる。ほら、さっさと記録用紙を寄越せ」
向坂に促され、久野は自分が宙を見つめて突っ立っていたことに気づいた。あたりを見回すと、他の生徒たちはそれぞれパートナーに相手の記録用紙を渡し、自身の用紙を受け取っている。久野も慌てて向坂と紙を交換し、自分の記録を確認した。カタストロフィという表現が実にしっくりくる数字が向坂の麗しい筆跡で記入されている。呆然とする彼の隣で自らの記録に目を通していた向坂は、ほんの少し顔をしかめた。
「やはり思うような数字は出ないな」
「悪いけどその話、俺以外の人にしてくれない?」
「筋肉の使い方がわかっていても、筋肉の絶対量が足りない」
「ねえ向坂さんお聞きになってます?」
「こうなった以上は所与の筋肉でより無理なく無駄なく最大の力を出す方法を探るべきかもしれないな」
「だからその話は俺以外の人にしてくれって言ったじゃん! ほんと自分のことしか考えてねえのなお前!」
「それは誤った認識だ。僕は自分のことしか考えていないのではなく、単にお前のことを考えていないだけだ」
「説得力の権化か」
と、そこへ白川の弱々しい声が拡声器に乗って流れてきた。
「間もなくチャイムが鳴りますので、片づけに入りましょう……手が空いている人はマットを畳んで用具室に運んでください……残りの人は整列して待機……体育委員は用具室で片づけの補助を行うように……」
七葉の生徒は根本的に育ちがよい。マットの傍にいた者は、白川の指示に従い片づけを始めた。そして群を抜いて育ちがよい向坂と、ほどほどに育ちのよい久野もまた、数多あるマットのうちの一つの傍に立っていたため、自然と片づける流れになった。しかし。
「あー、これは俺が片づけるから、お前は先に並んでろ」
「どういうことだ?」
不毛な会話も板につき始め、単に寮において同室でクラスが同じで出席番号が並んでいるだけの二人から凸凹コンビと化しつつある久野と向坂だったが、久野が一人でマットを片づけようとすると、向坂が待ったをかけた。
「どういうことって、今のお前には重いだろ」
「以前よりも筋力と体力が低下したのは確かだ。しかしだからといってマットの片づけが全くできないほどだと思うか?」
「いやでもさあ、現にお前、一柳さんからの届け物の箱、一つしか持ち上げられなかったじゃん」
彼の言葉に、向坂は頭を振った。
「『一つしか持ち上げられなかった』じゃない、『一つなら持ち上げられた』だ。いいかよく聞け、僕にできないことは僕が決める。お前が勝手に決めるな」
その綺麗な顔は、苛立ちのせいかほんの少し強張っている。久野は箱を運搬しようとしたときの向坂の表情を思い出した。高すぎる適応能力及び身体能力と通常運転のゴッドっぷりにすっかり幻惑されていたが、向坂も本当は自身の肉体が思いどおりにならないことに苛立っていたのだ。
「それにだな、もし今の身体では片づけが一切できないというのなら、お前が騙した例の城咲女子の生徒たちは体育の時間どうやってマットを処理しているんだ? 教員が全部片づけるのか? それとも城咲女子にはマットが存在しないのか? おいどうなんだ」
「わかった、わかりました、俺が悪かったですごめんなさい、だから城咲の話はやめて……」
城咲というワードに苦い記憶が呼び起こされ、久野は呻いた。すると向坂は、よろしいとばかりに肯いた。
「わかればいいんだ。ところで城咲女子といえば今年度から制服に――」
「ところでじゃねえよ!」
そんなこんなで不協和音を奏でながらマットを片づけた二人は、授業後も連れだって不毛な会話をしながら寮から届いた弁当を受け取りに行き、神も仏もいないような昼休みを過ごしたのち、午後の授業を乗り切り、終礼の時間を迎えた。
「はぁい、5―Bのみんな元気? 薮内先生がちょーっと手が離せない状況なので、今日の終礼は私が担当しまーす。日直さん、このプリント配ってくれる?」
真っ赤なハイヒールを軽快に鳴らして教室に入ってきたのは、教頭の冷泉だった。生徒たちは皆それぞれに痛めた筋をさすりながら、薮内はいったいどうしたのだろうという顔をしたが、冷泉は詳しく説明する気がないようで、日直に紙の束を渡すと教員用の椅子にどっかと座って黒い網タイツに包まれた脚を組み、窓の外に視線をやって、すっかり春ねえ、と呟いた。
「――教頭先生、プリントの配布が終わりました。連絡事項があればお願いします」
日直に促された冷泉は、教室に視線を戻した。と、そのときだった。
「すみませーん、このプリントも配ってもらえますかね」
やたら陽気な声と共に、一人の生徒が教室に飛び込んできた。あまりにも突然だったので、誰だ、と思う暇はなかった。というか、突然終礼中の教室に乗り込んでくるような真似をする人物は、七葉において一人しかいなかった。
「ちょっと早船君、いったい何しに来たのー?」
札付きの非常識の再登場に、久野は眩暈がした。いったい何をしでかしに来たのだろう。
「おや薮内先生、暫く見ないうちに随分と雰囲気が変わりましたね!」
優男フェイスでへらへらと笑っているあたり、冷泉を前にしてもまるで動じていない様子である。遠慮とか物怖じとかいう概念を綺麗に欠いているという点においては、この早船秋尾という男、向坂に近いものがある。と、向坂が聞いたら激怒しそうなことを久野が考えていると、冷泉が呆れた顔をして立ち上がった。ヒールを響かせて教室の入り口にいる早船の前に立つと、頬を膨らませて腕組みをする。
「んもう、私は冷泉よ、わかってるでしょ。今終礼の最中なの、勝手に入ってこられると困るわぁ。ってその前に、あなた自分のクラスの終礼は? もう終わったの?」
「ははは終わりましたよ、最早夢に見ることさえかなわないくらいとっくの昔に終わりました。しかし終礼中とは知りませんでした、申し訳ない。まあちょうどいいんでそこのいかにも日直然とした君、終礼後にこのプリントの配布を頼む。じゃあ薮内先生、お邪魔しました」
来たときと同じノリと勢いで、早船は去っていった。
「だから冷泉だってばー、本当に困った子ねー。まあいいわ、ちゃんと出席してるみたいだし。さて、じゃあ私たちも終礼を終わらせましょ。日直さん、号令よろしく」
かくして終礼は終わり、早船に配布係を押しつけられた日直は、仕方なくプリントを配り始めた。手許に回ってきた紙を見て、久野は苦い顔をした。
「また城咲かよ……絶対行かね」
それは七葉・城咲合同花見イベントの告知を行うものだった。今週の土曜日、学校近くの公園で城咲女子学園の生徒らと合同で花見をする、予約不要・参加費無料なので誰でも気軽にどうぞ、という内容である。風穴をあけたがる、もとい垣根を作ることを嫌う早船らしく、ゴシック体で『誰でも』と強調しているが、しかしそんないかにも陽気なイベントに乗り気になるのは、どう考えてもスクールカースト上位陣だけだ。仮にあいみの件がなかったとしても、久野のような脆弱メンタルの童貞はまず間違いなく不参加を決め込むだろう。そんなわけで、俺は行かないけどお前も行かないよな、と向坂に確認を取ろうとした久野だったが、思考を言葉に移し替える直前、紙面の端に書かれた一文に気づいた。
『スペシャル企画:七葉学園5―B向坂縁・特別講演』
久野はその一文字一文字を凝視した。脳の機能に何らかの異常が発生し、文字を正しく認識できなくなったのだ、そう思った。しかしどれだけ凝視しても、そのシニフィアンが負うシニフィエは一ミリたりとも移ろうことも揺らぐこともなく、久野の凝視と同じ深度の深淵から久野を見つめ返した。
「……なあ向坂。お前もしかして、俺の知らないところで早船さんと何か約束したのか」
「約束?」
向坂は首を傾げた。そして久野が指で示した向坂縁・特別講演の文字を目にすると、綺麗な顔に怒りをみなぎらせた。もちろん女体化する前から怒っていても国どころか全世界が斜めに傾くくらいには美人なのだが、怒った向坂の恐ろしさを熟知している久野は(主に股間が)縮み上がった。
「僕は講演依頼など受けていない。おい早船は何処だ」
早船探しを手伝わない、という選択肢は久野に与えられていなかった。向坂を一人で行かせるわけにはいかない。それは校内に危険があるという意味ではなく、早船がまた新たなプロジェクトを立案し、それにうっかり向坂が賛同してしまう危険があるという意味においてだった。今この状況で向坂が妙なプロジェクトに参加すれば、当然久野も巻き込まれる。俺の指定校推薦、と彼は思った。そんなわけで、怒髪、天を衝く状態の美しい生き物と主に股間を縮み上がらせた強面大男の凸凹コンビは、教室を出ていこうとしたのだったが、しかしそこへ強敵が立ちはだかった。
「向坂君。それとええと、アノ君だっけ。ちょっといいかしら?」
声をかけてきたのは冷泉だった。早速向坂が明後日の方向を見たので、仕方なく久野が対応する。
「今ちょっと忙しいので後でもいいですか。それと俺の名前はクノです」
「白川先生やほかの体育の先生とも相談したんだけど、体育の授業について向坂君にお話があるのよね。それでドノ君にも同席してほしいんだけど」
「忙しいって言ったの聞こえてました? それに俺は関係ないと思うんですけど。あとドノじゃなくてクノです」
「そうそのナントカノ君。君って確か、向坂君の学校生活において全責任を負うことになってたわよね?」
「はぁ? 全責任って何ですかそれ。ていうかクノくらい覚えられるでしょ」
「とにかく今から校長室に来てちょうだい。ホニャララノ君、今日は掃除当番か何か?」
「当番じゃないですけど、それより全責任を負うって何の話ですか、俺はそんなこと一度も了承してないですよ! それから三十秒たったら忘れてしまって構わないので会話中くらいは相手の名前を記憶してくれませんかねクノです!」
「あららぁ、でも向坂君の身に何かあったら君は江戸前君になるんでしょ? 白川先生が言ってたわよー」
「それはそうなりかねないという話で! つか江戸前君って縁起でもないあだ名を勝手に!」
「――おい、いい加減にしろ」
あからさまに不機嫌な低音ボイスに、久野は慌てて口を噤んだ。横を見ると、向坂が毛虫を見るような目をこちらに向けている。どうやら久野と冷泉の不毛な会話にうんざりしたらしい。自身も普段から久野と際限なく不毛な会話を繰り広げていることを完全に棚に上げた所業だ。
「教頭先生、僕たちは可及的速やかに早船を捕まえて締め上げねばなりませんので、少々お待ちいただけますか。それから久野、お前が名前に拘泥するせいでよけい会話が長引いていることに気づけ。大気中の偏差値が下がり続けているぞ」
「向坂君、ストレートに馬鹿だと言ってあげるのも優しさよ?」
「自分は偏差値下げてないみたいな口ぶりやめてもらえませんかね!!!」
三人の不毛な会話はそれでひとまず終わった。それじゃあ私もこのあとちょっと用事があるから話はまた明日ね、と言って冷泉は立ち去り、向坂も、行くぞ、と短く告げて教室から出て行った。久野は一瞬自分自身を含めた全てを窓から放り出したくなったが、そんな勇気も気力も残っていなかったため、地鳴りのような溜め息をついたのち向坂の後を追ったのだった。
「――それで聿子さん、どうして5―Bの担任をやめたいのか、理由を聞かせてもらえるかしら」
放課後。校長が追い出された校長室で、冷泉と薮内は向き合って座っていた。
「……言えません。これは私個人の心の問題です」
薮内は俯いたまま静かに答えた。肩の上で真っ直ぐ切り揃えられた黒髪が、微かに揺れる。冷泉は瞼を半分下ろし、じっと相手を見た。
「そう。誰にでも他人に言いたくないことはあるわよね。でもね、正当な理由を提示することなく、一度引き受けた仕事をやめるということがいったいどういうことなのか、あなたにわからないと思いたくはないわ」
冷泉の語気が僅かに強くなる。しかし薮内は頑なだった。
「理由を言うくらいなら、私はこの学校をやめます」
「困ったさんねえ」
冷泉は呆れたように笑った。
「確認させてちょうだい。それは純粋にあなた個人の問題なのね? あなたと生徒または保護者との間で何かが起きたというわけではなく」
「その点はご安心ください」
「学級担任をするのが駄目なの? それとも5―Bが駄目なの?」
「……後者です」
「5―Bの教科担任も外してほしいのかしら」
「……できれば」
「5―Bは真面目で素直な子が多いわ。家庭に複雑な事情を抱えた生徒が数人いるけど、教員の間でも特に扱いやすいクラスだと認識されているし、私自身もそう感じている。昨年度生徒と保護者に実施したアンケートの結果も、非常によかった。あなた自身も、昨年度末の段階で今年度も担任を継続したいと希望したわね。それなのに始業式も済んだ今この段階で突然――」
「駄目なんです」
冷泉の言葉を遮るように言って、薮内は首を横に振った。
「……それでも駄目なんです。私は、私は……私には、教壇に立つ資格がない……」
震える声が、二人だけの空間に力なく溶けていく。冷泉は無言で、薮内の感情のうねりが収まるのを待った。そして訊ねた。
「――もしかして、向坂縁が突然女体化したことと関係があるのかしら?」
返事はなかった。そこには深い沈黙があるばかりだった。しかし答えがイエスであることを、冷泉は理解した。
「さぁて、どうしましょうかね……」
相手の微かな呻き声を聞きながら、彼女はソファに背を預けて天を仰いだ。
「5―Bの担任を降りたい!?」
「あららぁ、どうしてなのかしらー?」
四時間目真っ最中の校長室。校長と教頭に話があると自身の空き時間にやってきた薮内の突然の申し出に、校長の高舘は目玉をひん剥いた。教頭の冷泉も、アイロンで完璧に巻いた長い髪を揺らして小首を傾げる。薮内はやや俯き加減で、しかしはっきりと言った。
「私には、学級担任を続ける自信が――いえ、資質と資格がありません」
寝耳に水とはまさにこのことである。高舘はぶるぶると頭と頬と顎の肉を振った。
「いやいやいや、突然すぎるでしょ。いったいどうしたんですか薮内先生」
しかし薮内の気持ちは校長の顎肉の百分の一も揺れはしないようだった。本当にすみません、と頭を下げるその声と姿には、固い意志が宿っている。これに対し高舘は、よりいっそう激しく顎の肉を震わせた。新年度早々教員が学級担任をやめたいと申し出るなど七葉においては前代未聞、高舘にとっても青天の霹靂であり、謝られても困るのである。
「確か先生は去年からあのクラスを受け持っていましたよね。何も問題はなかった、というか、むしろすこぶる評判がよかったはず。それなのに急にどうしてそんな」
「状況が変わりました」
「状況? 何ですか状況って。もしかしてトラブルですか? ひょっとして我が七葉にも遂にモンスターペアレンツ襲来? あわわわわクレームが来たら自分だけで対応せずまずは冷泉先生に通すようにと前から――」
「あー、校長、ちょっと黙ってもらえるかしらー」
「うぷ」
薮内に縋りつかんばかりの勢いの高舘を書類ファイルで押しのけ、冷泉はにっこりした。
「きっととってもデリケートな問題を含んだ事情があるのよねー。聿子さん、今日の5―Bの終礼は私が代わりにやっとくから、放課後二人で少しお話ししましょ」
冷泉の言葉に、薮内は躊躇うように数秒視線を泳がせてから、わかりましたと呟くと退室の挨拶をして校長室を出て行った。
「どどどどうしましょう冷泉先生」
高舘は、後ろ足で立ち上がったレッサーパンダのような二足歩行させるにはやや不安な姿勢で、閉まったドアと冷泉を交互に見た。
「やっぱりモンペ……あるいは生徒とトラブル……まさか生徒と禁断の……あああやめて死んじゃううう」
「校長。薮内先生は真面目で誠実な人よ。保護者からクレームがあったり生徒と何かあったりしたら、すぐに学年の担任間で共有して我々にも報告するはず。とにかく、突然前触れもなくあんなことを言い出したということは、恐らく彼女にとって非常に深刻な――彼女の人間としての根幹に関わるようなとても深刻な事態が発生しているのよ。あとで私がしっかり話を聞いておくから、校長は今の件、誰にも言わないで。いいわね?」
「れ、冷泉先生がそうおっしゃるなら、はい……」
高舘がレッサーパンダ体勢のまま肯くと、冷泉はにっこりした。
「よろしい。さてさてーところで6―Aの早船君はちゃんと登校してるかしらー? 今年こそは卒業してもらいたいんだけど。それに6―Cの醒井君の様子も気になるわねー。あとで担任から聞いておかないと」
自分たちの学級担任が学校長及び教頭に対し担任を降りたいと申し出ていた頃、5―Bの生徒たちはレクリエーション以上の意味をもたないという点において非常に進学校的かつお坊ちゃん学校的な体力テストに勤しんでいた。
「いいか、絶対に視界に入れるなよ」
「見たら久野に殺されるぞ」
「万が一見えても見てないふりをするんだ」
「間違っても感想なんか口にするな」
遠い潮騒に似た微かなざわめきが、ちょっとどうかと思われる美貌の生き物(ガワは美少女で中身はゴッド)の周囲に広がる。級友たち(といっても久野にとっても向坂にとっても別に友達ではない)は、美貌の生き物のちょっとどうかと思われるサイズの胸部を思春期的な意味合いで意識していた。しかしゴッドを性的な目で見ることは聖書ですら想定していない禁忌中の禁忌であり、もしもそんなことをしたら顔面凶器のハードボイルドマッチョ(ガワは獅子で中身は小鹿)に片手で握り潰されることは避けられないため、互いに互いを戒め合っていた。級友たちの小さな囁き声は、久野の耳にはぎりぎり届かなかった。しかし連中が何を言っているかなど、ナイーブな久野にはだいたい想像がついたので、彼はともすれば消失しそうになる黒目を必死に白目の中央に繋ぎ止めようとしながら記録用紙とボールペンをきつく握り、立ち幅跳びの踏み切り線の前に立つ向坂に向かって、いつでもいいぞと緊張のせいで普段の倍くらいドスのきいた声で告げた。
「僕の足が何処についたか正確に覚えておけよ」
そう言って向坂は一つ深呼吸した。綺麗な顔と真剣な眼差しを真っ直ぐ前へ注ぐ。その瞳に輝くのは、以前と全く変わらない、冷たく澄んだ美しい灰色の虹彩だ。そしてジャージに包まれた胸は――いや駄目だ、胸は見てはならない、それは破滅への入り口である、見ようと思えばというか見たくなくても向坂の身体が元に戻るまでいくらでも生おっぱいが見られるのだからこんなところで胸を凝視してはならない。
かくして久野は視線を向坂の爪先に集中させ、凄まじい意志の力でもってそれ以外のものを視界から消した。そのため、華麗に跳躍し華麗にマット上に降り立った向坂の着地地点はこれ以上ない精度で目測されることとなり、これより前のシャトルランの際に向坂のせい(というよりも彼が童貞であるせい)で尻の筋肉が攣った影響で立ち幅跳びにおいて踏み切り線とマットの間で沈んだ久野の記録を華麗に超えていったのだった。ちなみに向坂のせい(というよりも自身の思春期的煩悩のせい)で半数以上の生徒がそれぞれ何処かのタイミングでどこかしらの筋を違えていたので、結果的に最後の項目の立ち幅跳びでクラス最高得点をマークしたのは向坂だった。なんだかんだで有終の美を飾るあたり、さすがミスター・パーフェクト、なのかどうかはさておき、かくしてあまり無事ではないもののとりあえずはつつがなく、体力テストの全項目が終了したのだった。
「やれやれ、慣れない身体で運動すると疲れる。ほら、さっさと記録用紙を寄越せ」
向坂に促され、久野は自分が宙を見つめて突っ立っていたことに気づいた。あたりを見回すと、他の生徒たちはそれぞれパートナーに相手の記録用紙を渡し、自身の用紙を受け取っている。久野も慌てて向坂と紙を交換し、自分の記録を確認した。カタストロフィという表現が実にしっくりくる数字が向坂の麗しい筆跡で記入されている。呆然とする彼の隣で自らの記録に目を通していた向坂は、ほんの少し顔をしかめた。
「やはり思うような数字は出ないな」
「悪いけどその話、俺以外の人にしてくれない?」
「筋肉の使い方がわかっていても、筋肉の絶対量が足りない」
「ねえ向坂さんお聞きになってます?」
「こうなった以上は所与の筋肉でより無理なく無駄なく最大の力を出す方法を探るべきかもしれないな」
「だからその話は俺以外の人にしてくれって言ったじゃん! ほんと自分のことしか考えてねえのなお前!」
「それは誤った認識だ。僕は自分のことしか考えていないのではなく、単にお前のことを考えていないだけだ」
「説得力の権化か」
と、そこへ白川の弱々しい声が拡声器に乗って流れてきた。
「間もなくチャイムが鳴りますので、片づけに入りましょう……手が空いている人はマットを畳んで用具室に運んでください……残りの人は整列して待機……体育委員は用具室で片づけの補助を行うように……」
七葉の生徒は根本的に育ちがよい。マットの傍にいた者は、白川の指示に従い片づけを始めた。そして群を抜いて育ちがよい向坂と、ほどほどに育ちのよい久野もまた、数多あるマットのうちの一つの傍に立っていたため、自然と片づける流れになった。しかし。
「あー、これは俺が片づけるから、お前は先に並んでろ」
「どういうことだ?」
不毛な会話も板につき始め、単に寮において同室でクラスが同じで出席番号が並んでいるだけの二人から凸凹コンビと化しつつある久野と向坂だったが、久野が一人でマットを片づけようとすると、向坂が待ったをかけた。
「どういうことって、今のお前には重いだろ」
「以前よりも筋力と体力が低下したのは確かだ。しかしだからといってマットの片づけが全くできないほどだと思うか?」
「いやでもさあ、現にお前、一柳さんからの届け物の箱、一つしか持ち上げられなかったじゃん」
彼の言葉に、向坂は頭を振った。
「『一つしか持ち上げられなかった』じゃない、『一つなら持ち上げられた』だ。いいかよく聞け、僕にできないことは僕が決める。お前が勝手に決めるな」
その綺麗な顔は、苛立ちのせいかほんの少し強張っている。久野は箱を運搬しようとしたときの向坂の表情を思い出した。高すぎる適応能力及び身体能力と通常運転のゴッドっぷりにすっかり幻惑されていたが、向坂も本当は自身の肉体が思いどおりにならないことに苛立っていたのだ。
「それにだな、もし今の身体では片づけが一切できないというのなら、お前が騙した例の城咲女子の生徒たちは体育の時間どうやってマットを処理しているんだ? 教員が全部片づけるのか? それとも城咲女子にはマットが存在しないのか? おいどうなんだ」
「わかった、わかりました、俺が悪かったですごめんなさい、だから城咲の話はやめて……」
城咲というワードに苦い記憶が呼び起こされ、久野は呻いた。すると向坂は、よろしいとばかりに肯いた。
「わかればいいんだ。ところで城咲女子といえば今年度から制服に――」
「ところでじゃねえよ!」
そんなこんなで不協和音を奏でながらマットを片づけた二人は、授業後も連れだって不毛な会話をしながら寮から届いた弁当を受け取りに行き、神も仏もいないような昼休みを過ごしたのち、午後の授業を乗り切り、終礼の時間を迎えた。
「はぁい、5―Bのみんな元気? 薮内先生がちょーっと手が離せない状況なので、今日の終礼は私が担当しまーす。日直さん、このプリント配ってくれる?」
真っ赤なハイヒールを軽快に鳴らして教室に入ってきたのは、教頭の冷泉だった。生徒たちは皆それぞれに痛めた筋をさすりながら、薮内はいったいどうしたのだろうという顔をしたが、冷泉は詳しく説明する気がないようで、日直に紙の束を渡すと教員用の椅子にどっかと座って黒い網タイツに包まれた脚を組み、窓の外に視線をやって、すっかり春ねえ、と呟いた。
「――教頭先生、プリントの配布が終わりました。連絡事項があればお願いします」
日直に促された冷泉は、教室に視線を戻した。と、そのときだった。
「すみませーん、このプリントも配ってもらえますかね」
やたら陽気な声と共に、一人の生徒が教室に飛び込んできた。あまりにも突然だったので、誰だ、と思う暇はなかった。というか、突然終礼中の教室に乗り込んでくるような真似をする人物は、七葉において一人しかいなかった。
「ちょっと早船君、いったい何しに来たのー?」
札付きの非常識の再登場に、久野は眩暈がした。いったい何をしでかしに来たのだろう。
「おや薮内先生、暫く見ないうちに随分と雰囲気が変わりましたね!」
優男フェイスでへらへらと笑っているあたり、冷泉を前にしてもまるで動じていない様子である。遠慮とか物怖じとかいう概念を綺麗に欠いているという点においては、この早船秋尾という男、向坂に近いものがある。と、向坂が聞いたら激怒しそうなことを久野が考えていると、冷泉が呆れた顔をして立ち上がった。ヒールを響かせて教室の入り口にいる早船の前に立つと、頬を膨らませて腕組みをする。
「んもう、私は冷泉よ、わかってるでしょ。今終礼の最中なの、勝手に入ってこられると困るわぁ。ってその前に、あなた自分のクラスの終礼は? もう終わったの?」
「ははは終わりましたよ、最早夢に見ることさえかなわないくらいとっくの昔に終わりました。しかし終礼中とは知りませんでした、申し訳ない。まあちょうどいいんでそこのいかにも日直然とした君、終礼後にこのプリントの配布を頼む。じゃあ薮内先生、お邪魔しました」
来たときと同じノリと勢いで、早船は去っていった。
「だから冷泉だってばー、本当に困った子ねー。まあいいわ、ちゃんと出席してるみたいだし。さて、じゃあ私たちも終礼を終わらせましょ。日直さん、号令よろしく」
かくして終礼は終わり、早船に配布係を押しつけられた日直は、仕方なくプリントを配り始めた。手許に回ってきた紙を見て、久野は苦い顔をした。
「また城咲かよ……絶対行かね」
それは七葉・城咲合同花見イベントの告知を行うものだった。今週の土曜日、学校近くの公園で城咲女子学園の生徒らと合同で花見をする、予約不要・参加費無料なので誰でも気軽にどうぞ、という内容である。風穴をあけたがる、もとい垣根を作ることを嫌う早船らしく、ゴシック体で『誰でも』と強調しているが、しかしそんないかにも陽気なイベントに乗り気になるのは、どう考えてもスクールカースト上位陣だけだ。仮にあいみの件がなかったとしても、久野のような脆弱メンタルの童貞はまず間違いなく不参加を決め込むだろう。そんなわけで、俺は行かないけどお前も行かないよな、と向坂に確認を取ろうとした久野だったが、思考を言葉に移し替える直前、紙面の端に書かれた一文に気づいた。
『スペシャル企画:七葉学園5―B向坂縁・特別講演』
久野はその一文字一文字を凝視した。脳の機能に何らかの異常が発生し、文字を正しく認識できなくなったのだ、そう思った。しかしどれだけ凝視しても、そのシニフィアンが負うシニフィエは一ミリたりとも移ろうことも揺らぐこともなく、久野の凝視と同じ深度の深淵から久野を見つめ返した。
「……なあ向坂。お前もしかして、俺の知らないところで早船さんと何か約束したのか」
「約束?」
向坂は首を傾げた。そして久野が指で示した向坂縁・特別講演の文字を目にすると、綺麗な顔に怒りをみなぎらせた。もちろん女体化する前から怒っていても国どころか全世界が斜めに傾くくらいには美人なのだが、怒った向坂の恐ろしさを熟知している久野は(主に股間が)縮み上がった。
「僕は講演依頼など受けていない。おい早船は何処だ」
早船探しを手伝わない、という選択肢は久野に与えられていなかった。向坂を一人で行かせるわけにはいかない。それは校内に危険があるという意味ではなく、早船がまた新たなプロジェクトを立案し、それにうっかり向坂が賛同してしまう危険があるという意味においてだった。今この状況で向坂が妙なプロジェクトに参加すれば、当然久野も巻き込まれる。俺の指定校推薦、と彼は思った。そんなわけで、怒髪、天を衝く状態の美しい生き物と主に股間を縮み上がらせた強面大男の凸凹コンビは、教室を出ていこうとしたのだったが、しかしそこへ強敵が立ちはだかった。
「向坂君。それとええと、アノ君だっけ。ちょっといいかしら?」
声をかけてきたのは冷泉だった。早速向坂が明後日の方向を見たので、仕方なく久野が対応する。
「今ちょっと忙しいので後でもいいですか。それと俺の名前はクノです」
「白川先生やほかの体育の先生とも相談したんだけど、体育の授業について向坂君にお話があるのよね。それでドノ君にも同席してほしいんだけど」
「忙しいって言ったの聞こえてました? それに俺は関係ないと思うんですけど。あとドノじゃなくてクノです」
「そうそのナントカノ君。君って確か、向坂君の学校生活において全責任を負うことになってたわよね?」
「はぁ? 全責任って何ですかそれ。ていうかクノくらい覚えられるでしょ」
「とにかく今から校長室に来てちょうだい。ホニャララノ君、今日は掃除当番か何か?」
「当番じゃないですけど、それより全責任を負うって何の話ですか、俺はそんなこと一度も了承してないですよ! それから三十秒たったら忘れてしまって構わないので会話中くらいは相手の名前を記憶してくれませんかねクノです!」
「あららぁ、でも向坂君の身に何かあったら君は江戸前君になるんでしょ? 白川先生が言ってたわよー」
「それはそうなりかねないという話で! つか江戸前君って縁起でもないあだ名を勝手に!」
「――おい、いい加減にしろ」
あからさまに不機嫌な低音ボイスに、久野は慌てて口を噤んだ。横を見ると、向坂が毛虫を見るような目をこちらに向けている。どうやら久野と冷泉の不毛な会話にうんざりしたらしい。自身も普段から久野と際限なく不毛な会話を繰り広げていることを完全に棚に上げた所業だ。
「教頭先生、僕たちは可及的速やかに早船を捕まえて締め上げねばなりませんので、少々お待ちいただけますか。それから久野、お前が名前に拘泥するせいでよけい会話が長引いていることに気づけ。大気中の偏差値が下がり続けているぞ」
「向坂君、ストレートに馬鹿だと言ってあげるのも優しさよ?」
「自分は偏差値下げてないみたいな口ぶりやめてもらえませんかね!!!」
三人の不毛な会話はそれでひとまず終わった。それじゃあ私もこのあとちょっと用事があるから話はまた明日ね、と言って冷泉は立ち去り、向坂も、行くぞ、と短く告げて教室から出て行った。久野は一瞬自分自身を含めた全てを窓から放り出したくなったが、そんな勇気も気力も残っていなかったため、地鳴りのような溜め息をついたのち向坂の後を追ったのだった。
「――それで聿子さん、どうして5―Bの担任をやめたいのか、理由を聞かせてもらえるかしら」
放課後。校長が追い出された校長室で、冷泉と薮内は向き合って座っていた。
「……言えません。これは私個人の心の問題です」
薮内は俯いたまま静かに答えた。肩の上で真っ直ぐ切り揃えられた黒髪が、微かに揺れる。冷泉は瞼を半分下ろし、じっと相手を見た。
「そう。誰にでも他人に言いたくないことはあるわよね。でもね、正当な理由を提示することなく、一度引き受けた仕事をやめるということがいったいどういうことなのか、あなたにわからないと思いたくはないわ」
冷泉の語気が僅かに強くなる。しかし薮内は頑なだった。
「理由を言うくらいなら、私はこの学校をやめます」
「困ったさんねえ」
冷泉は呆れたように笑った。
「確認させてちょうだい。それは純粋にあなた個人の問題なのね? あなたと生徒または保護者との間で何かが起きたというわけではなく」
「その点はご安心ください」
「学級担任をするのが駄目なの? それとも5―Bが駄目なの?」
「……後者です」
「5―Bの教科担任も外してほしいのかしら」
「……できれば」
「5―Bは真面目で素直な子が多いわ。家庭に複雑な事情を抱えた生徒が数人いるけど、教員の間でも特に扱いやすいクラスだと認識されているし、私自身もそう感じている。昨年度生徒と保護者に実施したアンケートの結果も、非常によかった。あなた自身も、昨年度末の段階で今年度も担任を継続したいと希望したわね。それなのに始業式も済んだ今この段階で突然――」
「駄目なんです」
冷泉の言葉を遮るように言って、薮内は首を横に振った。
「……それでも駄目なんです。私は、私は……私には、教壇に立つ資格がない……」
震える声が、二人だけの空間に力なく溶けていく。冷泉は無言で、薮内の感情のうねりが収まるのを待った。そして訊ねた。
「――もしかして、向坂縁が突然女体化したことと関係があるのかしら?」
返事はなかった。そこには深い沈黙があるばかりだった。しかし答えがイエスであることを、冷泉は理解した。
「さぁて、どうしましょうかね……」
相手の微かな呻き声を聞きながら、彼女はソファに背を預けて天を仰いだ。
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