下僕で護衛で時々獣

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12. 三分でわかるブルーム氏と反復横跳びと実在しない男について

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 遡ること約二十時間。月曜日の午後七時、あいみは自宅リビングの巨大なテレビの前にいた。レコーダーの録画が始まるのを視界の端で確認しつつ、画面を見つめる。コマーシャルが終わり、騒々しい音楽が鳴り響いてけばけばしいスタジオセットが映し出されると、タイトルコールが入り、セットの真ん中に立っていた派手なスーツのコメディアンが満面の笑みを浮かべて口を開く。
「今夜も始まりました、あなたの知らないこの世の虚を見つめる『ウロウロウォッチング』、司会を務めますのは上から読んでも下から読んでも同じやないかでお馴染みの田中奏太でございます。本日も豪華ゲストをお迎えしておりますので、早速ご紹介しましょう。本日のゲストウォッチャー、ジョニー・ザ・シニアの為銀コンビこと松竹梅為五郎さんと飯伏銀之丞さんです、ようこそこの世の虚へ!」
 カメラが切り替わり、画面にゲスト席に座る二人の男が映る。
「どうぞよろしくお願いしますージョニー・ザ・シニアの松竹梅為五郎ですーあっ為銀と呼ぶのは銀為左右固定厨の地雷を踏むことになるのでゴールデンシルバーコンビでお願いしますー」
「よろしくお願いいたしますー同じくジョニー・ザ・シニアの飯伏銀之丞でございますーあっそれと僕らアイドルなんで敬称はさんではなくクンでお願いしますー」
 今をときめくアイドル二名に、スタジオの観覧席からは歓声が上がる(もちろんスタッフからの指示を受けてのものである)。しかしあいみは睫一本動かさなかった。彼女の目当てはジョニタレではないのだ。
「……さて今回の虚はどれもなかなか手ごわいですよ! では今夜最初のウロウロドン! はい、『ソシャゲ廃課金の虚』~~~! 松竹梅クンはソシャゲって何かわかります?」
「うーん、ゲってことは毛ですかね、腋毛や鼻毛みたいな感じでソシャ毛ってのがあるんじゃないですか」
「なるほどー体毛の一種であると。ちなみに飯伏クンは?」
「これはあれですね、ギャランドゥのことですね!」
「ハハハ銀ちゃん、ナウなヤングにギャランドゥなんて言っても通じやしないよ」
「そうかい為ちゃん、通じないなら今ここでみんなに暴露しちゃうけど、為ちゃんのギャランドゥは白髪交じりなんだぜ」
「そういう銀ちゃんは耳毛が白いじゃないの」
「やかましいわ」
 公衆トイレの落書きの方がまだいくぶんか知性と品性が感じられるトークをゲストと司会者が繰り広げる中、あいみはただひたすら待っていた。
「さて松竹梅クンも飯伏クンもソシャゲが何かわからないということですが、それではソシャゲとはいったい何かということも含めて、今回はレギュラーウォッチャーのブルーム氏に調査ロケに行ってきてもらいました! ブルーム氏ぃ!」
 その瞬間、あいみの瞳孔が開いた。カメラが一人の人物を捉えている。タナカカナタでもタメギンまたはギンタメでもない、あまりにも美しすぎる男。ギリシャ彫刻になぞらえるにはやや線の細い端正な顔立ちに、神秘の森に立ち込める霧のような色をした髪と瞳。美の女神アフロディーテがもしも男性であったなら、きっとこのような姿をとっていたことだろう。
 そんな美しすぎる男は、カメラを見つめて優雅な笑みを浮かべた。そして理想的な形の唇をそっと開き、音をたてずに息を吸う。あいみは神経を視覚と聴覚に全振りし、呼吸を止めてその姿を見つめ耳を澄ませ、美しすぎる男の第一声を待った。
「はァい! みんなのソウルのリズムアンドブルースことブルームサンでェす! 今回のウロもデップリ闇でゴッソリ強敵だったけどゥ、メッキリポッキリウォッチングしてきたョ! ワタシが説明するより見てもらった方が早かろうだからァ、早速ズッポリシッポリVTRどーぞゥ!」
 天使だ、とあいみは呼吸を止めたまま思った。今テレビ画面の真ん中で上品に微笑み珍妙なオノマトペを繰り出しているこの男は、きっと何かの手違いで地上に配属されてしまった天使なのだ。いや、もしかしたら天使ではなく神なのかもしれない。もしくは宇宙。この世界の始まりにして終わり。圧倒的、是。
 番組が終わると、あいみは深く息を吐いた。そして傍らに置いていたタブレットを手に取り、自身が運営するウェブサイト『ディア・ブルーム』を開いて、今回の放送の概要や見どころ等を記録すべく、記事の編集を始めた。このウェブサイト、あいみが運営しているという時点で当然アンオフィシャルなのだが、しかし閲覧者はオフィシャルサイトを超えるともいわれており、コアなオタクから浅瀬のビギナー、あるいは単にブルームとは何ものなのかという疑問を持ったパンピーまで幅広く訪れ、彼女の記事を読んでいる。あいみもパンピーのために、『三分でわかるブルーム氏』という項目を用意しており、そのページはざっとこんな具合になっている。

【ブルーム氏プロフィール】
・愛称…ブルーム氏、ぶるし、ブルームサン
・一人称…ワタシ、ブルームサン
・本名…非公表
・生年月日…非公表
・血液型…非公表
・国籍…非公表
・出身地…非公表
・母語…非公表
・家族構成…非公表
・性別…男
・身長/体重…一九一センチ/七四キロ
・職業…モデル、タレント
・事務所…アール・プロダクション
・趣味…芸術鑑賞(アニメ、漫画等)

【ブルーム氏について】
 二〇××年からアール・プロダクションに外国人モデルとして所属し、北欧系の美貌と長身を生かし、雑誌や広告、テレビコマーシャルなどで活躍する。
 二〇××年×月×日放送の芸能人密着番組『リアルセレブ』のモデル・ジュリ田マリ雄特集回において、ジュリ田が所属事務所アール・プロダクションの事務所内で人気モデルとしての悩みを吐露する場面で、シリアスなジュリ田の後ろでマネージャーとツイスターゲームをするブルーム氏が数秒間映り込んだところ、その美しすぎる容姿と底抜けに明るいキャラクターのギャップが話題となり、注目を浴びる。これをきっかけに複数のテレビ番組に出演、やがてモデル業と並行してタレントとしての活動も盛んに行うようになり、現在では複数のレギュラー番組を抱え、テレビでこの男を見ない日はないといわれるほどの存在感を発揮している。
 だがその一方で、生年月日や出身地等の情報は全て非公表となっており、モデル活動を始める前の経歴も明かされていない。愛すべき天然ドジっ子キャラとしてお茶の間での知名度は高いが、しかし実は多くが謎に包まれた、非常にミステリアスな人物なのである。
※もっと知りたい方はこちらをクリック→【一時間で学ぶブルーム氏】
※更にもっと知りたい方はこちらをクリック→【六時間で修めるブルーム氏】
※よりいっそう知りたい方はこちらをクリック→【十二日間で究めるブルーム氏】

 控えめにいって地獄のようなファンサイトだが、ブルーム自身軽く地獄めいたところがあり、ついでにいうとブルームのファンも同じ穴のムジナならぬ同じ地獄のカンダタであるため、あいみのサイトが地獄じみている点に関してはあまり問題がなかった。
 さて、あいみが入れあげているこのブルームという謎に包まれた男、容姿のみに限定すればとある人物に恐ろしくよく似ているのだが、果たしていったい何ものなのであろうか……。



 久野知之はいくつかの平凡ならざる外見的特徴を備えつつも総体としては実に平凡極まりない高校生である。が、向坂縁という平凡ならざる外見的特徴を備えなおかつ総体としても実に非凡な高校生とクラスメイトかつルームメイトになってしまったがために、通常では決して経験することのないあれこれに直面してしまったという意味では、本人の凡庸さからはかけ離れた平凡ならざる人生に放り込まれ平凡ならざる日々を送っているといってよいのかもしれない。
「――三五回だな」
 というわけで時と場所を戻して火曜日の四時間目の七葉学園体育館、上体起こし終了の笛が鳴り、マットから腰を上げた向坂は、淡々と自らの結果を口にした。それを受け、久野は記録用紙に35と書き込んだ。実はインナーコアの声に邪魔されて三五回だったか三五〇回だったかさっぱり自信がなかったのだが、しかしゴッドが三五回だというのならそれがこの太陽系における真理である。仮に向坂が三五〇〇回だと自己申告したとしても、彼は疑いも躊躇いも挟むことなく素直に3500と記入したことだろう。
「やはりこれまでのような結果は出ないな」
「それでも急に体格が変わったわりにはかなりの好成績だと思うぞ。お前そんなに腹筋バキバキだったっけ」
「単に筋肉の使い方を知っているだけだ」
「はーーーさようで」
 筋肉の使い方を知らないマッスル持ち腐れ男こと久野は、自身の記録用紙を握り潰したくなる衝動を抑えながら虚ろな笑みを浮かべた。するとそのとき拡声器に乗せても依然としてか細い白川の声が、体育館の空気を弱々しく揺すった。
「次は反復横跳びを行います……こちらに移動して二列になってください……」
 今度こそ、と上体起こしで七葉学園の歴代ワーストを更新した無駄筋肉男こと久野は思った。囁くように奏でられる白川の説明に耳を傾け、一メートル間隔で床に引かれた三本のラインの真ん中に立つ。問題ない。普通にやれば今度こそ向坂に勝てる項目だ。余裕余裕。必ず勝てる。きっと勝てる。たぶん勝てる。恐らくメイビーもしかしたら……。
 久野は触れたら指が弾き飛ばされそうなほど強張った顔を、線から少し離れた場所で待機しているカウント係の向坂に向けた。
「……向坂、今回はお前が先にやってくれないか」
「何故だ?」
「さっき俺が先だったからさ、次は逆がいいかなって」
 先攻よりも後攻の方が心理的に楽なのではないか、というのが彼の考えだった。最初に超えるべき数字を提示された方が、いくぶんかやりやすい。しかし向坂はじっとりとした視線を久野に向け、何だそれは、と無慈悲に言った。
「お前は今自分が言ったことの無意味さを理解しているのか」
「してるよ、したうえで提案してるんだよ」
「理解しているにも拘らず提案したのだとすれば、それはもはや理性と知性に対する反逆だな。正気か?」
「正気だ。いやどうだろう、もしかしたら正気じゃないのかもしれない。どう考えてもこの状況は狂っている、こんな狂った状況で誰が正気を保っていられるだろう、もう俺は自分もこの世界も何もかもが信じられな……と、とにかく今回はお前が先にやってくれ」
「先だろうが後だろうが何も変わらないぞ」
「何も変わらないならお前が先でもいいだろ!」
 周囲に気づかれぬようなるべく小さな声で怒鳴るという芸当を披露した久野に対し、向坂は遠慮なく溜め息をついた。
「面倒くさい奴だな。そんなどうでもいいことに拘っていると器の小さい人間になるぞ。僕の身内にも、細かいことにばかり拘って一人で勝手に激高して一人で勝手に疲弊している男がいるのだが、仕事はそれなりにできるものの性格的な問題で人望がまるでないらしく、上に立つものとして必要不可欠な人を惹きつける力や牽引力や精神的強度が致命的に欠落しているとかで、周囲のものはあれが会社を継いでトップに立てば、人材流出業績低迷事業縮小待ったなしなのではないかと憂慮しているそうだ。お前もあの手のはた迷惑な社会人になりたくなかったら、学生のうちから精神的な鍛練を積んでおいた方がいいぞ。まあそれはそれとして僕が先でも別に構わないが」
「どう考えても俺なんかより向坂さんの方が百馬身差で面倒くさいと思いますけども! ていうか最終的な回答が『別に構わない』ならすっと一言『いいぞ』って言ってもらえませんかね!」
 と、そのときピィというか細い音が、不毛な会話を展開する二人の間を、瀕死の北風小僧の溜め息のごとく吹き抜けた。
「あ」
「始まったな」
 反復横跳び開始の笛である。ラインの上に並んでいた生徒たちは一斉に横跳びを始め、ダンダンという足音と運動靴と床の擦れるキュッキュッという音とが、体育館中に響きだす。久野は我に返り、慌てて向坂と入れ替わろうとした。
「よ、よし、お前が先でいいんだよな? じゃあ早くこっちに……」
 しかし向坂はその場から一歩も動かなかった。まるで壮麗な尖塔のように直立不動の姿勢を取っている。
「おい向坂どうした何故動かない」
「いや、今ライン上にいるのはお前だから、笛が鳴ってしまった以上はそのままお前が先にやるのが筋だろう。そうすればお前もお前自身のささやかな理性と知性に対して無意味な反逆をせずに済むし、実に合理的だ」
「はぁあ? 『笛が鳴ってしまった以上は』って何だその天の采配だから仕方ない的な言い草は! 笛が鳴っちまったのはお前がくだらねえことごちゃごちゃ言って時間を浪費したせいだろうがふざっけんなよ!」
「僕はくだらないことをごちゃごちゃ言ったつもりはないが、しかし百歩譲って我々が入れ替わる前に笛が鳴ってしまったのが僕の話が長かったせいだと認めるとしても、今この瞬間こうして現在進行形で時間が浪費されている件に関しては、お前がくだらないことをごちゃごちゃ言っているせいであって、どのような角度から検討してみても僕のせいではないな」
「んんーーーッ」
 もし久野があと少しでも肝の据わった男子高生であったなら、さっさとラインから離れて強引に後攻を取ったかもしれない。しかし、彼があと少しでも肝の据わった男子高生であったならそもそも向坂の世話など引き受けずこの物語の主人公にもならないわけで、ひんやりした灰色の瞳のプレッシャーに負けた彼は、結局ヒィヒィ言いながら反復横跳びを始めてしまったため、二十秒間(実際はその半分もないのだが)で十五点という自らの筋肉に対する背信行為以外の何ものでもない成績をマークする結果となり、当然のことながら後攻の向坂(五十点)に惨敗した。
 いやまだ二回目がある、といっそこの世に筋肉などなければこんな苦しみを味わうこともなかった男こと久野は思った。反復横跳びは上体起こしとは異なり、二度やってよい方のポイントが記録となる。二回目で向坂の成績を上回ればよいのだ。けれど現実という名の冷酷な女神は彼に微笑まなかった。拡声器に乗った白川のウィスパーボイスが弱々しく告げる。
「あー……時間がないので二回目は行いません……次の項目に移ります……シャトルランですね……」
 ここで怪我を防ぐため、改めて各自下半身のストレッチをすることとなった。久野が虚無の眼で足首を回したりアキレス腱を伸ばしたりしていると、ちょろちょろと三人組がやってきた。
「おい久野……いったいどうしたってんだよ」
「最早コメントできない仕上がりになってるよ、うん」
「今度こそ本当に何かあったんじゃないか……?」
 久野は虚ろな目をそっと全ての元凶に向けた。
「何だ?」
 視線に気づいた全ての元凶(おっぱいを邪魔そうに揺らしながら柔軟体操をしている)が首を傾げる。緩いウェーブのかかった髪が空気を孕んでふわりと広がり、長い睫が数回上下する。その姿は、気紛れで下界に降りてきた天女が鬱陶しい羽衣を脱ぎ捨ててそこらに放置されていたジャージを借りパクし人間の真似をして股関節を伸ばしているようにしか見えない。久野は視線を三人組に戻し、首を横に振った。
「――何もない。ただシンプルに辛い」
 もしもこの邪悪な男(そうこれは身体がどうであれ男なのである)が天女であったなら、すぐさま羽衣で簀巻きにして天に向かって放り上げるところなのだが、現実は伝説よりも無情である。
「そっか……でもよ、複雑な辛さよりはマシじゃねえか。な?」
「それにみんなも辛そうだよ、うん」
「どうしても向坂に視線が行っちゃうんだなあ……」
 自分のことで手一杯の久野は全く気づいていなかったのだが、他の生徒も久野ほどではないにせよ、向坂に気を取られて転んだり笛への反応が遅れたりカウントをミスしたりと、大なり小なり影響を受けていた。それは向坂のガワがえぐいまでの美少女であることも理由の一つではあるものの、しかし最大の理由はやはり、一人の男性の肉体が突然女性化するという、自身の常識がぶち壊されたうえその常識の残骸に後ろ足で砂をかけられFから始まる四文字の英単語を投げつけられたような、想像を絶する非現実的超常現象的事態に対する戸惑いということになるだろう。要するに、誰もが未だにこれが現実だと思えずにいるのだ。だが、恐らくそれが一般的な反応というやつであって、向坂の女体化を衝撃も疑念も当惑もなく一つの事実としてすんなり受け入れた人物は、あの狂犬執事のみである。
「そういや心当たりって何だろうな……」
 一柳のあの口ぶり。いずれ向坂がこうなる運命にあることを、あの男は薄々感づいていた様子だった。しかし当の本人は、何故こんなことになったのかさっぱりわからないという。ゴッドが嘘をついているとも思えないので、そうなると一柳は向坂自身も知らない何かを知っていて、それを今まで黙っていたということになる。いったいどんな秘密が隠されているのだろう。何やら不穏なものを感じる。一柳は、向坂のためなら自分と自分以外の何を犠牲にしても構わないと語っていた。恐らく、というか間違いなく、その言葉は誇張ではない。あの男の目を見て声を聞けばよくわかる、一柳藤助は「踏み外せる」男だ。それも恐ろしく冷静に、理知的に。そんな危ない人間に、原因究明と問題解決の全てを任せてしまってよいのだろうか……。
「いやいやいや、だから俺には関係ないって」
 久野は凄まじい形相で自身のインナーコアの声を退けた。もちろんインナーコアの声が聞こえない三人組は、その恐ろしさに訳がわからないまま青褪める。久野が無害で善良な童貞であることを熟知している人間であっても、条件反射的に怯えずにはいられないほどのご面相。組対の鬼刑事であっても声をかけることを躊躇うレベルだが、しかし七葉のゴッドは何処までも揺るぎなく歪みなく果てしなくくまなくゴッドだった。
「おい久野、下着がずれたようだ。直してくれ」



 遡らざること同時刻。
 七葉学園から遠く離れた繁華街の、みすぼらしい雑居ビル。その四階の一室で、中年の男が二人、向かい合ってソファに座っていた。
「調査結果です」
 黒髪の男が、互いの間に据えられたテーブルの上に大きな封筒を置く。灰色の髪の男は封筒を手に取った。中から、A4サイズの紙を数枚綴じたものが出てくる。男はざっとそれに目を通すと、書類をテーブルに戻した。そして獣の目を僅かに細める。
「――やはりこの『男』は実在しなかったか」
「ええ。私も長いことこの商売をしていますが、こんな人間は初めてです」
 言いながら黒髪の男は書類を摘み上げ、灰皿の真上に持ってくるとライターで火をつけた。紙の焦げるにおいが、真昼にも拘らず薄暗い室内に立ち込める。秘密が静かに火葬されるさまを、二人は無言で見届けた。
 全てが焼け焦げ、秘密の亡骸が灰皿に横たわると、灰色の髪の男は、それで、と言った。
「それで、この実在しない男は、今何処に?」
「バラエティ番組のロケで、先日日本を離れました。一ヶ月ほどインドで修行するとか。その間、親兄弟が死んだとき以外は外部と連絡が取れないようです」
 なるほど、と男は呟いた。空気に紛れるほどに小さく低い声。だがそこには聞くものの内臓を凍らせるような何かがある。何か――狂気。
「まさか連絡を取るためだけに、彼の身内を殺したりはしませんよね」
「選択肢の一つではある」
「ふふ、あなただけは敵に回したくないものですなあ」
 黒髪の男は知っている。ある一点において、もしくはある一点を除いて、この男は狂っている。だが黒髪の男もまたある種の狂気を孕んでいる。狂った二人の和やかな会話。
「――暫く様子を見ることとしよう。彼の身内はこちらの身内でもある」
「かしこまりました。御用の際はいつでも」
 黒髪の男の指が、ボールペンの先で灰皿の上のものをつつく。乾いた灰が脆く崩れる。闇に葬られていた秘密が再び闇に還る。灰色の髪の男は懐から封筒を取り出し、テーブルに置いて立ち上がる。そして無言で部屋から出て行く。どうも、と黒髪の男が閉まりかけたドアに向かって礼を言う。こうして狂った二人の面会は終了した。
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