芥川繭子という理由

新開 水留

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55「伊藤織江について 2」

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3月13日。
帰省四日目。

午前中急な雨に見舞われ、昨日に引き続き家の中で過ごす。
京都市内に出て観光という案も出たが、特に興味をそそられなかった。
というより、この家から離れるのが嫌だったのだ。
夕方前に雨は止んだが、ダイニングテーブルで女三人会話が弾んだ。
「さっき繭子から、『お土産期待してるー』っていう、ただそれだけのメールが来ました。なんて返しましょうかね」
何か面白い返事は出来まいかと考えあぐねている三人のもとへ、「おーい」と呼ぶ恭平さんの声が聞こえた。
玄関へ向かうと、「虹が出てる」という。
伊藤も冴さんも腰に手を当てて溜息をつく。
東京でも虹は見れますけどね。
そう言いながらも伊藤はサンダルを履いて外へ出た。
私と冴さんも後を追う。
しかし結論から言えば、東京では決して見る事の出来ない虹であった。
恭平さんに続いて歩く事3分。
伊藤家の農地に差し掛かろうとする頃には、彼がわざわざ皆を呼びに来た理由が理解できた。
初めて見る程巨大な虹のアーチが、広大な農地の中で完璧な半円を描いているのだ。
空にかかる虹の始まりと終わりを視認する事は、東京でなくとも難しいと思う。
実際私はこの日まで一度も見た事がなかった。
しかし今目の前に、大きな虹の始まりと終わりが広がっている。
「すごー!」
と伊藤が叫ぶ。
雨が上がり茜色に染まりつつある空に、くっきりとした虹のアーチ。
右と左、どちらが始まりでどちらが終わりかは分からない。
しかし走って追いかければ、その虹に飛び乗る事が出来るかもしれない。
そんな想像を駆り立てる程の、見事な天然芸術であった。
伊藤も似たようなことを考えたらしく、腕を振って、
「なんだか、走りだしたくなるね」
と言って笑った。そしてうんうんと頷き返す私を指さしながら、
「君ィ、『持ってる』ねえ」
と言ったのだ。
いやいや、違う違う。『持ってる』のは、織江さん。あなたですよ。
正面から冷たい風が吹き荒び私達をなぎ倒そうとする。
しかし伊藤は両手を広げて虹から目を離さない。
「すごーい!」
髪をなびかせ、風を浴び、夕暮れ空と虹の真正面に立つ伊藤の背中を見ていた私を、
突然言いようのない悲しみが襲った。
私は想像する。
伊藤がそれを拒まむという事をしなければ(そして彼女はきっと拒まない)、
あるいはこの場所で生きていく可能性もあったのだという、彼女の人生の分岐路。
もし神波大成と結婚していなかったら。
バンドが彼女に声を掛けていなければ。
もしも乃依さんが生きていたならば。
実家をこちらへ移す際、一緒に来て欲しいとご両親が彼女に頭を下げていたら。
今とは違う全ての可能性が、伊藤織江の人生をこの場所へ導いていたかもしれなかった。
人の世の営みに、「たられば」などない。
しかし東京で見る事のない彼女の素顔を、この地に来て私は何度見ただろうか。
気が付けば自然な微笑みを浮かべている彼女を見ていると、
多様な形を持つ幸せの可能性を、
ここにだってきっとある幸せの可能性を、
誰にも否定することは出来ないのだと思い知らされた。
それは過去の話でも「たられば」でもなく、
この先彼女に待ち受けている未来かもしれないのだ。
私は伊藤の背中に縋り付きたい気持ちを必死に抑えて、語りかける。
「幸せのカタチは人それぞれですよね」
彼女は髪の毛を押さえて振り返り、私を見つめた。
「織江さん」
「そうだねえ、そう思うよ」
伊藤は泣いている私の事など全く気にせずそう言ってくれた。
私は決心した。
「織江さん。ご相談があります」
伊藤は完全に私の方へ向き直り悪戯っぽい微笑を浮かべると、
「おー。やーっと来たかぁ。よし、この伊藤織江に任せなさい」
と、そう言ってくれた。
「あんた、まだ自分の事伊藤って名乗ってんの?」
気が付けば娘の側へ歩み寄っていた冴さんが虹を見上げたままそう突っ込むと、
伊藤は笑って言い直した。
「あはは、そうでした。この、神波織江に任せなさい」
「よろしくお願いします」
私は深々と頭を下げてそう言った。



その日の夜。
この地へ来て初めて、お酒を飲んだ。
しかし私は勧められて頂いた一杯だけにして、早々に話を始めた。
「カメラ回ってるけど。いいの?」
「平気です。私にタブーはありません」
「竜二かっ」
「あはは」
「…いい笑顔するじゃないの。じゃあ、聞こうかな?」
「はい。…もしかしたら薄々気付かれてはいるのかなあと思ってましたが、私、庄内と付き合っています」
「うん」
「やっぱり」
「うん。繭子の方が早かったけどね」
「なはは、繭子にはバレてる確信がありました」
「人がくっついたり離れたりする距離感に、もの凄く敏感な子だからね」
「なるほど」
「いつから付き合ってるの?」
「皆さんの密着取材を始めるひと月ほど前に、プロポーズされました」
「あはは、それは知らなかったよ、びっくりだ」
「今の仕事を初めて10年です。去年30になりました。5年庄内と交際して、もちろん、結婚も視野に入れて、私が満足のいく仕事が出来る日まで待っていてくれた事も知っていました。自分としても最後の総仕上げのような形で、大好きなバンドに全力でぶつかって、最高の記事を残そうと思い今回の企画を立ち上げたんです。一年も、はっきりとした返事を待たせるという結果になって庄内も初めは驚いていましたが、彼自身ドーンハンマーを愛している事もあって、最後は納得してくれたように思います」
「庄内さんが、初めてうちを『Billion』に取り上げてくれた人だからねえ」
「そう聞いています」
「ごめんごめん」
「いえ。…私が今のような状態になり始めたのは、皆さんがPV撮影の為に渡米された頃です。2週間以上皆さんとお会いできず、私としては溜まっていた業務をこなす期間であったり、他のバンドの記事を書いたりでとても忙しくはしていたのですが、どうにもおかしいんですよ。仕事中ぼんやりと上の空な事があったり、勝手に物足りなさを感じたり、イライラしてしまって気持ちも入らず、その間私が書いた記事は全て没になったりして、庄内とも喧嘩ばかりでした。自分が悪い事ははっきりと分かっています。取材を受けてくださった他のバンドの皆さんや、事務所関係者の方々にご迷惑をかけたという自覚もあります。正当化したいわけではなくて、そのような状態に陥った事が、私自身で考えるきっかけになったと言いますか。私、その頃から今日まで、誰に見せるでもなく自分の為に皆さんの伝記を書き続けています。たった一行でも、一言でも、何かバンドや皆さんに関する文章を書いてからでないと眠れなくなりました。そういう状況にあった私に対して、今思えば一番早く釘を刺して下さったのは翔太郎さんでした。その鋭さは本当に衝撃でした。『最近、あんたちょっと変だよ』って直球で言われましたから。泣き虫なのは昔からだし、人前で泣いて馬鹿にされるのには慣れっこでしたけど、変だ、おかしいって言われて正直、よっぽどなんだなって反省しました。面白いのが、その後誠さんにも、帰って来られてすぐ見透かされた事です。『他のバンドの取材中も、きっとドーンハンマーの事が気になってばかりで煙たがられてるんじゃないかって、心配してたんだよ』って言われて、恥かしくてたまりませんでした。その頃にはもう、どうにも修正しようがないぐらい、正しくその通りの状態だったからです。ああ、私はバンドと離れたくないんだなと認めざるを得なくなって、ますます悩むようになりました」
目の前に水の入ったコップが差し出される。
無言の伊藤に、無言のまま会釈で受け取り一息に飲み干す。
急かすわけでも、話が長いと叱るわけでもなく、
私の話す内容を受け止め、どう答えようか思案してくれている表情に思えた。
そんな伊藤の横顔に私は少し落ち着いて、話を続けた。
「…幸せはどこにだってあるんだと、この地へ来て織江さんと過ごしながら、自分に言い聞かせています。今月一杯で予定通り取材を終えて、それを記事にして、発売して、私の役目は終わりです。雑誌編集者としての仕事に区切りを付けて、ほっと一息ついて、そして庄内と結婚する。そこにきっと幸せはある。それは分かっています。庄内の事は、変らず今でも尊敬しています。男性としての魅力も感じます。思い出もたくさんあります。悲しませたくなんかありません。その部分と、仕事と、皆さんに対する私の気持ちが、私の中でずーっと喧嘩しています。こんな状態のままでは約束通り庄内と結婚する事も、あえてBillionに残り編集者を続ける事も出来ない気がして、自分でもよくわかりません。最近、大成さんが仰った、誠さんの話をよく思い出します。答えなんて全く見えていなかった誠さんが、15年連続で翔太郎さんを落とし続けている努力はきっと、誰にも真似出来ないんだよって。私はこの10年、何をしてきたんでしょうね。いや、何がしたいんでしょうか。庄内に対しても、自分が心血を注いだつもりでいた大好きなこの仕事に対しても、私はずっと…。私の努力は一体どこに向かっていたんだろうかと」
衣擦れかと思う程静かに優しく笑う、伊藤の声が聞こえた。
しかし彼女の目は、私を見ているわけではなかった。
人と比べたって仕方ないのに。
聞き取れない程小さかったが、彼女は確かにそう呟いた。
膝を抱えて丸くなり、とても私の近くで耳を傾けてくれていた伊藤が、
急に体を開いたので驚いた。
両足を前に投げ出し、両手を体の後ろについて、天井を見上げる。
部屋着の裾が捲れたのが目に入り、私は無意識にそれを直した。
伊藤は照れ笑いを浮かべて自分でも太ももを隠す。
「まずは、その重たくて苦しそうな枷を、何とかしようか」
と彼女は言った。
言葉の意味が理解できず、伊藤が見上げている天井を私も見つめて答えを探した。
「結論から言おうね」
「…」
「あなたはうちに来なさい」
その瞬間私の中で爆発した感情を、一言で表現する言葉はこの世に存在しない。
まず衝撃があり、喜びの涙があふれた。
パズルのピースが嵌る音が聞こえ、
感動が身体の中心から湧いて出て、ブルブルと全身を震わせた。
愛情を感じた。優しさを感じた。許された気がした。
そして最後に、伊藤織江の底知れぬ器の大きさにひれ伏す思いがした。
いつから彼女は考えていたのだろう。
夕刻、私が相談を持ち掛けた時『やっと来たか』と彼女は言った。
昨日私に打ち明けた、たまには自分の存在意義を疑う時もあるという話。
その時感じた既視感に似た感情の意味も、私はこの時理解した。
いつだったか、差し入れの為に伊澄に買った煙草の代金を受け取ってしまった日、
伊藤に返そうとして申し出たにも関わらず、うまく躱され返しそびれた事があった。
その時感じた混乱と同じなのだ。
あの時もきっと伊藤は、事情を瞬時に理解して、お金を私の財布に収めさせた。
昨日もそうだ。私の中にあるなにがしかの悩みを想像し、
私が話しやすいよう自ら悩みを打ち明ける素振りを見せてくれたのだ。
きっと彼女は否定するだろうが、私の目に映る伊藤織江という人は、
自分の存在意義を疑うような弱さを持ってはいない。
他人の弱さを理解出来る、優しい心を持っている人なのは間違いない。
しかし彼女自身はそんな事で立ち止まり、思い悩むような人ではないだろう。
それは伊藤織江なりの、優しい嘘だと私は理解した。
そして白のサインペンだ。
いつから彼女は、冴さんのスカートにあのペンを忍ばせていたのだろう。
良いもの見せてあげると言った時の『じゃあ』には本当は意味がない。
初めから私に、べースの裏に名前を書かせるつもりで持っていたに違いないのだ。
白のサインペンなど、黒い物に書く時以外使う機会はないのだから。
あのベースの裏に名前を書くということ。
尻込みする私に「嫌なんだ?」と確認するという事。
いつからだろう。いつから私は彼女に手を差し伸べられていたのだろう。
伊藤の真似をして無意識に天井を見上げた事だって、
溢れる涙がすぐに零れないように気遣ってくれたのではないかとさえ思う。
きっと笑って、「そこまで行くと妄想がすぎる」と言われるだろう。
しかし彼女ならそのぐらい平気やってのけるだろうと、私には思えた。

「ちょっと自分の話をしてもいい?」

泣き止まない私に、彼女は言った。
せっかく上を向いていたのに、涙はすぐに零れ落ちた。
そうだ、こういう人だった。
出会って間もない頃に行った彼女へのインタビューでも、私は泣き崩れた。
その時も伊藤は私を気遣い、私が泣き止むまで自分の話を語って聞かせてくれた。
自分の話をするのが苦手だと言ったじゃないか!!
それでも伊藤織江という人は、こういう人なのだ。

「意外に思うかもしれないけど、世間的に誰が一番モテるのかって言うと、圧倒的に竜二なのよ。ボーカルだし意外でもないのかな。身内感覚でいくと翔太郎な気がしない? でもね、バンドとして世間一般を相手にした時、ぶっちぎりで人気なのが竜二で、次が大成なのよ。こっちの方が意外かな? 顔面はもう余裕で一番だけどね。あはは、アキラが生きてたらいい勝負だろうね。翔太郎はもちろんね、もう平成の伊達男の名を欲しいままにしてるから分かってると思うけど、実は男性からの人気が凄まじくてね。業界評とか、ファンレターとかファンメールとか、実は翔太郎に来るのは7割が男なの。それってきっと本人は誇りに思ってると思うんだよ。あの子さ、あ、あの子だって。翔太郎はさ、男でも女でも関係なく皆を平等に扱いたがるし、大事にする人だからね。恋愛とか男女間の話に限っていえば、がっかりして去っていく女の子を一杯見たよ。でもさ、そういうの関係ない男の人からしてみたらさ、あの子は、ああー!…もういっか、あの子は超格好イイらしいの。ストイックだし、めちゃくちゃギター上手いし、余裕かましてるかと思えば、ちゃんとステージでは汗だくになって本気を出すし。でも逆に竜二なんかはね、ものすっごいモテるのに、もう、なんだろうか、全然誰にも見向きもしないのよ。ノイの事があるからだって私達は分かるけどね。知らない人にしてみれば、どんだけ落ちないんだこいつって思うだろうね。もちろん人間同士としてはちゃんと相手してあげるのよ、無視するとかそういう話じゃなくてね。でも自分のファンや、同じ業界内でアピールしてくる女性とか、それこそ割と有名な女優さんなんかが来たって全く興味を示さないの。なんなら私の知る限りだと、誠に出会ってピクリとも反応しなかった男は竜二だけだと思うよ。女の私ですら惚れるぐらい魅力的なのにだよ? 竜二は、本当にあの子も、そういう風には見せないけど、いつも明るくて、人当たりが良くて、…でも死ぬほど悲しいぐらいに一途なんだよね。うちに秘めた思いをぐっと握りしめて、耐え忍んで生きていくような子。だから、今竜二が幸せな顔をしてる事が、何よりも驚いたけど、私は何よりも嬉しいんだよね」

伊藤は傍らに置いたワイングラスを持ち上げて、半分以上残っていた白ワインを飲み干した。いつだったか、伊藤はあまりお酒が強い方ではないと聞いていたが、涙の向こうに見えた彼女の飲みっ振りは、とてもそうは思えなかった。

「…フウ。最後に大成。私のタイショウ。ふふん。良いニックネームだと思わない? 私好きなんだ。家でもたまに呼んだりするの。本人は、冴さんに見えてくるからやめてって言うんだけどね。なんかさあ、皆寡黙だって思うみたいね、大成のこと。全然寡黙じゃないけどね。でも、…あの人の優しさってちょっと突き抜けててさ。バンドの一員として世間に認知されている物静かで音マニアのベースマンなんて姿は、もうほんの少し、あの人の人間性のほんの一部分でしかないんだよ。私は大成の妻だし、大成の魅力を誰よりも知ってるし誇りを持ってるから、もっとそういうの引っ張り出してあげたい気もするんだけど、でもそれもなんか変な話じゃない? バンドマンなのに私がそこ以外の魅力を喧伝するってのもさ。皆それぞれ優しい男達だけど、それでも私は大成から直接色々な愛情をもらって来たからね。そこはやっぱり特別だけど、でも難しい感情にはなるよ。一応社長だし。彼の中にある、誠に対する責任感とか、亡くなったアキラとの約束だとか、伊藤の家に対する愛情とか、繭子に対する思いとか…もうそのうちさぁ、優しさを人に与え過ぎてあの人自身がすり減って消えちゃうんじゃないかって心配になるくらいだよ。あはは、本当に。実を言うとね、これはうちの両親にも言ってないんだけどさ。私、一度大成との子供を流産してるの。平気平気、もう何年も前の事だし、立ち直ってるから。うん、その時もね、絶対、色々辛かったはずだし、喜んでくれてた分残念な気持ちも大きかったんだけど、大成は泣かなかったんだ。考えてみたらそれはやっぱり凄いなと思って。大成はね、自分の悲しみには絶対負けない人なの。それが分かって、私は彼に愛されてるなって実感した。あの時自分が泣いたらきっと私が辛い思いをするって、そう思ったんだろうね。絶対泣きたいくらい悲しいはずなのに、一滴も涙をこぼさずに、私を支えてくれたから」

伊藤は後ろに倒していた身体を起こすと、私の肩に手を置いた。
「時枝さん」
「はい」
「今言った彼らに対する私の気持ちは、私だけの物だよね」
「はい」
「あなたはあなただけの思いを胸に、生きて行くしかないんだよ」
「はい」
「私ね。もちろん繭子も含めて、あの人達の為にならなんだってやるよ」
「はい」
「人を利用することにためらいもない」
「はい」
「だけど私一人の力にはどうしたって限界もある」
「はい」
「アメリカ進出にあたって、リディア・ブラントという名前を利用した」
「はい」
「関誠という、綺麗で、世界一優秀な頭脳も手に入れた」
「はい」
「あとは時枝さんだけ。だからあなたはもう、うちに来ちゃいなさい」
「織江さん」
「そう、織江さんが死ぬほどこき使ってあげるから」
「織江さん」
「だからおいで。一緒に行こう」



いつの間に眠ったのか覚えていない。
泣いて、泣いて、思い出しては、泣いて。
とても嬉しかったのは覚えている。
伊藤の言った重苦しい枷は、確かに取れたように思う。
しかしその結果考えねばならない事が洪水のように私の中を巡り、
気がつくと真暗な部屋で天井を見上げていた。
今、何時だろう。
いつ横になったのだろう。
枕もとの携帯を探り当てる。
液晶画面が光り、隣で寝息を立てているはずの伊藤がいない事に気付いた。
私は体を起こし、彼女の姿を探す。
部屋にはいないようだ。
私は立ち上がり、扉を開けて一歩外に踏み出した。
静かに、泣いている声が聞こえた。
おそらく隣の乃依さんの部屋だ。
私は動きを止めたまま考える。
声を殺して泣いている伊藤に対しに、馬鹿な質問以外に、
今言える言葉を持っているのか。
すぐに思い直して部屋に戻る。
私は布団の上に胡坐をかいて座わり、項垂れてスマホを見つめながら、
繭子へメールの返事をしていなかったことを思い出した。
突然電話が鳴る。
死ぬほど驚いてスマホを布団の上に投げた。
電話は見た事のない番号からで、登録されていない相手であった。
時刻は深夜2時半だ。
普段イタズラ電話などかかって来ない事もあり、
きっと意味のある電話なのだと感じて液晶画面を指でなぞった。
「もしもし」
オドオドした声で言う。
「ああ、ごめんな、こんな時間に」
「…竜二さんですか?」
「ああ。寝てたんじゃねえか? ほんと、ごめんな」
「いえ、起きてました。どうされたんですか、こんな時間に」
「さっき、織江から聞いたよ」
「あああっ」
「あはは、なんつー声出すんだよ。まあ、あれだよ、なんて言うかさ。ハッキリ言っちまうと、そんな焦って答え出す事ねえのになって思うよ。俺なんかはね」
「はい」
「もちろん、あんたがうちへ来るって事に関してだけ言えば、何の問題もねえよ。ウエルカムだ」
「あああぁ…」
「だからこんな時間に電話で変な声出すなよ、ムラムラすっから」
「ウソばっかり」
「ウソじゃねえよ。アンタがもし本気でうちへ来たいと言うなら、歓迎する。だけど問題はそこじゃねえよ」
「はい」
「あんたがうちへ来るという事は、詩音社と庄内を傷つけるって事だ。その事をとことん考え抜いた方がいい」
「はい」
「10年世話になった会社を出る。好きな男に寂しい思いをさせる。その結果どうなるのか。自分が何をしようとしているのか。そこを蔑ろにしちゃいけねえよ。前を向くのはいい。けど前だけ見て、自分を育てたこれまでの日々をなかった事にするような生き様は、格好悪いよな。切れちまった絆ってもんは二度と繋ぎ直せない。だけどあんたが今立ってる場所からじゃ、どう転んだって寂しさは残るもんだ。そうだろ?」
「はい」
「ただ言えんのは、少なくとも庄内は、あいつはそんな簡単にあんたを忘れるような奴じゃねえよ。俺はそう思う」
「竜二さん」
「あんたと庄内がどういう約束を交わしたかは知らねえ。けどよ、別に10年でも20年でも待たせてやればいいじゃねえか。40になった私とは付き合えねえのか、50になった私とは結婚出来ねえのかって、笑って言ってやりゃあいいんだよ。もしも、まだあんたがあいつを好きでいるんなら、別れる事はねえ」
「…ありがとございます」
「それとな」
「はい」
「織江の事は、悪いけど許してやってくんねえかな」
「え?」
「あいつなりに、懸命に考えた末の事だからさ」
「どういう意味ですか。許すってなんですか?」
「あいつ、泣いてたからさ。あんたに酷い事をした、酷い事言っちまったって。あんたを試すような言葉を吐いて傷つけたかもしれないって、泣いて後悔してたから。そんな事であんたは怒らねえよって俺は言ったんだけど、どうにもな…」
「…」
「聞いてる?」
「はい」
「織江なりの優しさなんだよ。テメェで後悔するのが分かってて、それでも言わずにはいられないっていう、不器用な優しさっつーか。あんたがどういう結論を出すにせよ、俺達が格好つけてしゃしゃり出て、一緒に悩んで、一緒に解決してやるわけにはいかねえだろう。自分自身で悩み抜いて答えを出すしかねえ。自分だけの道を行くしかねえ。だから織江は、少しでもあんたが答えを出しやすいように、あえて極端な言葉を言って聞かせたんだと思うよ。そうすれば、考える方も気が楽になるだろ。来るも来ないも結局は自由なんだ。後はあんたが織江の言葉を受け止めて、どんな答えを見つけるかだ。けど分かってやってほしいのはさ。あいつ本当は、人を利用したりすんのなんか大嫌いだよ。俺達があいつに面倒な事押し付けてるだけなんだ。それでもあいつは、全部自分で背負い込もうとするぐらい、誰よりも優しい奴だから」
「竜二さん」
「ん?」
「私、必ずバイラル4に行きます」
「…そうか」
「はい。ちゃんと庄内と話します」
「そっか。ならあいつらには、俺の方からきっちり言っとくよ」
「はい、よろしくお願いします」
「半端な真似はするなよ。気合入れろよな」
「はい」
「いつまでだって、待っててやるから」
「…はい」
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」



私は泣きながら繭子にメールを打った。
我ながら面白い返事が書けたと思う。
『お土産は私だよ』。
繭子からの反応は『クソワロタ』だった。
返事は一分後に来た。



3月14日。
帰省五日目。
朝一番に、私と伊藤の顔を見比べた冴さんは開口一番こう言った。
「そろそろちゃんと、気分転換してきなさい。車使っていいから」
冴さんの愛車は久し振りに見た黒のHONDA・ザッツで、早朝ドライブデートでハンドルを握るのは、伊藤織江だ。この辺りでは唯一だというコンビニで飲み物とサンドイッチを買い、交通量の多い国道を避けた山間の府道や旧国道などを選んでゆったりと走る。雪が降るとこの一帯の積雪量は凄まじく、一度積るとなかなか溶けてくれないそうだ。さすがに3月は降らないでしょうと私が言うと、降るって、と真顔で答え、見た事はないけどね、と付け加えて伊藤は笑った。
その日、私達は特に意味のある話をしなかった。
昨日の会話をなぞり、再確認するだけになる気がしたからだ。
それでなくとも、本当は表に出したくないであろう秘めたる思いをも、伊藤はあえて私に語って聞かせてくれた気がするのだ。
私としては感謝と共にやはり申し訳ない気持ちも強くあって、彼女からこれ以上何か大事な言葉を引き出そうという気にはならなかった。


時折聞こえてくる鼻歌。
交差点にて左右を確認する横顔。
仕事の失敗談を話す私を見るきらきらした目。
丁寧にカメラに収めていく。
伊藤ももはや嫌がりはしない。
この映像がどういう意味を持つかなど、私も彼女も考えていなかった。
今を生きる彼女がいて、今を記録する私が隣にいた。
それだけだった。
この旅は私にとって、
伊藤織江という人間を語る上での集大成になると思った。
一年間彼女を見て来た。
もちろん彼女だけを見て来たわけではない。
常にバンドの側にありながら、主張せず、驕らず、それでいて誰よりも率先して行動し、誰からも必要とされてきた。
職場を離れて社長ではなく、夫の元を離れて妻ではない彼女の、
ただ一人の女性としての姿を見る事が出来たのは、
私自身の生き方を見つめ直す時間という意味でも、とても重要な事に思えた。



3月15日。
帰省六日目、京都市内を観光してお土産を買った。
その日の夜、ついに明日この地を離れるのだと意識した瞬間、淋しさに襲われる。
茨木さんもやって来て、とても賑やかで笑い声に溢れた夕食となった。
恭平さん達にとって何より嬉しいのは、伊藤が日本を発つまでの間に、もう一度神波と共にこの家へ帰って来るのが分かっている事だ。
そうでなければ、この日の夕食はとても涙なしでは済まなかっただろう。
なんなら、すぐにまた来ると分かっていても、茨木さんは泣いた。
淋しいと言って泣いたのではなく、伊藤がとても綺麗になったと言って泣いたのだ。
私は茨木さんの関西弁と涙の勢いに微笑ましく彼らの様子を見守っていたのだが、
台所に立つ冴さんの後姿を見た時、どっと涙がせり上がって来るのを感じ、必至に気持ちを切り替えようと努力した。
しかし、照れ笑いを浮かべながら茨木さんの腕をポンポンと叩く伊藤の頬に涙が零れたのを見て、恭平さんと私は同時に視線を外した。
茨木さんはきっと、伊藤の美しさを褒めたいわけではないのだ。
幸せそうに、笑顔で、ただ生きてくれている事が嬉しかったのだと思う。
彼とて、長年苦楽を共にしてきた従兄弟である恭平さんの弟さんと辛い別れを経験してる。
そして伊藤乃依の死を悼んでいる。
綺麗になったなあ、いやあ、凄いなあ、綺麗やわあ。ほんま綺麗やあ。
茨木さんの声と言葉を思い出す度に、私は今でも胸の詰まる思いがする。
おりんちゃんはやっぱ凄いなあ。ええなあ。綺麗やわあ。なあ。ええわあ。
生きててくれてありがとう。
それだけで嬉しいよ。
幸せになってくれよ。
頑張れよ。
私には、そう聞こえて仕方がないのだ。



伊藤の部屋。
カメラの電源を入れる。
慣れたもので、撮られていることを知りながら伊藤は特に構えもしない。
レンズを見る事もしなければ、あえて口を開く事もない。
私とカメラがただそこにある。そういうものだと思っている。
それが私には嬉しかった。
「あっと言う間だった気がします」
「久しぶりにのんびり出来たけど、終わっちゃうとそんな感じするね」
「明日の晩にはもう東京です。私はスタジオには行かず、社に顔を出しますね」
「それがいいね。急な連休のお礼もした方が良いし、今後の相談もあるし。庄内さんとはちゃんと時間かけないとね」
「はい。色々と、ありがとうございました」
「こちらこそ。ちゃんとお土産渡してね」
「すみません、買ってもらっちゃって」
「いいのいいの、連れ出した責任もあるしね」
「もー、敵いません、あなたには。誰も」
「そういう話ではありません」
「はー。帰りたいような、帰りたくないような」
「あはは。取材、あと何日? あと何回、なのかな?」
「そうですね。あとは、最後にやはり、繭子ともう一度じっくり時間を取って話をしてみたいです。今はまだアキラさんとの思い出や、先月収録させていただいた皆さんのお話が凄すぎて、なかなか気持ちの整理が難しかったりとか、描き方に迷いを感じていたりするので、そこをもう少しクリアにしてから、繭子と向かい合えたらなと思います。私はずっと初めから、最終回は繭子だと決めていたので」
「そうなんだ。てっきり武道館だと思ってた」
「あああ、そうですね。エピローグとして、武道館でのライブ模様も書きたいですね。というか当然書きますけど」
「時枝さんの本領発揮だもんね、ライブレポは」
「そう思いたいですね。しかし一年の密着取材という意味では、やはり最後は繭子ですかね。芥川繭子という女性に出会わなければ、私は今ここにいなかったですし、織江さんと出会う事もなかったので。彼女がずっと若い時、歯を食いしばって立ち上がり、一心不乱にドラムを叩いてくれていなければ、私の人生はどこへ向かっていたのかも分かりません」
「そうかあ。そうだね。それは私も、大成達もそうだよね」
「皆さんはまたちょっと、別格なんであれですけど」
「ううん。同じだと思うな」
「そうなんでしょうかね」
インタビュアーらしからぬ、煮え切らない言葉を返す私に対し、それでも伊藤はきちんと一拍考える間を置いて、
「きっと、そうだと思うよ」
と自信に満ちた笑顔を返してくれた。
「聞いても良いですか?」
「どうぞ」
「織江さんはこれまで、特別ご自分の仕事を苦労だと思わずに突っ走って来られました」
「うん? 突っ走ってたかどうかは自分じゃ分からないけどね」
「一生懸命前だけを見て来られた。休む事もなく」
「そんなに格好良く持ち上げてもらっても凛々しい顔出来ないよ。こんな格好だし、せめて東京で言ってもらえれば」
「冗談で言ってるわけではありませんよ?」
伊藤はカメラから顔を背けて明るい笑い声を上げ、
「なら、オーバー過ぎます。普通に生きて来ただけです」
と私に訴える。
「どうしました、急に」
全く取り合わない私に、
「それはこちらの台詞だけど!?」
と笑い声を含んだ声色で突っ込みを入れる。
「ええ?」
尚も芝居がかった私の反応に、伊藤は呆れたように首を横に振って笑う。
「なんかもう、演出過多だって。私をそんなに前に出さないでよ。気持ちは嬉しいよ、有難い事だとも、有難い人だとも思う。でもその情熱は私じゃなくてドーンハンマーに、どうか向けてやって下さい」
「…うーわお!」
「あははは!」
感激しすぎて意味の分からないリアクションしか取れない私に、伊藤は体を揺さぶりながら笑ってくれた。こんな不様な記者に対して勿体ない対応だなと、泣きそうになりながら改めてそう思っていた。
「やはりそうやって、織江さんの一番深い部分には大成さん達の存在があるわけです。ずばり織江さんにとって、ドーンハンマーというのは何ですか?」
「何ですか。…何でしょうかねえ。…何だろうねえ。…何が良いかなあ?」
「あはは」
「翔太郎がいたらさ、『社長、ここは大事な場面ですよ』って脅されるトコだよね」
「間違いないですね」
仕事中の伊藤と接しているだけでは決して気付かなかったであろう事柄の一つに、彼女は普段ゆっくりと話す人だという点があげられる。
口調が遅いのでなく、言葉を選んでいるという意味だ。
仕事中の伊藤は驚く程先々の段取りまで計算した上で行動しており、その都度必要な会話の内容や受け答えも、ほぼ彼女の中では事前に決定しているんじゃないかと思う程だ。
そのぐらい彼女の放つ言葉には淀みがないし、迷いもない。
だが帰省している間の伊藤はその必要がないせいで、とても穏やかにゆったりと話す印象だ。それでもやはり彼女のもつ聡明さは常に発揮されているのだが、ここへ来て感じる伊藤特有の間のようなものが、常に心地よく私を包み込んでくれている。
とても意味を理解しやすく、とにかくずっと耳を傾けていたくなる話し方をする人だ。
「ドーンハンマー」
「…」
「正直、取材とか、こういうインタビューでしか口にしない名前では、あるかな」
「はい」
「だけど面白いのがさ、その名前を口にする事で、並んだ4人の姿がドン!とイメージ出来るの。それは何か、名前の付いた絵画を見ているような気がして」
「ああ、それは少し、分かる気がします。でも、良い事ですよね、それは」
「良い悪いは分からないけど、楽だよね、全員の顔が一度に出て来るから」
「あはは!」
「でも本当は、一人一人、全然違う生き物だからさ」
「…はい」
「アキラだった時代もあるし、もっと言えば、クロウバーって口にすればそこには、マーとナベがいるわけだしね」
「なるほど、確かにそうです」
「友達ー…だったでしょう。まあ今でもそうだけど」
「同士であり、戦友であり、仲間ですよね」
「そう。少なくともビジネスパートナーではないね。あ、今思いつく選択肢全部潰したね?」
「ごめんなさい。つい」
「あはは。ほんと、皆が子供だった頃に出会って、一緒に遊んだ人達だから。笑った顔も、泣き顔も、怒った顔も、照れた顔も、大暴れして鬼みたいな顔も、血まみれの顔も、辛い事にも歯を食いしばって耐えてた顔も、全部見てきた。だから、去年の暮れに、彼らが自分の口から語ったような辛い過去を、私が初めて聞いた時の衝撃というのは…。それはもう、ねえ」
「物凄い衝撃だったと思います。お幾つぐらいの時に、聞いたんですか?」
「えー、大成と付き合う時だから、18とか19とか」
「ああ。まだ半分子供じゃないですか」
「うん。そう、私自身まだ子供っぽい部分が残ってて、普通に、可哀想とか、辛かったんだね、みたいな感想しか言えなくてさ。本気で、心の底からは理解しないまま、重要な部分を通り過ぎちゃった感じはずっとしてた。モヤモヤが残ったまま処理し切れにず大人になって。その事で私の中で彼らに対する気持ちが変わってしまったとかはなくて、相変わらず彼らの事は大好きだったし、変らず一緒にいたしね。だからって言うとまた別の意味になるけど、竜二と大成がクロウバーを組んだ時って、もともと友人関係だったマーとナベもいて、皆すごく楽しそうでさ。夢が叶う瞬間だったわけだから、幸せそうな彼らを見る事が出来て本当に嬉しかったよ」
「そうですよね。辛い事があっただけに、そこを乗り越えた今があるんだっていう」
「私自身はそう思って見てたんだけどさ。…でもそこに翔太郎とアキラがいない違和感というものも、頭の隅っこには確かにあって」
「はい」
「本当はこの話をするのは、私ちょっと嫌なの。マーもナベも私大好きなのに『お前らは違う』って言ってるように自分で聞こえちゃってさ、そういう空気がホント嫌いだし」
「分かる気がします。ですが、本当は全然違いますものね」
「全然違うよ。違うけど、…ううーん、違わないの。あはは、なんて言ったら良いか分からないから避けてる部分もあるんだろうけどね」
「表現は確かに難しいですよね」
「彼ら自身が選んだ事なんだし、実際どう思われようと本人は気にしないだろうけどね」
「そうですね」
「だから…。クロウバーが終わった事は本当に残念だったし、寂しかったんだけど、その後しばらくして翔太郎とアキラが重い腰を上げて、4人でバンド組んで、昔のスタジオで初めて音合わせした時にさ。私その場にいたんだけど、目の前から霧がパー!って晴れた気がしたたのは、もう、ごめん、認める」
「謝る事なんてないと思いますけど」
「うん。…モヤモヤが全部取れたというかね。当時の私には音楽とか楽曲の基準なんて全然分からなかったけど、どんな音が鳴ってるかとかどんな歌を歌ってるかっていう事は二の次でさ。その時私が思ったのは、『私はこの4人が頑張ってる姿を誰よりも見たかったんだ!ずっと見たかったんだ!』って。そこに気が付いたの」
「頑張っている姿…ですか」
「うん。ちょっと簡単には『辛い経験』とか『悲しい過去』だなんていう決まり文句で表現したくないくらいの地獄を彼らは生き抜いたって、私は思ってるからね。その事で個人的にずっと思ってたのは、ただ生きてるだけじゃないんだぞって事なの。本当に彼らは凄いんだ!本当に彼らは頑張ってここにいるんだ!それを皆もっと分かってよ!って。でもそれって言葉では誰にも伝えられないし、他人に伝えるべきじゃないんだろうけど、4人が爆音鳴らして笑った姿を見た時に、『ああ、コレコレ、この姿を皆見て!』って思った。それは誰にって事でもないんだけど、漠然と」
「なるほど。…ごめんなさい、気にせず続けてください」
「あはは。ちょっと私も今、興奮しちゃってますが」
「ふふふ」
ここへ来て、URGAの口調を真似て笑わせてくれる伊藤の温かい人柄に、またも私は救われる思いがした。やがて少しの沈黙を挟んで、彼女は続けた。
「もともと言葉では何も、愚痴とか弱音とか吐かない人達なの」
「はい」
「でもさ、昔大成の部屋に泊った時にね、彼が夜中に物凄い声で叫んで飛び起きたわけ。びっくりしちゃってさ。私も凄く怖くて。だけど落ち着いて話を聞いてみて、私その時初めて、子供の頃の傷とかトラウマが全く消えていないんだっていう事を知ってさ。そんな大事な事にも気づけない程普段の彼らは強いし、弱さを見せずに頑張って生きてるんだよね。その努力とか前向きな力は、本当はどういう形で実を結んだって構わないんだけど、彼らにとってはその行きついた先が音楽だったって事なんだよ」
「はい」
「…勝手に、克服してるもんだと思ってたり、過去の事だと決めつけてた自分に寒気がした。ああ、私はきっと、知らずに彼らを傷つけていたに違いないってね」
「だけど、そうと分かるような顔も、きっと皆さんはなさらないんでしょうね」
「そうなんだよねぇ。…うん、そう」
「喧嘩されたり、怒られたりしたことはありますか?」
「言い争いは何度もあるよ。喧嘩と言うよりは意見のぶつけ合いがヒートアップする事は今でもよくある。でも怒られた事は一度もないかな。私も、彼らに対して怒った事はないと思う。前も言ったけど、特に音楽やバンドについて口出しする事はないし、日常生活や健康面だけだもんね、私が気にして見てるのは」
「そうなんですね。バンドの事で言うと、以前竜二さんが仰ってました。

『もっと行こう、もっとやれる、もっとだ、もっと!って常に思ってる気持ちの先端部分はきっと、歪んでイビツな形をしてるだろうなって自分達でも思うんだよ。そこはきっと誰にも理解されないくらい、形容しがたいカタチをしてるんだろうなって思ってる』

って。URGAさんはその言葉を聞いて泣いておられました。私は正直その場面を見た時あまりピンと来ていなかったのですが、織江さんの仰った事を聞いて今きちんと理解ができた気がします」
「そう? なら良かった」
「今も、決して逃れられない悪夢を振り切り続けるために、生き続けるために毎日彼らの音楽は鳴っているんですね」
「そうかもしれないね。でも、もちろんミュージシャンとしてあれだけの事が出来る人達だから、リハビリ感覚で音楽をやってるわけじゃないという事は、分かってね」
「もちろんです!」
「後出しみたいで格好悪いけど、竜二の言った言葉の意味は私にも分かるな。異常な程練習に固執する人達でしょ。きっと彼らの心の一部分は、他人が見ても理解できないような、人とは違う形としてるというのは、私もその通りだと思うしね。…それに、その部分なんだと思う。きっと、彼らが本当に大切にしてる部分って」
「…はい」
池脇竜二がURGAを別世界の人間だと言った意味が少しだけ理解出来た気がする。
彼らにとって音楽は、芸術やエンターテイメント以上の意味を持っているのかもしれない。
止まったら死ぬと言わんばかりに恐ろしい程繰り返される練習量も、そこを思えば納得出来る。
「物凄く抽象的な話だし、理解しがたいかもしれないけどね。でも彼らが彼らとしての真価を発揮出来るのは、同じ気持ちで同じ歪な部分を持っている人間が三人もいるからだし、彼らを心底敬愛して、彼らの背中だけを追い続けた繭子がいるからだよね。だから、音楽的な話で言えばアキラよりも繭子の方がずっとドラマーとしてのキャリアがあるし、上手いんだと思う。じゃないとおかしいしね。今、ドーンハンマーを引っ張ってるのは繭子なんじゃないかなあ」
「なるほど、そうかもしれませんねぇ」
「…じゃあさ、実際私は何だって話をすると、彼らの為に道を舗装してるだけなんだよね。少しでも走りやすいように、前に進みやすいように。だから私にとって彼らは何って言われると、結局は彼らにどうしてそこまでするの?っていう話になっちゃうけど…、もう分からないよ。だってただ好きなんだよ、出会った時から」
「出会った時からですか」
「初めて話しかけたのは私だけどね。…ああ、んん、まあ、うん」
「何ですか? 話し辛い事なら」
「ふふ、ううん、逆。私喋りすぎだよねって思って」
「聞きたいです。皆さんが13歳の時のお話ですよね。織江さんの通う学校へ、転校してこられた」
「そう、中学一年。私物心ついてから初めてノイと離れて生活する事になって、慣れないうちはいつも不安で心ここにあらずな感じだったの」
「ああ、そうですよね。心配ですよね」
「体の事もあったけど、単純にいつもくっついてたあの子が側にいない事で私自身も、バランスを崩してたというかさ。…だからちょっと変な、変わった子だと初めは思われてたみたいでさ。彼らが転入してくる5月頃には少しクラスで浮いてたの」
「織江さんがですか!?」
「そんな特別な話でもないよ。皆13歳だからね。やっぱり少しでもおかしな部分があると、すぐに弾きたがる残酷な面があるでしょ、子供同士って」
「許せないなあっ」
「私のクラスにはアキラがいたの。…ここが奇跡なんだけど、彼ら4人はいつもアキラのいる私のクラスで一緒にいたの。今日はここ、明日は竜二の教室、とかじゃないの。毎日うちの教室だった。誰とも口を利かずに4人でじっとしてるんだけど、でもちゃんと周りを観察してたんだろうね。ある日ね、私の体操着を入れてる袋がなくなってたの。自分の机の横に引っかけてたんだけどね」
「ええ!?」
「うん。あれー、どうしたっけなあって思って。でも次の日学校来たら戻ってるの」
「え?」
「うん。でもなんだかちょっと汚れてるの。意味が分からないんだけど、戻って来たしまあいいかと思って。どうでもいいと思ってた部分もあるかな」
「あはは、なるほど」
「でね、ある日机の中に入れてたペンケースがないの。…でも次の日にはあるの。そういう事が何度か続いて。なくなるんだけど、でもちゃんと帰って来るのね。だから私は何も分からないし、何が行われてるか実感が全くないままで。結局それが何だったのかが分かったのは、本当に偶然、校舎裏の焼却炉の前でクラスメートと喧嘩してるアキラと大成を見かけたからなの。怖くて隠れたんだけどね。でもアキラが私のスニーカーを持ってるのが見えて。その時は興奮して、怖くて、なんだなんだ、なんで私の靴?ってパニックで。でも、いざ授業が終わって帰ろうとしたら、下駄箱にちゃんと私の靴は入ってて。でもちょっとだけ汚れてるの。次の日も、私のクラスに4人は一緒にいるんだけど、別にいつも通りで、静かだし、私を見るわけでもないし。でも…なんとなく分かっちゃった。私その時嫌がらせされてたんだなって。でも彼らが全部取り返して、黙って戻してくれてたんだなって。だってさ、その時見た喧嘩、アキラがもし私の靴を取ったんだとしたら、普通は戻さないよね。戻したっていう事は、それは取り返してくれたからだって、分かっちゃった。そんなんさあ、そういうの見ちゃったらもう、気になって気になって。何で私嫌がらせされてるのとか、正直そこはどうでもよくて。彼ら4人の事がさ、気になっちゃって」
「…信じられない。本当にそんな人達がいるなんて」
「あはは、そうだよねえ。ノイにその事話したら、会いたい!って無邪気に笑ってた」
「可愛い!ですがその頃の皆さんも、環境が変わったばかりであまり記憶に残っていないというお話をされていましたね」
「うん。損得勘定とか正義感より、あの人達って条件反射で動くからね。覚えてないって言われても、でも私はしっかり見てるからね。そりゃあ当時は私も事の真相に確信があったわけじゃないよ、どういう人達なのか全く分からなかったし。だからこそ、興味が湧いたんだろうね。ちょっと不気味だけど、悪い連中じゃないのかもって」
「なるほど。そこで例の名言『仲良しなんだね』という言葉が生まれたんですね」
「普通の事しか言ってないのに名言って」
「実際、皆さんが織江さんを助けてくださってたんですか?」
「うん。そうみたい。アキラ以外全員否定したけどね」
「あの人達らしいですね」
「本当はアキラも否定するつもりだったんだって。だけど、他の三人が否定したのを聞いて、なんかシュンとしてる私が可哀想だから、もう白状したって言ってた。可愛い奴でしょ」
「あー、素敵な人ですね」
「相当ぶっ飛んだ奴だけどね、心根は皆優しいよ」
「はい。その後嫌がらせは止んだんですか?」
「嫌がらせって言っても、聞いた話だけど私の事を好きだった男の子が友達と二人してちょっかい掛けてきてるだけだったみたい。だからその後大成達と一緒にいるようになって、諦めたのかな、何もされなくなったよ」
「そうだったんですか、浮いてるなんて言うからいじめられてるのかと思ってドキドキしました」
「あー…、あ、なんでこんな話してるんだっけ!?」
「あはは!出会った時から皆さんの事が大好きだったと」
「ああ、そうそう。うん、そんな感じかな。…私がいなくたって、彼らはきっと世界に飛び出してたとは思うんだよ。けどまあ少しくらいは、日本でも格好付けさせる事が出来たんじゃないかなあって、思ってるけどね」
「織江さんのお力は偉大だと思います。お世辞でもなんでもなく、少なくともこの業界を見て来た私からすれば、あなたの尽力は計り知れない物をバンドにもたらしたと断言できます」
「あはは。ありがとー。じゃあもの凄い太字でなんか、テロップみたいなの出しといてね」
「分かりました。画面一杯に出します」


『伊藤織江こそ、』(テロップ1)
『至高!』(テロップ2)


「そういう意味で言うと。アキラが死んだ時、繭子が側にいなかったら皆どうなってただろうなって。それを真剣に考えた時の恐怖ったらないよね。だから…うん。繭子は…神様が使わした天使なんだと思うよ」
「…はい」
「私たちは天使を掴まえたんだと思う」
「なるほど。いいですね、天使か…」
「…格好つけすぎたぁ」
「あははは」
「ま、いっか」
「あ。また一つ思い出した。翔太郎さんが、繭子の加入時にどう思って彼女を見ていたかって聞いた事があって。結構前なんですけどね、最初の渡米直前とかなので」
「うん。なんだって?」
「『毎日、嬉しかった』って」
「ああ!うん! そうだよね。そうだよねえ」
「繭子は涙が止まらなくなって、そこでインタビュー終わりましたもん」
「そっかそっかあ。…じゃあ最後キリよく、大成の事も何か一つ思い出していただいて、綺麗に終わりましょうか?」
「さすが社長、そこはちゃんと平等に」
「ううん、今普通に女房面してみたんだけど、どうかな」
「あははは!いやーもう、これ以上ないですよ。織江さんが奥さんだっていう時点で大成さん一人勝ちですもん」
「うそうそ!うそうそうそ!やめて!」
「いやいや、本当に」
「誠を敵に回したいの?」
「…怖ーわ!」
きっと階下で眠る恭平さんと冴さんが目を覚ましてニンマリする程、私達の笑い声は大きかったことだろう。実際はこの日の記録映像を見た繭子も関誠も、とても羨ましがっていた。伊藤織江は彼女達にとっても掛け替えのない憧れの存在なのだ。
「織江さん。一週間、お世話になりました。少し早いですが、…一年間ありがとうございました」
「この一年は本当早かったね。お疲れさまでした。よく頑張ったね」
「これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ」
「じゃあカメラに向かって、最後に一言お願いします」
「私が?…そうかあ」
三角座りをしていた伊藤は膝の間に顔を埋めた。
しかしすぐに私を見やって、苦笑い。
私が肩を竦めて微笑み返すと、伊藤は諦めたようにケラケラと明るく笑ってカメラを見据えた。そしてレンズに向かって人差し指を立てた。



「俺達が、ドーンハンマーだァー! …どーん!…恥っず!」



(注釈)
今回に関してのみ、時枝の発言に「」を用いたが、
あくまでバイラル4スタジオ側の勧めでそうさせて頂いた事を付け加える。


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