芥川繭子という理由

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44「伊澄翔太郎×伊藤織江」

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2016年、12月21日。
カフェ&バー『合図』にて。
伊澄翔太郎×伊藤織江、対談。



この日の取材は伊澄翔太郎の希望により、伊藤織江との対談形式で行われた。
伊澄から取材内容の提案や場所の希望を依頼されたのは今回が初めてである。
あまり広くはないが落ち着いた色調とクラシカルな調度品で構成された店内。
3セットあるうちの一番奥、4人掛けのボックス席に向かい合って座る2人。
伊澄はソファーにもたれて煙草に火を点け、伊藤はテーブルに両肘を乗せて指先の爪をもう片方の指の腹で撫でている。
普段背筋を伸ばして美しい姿勢を崩さない彼女しか見たことがない私は、そこに女性らしさのようなものを感じて少し、照れた。


-- 困惑に似た緊張が伺えますね。
S「…」
O「…」
-- 織江さんです(笑)。
O「…なんで私なの?って」
-- メンバーを差し置いて前に出る事を極端に避けられますものね。
O「当たり前じゃないですか(笑)。あとなんでココ(『合図』)なの?」
-- ありそうで意外とこれまでになかった組み合わせですね。お二人だけでお話されている場に立ち会う機会があまりないんですよね。
O「スタジオでは普通にあるよ。仕事の話はいつもしてるんだけどね」
-- 織江さんと竜二さんとか、織江さんと大成さんとか、そういう組み合わせはこれまでありましたよね。
O「ああ、取材始まってから? そうだね」
S「え、待って。お前さ、前からずっと気になってんだけど、普通に喋ってるけど外の人間と話す時は敬語使えって身内(スタッフ)に命令してたの忘れた?」
私などはいまだに少し怖いと思ってしまう程、割と強めの伊澄の口調にも伊藤は動じず、
姿勢を変えることすらせずに彼女は明るい笑い声をあげた。
おそ、という言葉を受けて伊澄の口元にも笑みが広がる。
-- うわー。めっちゃ素敵だなあ。年輪を感じます。
S「はあ?何が」
O「あはは、ジジイとババアみたいだね」
S「おじいさん、おばあさん。お前がそんなんでどうすんだよ」
O「誰のせいかなー?」
S「お前の旦那」
O「あなたそれはずるいよ(笑)」
-- (笑)、私に対して敬語は必要ありません。私の方から、やめてくださいとお願いしてますから。
O「私も、一応立場をわきまえながら話をしようとしたんだけどね。事務所代表として、そういう顔で最初は話してたけど、この人とにかく本音を引き出すのが上手いのよ。だから途中から面倒になっちゃって」
-- 恐縮です(笑)。
S「いや、分かってやってんならいいけどな」
O「ねえ、なんでわざわざ外出た?」
S「わざわざって、ここも自分らの家みたいなもんだろ」
-- 麻未(可織)さんが以前切り盛りされていたそうですね。私今日が初めてなのですが、とてもクラシックな雰囲気で、落ち着きますね。この時間(17時)はまだ夜営業の準備でしょうか。
O「うん。夜は19時からだね。最近はあまり来てなかったからちょうどいい機会だとは思うけど、なんか意味あるのかなって思った」
S「事務所にいるとなんだかんだで仕事するだろ」
O「ああ。え、私が? あはは、気遣われてる」
S「そんなんじゃないけど、お前が倒れたら色々厄介な事になるからな。大成もあれで色々見てるようで、もうお前との生活も同じサイクルで慣れちゃってるだろうからさ、ちょっと分かってないんじゃないかと思って」
O「あはは、ありがとー。あなた達ってほんと気味が悪いくらい優しい時あるよね」
-- 織江さん言い方。でも今日の織江さんなんだか社長の顔されてませんね。とても嬉しそうです。
O「あ、そーお? 浮気してるって思われちゃいますね」
S「なんだお前(笑)」
-- ちょっとURGAさんみたいになってますよ。
O「うん、真似してみた。内緒ね」
S「最近来ないけど、元気なの?」
O「誰、URGAさん? …まあまあまあ、元気だけど」
S「え、…面倒臭い話?」
O「言い方考えろ」
S「ふーん」
O「ね、こういう所あるからさ。全てを委ねようとは思えないよね」
S「あははは」
-- 4日後に、竜二さんとURGAさんの対談を撮ります。何かお伝えしましょうか?
S「俺? 言いたい事あったら自分で言うよ」
-- そうですよね。
O「まあでも、あんまりややこしい印象与えるとアレだからはっきり言っとくけど、やっぱりこことURGAさんはないみたい。違ったとかそういうのではなくて、近づきすぎるのは嫌みたいよ」
-- 恋愛の愛ではないと。
O「翔太郎はどうだかわかんないけどね。少なくとも私が話した限りでは、向こうはそんな感じだったよ」
S「…え、今俺振られた?」
O「そもそも最初から相手にされてないんじゃない?」
S「そっかー」
-- うふふふ、あははは。
O「何?」
-- いや、やっぱりこのお二人の関係も独特で凄いなーと思って。翔太郎さんだけではないんですけど、皆さんやはり色々な顔をお持ちですね。なんでしょうか、このファミリー感。
O「ファミリー感(笑)」
S「全然ピンと来ない、なんで笑ってんの?」
O「やっぱり仕事場以外で顔合わせると、どうしても昔に戻っちゃうね。ニヤニヤしちゃうのはそのせいかも。家で大成といる時の私に近いんだと思うなあ」
-- 以前繭子が、家に居る時の織江さんはとても穏やかで癒し系だと言ってましたよ。
O「フ」
S「鼻で笑ったぞこいつ。素直に受け取ってやれよ(笑)」
O「はいはい。どうせ普段は鬼だから」
-- そんな事誰も思ってませんよ。
すると伊藤は髪をすくって形のよい右耳を見せると、右手を添えて伊澄の方へ近づけた。
S「たまにな、鬼だけど」
O「はい、いただきました」
-- あははは! あー、そうか、お二人はこういう感じなんですね。
O「こういう感じ? そうだね、いつもこうやって、色々助けてくれるよね、翔太郎は」
S「都合の良いように解釈してくれてどうもありがとう(会釈)」
-- 以前織江さんは、翔太郎さんが一番昔と変わらないと仰っていたのが印象的です。その事は、織江さんにとってはありがたいことなんでしょうね、きっと。
O「うん、安心感はあるね」
-- 安心感! はい、安心感ですね!
O「あはは、え? うん。変わったって言っても皆のそれは成長とも言えるし、一概に変わった事が駄目だなんて思ってないけどね。でも昨日と同じ、明日も同じっていう不動の存在はこの年になると無性に心強いよ。今だから言える、結果論だけどね。もう今、凄い目力で突っ込み受けてるからちゃんとフォローするけど、翔太郎が成長してないっていう話では全然ありません。もー、こっち見んな(笑)」
-- あははは!やばい、今日ずっと馬鹿笑いしそうです。翔太郎さんて意外と甘え上手ですよね。
S「おいおい」
O「おー、そう来たかー。これ、甘えてんだなー」
-- だってとても話をしやすそうですよ。何も構えずに同じ目線でずーっとじゃれ合っていられそうな空気です。
S「ああ、そういう意味か、ファミリーって」
-- なんだと思ったんですか。
S「いや、ファミリーカーって聞こえて」
-- もー(笑)。
O「きっと奇妙な二人だと思われるだろうね。私は結婚してるし、ここの恋人はモデル、…元モデルだし。事務所の代表と所属アーティストだし、…でも一番初めにあるのは幼馴染で、友達だよね」
S「あの、頼むからガールズトークみたいなノリで俺に振って来ないで」
O「あはは! ズットモだよ?」
S「いいとも!」
O「ふはは!違う違う!」
-- 駄目だ、笑いが収まらない!
O「こういう会話がね、昔から自然と成り立つ人だったの。竜二も割とそうなんだけど、彼はムラっ気があるよね」
-- どういう意味ですか?
O「物凄く、真面目なんだと思うの。一度決めた自分のルールは決して変えられないような人でもあるしね。普段ホントにデリカシーのない男なんだけど、でも実は誰よりもちゃんとしていたい人なんだと思う。皆ね、それぞれ胸の内に秘めた熱いものを持ってるんだけど、理想と向上心の高さは竜二が一番だと思うなあ、私は。だけど、希望とか思想とかそういうのを言葉に出して表現するのが彼は意外と苦手だからね。そういう意味では翔太郎のユーモアと竜二のユーモアは少し種類が違う気がする。大人になってからもそこはあまり変わってないかな」
-- 深いですね。
O「こういう言い方をすると実は竜二って怒るんだけどね。自分だけ特別扱いされると途端に嫌な顔するし、ニッキーが竜二の事ベタ褒めした時だって、なんとか翔太郎達に目を向けさそうと慌てたり」
-- ああ、はい。確かにそのような事を仰ってましたね。
O「でしょ。翔太郎はね、頭の良さからくるユーモアなの。でも竜二は、半分ごまかしだよね。本音を見せられない照れ屋だから」
-- 織江さんにしか語れない、池脇竜二像ですね。
O「そうかな。半分はノイの受け売りだよ。…でも大人になってからの竜二は本当に器の大きい人になったなーって思う。翔太郎もそう思うでしょ」
S「さあ」
O「あはは、この顔はね、照れてる顔」
S「竜二が褒められてなんで俺が照れんだよ(笑)」
-- 大成さんは、どうですか?
O「どうって?」
-- あの方の持つユーモラスな一面は、どこから来ていますか?
O「優しさ」
-- 即答!
O「あはは。それはもう、ずっとそうだから。…心から、尊敬してます」
S「お前平気で年下をパクんなよ」
O「だってホントだもん(笑)」
-- 出会った子供の頃からそうなんですね。私、織江さんが皆さんに初めて声を掛けた時の話、感動しました。
O「そう? 忘れられてたけどね」
-- 具体的なセリフは忘れてしまっていたとしても、その時抱いた気持ちというのは翔太郎さんの中に残っていませんか?
S「んー」
O「…」
伊澄が考え込んで沈黙が生まれたその隙を待っていたかのように、若いウェイトレスがトレーに飲みものを乗せて運んできた。
画角に入らないように、お借りしたスツールを通路に置いて座っていた私は、彼女の邪魔にならぬよう立ち上がって身を引いた。
見ればその横顔は高校生ぐらいの若さだ。アルバイトだろうか。
画面左側の伊藤へアールグレイのホット。右側の伊澄にブラックコーヒー、ホット。
女の子「メリークリスマス! あれ、今日織江さんスーツじゃないんですね、珍しい」
O「そうなの。さすが、気付くねえ」
女の子「なんか今日綺麗。あれ、もしかして2人、デートですか?見ちゃいけないもの見ちゃった感じですか?」
O「内緒にしといてね」
女の子「分かりました。後で大成さんに電話しときます」
S「フフ」
女の子「翔太郎さんクッキー好きですよね」
S「いや、好きじゃないよ」
女の子「今日学校でクッキー焼いたんですよ、食べてください」
S「相変わらずだなぁお前も」
女の子「翔太郎さんも相変わらずですね。女の子に『お前』って言っちゃいけないって何度言わせるんですか。いつか誠さんに捨てられますよ」
S「分かったから早くクッキー置いて帰れよ」
女の子「今持ってないんで、帰る時渡しますね。まだ帰らないですよね」
S「まだ一口もコーヒー飲んでないからね」
女の子「じゃあ、失礼します」
最後にカメラに向かって笑顔で会釈し、ウェイトレスの女の子は厨房へ戻っていった。
伊藤は彼女の姿が見えなくなるまで見送ると、右手を口元に添えて小声で伊澄に言った。
O「相変わらずだね」
S「うっせーなあ」
O「あははは」
-- とてもお若く見えましたが、物凄く親しげでしたね。
O「ああ、顔は知らないのか。あれがヨーコ」
-- え!? 渡辺さんのお嬢さんですか? でか!
S「16?」
O「うん。いやー、最近の若い子は本当に物怖じしないよね。まあ、ナベの子ってだけあるか」
-- 翔太郎さん嫌われてるとか言われてませんでした?
S「なあ。俺毒入りクッキー食わされんのかな」
-- あははは、可哀想ですよそんな事言ったら。
S「でもさ、今織江も自分で言ったけど、物怖じしないっていう特性にレベルがあるならそのテッペンにいるのが織江とノイだと思うよ」
O「私?」
-- ああ、なるほど。先程の答えですね。
S「うん。実際にその時そいつが何を考えてるかは分からないし、本当は泣きたいくらい緊張してるのかもしれないけど、行動に移せるっていうことは克服出来たって事だと思うからさ。あの頃の俺達が4人揃ってそこにいて、声を掛ける事が出来たってのは俺は奇跡に近いと思うよ。いくらそれが13歳のガキ相手だとしても、織江だってそうだったんだから」
-- 確かに。
O「へえ、そんな風に思ってくれてたんだ、嬉しいな」
S「織江だけだったからな、声を掛けてくれたのは」
O「物怖じしないとか、怖いもの知らずとか、そういう事ではなかったと思うけどなあ」
S「それかあれか。大成狙いでか」
O「うん。もうじゃあ、それでいいよお前。うん」
S「ふははは! あー、面白い」
-- 最高ですね。ヨーコさんも言ってましたけど、今日本当に織江さん綺麗ですね。可愛い。
O「嬉しいけどさぁ、あんまり言われると複雑な気持ちになるんだけど。大成も良い気しないと思うなー」
伊藤がそう言いながら笑顔で眉を下げると、伊澄はとても楽しそうに笑い声を上げる。
-- もちろん、お二人の関係をどうこう思って言ってるわけじゃないです。仕事を離れて友達と楽しくお喋りをされてる織江さんを見たのは初めてなので、とても素直な感想を述べているにすぎません。
O「まあ、でも確かに、久しぶりにどうでもいい感覚で喋ってると思う。全然肩に力入ってないし、仕事だと思ってないかも」
-- 何よりです。ね、翔太郎さん。
S「問題ですよー社長、その発言はー」
O「あはは、そうか、さすがに駄目か」
-- あらら。私多分まだ聞いてないと思うんですけど、そもそもなぜ織江さんが社長なんですか?
O「お願いされたから」
S「竜二達がクロウバーやめてインディーズに戻った後にさ、さすがにインディーズのまま世界に行くのは無理があると思うよって言ってくれたのが織江でさ。でも今更また他所の事務所に頭下げたりデモ配ったりオーディション受けたりってのも面倒だなって思った時に、個人事務所作って流通だけメジャーに乗せればそれでいいんじゃないのってアドバイスくれたのもこいつなんだよ。ああ、やっぱすげー頭いいなと思って」
-- さすがですね。なかなか素人はそこまで考えつかないですよ。
O「いやいや、そんなわけないって。カオリがいたからだよ。色々話聞けたのが大きかったよ」
S「それでもさ、じゃあちょっと頼まれてくれねえかっていうあいつらの無茶ぶりに、『うん、じゃあちょっと勉強してみるから待ってて』つってすぐ事務所立ち上げてくれたんだよ、俺らが入った直後くらい。第一声が『出来たよー』だからな。晩飯かと思ったもん」
-- うわ!めちゃくちゃ面白いけどめちゃくちゃ格好いい!なんだこの感情。
O「あははは。懐かしいねえ」
S「それまで普通に働いてた会社辞めて、俺らの為に代表を買って出てくれたんだからな。頭が上がらないよ織江には」
-- ほえー。
O「ほえ?(笑)」
-- しかもビクターですもんね。信じられない手腕ですね、
O「時代が良かったのかもね。人との巡り合いもそうだし、助けてくれた人もいたからね」
-- それまでは何をされてたんですか?
O「会社勤め。会計事務所」
-- あ、やっぱり頭良いんだ。
O「ある程度会社組織がどういうものかを学ぶにはちょうど良かったよね。前振りだって言っちゃうと前の職場に悪いけど、運命だと思ったよやっぱり」
-- なるほど。勝算はあったんですか?
O「なんの?」
-- 成功する、しないという結果に対する。
O「ないよそんなの(笑)。成功しなくたって私は良かったもん。この人達が本気で何かをやるという事。そこに私が参加できるという事。私が二つ返事で動けたのはその喜びがあったからだし、成功して金持ちになってやろうとは一切思わなかったよ。それは今でも思ってない。本気で本気になったこの人達は絶対凄いって知ってるから、世界に通用するって信じてるよ。世界よ、なんとか彼らを受け止めてくれ、ってもう毎日それだけ」
-- 翔太郎さん泣いちゃ駄目ですよ。
S「お前汚ねえぞ(笑)。そういうやり口覚えたのか、やるなー」
O「あはは」
-- はー!もう、織江さん好き。大好き。
O「おお、ありがとうよ」
-- だけど織江さん個人の考えとして、いわゆるデスメタル、その中で特化型とも言えるデスラッシュという分野をバンドが選択した事については、何か思う所はありましたか?
O「ないなあ。音楽的な話は一切してない。それは知らないとか分からないという事じゃなくて、口出ししたくないんだ、そもそも」
-- なるほど。自主性を重んじるべきだと。
O「うーん。自主性というか、自然にやりたい事突き詰めていったら今の音楽性になったんだと思うの。それが所謂デスラッシュになったんであって、自分達で考えなさいっていう事を重んじる前にもう出来上がってたんだもん」
-- あれやこれや言う前に。織江さんの方から特にアドバイスや方向性の議論を持ちかけるような事もせず。
O「それは絶対しない。彼らのやりたい事をやるための会社じゃないと意味ないんだから」
-- はい。ううーーん、突き刺さるなあ。
S「あはは。社長、名言連発ですね。相手KO寸前ですよ」
O「そうか、徹夜で考えた甲斐があったな」
S「嘘つけ(笑)」
-- もうしっかりKOされてますよ。それがクロウバーであろうが、ドーンハンマーであろうが、織江さんにとっては重要ではないんですね。
O「ん、名前が?」
-- 音楽性の話です。
O「ああー、どうなんだろうね。…ただ、竜二と大成と、マーとナベの時代の音楽も私好きだけど、ちゃんとやろうとしてるんだなあっていう感想を持った自分に気付いて、何も言わないようにしてた。当時はまだ彼らの仕事に絡んでもいないしね」
-- ちゃんとやろうとしている?
O「ハードロックがどういうものかとか、ヘヴィメタルかどういうものかっていうジャンルの話は当時全然分かってないけど、クロウバーを初めて聞いた時に私が思ったのは『綺麗だな、ちゃんとしてるな』だったの。あるいは思ってたよりシンプルだな、とか」
-- シンプルですか!? クロウバーの曲がですか?
O「え、おかしい?」
S「いや、おかしかないよ。俺もそう思うよ。ただ織江の言ってる話と時枝さんの考えてる事は違うと思う」
-- どんな風にですか?
S「だから、織江は多分楽曲の構成の話はしてないよな?」
O「あ、うん。シンプルっていうのは、竜二も大成も、こんなに単純な人間じゃないのになって思ったっていう事なの。音楽って自己表現でしょ。少なくとも竜二と大成は、私の知ってる限りクロウバーでやってたような綺麗な音楽では表現しつくせない人間だと思ってたから。だから、ああ、ちゃんと人に聞かせるための音楽をやろうと努力してるんだなって思った、って話」
-- なるほど、とても理解しやすいです。そうなると、ドーンハンマーとして演奏した4人を初めて見た時、これだ!って思ったんじゃありませんか?
O「思った(笑)。マーとナベには悪いけど、やっぱりこういう事だよねって思ったよ」
S「それはでもマーも自分で言ってたよ。最初にクロウバーとして曲を作った時に、なんでこんな抑えた作り方すんだろうなって疑問だったんだって。曲自体はそんなに難しくないし、マーもナベも別に下手ではないからさ。こいつらはもっとやれるんじゃないかって。モヤモヤはあったみたい」
-- 抑えた作り込みをされてたんですか。知りませんでした。
S「それは完成図を描いた時に、色んな箇所が突き抜けないように角を丸くしてあるような曲ばかりだった、っていう言い方してたな。さすが音響志望の奴は面白い表現するなって思ったけど、実際そうだったんだよ。ただ、手を抜いてたって話とは違うぞ?」
-- そうですよね。
O「音楽的な言い回しは分からないけどさ、分かる気がするのはさ、前に時枝さんが四分の一っていう言い方をしてたじゃない」
-- パワーバランスの事ですよね、メンバーの。
O「そう。そこがさ、テクニックじゃなくて精神的な面で、マーとナベでは竜二と大成に張り合う事が出来なかったんじゃないかなあ。出会いからしてそうだし、その後の関係性においても、竜二達に対する尊敬なり信頼を、もう隠そうともしないしね、2人とも。初めからそうだったように思うし。それでも竜二達は優しいから、あの4人で出来る最高のバンドを目指そうと思って、クロウバーを動かしてたんだと思うけど」
-- そうですね、実際素晴らしい名曲をいくつも残されていますしね。
O「『アギオン』『裂帛』『アンダー・ザ・アスファルト』『ブルーアース・バット』、もっともっとあるもんね」
-- はい。翔太郎さんもクロウバーの曲を好きだったと仰ってましたよね。
S「うん」
-- そんなクロウバーを経て、バンドがドーンハンマーになった時、そして会社を立ち上げた時、その責任を重く感じたりはされませんでしたか?
O「面白そう!とは思ったけど別にプレッシャーはなかったな。私の力なんてたかがしれてるし、私をあてにするような人達でもないし」
S「いやいや」
O「あれえ? あはは。でも、自分の会社を商業だと思ってない部分もあってさ。夢を売るとかそんな綺麗なものでもなくて。要はこの4人が全力で何かを成し遂げたいんだと。そうした時に、会社はその為に必要な武装なんだよね。ライブがやりたい。じゃあイベントの仕事貰ってこようね。アルバム出したい。じゃあ流通に乗せようか。なるべく大きい流れに乗せたい。じゃあネットやサイトを使って販売経路を増やしてみよう。ツアーをやりたい。じゃあ費用を捻出しよう。銀行からお金を借りようか。担保も入れようね。株式にしようか。海外でやりたい。じゃあアポを取ろう。箱を抑えよう。向こうで音源販売してくれるレコード会社見つけよう。…そういう色んな『じゃあ』を行動に移すために会社という装備が必要なだけであって、ビジネスやってます、っていう意識は昔からあんまりないかな。お給料とか維持費とかがあるから、最低限赤(字にならないよう)には気を付けたけどね。実際そこも別に、大して…」
S「なあ、今の話で織江がどんだけ忙しく働いてくれてるか分かるだろ?」
-- 分かります。凄いです。こんな人見たことないです。
S「それでさらに大成の嫁で、家で炊事洗濯掃除もやってるからな」
-- はー。やっぱりもっとお休みされた方が良いですよ。
O「ありがとう。大丈夫、今の翔太郎の言葉で報われたから(笑)」
S「馬鹿な事言うな。だから今日無理やりここ引っ張ってきたんだぞ」
O「ね。こういう人なのよ」
S「(苦笑して首を振る)」
-- 分かります。
O「こうやって色々気遣いをしてくれるしさ、その反面本当に倒れちゃうまで自分を追い込んで努力を続けて来た姿を私は誰よりも近くで見て来たからね。休むことより大事な事があるんだって。それを私は知ってるもの」
-- はい。
O「私一人だけの頑張りでここまでやって来たなんて全く思ってないし、褒められたって『そうだろう?』とは言えないよね。それに家では大成も色々してくれるしね、家の事も、あれこれ。料理だって上達したし」
S「へえ。そうなんだ」
O「ちょっと。そこでなんで翔太郎が嬉しそうなの」
-- なははは。
S「…お前ら何年?」
O「何年?籍入れて? …8年かな」
S「おー、もうそんなかあ。そっかあ」
O「知り合ってもう28年だからね。そのうちの8年なんて大した時間じゃないよ」
-- 28年! 改めて聞くと溜息が…。
O「あはは、そりゃあ年取ったって思うよねえ」
S「幸せか?」
O「ちょ、っとー。やめてよー」
伊藤の頬が赤く染まり、カメラに向かって首を横に振った。
私は伊澄の横顔にカメラを向けるのだが、いつになく真剣な目をした彼の笑顔に、吸い込まれるようにして見入った。
O「なんでいきなりそんな事聞くのよ。幸せよ。当たり前でしょ」
S「当たり前の幸せなんてあるかよ。でもまあ、お前の顔見てたら嘘がないのは分かるから、良かったよ」
O「っはは、そんな事言っていいならね、私も言うよ」
S「駄目」
O「なんでー?」
S「何言う気だよ」
O「私と大成が入籍した日の話」
S「駄目だ、却下」
O「はあーあ? 自分だけずるいよ」
S「考えろ。バンドのイメージを考えろ」
-- あははは。
O「その日ね、大成がインフルエンザにかかったって嘘ついて。病院連れてってくるって言ってスタジオ抜け出したのよ。そんなの疑うような人達じゃないしさ、3人だけで練習始めて。要はその間に私たちは役所へ行って婚姻届けを出して来たんだけどね。…なんか恥ずかしかったらしいのよ。大成がそういうのを言葉にしてどう説明していいか分からないとか言い出して。結婚しますでいいじゃないって言うんだけど、うん、うん、って答えながら全然言えないような雰囲気でさ。それで仕方なく嘘ついて、先に入籍を済ませて、その足でスタジオ戻ったのよ」
-- はい。
O「丁度休憩に入るか入らないかのタイミングで。繭子はもうソファーに座ってたかな。翔太郎はギター置いて汗拭いてた。竜二は担いでたギターをまだ右手に持ってた。スタジオに入って来た大成を見て、2人ともびっくりしてさ。帰って寝てると思ってるから、何で来てんだよみたいな顔してて。私が後ろからついてって、彼の背中をバシって叩いたの。その時ようやく大成が『結婚して来た』って言ったの。入籍して来たじゃなくて結婚して来たって言ったの。そんなのさ、普段の翔太郎なら絶対突っ込んでくるはずなんだけど、それがなくて。まず竜二がガーンってギター落としてさ。繭子がそれにびっくりしちゃって。翔太郎が大成の前まで来て、いきなりあの人にガバッと抱き着いたの」
-- …はい。
O「いやあー。…言うぞとか脅しておいて自分がやばいんだけど。…遅れて竜二もやって来て、翔太郎と大成を二人とも抱きしめるの、私の目の前で。まさかそんな反応になるとは思ってないからさ、びっくりして涙が止まらなくなって。繭子も両手で口抑えながら泣いてるし。そしたら竜二と翔太郎が泣きながら私の前に立って。あ、これは抱きしめられるなって思ったらさ、なんていうんだろーな…、おじいちゃんみたいにゆっくりと震える両手を差し出してさ、二人して私の右手と左手を片方ずつ握って、上下にゆっくり振りながら、『ありがとう』って言うの。ありがとうって言うのよ。いやいやいや、違うじゃない。おめでとうでしょって心の中では思ってるんだけど。気持ちが物凄く伝わってきたんだよね。言っても30越えた屈強なオッサン2人だよ。ヨボヨボのおじいちゃんみたいに震えながら、何度も何度も何度も何度も、ありがとうって言うの。大成も立ったまま泣いてるし。その時私思ったのよ。私、この人達3人と結婚したようなものなんだなーって。そのぐらい、この人達の繋がりは強くて深い物なんだなって改めて実感したし、心の底から嬉しくて、幸せだった」
-- …はい。
S「20年だもんな」
そう言葉を発した伊澄の顔はとても優しくて、同じくとても幸せそうだった。
S「子供の頃に出会って20年だよな。死ぬほど喧嘩した時や、誠が俺達の前に現れた時や、色んな奴の死に際に立ち会ってズタズタになった時や、繭子と出会った時も、ずーっと織江は俺達の側にいてくれた。ノイがあんな事になってから、例えこの先どんな事があったって、織江だけは絶対に幸せにしなきゃいけないって。皆そう思ってたし、それがどんな形であれ、出来る事はなんだってやってやろうって話してた。…前の日、大成の顔がいつもと違うのは俺も竜二も気づいてた。嫌な予感がしてさあ、竜二と二人して戦々恐々と内心震えあがってたんだよ。次の日になって、織江からインフルエンザだって聞いて、なんだそれ阿保くせえなんて笑ってたら、俺達の人生で最大の幸福と言っていい出来事が待ってた。…ああ、これで…。もうこれで大成は大丈夫だ。もうこれで、織江は大丈夫なんだって、そう思ったよ。おいアキラ見てるか、カオリ見てるか、ノイ見てるか。大成の父ちゃん見てるか。こいつら結婚したぞ!って。…そうだ。こういう時だ。こういう時こそ泣いて良いんだよなって思ったら涙が止まらなくなってさ。竜二と2人して壊れたみたいに泣いたな。オイオイ言って泣いた。俺の人生で一番嬉しかった日かもしれない。…だからあん時、大成をぶん殴っといて良かったんだ」
伊澄の最後の言葉に、テーブルに肘をついたまま両手で顔を覆って聞いていた伊藤がくぐもった笑い声を上げた。
O「それはね、ほんと感謝してる。…ちょっとトイレ行ってお化粧直してくるわ」
S「ごゆっくり」
伊藤が立ち上がると同時に、伊澄は煙草に火をつけた。



伊藤を直視出来ずに半ば背を向けるような角度で立っていた私は、ハンカチで涙を拭うと振り返って伊澄に聞いてみた。
-- もしその時点で、大成さんがバンドをやめて普通に働くって言ったり、織江さんが家事に専念するって言ってたら皆さんどうされました?
S「あああー。それは、うん、確かに考えたけど。でも、格好つけた言い方かもしれないけど、自由にして欲しいとはずっと思ってるよ」
-- 自由に。…任せるという意味ですか?
S「やりたい事をやってここまで来たけどさ、他にやりたい事あるんだって言われた時に止める理由が思いつかないんだよ。もちろんめちゃくちゃ困るよ、バンドとしては。でも困るのは俺達であって、抜けたいと思う相手じゃないだろ。自分が困るからって、そいつを繋ぎ止める理由にはならないと俺は思うよ」
-- ドライですね。
S「そうなのかな」
-- でも翔太郎さんらしいなとも思います。
S「はは。でも実際にそこで思い悩むって事はあの2人を疑うって事になるんじゃないかと思ってさ、あんまり考えないようにしたってのが本音かな」
-- なるほど、はい。
S「結果的にあいつらそんな事一言も言わなかったし。そもそも、…織江まだ戻らないよな? …大成が俺達になかなか結婚の事言えなかったのは多分、恥ずかしいからじゃなくて、先に幸せ掴む自分をどこかで許せてなかったんじゃないかと思うんだよ。カオリもノイも辛い別れ方してるだろ。だから余計にさ。あいつそういう奴だから。だからそういうあいつのケツ叩いて、無理やりにでも幸せな方向へ引っ張ってってくれた織江には、俺達は本気で心の底から感謝してるんだ」
--  本当に相手を理解している人の使う『そういう人』という呼び方程、胸が熱くなるものはありませんね。
S「あはは!あんたの記憶力も大したもんだな!…だから、その結果あの2人がどういう生き方するにしろ、幸せであれば俺はなんだって構わない」
-- 翔太郎さん。
S「ん?」
-- 私翔太郎さん大好きです。
盛大に煙を吐いてむせ返る伊澄。
-- 私皆さんの事大好きです。だからこれは嬉し泣きです。カウントしないでくださいね。
S「ああ、あはは。そういうやり口も使ってくるんだな。覚えたぞ」



O「お待たせしました。時枝さんもお化粧治す?」
-- 私はいいです。表に出ないので。
O「可愛い顔してるのにね。ね、翔太郎」
-- やめてください。
S「巨乳だしね」
-- やめてください(笑)。
O「あはは。なんか2人で話してた?」
-- アルバムの話を少し。
O「真面目だなあ(笑)」
S「鼻かみながらさ、アルバムの、ブヒー、制作状況は、ブヒー、いかがですか、ブヒー!」
O「あははは!」
-- はしたなかったです。ごめんなさい。
S「いやいや、目が真剣だったからちょっと怖かったけど。全然いいよ」
O「こないだ繭子と話してさ。意見が一致したんだけど、そんな時枝さんにも聞いてみていいかな」
-- そんな時枝(笑)。なんでしょうか。
伊藤は、先程と同じ位置に座ってアールグレイの入ったカップをソーサーに戻す。飲み口を左手で隠し、その下では右手が僅かに横へスライドする。普段から色の濃い口紅を引く人ではなくカップに口紅が残っているわけでもない。身に着いたたしなみが無意識に体を動かしたようなのだが、残った口紅を指で拭う仕草をも隠そうとする、そんな彼女の美意識の方が私の目を引いた。しかし伊藤の眼差しはどこか悲し気に空中を見つめていた。
O「誠が私達の前から去って、五ヶ月ぶりに戻ったじゃない。理由を聞いて納得したし、無事で良かったと心底思ってるんだけど、黙って嘘ついて出てった事がどうしても、私の胸のつかえになっててまだ取れないの」
-- ああ、はい、なるほど。
O「私さ、意外に思われるかもしれないけど、誠の人間性を誰よりも理解してる自信があるんだ」
-- へえ、そうなんですか。え、翔太郎さんよりもですか?
O「ここの関係はだって、人間性を語る前に男と女だし」
S「勝手に自分の色恋語られるとか耐えられない。帰っていい?」
O「ダメ、これは今後の大事な話だから」
-- 駄目みたいです。それでなくとも織江さんはバンドの存続を揺るがすような問題には容赦しない人ですものね。
O「そうよ。だからね、はっきり言うと私も繭子も、もし自分の体がそうなったらちゃんと皆に伝えるのが筋だと思うし、言わずにはいられないと思うんだ」
-- そうですね。多分私も、打ち明けると思います。
O「うん。…誠のさ、それは強さでもあると分かってるんだけどね。ちょっと普通の人では耐えられない苦痛や不安を耐えようとするあの子の強さだって分かってるんだけど。…これはそうだな、やっぱり打ち明けて欲しかったとか、そういう話になっちゃうのかな」
-- 見ようによっては確かに誠さんの強さと優しさを象徴するお話ですが、私などはさておき、もし本当に黙ったままあの方が旅立たれたとしたら、皆さんそのまま彼女を忘れてしまえるような人達ではないと思うんですよね。皆さんはきっと、ずーっと、誠さんを探し続ける事になっていたと思うんです。
O「うん、そうだと思うよ」
-- そう考えるとやりきれない話ですよね。
O「それに翔太郎の辛さを思うとさ、もう済んだ話なのに今でもちょっと腹が立つの」
S「あはは」
O「笑ってるし。辛くなかったなんて言わないよね?」
S「辛かったというか…。ちょっとみじめだとは思った」
O「え?」
伊澄の本音を聞いた伊藤の眉間に皺が寄る。この顔をする時、彼女は本当に怒っている。
-- 翔太郎さんがですか? 何故ですか?
S「いやそんな大した話じゃないけどさ。一応、どうしてっかなーと思ってツイッターとかインスタグラムとか見てたんだよ。あれから全く更新も途絶えたし、前兆とか何も感じさせない笑顔のアップとかの写真上げたまま止まってるのを見てて、ちょっと焦ってた部分もあったんかな。初めてツイッターの方にコメント残したんだよ。したら見事に無視されて。まあ更新自体止まってるから俺だけをって事じゃないんだけど、怒るでも寂しいでもない複雑なおいてけぼりを味わって。アイドルに相手にされないファンの心理がちょっと理解できたもん」
-- あはは。
O「笑えない」
-- お、っとー…。
O「全然笑えない。…はー。…あー、ダメだ。やっぱ駄目だ」
S「なんでまたお前が今更」
O「今更もなにもないよ。もしもあなたと繭子がくっついてたらどうなってたと思う?」
S「はあ? どうってなんだよ。そんな事ありえないだろ」
O「もしそうなってから誠が帰ってきたって、その時あの子に居場所はもうなかったかもしれない。帰ってきたあの子を見て繭子は身を引いて心を痛める。そういう可能性だってあったかもしれない。あなたをみじめな気持ちにさせて、誠は居場所を失って、あなたを支えようと決心した繭子は心を痛めるハメになったかもしれない。そういう未来が待ち受けていたかもしれなかった! あの子は何より自分の幸せを考えるべきだった!そうすれば、誰も傷つかずに済んだのに」


あー、そうなのか。と、私は思う。


S「そりゃお前の妄想の話だろ。結果誰も傷ついてねえし、勝手に繭子の名前出して話ややこしくするんじゃねえよ」
O「もう二度と起こらないとどうして言えるの? 私のこの妄想が現実に起こりえないってあなた言えるの? 癌てそんなに甘いものじゃないんだよ」
S「そんな事お前に言われなくても分かってるよ。とりあえず繭子の名前出したくだりは消すからな。こんなもん外出せるかよ馬鹿馬鹿しい」
-- あの。
S「あ?」
O「何」
-- 誠さんは、そのことについては本気で、心底後悔されていました。だからもう二度と、黙ってどこかへ行かれるような事はないと思います。
O「これだよ。皆分かってないなぁ。…誠はやるんだよ。また同じ事をあの子はやる子なの」
-- ええ、だって。…そんな。
O「それが関誠という子の優しさだから。あの子は自分が傷つく事を恐れない。何よりも翔太郎を優先する。それは間違ったことではないかもしれないけど、常に正解を出せてるわけじゃない。例え翔太郎が望んでいない事だとしても、あの子は自分がそうすべきだと思ったら絶対にやる」
伊藤の頬を今日何度目かの涙が伝う。
伊澄は黙って煙草を銜え、強く吸い込んだ。
ミリミリミリ、ミシ。
煙草の先端が赤く燃え、音を立てて灰になって行く。


あー、やはり、そうなのだろうな。と、私は悲しくなる。


O「私誠と出会った時の事よく覚えてるんだ。…翔太郎程ではないだろうけど、私だって誠の事大好きだからね」
-- 誠さんがまだ、15歳の時ですか。
O「そう。両親を亡くして、目の前が真っ暗になって、色んな物事に対する希望を見失って、笑いながら危険な事に頭から突っ込んでいくような、そういうやけっぱちな心理状態だったあの子を翔太郎が連れて来た。…めっちゃくちゃ綺麗な目をしてたんだ。だけど見覚えのある目だった。それは昔の翔太郎や大成と同じで、絶望を知ってる目だと私には思えた。まだ15歳なのに、なんでそんな目をするんだと思ったらやりきれなくて、ずっと陰ながら見守って来た。…時枝さん、あの子は良い子なんだよ。本当に素敵な子。誠はね、普通じゃありえないスピードで、人生の選択を次から次へと迫られながら生きて来たんだ。頭が良くて、とても綺麗で、だけど破滅志向の強い厄介な子。…だからそんなあの子がモデルになるって言った時、私奇跡が起きたんだなって思ったよ。昔から勉強の出来る子でさ、進学校に通ってるくせに危険な遊びばかり覚えてきて、それでいて有名な難関大学の推薦もらえたりするような要領の良い子だった。だけど私に言った事があるんだ。当時あまりにも衝撃的で日記に書いたから今でも覚えてる。『生きてて楽しいって思える事や、喜びを分かち合いたいと思える人はもう今の所翔太郎さんだけだから、私自分の将来には興味ないんです』。そんなあの子が具体的なビジョンを持ってモデルという大変な仕事を勝ち取った時、これは奇跡なんだって、冗談じゃなくて本気でそう思ったの。嬉しかった。大変な時期だったけど、だからこそあえて前を向いて一歩踏み出せたなって。…私と大成が入籍した時も、あの子私に言ってくれたのよ。『織江さんみたいに上手くはやれないと思うけど、私なりに、翔太郎を幸せに出来るよう頑張ってみるよ。だから一つ肩の荷を下ろして、大成さんと幸せになって下さい』。それなのになんで…、なんであの子がこんな目に合わなきゃいけないの!? なんで一人でどっか行っちゃうのよ。私はその時どこで何をしてたの?」


ああ、やっぱりそうだ。伊藤織江は関誠ではなく自分を責めているのだ。


O「あの子はまた絶対に同じ事をやる。自分がそう信じたら。それが翔太郎の為だと信じたら、あの子はまた誰もいない暗闇に向かって突っ込んでいく」


ずっと彼女は、関誠を一人で行かせてしまった自分を責めていたのだ。
誠の母親代わりとして寄り添って来た彼女の後悔だった。


O「翔太郎にさえ掴まえられないスピードで、またあの子はどこかへ行ってしまうかもしれない。私はそれがたまらなく怖い」
S「織江」
O「翔太郎は怖くないの?」
S「…」
伊澄は強めの一服で煙草を根本まで吸い切ると、ふと私の方を見て無言で首を横に振った。
私はビデオカメラの電源を落とすと、お化粧治してきますと小声で告げて席を立った。
その後二人にどんな会話があったのか、その日の私は知らない。
ゆっくりと時間を掛けて涙を止め、心を整理し、メイクを直してお手洗いから出て戻った時、伊澄と伊藤は並んで座り、楽しそうに小声で笑い話をしていた。
お手洗いから出てすぐ、甘くて香ばしい匂いが漂っているなと厨房を見やった時、
心配そうに両眉を下げたヨーコちゃんが私の所へ来た。
そして泣きそうな顔で「大丈夫ですか」と言った。
もちろんそれは私に対してではなく伊澄と伊藤に対する心配の言葉だ。
私は唇をぎゅっと結ぶと力強く頷いて、大丈夫ですと答えた。
席に戻ると伊藤がテーブルにごとりとおでこをつけて、すみませんでした、と言った。
となりで微笑んでいる伊澄の笑顔が、この上ない安心感を生んだ事は言うまでもない。


-- とんでもないです、謝らないでください。
O「(ビデオカメラの)電源オンにしておきました」
-- 何からなにまで(笑)。
S「間違って消したりしてないよな?」
O「アメリカでさんざん触ったから大丈夫」
-- その節はお世話になりました。
O「はは、時枝さんが席を外してすぐにね、翔太郎が立ち上がって横に座って、もしかして織江聞いた事ないかな?って私に言うの」
-- はい。何をでしょうか。
O「私が初めてこの人達に声をかけたっていう話をした日に、翔太郎が誠に聞いたんだって。最初の言葉がなんだったかお前覚えてるか?って」
-- 翔太郎さんと誠さんが初めて出会った日という事ですか?
S「そう。俺が一番最初に声を掛けた時、なんて言ったか覚えてるか?って」
-- どうでしたか?誠さんの事だから、やっぱり覚えてるような気がします。
S「笑ったのがさ、あいつ覚えてるけど、一番初めに声をかけたのは翔太郎じゃなくて私だよ、って言ったんだよ」
-- ん、ん? そうなんですか?
S「俺は自分が先だと思ってたんだけど、誠は真顔で首を振って、私だよって言うんだよ。でも状況的に考えて間違いなく俺なんだよな。何回思い出しても、俺なんだよ。言葉まで覚えてて、確認したら、翔太郎が自分から最初に言った言葉はそれだねって言いやがって。教えてって言うのも癪だし、ふーんつって、もういいやって顔して」
-- あはは。
O「それをさ、私に聞いてくるわけ。お前なんか聞いてない?って」
-- どうなんですか?
O「うん。一応知ってる」
-- ええー、凄い。なんでした?
O「絶対聞き返されると思うけど言うね。『お茶ですか?』だって」
-- …なんですか?
S「あははは!」
O「でもそれってさー、一番初めに交わした会話だって認識するかなあ。誠らしいなあーって思って」
-- お茶って、あのお茶ですか?
O「そうよ、飲み物のお茶。まだ2人がちゃんと出会う前の話なんだって。誠がバイトしてたコンビニをそうと知らずに翔太郎が利用してたらしいのね。毎朝決まった時間にやって来て、煙草2つと緑のパックに入った飲み物を買っていくんだって。商品名出すとアレだから言わないけど、意外性のある飲み物です。別にそれはなんだっていいんだけど、とにかく毎朝そのセットを買っていくんだって。でもその日、フラフラした足取りの状態で翔太郎が入って来て、レジに置いたのがいつもの飲み物じゃなかったんだって。誠はあれって思ったんだけど、当時あまり愛想の良いタイプではなかったし、面倒な事になったら嫌だからスルーしようとしたらしいんだけど、手に持った瞬間無意識に『お茶ですか?』って言っちゃったんだって。物凄く似てたらしいの、いつも買ってるものとそのお茶がね。だからきっとこの人間違えて棚から持ってきたんだなあって。そしたら翔太郎が誠の手を取って、『おーい、…お茶?』って言ったって言うの。2人して朝から声に出して爆笑したっていう話なんだけど」
-- あははは!…うふふふ、あはは。へえー、凄い。なんで翔太郎さんそれ忘れちゃうんですか?
S「だから出会ってないんだよまだ。まあそれ聞いても、そんな事があったって事も思い出せないから、あいつ作ったんじゃねえかな」
-- ひど(笑)!そうかあ。最初の言葉は『お茶ですか?』かあ。なんかロマンチックですねえ。
S「どこがだよ」
-- ちなみに翔太郎さんがかけた最初に言葉は何ですか?
O「ダメ」
S「社長命令があるのでカメラの前では言えません」
-- あはは! えー、絶対エロいんだろうなあ。
S「お」
O「あはは、ダメダメ、あははは」
-- はい、分かりました(笑)。



対談という名目の『伊藤織江を休ませる日』。
思わぬ展開はあったものの、とても穏やかで丸みのある笑顔を浮かべた彼女を見る限り、
伊澄の優しさは確実に多忙極まる幼馴染を癒したのだと思う。恐らくこういった優しさの形は、夫である神波大成よりも距離を持った友人の方が効果的なのだろう。
神波という男は誰よりも伊藤織江に優しい。
それは同時に、伊藤織江も神波に対して誰よりも優しい事を意味する。
だが時として優しさは努力と忍耐を要する。
それを取っ払えるのが、唯一無二の友人の存在なのだと私は思っている。


ここからカメラの映像はない。


帰り際、レジの前に立った伊澄にヨーコちゃんが、
焼いたばかりのクッキーが入った小袋を手渡した。
『パパの分はないので、隠れて食べて下さい』
『おう、ありがとう』
『パパが、寂しがってます』
『おう、俺達もだよ。だけど二度と会えないわけじゃない』
『私も寂しいです』
『まだ少し先だから、またみんなでくるよ』
『私の初恋は、翔太郎さんです』
『…ありがとう』
『絶対また来てください』
『約束するよ』
『怖いから誠さんには言わないでください』
『あはは。後で電話しとくよ』
『織江さん、パパをよろしくお願いします』
『こちらこそ、よろしくお願いします』
ヨーコちゃんは最後にカメラに向かって手を振ることを忘れなかった。
私はそんな彼女の言動や気づかいに思い切り胸を打たれた。
彼女はかつて、伊澄達転校生4人の為、
そして内なる正義の旗を掲げ続ける為に戦った、あの男の子の娘なのだ。
重金属の音塊が私を打つ。
あの日々。彼らの若き日々。池脇竜二と神波大成、そして真壁才二を支えながら軽快なドラムを響かせていた、クロウバー時代の渡辺京。
彼のそのバスドラの響きが今また、私の耳に届いた気がした。



『合図』を出てしばらく歩いた。
少し離れた場所に停車してある伊澄の車までの距離なのだが、
突風の寒さが身に染みたらしく、伊藤は立ち止まってコートの前を掻き抱くように抑えた。
そして黙ったまま『合図』を振り返った。
それに気づいた伊澄は伊藤の前まで戻ってくると、彼女の左手を取った。
驚いて向き直る伊藤。
伊澄はそのまま彼女の右手も取って、両手を握った状態で言った。
『織江の手は二つしかないんだ。右手には神波大成。左手にはドーンハンマー。それ以上はもう持たなくていいんだ』
そして伊藤の手にクッキーの入った小袋を握らせると、
『ナベには俺から言っとくから』
と言ってまた歩き始めた。
私はその光景が何を意味するのかしばらく分からず、ようやく理解できたのは彼らと別れた後だった。



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