風の街エレジー

新開 水留

文字の大きさ
上 下
36 / 51

35 「紛狂」

しおりを挟む
 
 竜雄の顔を一目見て、西荻静子はどこかほっとしたような笑顔を浮かべた。しかしそんな静子の微笑を見返した竜雄は、少しだけ苛立ったという。
 この女は自分の子供を置いて逃げたのだ。
 不本意ながら静子の息子である平助を不憫に思う若い正義感が、竜雄を苛立たせた。だが蒼白くやつれ切った静子が正面に腰を下ろした時、彼女の両目がずっと小刻みに震えているのが分かって、竜雄は思わず目を逸らした。哀れなのは、静子も同じだった。
 和歌山に到着した竜雄と秀人は、その足で静子が保護されている施設へと向かった。名目上静子に対して行われた処置は、保護と言う名の取り調べである。本来ならば留置所での取り調べを受けた後すぐに拘置所へと移送されるが、自首に近い形である事と、静子自身が犯罪行為を行い立件されたケースではない為、彼女の生命を脅かす危険性と一連の事件に関する情報提供の有益さを考慮し、長期取り調べという建前のもと保護施設で生活を送っていた。そこは成瀬秀人と一緒でなければ、一般人である竜雄は敷地に立ち入る事すら許されない場所であった。
 警察署内の取調室のような、簡素で冷たい雰囲気のする部屋で待機していると、やがて職員に伴われて静子が現れた。竜雄を見るなり、
「久しぶりやね。せやけど、一年もここにおって、初めて知った人間に会うたのが竜雄くんやなんてね」
 静子はそう言って涙を流した。嬉しいのか、悲しいのか、それすらも分からない程静子は憔悴しきって見えた。
「あんまり元気そうやないな」
 と竜雄が言うと、静子は頷き俯いたまま、
「平助は、どうしてる?」
 と聞いた。息子を心配する母の言葉であるはずが、その口調と表情からは遠慮が感じられた。
「…さあ、どうなんやろうな」
 適当なごまかしを口に出来ない竜雄は、思ったままを答えた。
「怒ってるやろなぁ」
「どうかな」
「うちの人は…、どうなったん」
 口を開きかけた竜雄を制し、秀人が身を乗り出した。
「その事なんですけどね」
「あんた誰や」
「失礼。東京から来ました、成瀬秀人と言います」
「刑事か?」
「そうです」
 静子は涙を拭うと大袈裟に溜息を付いて見せ、
「警察の人はみなアレやな。話を聞き出しはするけど、こちらには何も教えてはくれはらへんのやな。そら私は自分から助けてくれ言うてここへ入れてもらいましたけど、家族の事はやっぱり心配です。勝手な言い草かもしれんけど、一年もここで過ごせば当たり前のように、家族の顔、見とうなりますよ」
 と滑らかに嫌味を口にした。竜雄に対する態度とは明らかに違う、敵意を滲ませた声だった。秀人はしかし慣れた様子で愛想笑いを浮かべ、
「ですが、あなたが望んだ事ですよね」
 と突き放した。
「私が望んだのは保護であって監禁と違います!」
 おそらく何度となく吐き出して来た言葉なのだろう。静子は涙ながらに訴えるも、取り押さえられぬよう立ちあがる事をせず、表情と抑揚に力を込めて訴えかけた。
「困ったなあ」
 まるで困ってなどいない秀人の口振りに、竜雄はむっとして静子に言った。
「おばちゃん、どこまで知っとったんじゃ」
 突然深く切り込んで来た竜雄の言葉に静子は心から驚いた様子で、
「え?」
 と、ただ聞き返した。
「竜雄」
 勝手な真似をするなと制する秀人の手を振り払い、
「腹割って話そうや」
 と竜雄が語気を強めた。静子が心なしか怯えた表情で顎を引くと、背後に控えていた職員が立ち上がった。しかし意外な事に秀人が右手を上げて、職員の動きを制止した。
 我関せずという顔で、竜雄は自分の腹に溜まっていた思いを吐き出す。
「おばちゃん、知ってるか。平助は幸助さんに包丁で刺されて死にかけたぞ」
「さ、刺された…?」
 目をかっと見開いて、静子が竜雄の言葉をなぞった。
「その上、入院中得体の知れん奴に自分とこの家の秘密をばらされて、心がズタズタになりよった。幸助さんはおばちゃんと同じように逃げてしもうてから、今もってどこにおるや分からん」
「刺された…」
「こうなる事を、おばちゃんは分かってたんか。 知ってて一人でここへ来たんか」
 言葉にならない呻き声が、静子の口から洩れた。
「竜雄、もうちょっと、そこは優しく言ってあげないと」
「なんで…? 私はそれを知らされないまま、ここに一年も…?」
 静子は溢れる涙を拭おうともせぬまま、恨むような目で秀人睨みつけた。静子の反応に顔を曇らせながら、尚も竜雄は続ける。
「あいつがどこまでおばちゃんらの事情を汲んでたんか俺は知らんけどよ。うちの銀一や春雄が顔見に行った日、あいつ恨み言の一つも言わんとただ『母ちゃんは、今、和歌山帰ってる』とだけ答えたそうや。それがお前、ハナから事情を知ってたならこんな辛いことはないぞ!もし事情を何も知らんままやったとしたら、あいつは一体どんな気持ちで、あんたのおらんなった広い屋敷で、おかしぃなった父親と二人で、毎日を過ごしよったんやろうの!なあ、おばちゃん。平助はアホな親父に刺された時、どんな気持ちがしたんじゃろうのう!」
 自然とうるむ竜雄の両目を見つめ返していた静子は、堪え切れぬように顔を両手で覆い隠した。
「物事には順番というものがある。ただ感情任せに喋るだけなら出て行ってもらうよ」
 そう秀人が竜雄を諫めた瞬間だった。
 竜雄が座っていた椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。
「そんな事言うてる場合と違うやろ!自分の息子刺す父親がどこにおるんじゃ!自分の子供捨てて逃げる母親がどこにおるんじゃ!それはお前、知らんかったで済む話なんかお前らにとったら!」
「竜雄!」
「ええ加減にせえよ!黒がなんぼのもんじゃい!四の五の言うとらんでとっとと平助んとこ帰らんかいボケ!」
 秀人が竜雄の襟首に手をかけ、背後に引き摺り倒した。一瞬の出来事に竜雄は自分の体が宙に浮くまで何が起こったか理解出来ず、両足を刈られ背中から床に落ちる瞬間になって、咄嗟に体を丸めた。秀人は音を立てて床に転がった竜雄を冷ややかに見降ろし、
「大事な話が終わってないんだよ。帰らせるわけないだろう?」
 そう言って、即座に立ち上がる竜雄の足を乱暴に蹴り払った。再び転がる竜雄は完全に頭にきた様子で、ゆっくりと体を起こしながら秀人と距離を取った。成瀬刑事、と声を掛けて職員が腰の警棒を抜いた。
「いいよ。そんなもの使わなくても、この程度の男なんとでもなる」
 片膝をついたままの竜雄を見下ろして、秀人が言った。
 無言のまま竜雄が立ち上がり、両拳をぎゅっと握った。それを見た職員が無意識に警棒を構えた。
「話します!」
 悲鳴に近い声で、静子が叫んだ。
 秀人が横目に静子を睨んだ。
「何をです?」
「私が知ってる事をお話します! ですから、平助の所へ行かせてください!」
「あなたはご自身の保護を強く望んだはずですよ。平助君の事をお伝えしなかったのもあなたの意向と身の安全を優先したからです。あの時あなたにお伝えしたところで、すぐにここから出て行かせるわけにはいかなかったんだ」
「私の事ならもう構いません!戻らせてください!」
「税金の無駄遣いはよくないなぁ。あなたが一年ここにいる間も、事件がまるで解決しなかった事はご存知ですよね。更に一歩進んで、それなりに腹を括った情報を提供していただかないと、はいそうですか分かりましたと解放するわけにはいきません。それでなくともあなたはずっと計算ばかりして、積極的に事件解決の糸口を我々警察に掴ませてはくれなかった」
「それは!」
 言い訳したそうに口を開いた静子を遮って、秀人は尚も強く叱責する。
「確かに、静子さんからは有益と言っていい数々の情報を得る事が出来ました。これまでほとんど不透明だった裏の世界に踏み入る糸口を見い出せただけでも、あなたがもたらした功績は大きいのかもしれない。しかしだ。命を狙われる程の大事な情報を使って、あなたはただ自分一人が生き永らえる時間を買い続けて来たにすぎない。今更母親面したって、平助君の傷は癒せないんですよ」
「そんな事は、あんたに言われんでも分かってます!」
「とは言え、それなりに言えない事情も分かりますよ。あなただって、清廉潔白な身というわけではないでしょうしね」
「承知の上です。全部、お話します」
 覚悟を決めた静子の目を見つめ返すと、やがて秀人はゆっくりと竜雄に視線を移した。
 竜雄は握っていた拳を開き、そうと悟られぬよう溜息を逃がした。そして自分を警戒したまま睨んでいる職員を見やると、ドン、と右足を踏み鳴らした。驚いてニ、三歩後退する職員を鼻で笑い、竜雄は倒れた椅子を起こしてどかりと腰を下ろした。そして、ごしごしと両手で顔を拭った。
 実はここまでが、竜雄と秀人が相談して決めた打合せ通りの計画であった。後は、静子が真実を語るか否か、それだけである。だがその思惑は賭けに近かった。秀人の言うように、西荻静子の本性が自分の命を最優先する人間ならば、この施設で情報を小出しにしながらのらりくらりと時間を稼ぐ事が可能だからある。『黒の団』の情報とはそれほどまでに希少性の高い価値があり、内容はもとより誰がどこまでの情報を掴んでいるのかを把握するという点においても、警察側には重要な意味があったのだという。
『…おばちゃんは、そんな人間と違うと思う』
 ひょっとすると何も進展の得られないまま、無駄足を踏んだだけで帰る羽目になるかもしれないと憂慮していた秀人に向かって、しかし竜雄はそう答えたのだ。
 ならばと打ち立てた秀人の計画に乗った形の竜雄であったが、打合せ通りとは言え内心穏やかではなかった。怖いくらい秀人の思惑通りに事が進み過ぎたのだ
 竜雄がまず、静子の知らない西荻家の現状をぶちまける形で暴走し、秀人がそれを力でやり込める。尚も反抗的な態度をとり続け、静子を感情的にさせる。大まかに言えばそんな計画だったが、実際どのように動くかはその場の判断という話だった。
 竜雄としてはこれまで静子に対して抱えて来た不満もあり、本心を話す事に対して気負いはなかったが、それと同時に、どこまで静子の感情を揺さぶる事が出来るのかという点については、全く自信がなかった。そして何より予想外だったのが、無抵抗なまま綺麗に宙を舞わされた事だ。柔道の有段者である父親にすらここまで綺麗に投げ飛ばされる事はないだけに、竜雄の驚きは本物だった。秀人がかつて己を指さし、成瀬刑事の奥の手は僕だ、と言い放った理由が少しだけ分かった気がした。只者ではないと思う気持ちが一瞬にして膨れ上がり、竜雄の中で僅かな恐怖に変わった。
 だが竜雄が本当に驚いたのは、ここからだった。
「何が原因だったのかと言われて一番初めに思い浮かぶのは、お金です」
 と、静子は語り始めた。
「静子さん。あなたと実の弟である松田三郎さんは、警察関係者で言うところの、『黒の団』端団側に位置する立場だというお話でしたね。それは、こちらの人間から僕も聞いています」
 秀人は立ち上がったまま、先ほどとは違い穏やかな口調で取り調べを始めた。
「それを踏まえて、お金と聞いてまず僕が連想するのは本団側との関係ですが、金銭的な事で揉めていたような形跡は以前からあったのですか?」
 秀人に対し睨めつけるような目で嫌味を口にしていた静子の高慢さは鳴りを潜め、椅子に腰かけ太腿に両手を挟み、俯きながら彼女は話し始めた。
「揉める揉めないというよりも、業の深さが招いた結果だと思います。時代とともに緩やかに衰退していく運命でしたから、きっと誰もが、自分の両手で全てを掻っ攫いたかったのだと思います」
「全て掻っ攫う、とは? 下剋上のような事を仰ってるのですか?」
「難しい言葉は分かりません。ただ、本来であれば親の遺産は子供が継ぐのが筋なのでしょうが、『黒』はそういうモノではありませんから。誰もが血走った目でお義父さんを見ていたのは、気付いていました」
「お義父さん。…西荻平左さんですか?」
「はい」
「静子さん、あなたひょっとして」
 冷静沈着な秀人の顔に、竜雄の目にも焦りが浮かんでいるように見えた。
 秀人は言った。
「平左さんを殺害した人間を、あなたは御存知なんですか?」
 静子は答えなかった。
「ちょ、ちょっと待って下さいね。もしそうなら、それこそあなた、清廉潔白どころの騒ぎじゃない。現時点でだって、あなたを逮捕しようと思えば出来るんだ」
「罪に問われる事は分かっています」
「そんな。何故今なんだ。どうしてもっと早く仰っていただけなかったんだ!」
 秀人の訴えに、そっと静子が顔を上げて、竜雄を見つめた。理解の追い付かない表情で、秀人がその視線を追って、竜雄を見やった。
 竜雄はただ茫然としていた。
 そうして語られた静子の話は、共に同じ街で生きて来た竜雄にとって、血も凍るような真実だったと言わざるをえない。
 静子の告白を側で聞きながら、竜雄はだんだんと意識が遠のくような感覚を味わった。
 自分が何を聞いているのかも分からなくなり、先ほど拳を握りしめた熱い両手の指先が、やがて凍えるような冷たさに変わっていった。



 友穂が赤江の土地を踏みしめたのは二年振りである。決して長い年月とは言えないながら、忘れ去ろうと重ねた努力の分だけ、友穂にとっては遠く懐かしい街並であった。
 まだ準備中だった『雷留』の玄関を叩いて留吉を呼び出した。
 なんじゃあ、昼間っから酔っ払いかこらー、と文句を言いながら暖簾を捲り上げた留吉は、ガラス戸の向こうにいるのが赤江の常連客でなく藤代友穂だと知り、破顔して「なー!」と意味の分からない声を上げた。そしてその後ろから銀一と和明が顔を覗かせると、「なあん!」ととても残念そうな声を出した。
 夕方前にこちらへ到着した銀一達は、赤江に戻る前に腹拵えを済ませるべく飲み屋街を歩いた。既に店を開けている店舗もあるにはあったが、『雷留』に行きたいと言い出したのは友穂だった。
「留吉さん、藤代です。覚えておいでですか。準備中のとこすみません。あのー、長居はせんから、ちょっとだけ、なんぞ食べさせてもらわれへんもんやろか」
 友穂が自然とそうなる上目遣いで言うと、留吉は鼻息を荒くして、
「早よ入り! 今日、貸し切りにしよか!」
 と声高く張り切った。
「長居せん言うとるだろうが」
 と銀一が言うと、留吉は銀一と和明を順番に指差し、
「呼んでない。帰れ」
 と言った。
 留吉が料理を作る時間も含め、一時間弱で店を後にした。留吉は泣きそうな顔で、また来てや、と繰り返した。友穂は眉尻を下げて何度も「はい、はい」と答えた。荒くれ共の集う店を切り盛りする留吉も、友穂の前ではただの親父である。迷惑ばかりを掛けて来た自覚のある銀一と和明は、なんとなくそんな留吉の情に厚い姿を見れたのが嬉しかった。
 穏やかな余韻に浸る一行だったが、気持ちの奥底では全く笑えていなかった。本来なら銀一の家に直行しなければならいと頭では分かっていても、なかなか思うように足が動かないのだ。
 それは二年振りに赤江へ戻って来た友穂を思いやる銀一の優しさでもあったし、自分達が辿り着こうとしている一連の事件に関する情報を、知りたいようで知るのが怖い、そんな複雑な心境も作用していた。
 そして三人は浮かない顔を並べて『死体置き場』へと視線を向ける。この空き家街を歩いて通り抜けねば、赤江には辿り着けない。
「相変わらず、ここの雰囲気嫌い」
 と、遠慮のない口調で友穂が言った。
「雷留から、自転車でもギって(盗んで)来たら良かったのう」
 と和明が言った。
 日も暮れて夜が訪れようとするこの場所を三十分掛けて歩くなど、女の友穂には考えられない事だった。銀一や和明にとっては何程ない日常である。しかしそこに守らねばならないかよわな存在がいる事で、いつもは感じない緊張が二人の体を固くした。
 普段なら、片道三十分を歩く間に繁華街から戻って来た男達と何組かはすれ違う。知った顔と分かるや立話に興じ、笑い声が響く夜さえある。
 しかし今日に限っては、人の気配は皆無だった。
「友穂、なんか歌でも歌ってくれよ」
 ただ歩くだけではいやが上にも緊張は高まる一方だ。銀一は友穂にそう言って、
「俺らの知らん、東京の流行歌でもなんでもええからよ。聞かせてくれよ」
 と提案した。
「ええなあ、友ちゃん歌上手かったもんなあ」
 和明がそれに同調し、場を盛り上げるように明るく言った。
「ウソやん、そんなん言われた事ないよ」
 困ったように言い返す友穂に、
「上手いよ!…ホラ!」
 と和明。
「それ、今言うたんやん。ほんまええ加減やなぁ」
 漫才のような掛け合いを見せる友穂達に向かい、
「下手でもええんよ。俺らはなんも、歌なんか知らんから」
 と、銀一は嬉しそうに微笑みながら説得を試みる。
「いざ歌え言われると、あんたらの前でも緊張するよ」
 片手で頭を掻きながら照れてゴニョゴニョと口ごもる友穂に、
「よし」
 と銀一は気合を入れ、友穂の体を持ち上げて自分の両肩に乗せた。肩車だ。
「これでええやろ?」
「高っか。怖っわ」
 大声で笑う和明を困ったように見下ろし、友穂は銀一の頭に手を置いた。
 友穂の歌った『祈り』というその歌の名前を、銀一も和明も聞いた事がなかった。だが気を許せば泣いてしまいそうな程、美しいメロディだったという。正直に言えば銀一も和明も、その歌の歌詞は一つも頭に入っては来なかった。だが口を揃えて語るのは、友穂の歌に号泣させられたという思い出だけである。
 明るい曲調ではなかった。どちらかと言えば憂いを感じさせる友穂の声は、それでいてどこまでも優しく、何故だか聞いた事があるような懐かしさを感じる程すんなりと、荒み切った彼らの心へと届いた。
 やがて『死体置き場』と呼ばれた空き家街を半分ほど歩いた所で、銀一達の前にその男は姿を見せた。それはあまりにも唐突で、あまりにも危険だった。
 銀一と友穂の前を歩いていたのが和明でなければ、手遅れな事態に見舞われていたかもしれなかった。
 漁師である和明は、自分の身体に沁みついた魚の匂いには鈍感である。しかし自分以外から漂う同種の匂いに対してはとても敏感だったそうだ。何故なら側にいるのは職場の同僚なのかもしれないし、あるいは埠頭に出入りする時和会の若い衆かもしれないからだ。揉め事の仲裁に関して場数を踏んで来た和明は、街中で同種の匂いを察知する度無意識に体が反応するようになっていた。それは何を思うでもするでもない、純粋は条件反射であったという。
 僅かな魚臭を鼻先に感じ、顔を上げた瞬間とてつもない速さでその匂いが近づいて来るのが分かった。和明が咄嗟に身をひるがえし、背後の銀一と友穂を突き飛ばした。
 和明の目に、光る点が見えた。
 ナイフか、包丁か、刃物の切っ先だ。
 そう思った時には既に和明の目の前に凶刃が迫っていた。
 身を伏せた和明の右耳を、刃先が掠め血が飛んだ。
 人ひとりをすっぽりと覆い隠せる程大きなボロ布を被った、小柄な男だった。
 和明は咄嗟に身をかがめて襲い来る刃物をかわすと、そのまま右手で男の手首を掴んで離さなかった。
「和明!」
 右耳から血が滴り落ちる。声を上げた友穂を左手で後ろへ下がらせ、
「顔見せェ!」
 銀一が右手で男のボロ布を掴んで引き剥がした。
 真正面から男の顔を見た和明は声を失い、銀一は奥歯を噛んだ。
 友穂はあまりにも意外な男の顔に、何をどう考えてよいのか分からなかった。





しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

『量子の檻 -永遠の観測者-』

葉羽
ミステリー
【あらすじ】 天才高校生の神藤葉羽は、ある日、量子物理学者・霧島誠一教授の不可解な死亡事件に巻き込まれる。完全密室で発見された教授の遺体。そして、研究所に残された謎めいた研究ノート。 幼なじみの望月彩由美とともに真相を追う葉羽だが、事態は予想外の展開を見せ始める。二人の体に浮かび上がる不思議な模様。そして、現実世界に重なる別次元の存在。 やがて明らかになる衝撃的な真実―霧島教授の研究は、人類の存在を脅かす異次元生命体から世界を守るための「量子の檻」プロジェクトだった。 教授の死は自作自演。それは、次世代の守護者を選出するための壮大な実験だったのだ。 葉羽と彩由美は、互いへの想いと強い絆によって、人類と異次元存在の境界を守る「永遠の観測者」として選ばれる。二人の純粋な感情が、最強の量子バリアとなったのだ。 現代物理学の限界に挑戦する本格ミステリーでありながら、壮大なSFファンタジー、そしてピュアな青春ラブストーリーの要素も併せ持つ。「観測」と「愛」をテーマに、科学と感情の境界を探る新しい形の本格推理小説。

月明かりの儀式

葉羽
ミステリー
神藤葉羽と望月彩由美は、幼馴染でありながら、ある日、神秘的な洋館の探検に挑むことに決めた。洋館には、過去の住人たちの悲劇が秘められており、特に「月明かりの間」と呼ばれる部屋には不気味な伝説があった。二人はその場所で、古い肖像画や日記を通じて、禁断の儀式とそれに伴う呪いの存在を知る。 儀式を再現することで過去の住人たちを解放できるかもしれないと考えた葉羽は、仲間の彩由美と共に儀式を行うことを決意する。しかし、儀式の最中に影たちが現れ、彼らは過去の記憶を映し出しながら、真実を求めて叫ぶ。過去の住人たちの苦しみと後悔が明らかになる中、二人はその思いを受け止め、解放を目指す。 果たして、葉羽と彩由美は過去の悲劇を乗り越え、住人たちを解放することができるのか。そして、彼ら自身の運命はどうなるのか。月明かりの下で繰り広げられる、謎と感動の物語が展開されていく。

生徒会長・七原京の珈琲と推理 学園専門殺人犯Xからの手紙

須崎正太郎
ミステリー
 殺人現場に残された、四十二本のカッターナイフと殺人犯Xからの手紙――  安曇学園の体育倉庫にて殺された体育教師、永谷。  現場に残されていたカッターはすべて『X』の赤文字が描かれていた。  遺体の横に残されていたのは、学園専門殺人犯Xを名乗る人物からの奇妙な手紙。 『私はこの学校の人間です。  私はこの学校の人間です。  何度も申し上げますが、私はこの学校の人間です』……  さらにXからの手紙はその後も届く。  生徒会長の七原京は、幼馴染にして副会長の高千穂翠と事件解決に乗り出すが、事件は思いがけない方向へ。  学生によって発見されたXの手紙は、SNSによって全校生徒が共有し、学園の平和は破られていく。  永谷殺害事件の真相は。  そして手紙を届ける殺人犯Xの正体と思惑は――

リモート刑事 笹本翔

雨垂 一滴
ミステリー
 『リモート刑事 笹本翔』は、過去のトラウマと戦う一人の刑事が、リモート捜査で事件を解決していく、刑事ドラマです。  主人公の笹本翔は、かつて警察組織の中でトップクラスの捜査官でしたが、ある事件で仲間を失い、自身も重傷を負ったことで、外出恐怖症(アゴラフォビア)に陥り、現場に出ることができなくなってしまいます。  それでも、彼の卓越した分析力と冷静な判断力は衰えず、リモートで捜査指示を出しながら、次々と難事件を解決していきます。  物語の鍵を握るのは、翔の若き相棒・竹内優斗。熱血漢で行動力に満ちた優斗と、過去の傷を抱えながらも冷静に捜査を指揮する翔。二人の対照的なキャラクターが織りなすバディストーリーです。  翔は果たして過去のトラウマを克服し、再び現場に立つことができるのか?  翔と優斗が数々の難事件に挑戦します!

生クリーム事件

倉木元貴
ミステリー
ある日の放課後。学校の靴箱で女子の悲鳴が響き渡る。何があったのかと尋ねると「靴にクリームが」。何者かが靴にクリームを入れる事件が発生する。学級委員の加賀谷敬が探偵を名乗り出るが......。

この満ち足りた匣庭の中で 二章―Moon of miniature garden―

至堂文斗
ミステリー
それこそが、赤い満月へと至るのだろうか―― 『満ち足りた暮らし』をコンセプトとして発展を遂げてきたニュータウン、満生台。 更なる発展を掲げ、電波塔計画が進められ……そして二〇一二年の八月、地図から消えた街。 鬼の伝承に浸食されていく混沌の街で、再び二週間の物語は幕を開ける。 古くより伝えられてきた、赤い満月が昇るその夜まで。 オートマティスム、鬼封じの池、『八〇二』の数字。 ムーンスパロー、周波数帯、デリンジャー現象。 ブラッドムーン、潮汐力、盈虧院……。 ほら、また頭の中に響いてくる鬼の声。 逃れられない惨劇へ向けて、私たちはただ日々を重ねていく――。 出題篇PV:https://www.youtube.com/watch?v=1mjjf9TY6Io

【完結】縁因-えんいんー 第7回ホラー・ミステリー大賞奨励賞受賞

衿乃 光希
ミステリー
高校で、女子高生二人による殺人未遂事件が発生。 子供を亡くし、自宅療養中だった週刊誌の記者芙季子は、真相と動機に惹かれ仕事復帰する。 二人が抱える問題。親が抱える問題。芙季子と夫との問題。 たくさんの問題を抱えながら、それでも生きていく。 実際にある地名・職業・業界をモデルにさせて頂いておりますが、フィクションです。 R-15は念のためです。 第7回ホラー・ミステリー大賞にて9位で終了、奨励賞を頂きました。 皆さま、ありがとうございました。

処理中です...