風の街エレジー

新開 水留

文字の大きさ
上 下
16 / 51

15 「根瘤」

しおりを挟む
 
 風に乗って、遠くからパトカーのサイレンが聞こえて来る。
 この街でその音を聞くのは珍しい事ではない。しかしサイレンはどこへも走り行き消え去る事なく、気が付けば銀一達の足元へと近付いて来た。坂の上の高台に建つ、西荻家の麓へだ。一台、二台、三台…。
「…なんじゃあ?」
 振り返って銀一が坂下を見下ろす。もちろん暗がりしか見えない。
「ここへ来る時留ちゃんに警察へ電話せえて、俺が言うたんよ。しかし遅かったな、忘れてたわ」
 春雄がそう答えるも、
「何台呼んどんやお前」
 という竜雄の言葉に、
「パトカー呼んだわけやないんやけど」
 と春雄も首を傾げた。
「とりあえず降りよか。こんなとこでこれ以上騒ぎよったらマジであのおばあはんに警察呼ばれるわ」
 和明の言葉はもっともだった。銀一達は頷いて西荻の敷地を出る。
 坂道を下り始めて一分も経たない内だった。
「え、待ってぇ」
 と和明が言い、「ウソやろ」と続ける。
「何じゃ」
 立ち止まって銀一が言うや否や、ジャリジャリジャリと砂埃を巻き上げながら、狭い坂道を一台の車が駆け上がって来るのが見えた。本来、車の往来が可能な道ではない。不可能ではないが車同士すれ違える余裕が無い上、あくまでこの道は西荻所有の私道であり、許可されていない筈なのである。車が突如けたたましいサイレンを響かせた。パトカーが麓から駆け上がってきたのだ。
「絶対成瀬や」
 確信のある顔で春雄は良い、口角を上げた。
「面白そうなジジイやんか、はよ会いたいわ」
 竜雄がそう言って迫りくるパトカーを睨みつけると、
「血の雨が降るどー」
 と和明が冷やかした。
 銀一は苦笑を浮かべてパトカーを見据える。
 どうやら門扉の前まで登って来るようだ。帰りはどないして帰るんやろ、と誰もがそんな呑気な事を考えていた。 しかし、事態は誰の予想を遥かに上回るスピードで疾走していたのだ。




 パトカーから降りた成瀬は顔を真っ赤にして叫んでいた。しかし、何一つ聞き取れなかった。
 成瀬は銀一の前まで来ると、両腕で銀一の胸をどんと叩いた。さしもの銀一もその勢いによろめき、目を丸くした。
 だがしかし攻撃的な印象を、成瀬からは全く感じられなかった。その為他の三人も驚いた顔を浮かべたまま成り行きを見守る他なく、身動き一つしなかった。
 成瀬は泣いていた。泣いて、咽び、吠え、そして銀一の胸を叩く。まるで狒々のような赤ら顔だな、と銀一は思った。
 鼻水をたらしながら成瀬は銀一を睨みつけ、電話越しに聞いた時と同じく力の籠った低音でこう言った。
「一体お前らは、何を相手にしよるんじゃ」
「ああ?」
「榮倉を返せ!」
「えいく…、榮倉?」
 銀一はそう聞き返した後、春雄を見やった。
 春雄は、光量の乏しい坂道の途中、パトカーの照らすヘッドライトの中で震えているように見えた。春雄は青ざめた顔で成瀬に一歩近寄り、
「おい、なんじゃ成瀬。榮倉さんが、どないしたって?」
 と聞いた。
「春雄か。お前、お前という奴は…」
「榮倉さんがどないした!」
「…死んだわいや」
 その場に居合わせた、成瀬以外全員の呼吸が止まった。
「西荻平助の入院しよる病院の屋上で、看護婦が洗濯物欲しよる物干し竿に体ぁ貫かれて死んどりやがったわ。どないなっとんじゃ! おお!? 物干し竿がお前、コンクリートの地面に突き刺さりよったんぞ!身動き一つとれんような状態で、目見開て榮倉は死によったんぞ!! お前らぁ! 何を相手にしよんじゃあ!! 知ってる事全部ワシに吐け!!」
 成瀬からその話を聞いた時初めて、銀一達は圧倒される程の恐怖を覚えたという。
 何度も言うようだがそもそも赤江という地域は他所の土地と比べて治安が悪く、犯罪の発生率も圧倒的に高い。悪意も悪事も身近なすぐそこにあり、実際銀一達若い世代も決して清廉潔白な身とは言えなかった。しかし喧嘩や刃傷沙汰、薬物犯罪などが日常茶飯事の街に生きて来た彼らであっても、決して人の死に麻痺する事はなかった。学ぶべき教訓があり、現実の厳しさがあり、貧しさに対する怒りがあり、弱さからくる逃避であったり、一瞬の気の迷いであったりと、残されて生きるこちら側の心に響く命の重さを感じる事が出来たからだ。
 しかし今、成瀬から聞く榮倉の死には、そういった感じ取るべき意味と理由が一切なかった。哀愁や虚しさとは違う意味での空虚とか虚無とか、そういうったものに準ずる薄暗い恐怖だけがあった。
 なんで死んだ? なんでそんな無残な殺され方をした? ついこないまで、成瀬の隣におったじゃないか。
 春雄が音を立てて両膝をついた。倒れ込むのではないかと、和明が側にしゃがみこんで春雄の肩を掴んだ。
「いつや」
 と銀一が聞いた。
「発見したのはついさっきじゃ。お前との電話が終わった瞬間、院内の警備に回しとった部下が飛んできよった。屋上の方からなんか声がしよる、誰か人がおるんじゃないかと聞いて見に行きよったら、そこで変わり果てた榮倉を見つけた」
「行方が分からんなっとたんか?」
 と銀一。
「ずっと一緒におったわいや。いつの間にかおらんようなって、おらんなった事を不審がる間もなく逝きよった」
 その時不意に、
「…一体、何人死によんや」
 と、そう呟いたのは竜雄だった。それは明らかに一連の事件を関連付けて考える者にしか発せない言葉であり、もちろん成瀬がそれを聞き洩らすはずがなかった。
「貴様、何か知っとるな。署に来いや、全部吐くまで二度と家には帰らせんぞ」
 そんな成瀬の無茶な言いようを、側でやんわりと抑え込む榮倉はもういない。成瀬本人がその事を一番自覚しており、言った瞬間涙を堪えて自分の拳を目一杯噛んだ。




 翌日、和明の職場である魚港に銀一達の姿があった。成瀬はいるが、春雄はいない。
 春雄は東京へ戻る予定を伸ばそうと申し出たが、銀一がそれを押しとどめて帰るように促した。春雄の気持ちを思えば、黙って東京へ戻る事がいかに苦しい事なのか、それは銀一にも分かっていた。しかし被差別部落出身の若い労働者がよその土地で希望通りの職に就く事の難しさも想像に難くはないし、何より、ここ数日で距離の縮まった榮倉を突如失った心の傷を、一旦忘れる事も重要だろうと銀一は思ったのだ。簡単に忘れる事は無理かもしれない。しかし普段通りの仕事へ戻り、疲労困憊になるまで体を動かせば気もまぎれるだろうし、ましてや恋人である響子を預かる身としても、おいそれと仕事を失うわけにはいかない筈なのだ。もちろん銀一は皆まで言わなかったが、彼の言わんとしている事は春雄にも伝わっていた。
 ここぞと言う時、銀一は多くを語らない。しかしそこに強く深い絆からくる一途な思いが存在する事は、幼馴染である春雄には目を見ただけで理解出来るのだ。
 繁華街まで歩いて見送りに出た銀一達に対し、春雄と共に東京へ帰る響子は何か思う所のある複雑な顔をしていたが、何も聞かずに微笑んで頭を下げた。
「すまんかったな、こんな事になってもうて。つまらん休暇にしてしもうた。堪忍な」
 と銀一が言うと、響子は今にも泣きそうな笑顔を横に振って、大丈夫ですと答えた。
 そして最後に、
「友穂姉さん、元気ですから」
 と言った。
 思わぬ場面で久しぶりに聞いたその名前に、銀一は面食らうと同時に照れて笑った。
「何よりじゃ」
 と銀一が答えると、響子は頷いてもう一度深く頭を下げた。
 竜雄も和明も微笑み返しはしたものの、うまく言葉が出てこない様子だった。
 丸顔で、愛想が良くて心の優しい、しっかり者の響子。この娘の兄がもしかすると、連続殺人に加担しているかもしれず、さらに言えば犯人そのものかもしれないのだ。そう思うと、竜雄も和明も本来の無邪気な一歩を、子供の頃から知っているはずの響子に対して踏み出す事が出来なかった。両脇を抱えて持ち上げ、子ども扱いしないで下さいと笑う掛け合いを、これまで何度も繰り返してきた筈なのに。その事が竜雄にも和明にも辛く、ただ微笑みを浮かべる事しか出来なかったのだ。
「気をつけろよ。何かあったらすぐ言え」
 そう春雄は言い残し、響子とともに東京へと帰って行った。
 その足で、銀一達は和明の職場である港へ向かった。既に成瀬が来ていた。パトカーも部下の姿もなく、一人だった。
「あんま一人で出歩かん方がええよ」
 成瀬を見つけるなり、和明が声を掛けた。冗談には聞こえない口調だった。
 歩いて現れた銀一達の姿に気が付くと、
「やるならやれや。こっちから探す手間が省けよろうが」
 と顔色一つ変えずに成瀬は答えた。成瀬のそんな力強い言葉とそれを口に出来る精神力に、銀一達はもはや尊敬すら覚えた。
 榮倉が殺されて、丸一日も経っていないのだ。刑事とはかくもタフな人間なのだろうか。それともこの成瀬という老刑事が特殊なのだろうか。
「臭いのお」
 と成瀬が漁港を見渡し、馬鹿にして言った。
「そう言うなや。おじいもお魚食いよるだろうが」
 和明が眉をへの字にして言うと、
「ワシは肉しか食わん」
 と成瀬は答えた。
「お、ありがとう」
 と銀一が言うと、成瀬は「じゃかあしい」と怒って銀一の脛を蹴り上げた。
 じゃれ合うような三人の姿に、竜雄はにっこりと笑って頷いた。
 正午を回った港に人の気配はなかった。夜のうちから沖に出ていた船は既にこの時間全船戻って来ており、後片付けを終えた最後の漁師と先程すれ違った。五十代くらいのその男と和明は顔なじみで、すれ違う時に嫌そうな顔を浮かべて、
「あいつ、刑事じゃろ」
 と成瀬を見ずに聞いて来た。
「そう」
 と和明が頷くと、男は舌打ちして顔を見られぬよう足早に立ち去った。この時間まで船に残って清掃や片付けをしている人間は珍しくもないが、何か他に理由があったのかと勘繰りたくなる表情だった。
 午前中なら水揚げされた魚が並ぶ広場は、選別や出荷作業も終わり綺麗さっぱり清掃作業も済んで、巻かれたホースと積み上げられた空のケースが放り出されているだけの閑散とした場であった。漁師たち全員が同じ獲物を標的にしているわけではもちろんない。あるいはこの時間から海に出る船があってもおかしくはないが、今は人っ子一人いない。
 寂しい雰囲気だな、と銀一や竜雄は思う。しかし和明だけは違和感を覚えていた。普段この時間この場所は、仕事を終えた港の関係者と、付き合いのある職業不明の輩のたまり場になっているのだ。単純に静か過ぎた。気付いていないだけで、こういう日が今までにもあったのかもかもしれない。しかしこの場に成瀬がいるせいか、偶然だろうと無視するには空気が張りつめ過ぎている気がした。和明は周囲をぐるりと見渡して、先ほどすれ違った顔馴染みを思い出した。
「医者の話では、榮倉は即死やったそうじゃ」
 と、不意に成瀬が口を開いた。視線が集まる。
「煙草吸うてかまわんのか」
 コートの内ポケットから煙草を取り出して、成瀬が和明に尋ねた。
「ええよ。吸殻だけ捨てんでくれたら」
 和明の返事を聞いているのかいないのか、頷きもせずに成瀬は煙草に火をつけた。そして魚の匂いを嫌うかのように埠頭の岸壁ぎりぎりに立って、海を見つめたまま話を続けた。海は灰色にのたうっていた。
「物干し竿で胸を貫かれた以外の外傷はない。争った形跡もなかった。角度的に、屋上へ出る階段出口の屋根部分が屋上で一番高い場所やから、そこに立って、そこから竿をぶん投げたんやないかという話じゃ」
「…つまり?」
 と和明が聞く。榮倉と馴染みのあった春雄の代わりというわけではないが、なんとなくこの場は和明が話をする事が自然な流れとなっていた。もちろん和明の職場である事も関係していただろう。銀一と竜雄は、並んで立つ成瀬と和明の背後に、左右に分かれて立っている。
「争った形跡がないと言う事は、榮倉を呼び出したか気を引いて引っ張り出したかした犯人は、奴の姿を見た瞬間竿を放り投げたと言う事や。あんなもん意識の外から投げよらんだら、生きとる人間相手に刺さるかいや」
「見た瞬間て何や。最初から殺すつもりで呼び出したんか?」
「そうとしか考えられん」
「そもそも、物干し竿やろ?投げただけで、人の体貫通するもんか?」
 遠慮のない和明の言葉に、成瀬はぐっと顎に力を込めた。しかし声を荒げるでもなく、海を見たまま言葉を返す。
「ご丁寧に先端を削っとりやがった。やろうと思ってすぐ出来る事やない。あの場で何か準備をしとったんやないかと見とる。それでも、そんじょそこらの男が力一杯投げた所で、あないな風に地べたに突き刺さるかは疑問じゃと、鑑識は言うとったがの」
「準備ってのは、要するに俺らを待ち構えてたと言いたいんか」
 和明が言ったが、成瀬は無言のまま答えなかった。
「本来なら俺らが病院へ見舞に行った所を犯人に狙われるはずやったんを、予定の狂った犯人が準備してた獲物で榮倉さんを襲ったと。そう言いたいんか」
 更に和明がそう言うと、成瀬は煙草を海へ投げ捨てた。
「おおい」
「お前らと犯人に何らかの因縁があるとしたら、それも考えられるのお。榮倉がお前らボンクラの代わりに殺されたなんぞと考えたくもないが、今それを言うても仕方がない。ワシの話はこっからじゃ。あの日、難波が殺された日、西荻の家の下で四ツ谷の若い衆と揉めた日じゃ。あの後応援を呼んで待っとる間に、榮倉は言うとった。今この目で立ち回りを見て改めて、志摩という男の怖さが分かる、とな」
「…」
 和明はもとより、銀一も竜雄も答えない。
「何の手掛かりもない昨日の今日じゃ、本来こんな所で油を売っとれるような状況やない今、それでも藁をも掴む思いでここへ来た。このワシがお前らを連行せんとこんな臭い場所へ呼び出したのは他でもない、お前ら自身の口から志摩という男の話を聞く為じゃ」
 成瀬が言うと、
「別に警察でええがな、やましい事はないぞ」
 と和明が笑った。やましい事も多少はある。しかし今回の一連の事件に関してだけは、無実だと胸を張って言えるのだから、やましい事はないと宣言出来た。
 成瀬が和明を睨んだ。
「…こっちには、ある」
 銀一達が顔を見合わせた。
「お前らをこの臭い場所へ呼んだのは」
「何回も言うな」
「ワシがここへ来る為じゃ」
「なんやそれ、警察署では話したくない言うことか? そう言えば春雄がなんや、それっぽい事言うてたわ」
「春雄が?」
 怪訝な顔を浮かべる成瀬は、
「せやろ、銀ちゃん」
 と言う和明を言葉を追って、視線を銀一に向かわせた。銀一は頷いて、答える。
「榮倉から聞いたと、そう言うとったわ」
「さんを付けろ、ドサンピン」
 成瀬が銀一を睨み上げる。銀一も負けじと睨み返す。
「誰がや。俺ぁ多分お前より稼いどるぞ」
「海にたたっこんだろか!こんクソがきゃ!」
「じじいが調子に乗るとええ加減痛い目にあうど」
 言葉にならない叫び声を上げて成瀬が銀一に掴みかかった。和明と竜雄は溜息をついて面倒臭げにそれを引き離す。
「志摩太一郎は、黒なんか」
 両腕を振り回して喚きたてる成瀬に向かって、銀一が聞いた。しかし溜息交じりに発した音の軽さとは裏腹に、言葉の内容は重かった。成瀬は目を丸くして、抗うのをやめた。
「今お前、何言うた? 黒?」
「呼び方は知らん、黒の巣やら黒盛会やら色々言いよるじゃろうが、志摩はそこの人間なんかと聞いとるんじゃ。じじいがわざわざ警察から場所を移して話を聞きに来よるんなら、そういう可能性も考えとるんじゃないの」
「黒、…志摩が?」
 と、驚きの声を上げたのはしかし、和明だった。これまでの話を整理して思えば、確かに志摩は怪しい。春雄を含めたこの四人の中ではその点で意見が一致している。しかし和明の認識では『庭師』が黒であり、志摩の立場はその協力者のように漠然と思い描いていた。仮に犯人そのものであったとしても、黒だという理解の仕方ではないのだ。志摩太一郎は、狭いこの街において子供の頃から顔を知っている、幼馴染とも言える存在なのだ。この事件に遭遇するまでは伝説に近い存在だと考えていた、ヤクザよりも恐ろしい『黒』の人間であるはずがない…。
「なんでその名前が出る」
 と成瀬が言った。銀一はしばらく成瀬を睨み付け、やがて言った。
「俺は喧嘩で勝てんと思った人間に会うた事がない。ガキの頃から、と場で働きよっても、街でヤクザ相手にしよってもじゃ。おそらく、俺は父ちゃんにだって負けん。一対一なら、ケンジにもユウジにも負けん自信がある。それは藤堂が相手でも同じ事じゃ。ただ、…志摩にだけは勝てる気がせん」
 成瀬の目が細く狭まった。何を言い出すのかと、竜雄と和明が心配そうに銀一を見つめる。
「何も確信なんてない。ただぼんやりとそう思う。死人相手に言うのも悪いが、難波相手にも怖いと感じた事はない。…が」
「志摩の、何が怖い」
 と、成瀬が絡みつくような声で聞いた。
「底が見えん」
 と、銀一は答えた。更に言う。
「俺が殴れば人はよろめく。さらに殴れば意識を飛ばせる。さらに殴れば殺せるじゃろう。ただ、志摩相手にそれは叶わんのじゃないかと、なんやそう思えて仕方ない。おそらくそれでも俺は負けん。ただ勝てる気もせんのよ。そんな男にはこれまで会うた事がない。ガキの頃から顔を見とるが、今改めてそう思う」
「お前の喧嘩自慢なんぞ知らん。だがそれがなんで黒に結び付く?」
「悪党ばっか相手にしよった榮倉が志摩を怖いと言うたんは、そういう部分での、刑事の勘と違うのか」
「…」
「じじいが自分の土俵やのうて、のこのこと自ら港に出向いたんも、警察関係者に黒がおると分かってるからと違うのか」
「っは、言うやないけ」
「まだるっこしいのは終いにしようや。じじいが目星付けとる奴の名前を言え。俺がしばいてきたるわ」
 銀一の言いように、成瀬が初めて大声で笑った。思いがけず人懐っこい好々爺を思わせる笑顔だった。だが次の瞬間には、黄色く濁った眼でギロリと人を睨み付けるいつもの成瀬に戻っていた。
「悲しい程に笑わせるやないか。志摩一人にびびっとるお前の出る幕なんぞこのワシが残すかい。安心せえ、ワシがきっちりカタ嵌めたるわい」
「じじいに相手なんぞ出来るんかい、相手は連続殺人犯やぞ」
「お前よりはましじゃ」
 先程のお返しとばかりに成瀬が言うと、またもや掴み合いに発展しそうになる。慌てて和明と竜雄がそれを止めた。
「けど実際の所、ほんまに志摩は、そのう、犯人側なんやろか?」
 と和明が誰ともなしに言った。
「俺も、そう思いたくはないけどな」
 そう竜雄が答えた。信じたくないとは言え、昨日あれだけの啖呵を切ったのだ。竜雄自身の気持ちは志摩に対する嫌疑でほぼ固まっている状態だった。
「犯人が誰じゃあ言うのは、情けない話やがまだ警察は掴んどりゃせん」
 自分を羽交い絞めにする竜雄の腕を振りほどいて、成瀬が言った。
「連続殺人の様相を呈しておるという見方があるだけで、実際そうやと決めてかかるには決定的な証拠がないのが現状よ。そもそも事の始まりは西荻平左の殺しじゃ、となれば一年前に遡らにゃならん。物的証拠は何もなく、状況証拠は殺しの方法しかない有様で、間を置いて今回の松田殺し、今井殺しじゃ。そこへ来て難波、榮倉。そして未遂には終わったが平助も危うかったのやないかとワシは思うとる。これら全部が、志摩太一郎が犯人じゃと言い切れる確かな証拠は何ひとつない。殺しの方法も今井までのやり口と、難波、榮倉に対するやり口とでは全く違う」
 殺しの方法とは、西荻平左、バリマツ、今井の三人を襲った、首の骨を折って高所から放り投げるという殺害手段の事である。世間一杯に公表はされていないが、先日榮倉が事情聴取の最中春雄に対して、三件の殺人事件の手口が同一であった事を明かしている。
「お前が言うような刑事の勘を今ここへ持ち出してええのなら、ワシの勘は全部の事件が繋がっとると絶叫しとるわい。ただ、難波と榮倉の殺しはこれまでと違いすぎる」
「…犯人が、複数おるという事は?」
 と銀一が言った。成瀬は頷く。
「お前らの言う、その庭師という男の事か。素性の分からん男の存在を犯人像に当てはめるんは簡単じゃが、あるいは現実はそういうもんなのかもしれん。電話でお前に言うたろう。西荻平助を刺したのは父親である幸助に違いはないが、難波を殺した犯人は別やと」
「ああ」
「西荻平左、松田、今井を殺した犯人と、難波、榮倉をやった犯人は別やと、ワシもそう思うとる」
 成瀬の言葉に思わず銀一達は顔を見合わせた。昨晩話した自分達の推理、特に竜雄が決めてかかった志摩という協力者の存在が確信めいて来た。成瀬はそれが志摩だと明言しないが、銀一達の脳裏に自然と庭師と志摩の顔が浮かんだ事は、間違いなかった。 
「仮にそうやとして、難波を殺したのが幸助さんやないという話はなんでや」
 と銀一が尋ねると、成瀬は両目に少しだけ苛立ちを滲ませて答えた。
「平助を刺した刃物と、難波の腹を裂いた獲物は別モンじゃ。今まで言わんといてやったが、聞いて後悔するなよ。難波の腹を裂いたのは、おそらくノコギリじゃ」
「ノ」
 思わず復唱しかけた銀一の喉が詰まる。竜雄も和明も目を見開き、信じがたい話に吐き気すら覚えた。
 難波の腹を裂いた刃物が、ノコギリ?
「わざわざ握って家を飛び出した幸助が自分の包丁を脇へ置いて、どこからか取り出した切れ味の悪いノコギリで難波を襲ったというなら話は別や。じゃがそないけったいな話は想像でけんな」
「な、なら、難波をやったのは幸助さんやないとして、それまでの三人と後の二人を手に掛けよったんが別人じゃとじじいが言う根拠はなんや。手口が違うからか?」
 何とかそう言葉を発する銀一の声は、心なしか上擦っているようだった。
「ほうじゃ。初めの三人の殺しには何かしらの意志を感じる。どす黒い怨念のようなものを感じる。ただ難波と榮倉の殺しからはそれを感じん。手口の違いとお前は簡単に言いよるが、それはワシにしてみればこれ以上ない手がかりじゃ。現場に残留しとる犯人の意識を読み取れば、ある程度匂いを辿っていけるだけの経験を積んできた。ただ、もし、難波、榮倉を殺したのがお前らの知る志摩太一郎じゃった場合、そうなればワシには全くわけがわからん。そのぐらい最初の三件とは別次元の殺しやと思えて仕方ない。そこへ志摩の名を当て嵌めるとして、それを言うならそもそもお前らの方にこそ心当たりはあるのか? 黒やからという理由で、突発的な殺しをやるような輩には見えんじゃったぞ」
 成瀬の突然の問い掛けに、銀一達は顔を見合わせた。心当たりなど、あるわけがない。つい先日まで、普通に志摩の頭や腹を殴って遊んでいたのだ。衝動的に人を殺すような人間だと分かっていたなら、そんな付き合い方などしない。ただ…。
「心当たりはない。あいつ自身を疑うような証拠はない。ただ、状況全てがおかしい。平助のじいちゃんが死んでから一年たった今頃になって、なんで俺らこの事件に足を突っ込んどるんやと考えた時、浮かんでくるのは藤堂と志摩の顔や。その志摩は藤堂が怪しいと言いやがるし、藤堂は藤堂でケンジとユウジを使って志摩にクンロク入れよった。庭師やと思うとった影の薄い男が実は俺らにウソをついとったし、今現在どこにもおるかも分からん。俺らは事件捜査の専門家でもなんでもないんじゃ、怪しいもんは怪しいとしか言えんし、それ言い出したら全員が怪しゅう見えてくるわ。榮倉が言いよったように、実際じじいの目から見て志摩はどうなんじゃ。黒やと思うか」
 銀一の言葉に、成瀬は答えるべきかと迷っているように見えたが、やがてこう切り出した。
「おそらくは、違うじゃろう」
「う、おお」
 銀一達の間に複雑な動揺が広がる。喜んで良いのか、推測が外れて悲しんで良いのか困惑した。推測が外れているとしたら、水に垂らした墨汁のように広がる不安や疑念に対する答えを見失ってしまう気がした。
「年が若すぎる。若いという事はそれなりの経験しか積んどらんという事や。そんな若い世代を表に出すような真似は、アレらはせん。それに、ワシは若い頃から兄貴分である藤堂を知っとる」
 藤堂義右の親指を詰めさせた張本人が何を言うか、と銀一は思うも口には出さない。
「その藤堂が可愛がっとるのが志摩やと聞いておる。藤堂も牛のクソじゃが、阿呆ではない。…まあ、志摩が藤堂の裏を掻くような輩であるなら、ありえんでもないが。ただ黒の巣の人間をワシはこの目で見た事があるが、ああいう手合いは一般人とは気配から雰囲気から何もかもが違う。そういう意味ではお前が志摩に感じる違和感は確かに怖い。正直、今回のヤマ、当代の黒の巣が相手じゃと言うなら、これは解決なんぞせん。最終的には関わった者全員が消されてしまいじゃろうて」
「…そこまで言うか」
 と和明が言った。思わず声が漏れ出た、といった感じの呟きだった。耳聡い成瀬は和明を見やりながら頷き、
「ただワシのこの目もだいぶ耄碌しよるが、それでも人を見る目だけには自信がある。志摩は、違う」
 と言った。
「信じてええのか」
 と銀一が尋ねるが早いか、言い終わらぬうちから成瀬が言葉を被せた。
「ただし善人やと言うつもりもない。人を殺しとる人間の目や、あいつの目は」
 銀一も、和明も竜雄も、何も言えなかった。二十歳そこそこの若い労働者でしかない彼らにとって、理解を越えた話にしか聞こえなかった。人を殺していると言われても、銀一達の知っている志摩は威勢は良いがその実飄々とした身のこなしがウリの優男だ。この街の人間を手にかけているという話が仮に事実だとしても、志摩がヤクザである事を加味しても『やはりそうであったか』と受け入れるには現実味が薄く感じられた。それは、志摩に対して疑いの気持ちを隠さなかった竜雄にとっても同じだった。博徒系ヤクザである志摩が仮に覚醒剤に手を染めていたとしても、さもありなんだ。しかし正直な所、志摩に人殺しは似合わない。響子の兄である志摩太一郎に、人殺しは似合わないのだ。
 成瀬に言われて初めて、そのような感想を銀一達は抱いた。
「そやけどなんで、あいつ…」
 竜雄はそう呟き、その場にしゃがみ込んだ。冷たい海風に身も心も冷やされた。冷静に考えれば考える程、分からない事がひとつ、またひとつと増えて行く気がした。
「何を言うとるか。先に疑いよったんはお前らの方じゃろうが。しゃんとせえ。お前らはただ相手が黒やない事を祈っとれ。後の事はわしがやる」
 しゃがみ込む竜雄を睨みながら成瀬がそう言った。
「後の事てなんや」
 と和明が聞くと、成瀬は頷いて新たな煙草に火を付けた。
「炙り出したるわい。怪しい場所全部に火ィ点けて、隠れとられんようにしたるわ」
「おじい一人でやる気か」
「榮倉の弔い合戦じゃ。ワシがやらいで誰がやるんじゃ」
「だから俺らも」
「お前らはええ言うとろうが。もうええ、帰れ」
「帰れるかいや」
 なおも食い下がる和明に、成瀬は火を付けたばかりの煙草を投げつけた。
「あてはあるんか」
 と銀一が尋ねると、成瀬は鼻で笑った。
「お前、ワシをなんやと思うとるんじゃ。それにお前ら、はよ帰った方がええぞ。もうすぐここへ会いとうない男が来るからのお」
「誰や」
 銀一の問いかけに、成瀬は右手を顔の前に持ち上げて見せた。親指を折って、指を四本立てている。この見せ方は本来「指四つ」と言い、部外者が街の人間をエタと揶揄する際に用いられる。しかし成瀬の込めた意味は違った。銀一達は揃ってピンときた。
 竜雄が立ち上がって、聞いた。
「ひょっとして、藤堂か」
「…さん付けぐらいはせんとのお。お前らにとっちゃあ、ワシより厄介なんと違うか」
 成瀬は気味の悪い微笑みを浮かべて口角を吊り上げた。だが、同じく銀一達も示し合わせたように笑った。
 会いたくないわけがない。今これからでも行こうかと思っていたぐらいなのだ。
「丁度ええがな、じじいの前に俺が話するわ」
 と銀一。成瀬は慌て、
「お前が藤堂と!? なんでそうなるんじゃ、帰れ!」
「ええがな、まあええがな」
 和明が肩を掴んでなだめようとすると、成瀬はハンチングをとって地面に叩きつけた。
「これ以上深入りするなと言うとるんじゃ!」
 銀一も竜雄も、和明も揃って苦笑いを浮かべた。もう既に深入りしてしまっているのだ。今更なにもせずに忘れ去る事など出来るはずがなかった。昨晩西荻家の敷地で話をした自分達の想像が、全て覆ればいい。だがそうならなかったとしても、事の真相を掴むまでは、もといた日常には帰れない気がしていた。
「もう遅いんじゃ」
 銀一はそう言い、和明は成瀬の肩から両手を離した。
 竜雄は地面に落ちている火の付いた煙草を拾い上げると、思い切り吸い込んで灰に変えた。
 竜雄の肺活量に驚く成瀬の目の前で、海風に吹かれた灰が空へと舞い上がった。


 




しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

魔法のトランクと異世界暮らし

猫野美羽
ファンタジー
 曾祖母の遺産を相続した海堂凛々(かいどうりり)は原因不明の虚弱体質に苦しめられていることもあり、しばらくは遺産として譲り受けた別荘で療養することに。  おとぎ話に出てくる魔女の家のような可愛らしい洋館で、凛々は曾祖母からの秘密の遺産を受け取った。  それは異世界への扉の鍵と魔法のトランク。  異世界の住人だった曾祖母の血を濃く引いた彼女だけが、魔法の道具の相続人だった。  異世界、たまに日本暮らしの楽しい二拠点生活が始まる── ◆◆◆  ほのぼのスローライフなお話です。  のんびりと生活拠点を整えたり、美味しいご飯を食べたり、お金を稼いでみたり、異世界旅を楽しむ物語。 ※カクヨムでも掲載予定です。

異世界に転生した社畜は調合師としてのんびりと生きていく。~ただの生産職だと思っていたら、結構ヤバい職でした~

夢宮
ファンタジー
台風が接近していて避難勧告が出されているにも関わらず出勤させられていた社畜──渡部与一《わたべよいち》。 雨で視界が悪いなか、信号無視をした車との接触事故で命を落としてしまう。 女神に即断即決で異世界転生を決められ、パパっと送り出されてしまうのだが、幸いなことに女神の気遣いによって職業とスキルを手に入れる──生産職の『調合師』という職業とそのスキルを。 異世界に転生してからふたりの少女に助けられ、港町へと向かい、物語は動き始める。 調合師としての立場を知り、それを利用しようとする者に悩まされながらも生きていく。 そんな与一ののんびりしたくてものんびりできない異世界生活が今、始まる。 ※2話から登場人物の描写に入りますので、のんびりと読んでいただけたらなと思います。 ※サブタイトル追加しました。

魔女様は秘密がお好き

大鳥 俊
恋愛
皆から恐れられながらも頼られるフィーネは、妖艶な姿をもつ美しき魔女。 どんな依頼が舞い込んでも、それをさらっと終わらせるのがフィーネだ。 ――だが皆は知らない。 彼女がどのようにして依頼をこなしているかを。 「なっ、な……」 のほほ~んと笑う、目の前の男にフィーネは怒鳴った。 「なんで人間がいるのよーーーーー!!!!」 これは山のように秘密を抱えた女の子が、のんびりマイペースな男に苛立ち、殴りたいと思いながらも、少しずつ惹かれてゆくお話。 ※こちらのお話は「小説家になろう」さんで連載していたものを誤字など修正を加えたものです。

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

【読み切り版】婚約破棄された先で助けたお爺さんが、実はエルフの国の王子様で死ぬほど溺愛される

卯月 三日
恋愛
公爵家に生まれたアンフェリカは、政略結婚で王太子との婚約者となる。しかし、アンフェリカの持っているスキルは、「種(たね)の保護」という訳の分からないものだった。 それに不満を持っていた王太子は、彼女に婚約破棄を告げる。 王太子に捨てられた主人公は、辺境に飛ばされ、傷心のまま一人街をさまよっていた。そこで出会ったのは、一人の老人。 老人を励ました主人公だったが、実はその老人は人間の世界にやってきたエルフの国の王子だった。彼は、彼女の心の美しさに感動し恋に落ちる。 そして、エルフの国に二人で向かったのだが、彼女の持つスキルの真の力に気付き、エルフの国が救われることになる物語。 読み切り作品です。 いくつかあげている中から、反応のよかったものを連載します! どうか、感想、評価をよろしくお願いします!

婚約破棄されたので暗殺される前に国を出ます。

なつめ猫
ファンタジー
公爵家令嬢のアリーシャは、我儘で傲慢な妹のアンネに婚約者であるカイル王太子を寝取られ学院卒業パーティの席で婚約破棄されてしまう。 そして失意の内に王都を去ったアリーシャは行方不明になってしまう。 そんなアリーシャをラッセル王国は、総力を挙げて捜索するが何の成果も得られずに頓挫してしまうのであった。 彼女――、アリーシャには王国の重鎮しか知らない才能があった。 それは、世界でも稀な大魔導士と、世界で唯一の聖女としての力が備わっていた事であった。

「異世界で始める乙女の魔法革命」

 (笑)
恋愛
高校生の桜子(さくらこ)は、ある日、不思議な古書に触れたことで、魔法が存在する異世界エルフィア王国に召喚される。そこで彼女は美しい王子レオンと出会い、元の世界に戻る方法を探すために彼と行動を共にすることになる。 魔法学院に入学した桜子は、個性豊かな仲間たちと友情を育みながら、魔法の世界での生活に奮闘する。やがて彼女は、自分の中に秘められた特別な力の存在に気づき始める。しかし、その力を狙う闇の勢力が動き出し、桜子は自分の運命と向き合わざるを得なくなる。 仲間たちとの絆やレオンとの関係を深めながら、桜子は困難に立ち向かっていく。異世界での冒険と成長を通じて、彼女が選ぶ未来とは――。

お幸せに、婚約者様。私も私で、幸せになりますので。

ごろごろみかん。
恋愛
仕事と私、どっちが大切なの? ……なんて、本気で思う日が来るとは思わなかった。 彼は、王族に仕える近衛騎士だ。そして、婚約者の私より護衛対象である王女を優先する。彼は、「王女殿下とは何も無い」と言うけれど、彼女の方はそうでもないみたいですよ? 婚約を解消しろ、と王女殿下にあまりに迫られるので──全て、手放すことにしました。 お幸せに、婚約者様。 私も私で、幸せになりますので。

処理中です...