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9.どうして
しおりを挟む9 どうして
30分以上歩き、ときには巡回するライトを乗り換えてようやく辿り着いたのはとあるカフェだった。上中央の島と下中央の島の境目、施設を一周する通路のちょうど半分の位置にその店舗はあったのだが、既に閉店していてスペースごとパネルで覆われてしまっている。
たしか下北沢か新大久保あたりで有名な店で田舎のショッピングモールに出店したことで多少話題になったらしい。見た目は如何にもSNS受けしやすそうなカフェだったが、案の定一年も持たずに閉店。お気に入りだった白瀬先生は大いに嘆いていた。
こういうショッピングモールでは閉店は珍しいことではないが、改めて見ると周囲の店舗から隔絶するようにパネルで仕切られた光景は異様だ。昼でもあまり気持ちのいいものではないが、真っ暗闇の深夜だとより一層不吉めいたものを感じさせる。
「ねえ、メロス」
僕の不安を目ざとく気づいた永井かふかが僕の方を向いた。巡回していた警備員に既に離れており、ライトの光は点のように小さくなってしまっている。
「本当に助けるの?」
何を今更、とは言えない。
パネルの奥からは想像を絶するような黒い情念がこんこんと湧き出し続けていた。
それは世界に穿たれた孔。孔の奥には闇よりも更に深い闇、もはや無そのものとしかいいようがない空隙が覗いている。これに比べたら暗闇も影も温もりを感じるほどだ。あの女の子はこんなところに閉じ込められているのか。自分だったら5分も正気でいられる自信がない。
永井に言われたわけではないが、ふと、助けることが本当に正しいのだろうかと思ってしまった。
「もう手遅れじゃないかなあ」
瘡蓋を剥がしたばかりの肌を指を這わせるように永井かふかの言葉は僕の心をいたぶる。
そんなことはわかっている。
「むしろ死んでくれていた方がいいかも」
闇そのものに喰われ続けた魂はニンゲンとしてのカタチを保っているだろうか?
こんなにも日常生活がすぐ隣にある場所で女の子は怪物に喰われ続けていた。すぐに隣にはキッズファッションの有名ブランド店がある。買い物を楽しむ母娘の笑い声も聴こえていたに違いない。
「かふか、よくわかるんだ」
永井の表情は暗闇に覆われていてよく見えない。
「まるで世界から見捨てられたみたいに感じるのよ。自分を喰らうクラヤミよりも憎いわ。その場に世界中の人間が死に絶えるボタンがあれば即座に押したくなるぐらい」
わかっている。
そんなことはわかっている。でも―――。
「もう一度だけ言うよ。本当に助けるの?」
身勝手な自分の小さな自己満足のために、僕は怪物を解き放そうとしているのかもしれない。
時空の彼方から僕を呪う怨嗟の声が聞こえるような気がした。
殴られて顔を真っ赤に腫らした小学生の女の子、虐められて心も身体もボロボロになり、ついに自死を選んだ中学生の少女、クラスや部活の仲間から標的にされ、自らの夢をついに断つことになった高校生の少女、サークルや職場で搾り取るだけ奪われ、大学や職場を追われた男たち―――。
かつての母親と同じように暗闇にその身を喰われる幼い女の子が問う。
どうして助けたの?
「わからないとは言わせないからね」
永井かふかの顔が幼い女の子と重なる。母さんと重なる。妹と重なる。父さんと重なる。白瀬先生と重なる。転校前に僕を裏切ったあの子と重なる。僕自身と重なる。
「…………助けたいんだ」
「…………」
僕ではない僕が舌を勝手に動かす。
それは僕の心臓の中にぽっかり空いた空白。白い隙間から零れ落ちる粉々に砕け散った硝子の欠片が囁く。
それはこの世で□も美しい□□を描いたジグソーパズル。
きっとそれを完□させたらとても素□らしいはず。
だか□、絶□に□違っていない。
あなたは□□□の『希望』なのよ。
「じゃあね、ばかメロス」
突然、左手から永井かふかが消えた。
結び付けられていた命の糸がぷつりと消えて、僕は暗闇の中に放り出される。
慌てて周囲を見渡すが、永井の姿は何処にもない。もう五等星よりも小さくなった光のほうへ遠ざかっていくのが微かに聞こえた。
「…………あいつ、本当に逃げやがった」
永井かふかの存在に嗅ぎ取った晦虫たちが活性化し、周囲の闇は帳に包まれたように暗くなっていく。視界を喪った僕の身体を晦虫たちの腕や肢が絡みつき、仄かに遺った永井かふかの残り香を嗅いで連中が歓喜の声をあげるのが聞こえる。
何も見えない、
何も聞こえない、
何も考えられない、
あまりにも絶対的な孤独感。
僕はそれを本能的に知っている。
誰だって知っている。
それは生まれる前の記憶。
そして、命を喪った後にまた戻る永遠の場所。
人はそれを―――「死」―――という。
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