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第3部 第2章・魂の存在
第9回
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***
玲奈が実際に、結奈のいう気合いパンチを目にしたのは、中学校も二年生に上がってからのことだった。
季節は夏真っ盛りで、玲奈は桜に誘われて、村田や木村と共に、港で行われる大きな花火大会を見に行くことになった。
桜の提案でわざわざ浴衣に着替えて駅に集合。そこから路面電車に乗って港へ向かうと、すでにたくさんの見物客で賑わっていた。
様々な露店が立ち並び、花火のよく見える席を取ろうと、我先にとレジャーシートを広げる人たちの間を縫うように、玲奈たちは会場の隅にある小さな浜辺の方へ向かった。
浜辺もまたたくさんのカップルや子供連れに溢れかえっていたが、それでもまだシートを広げればなんとか四人は座れそうな場所が残っていた。
桜は村田と木村に屋台への買い出しを命じ、玲奈と並んで夜空を見上げた。
まだ薄っすらと広がるオレンジ色の空には鳥たちが羽ばたき、時折吹く風は磯の香りを運んでくれた。
玲奈はそんななか、自分たちと同じように、レジャーシートを広げる若い男女のグループに眼を向けた。明らかに自分たちとは毛色の違う集団で、大きな笑い声を響かせながら、やはり屋台で買ってきたのであろう焼きそばやたこ焼きにかぶりつきつつ、缶ビールを飲んでいた。
その集団のなかに、ひとりだけこちらに視線を向けてくる男の姿があった。男は車座になったグループの中にあって、ひとりだけ飲み食いもせずただこちらをじっと見つめていた。口元には笑みを浮かべ、そればかりか玲奈に向かって手招きしてくる。
玲奈はそれに気づかないふりをして、ふたたび桜に顔を戻したところで、村田と木村が両手に抱えきれない量の食べ物を買ってきてくれた。
ほどなくして花火大会が始まり、大きな音と煌びやかな光が空を覆い尽くした。そのころには空もすっかり暗くなっていて、その美しさに玲奈はすっかり魅了されていた。辺りからは花火に合わせて歓声が広がり、件の若い男女のグループに至っては大きく手を叩きながら、やはり大騒ぎを続けていた。
その集団にちらりと視線を向けてみれば、あの男がまだ玲奈の方を見つめながら、にやにやと笑みを浮かべていた。
「……どうしたの、玲奈」
桜に訊ねられたけれど、その時は別段、報告するようなことでもないと玲奈は判断して、
「ううん、なんでもない」
「そう?」
ふたり並んで、夜空を見上げたのだった。
やがて花火大会が終了した、その帰り道のことだった。
路面電車の駅やバス停、駐車場へ向かう人ごみの中で、玲奈は桜たち三人とはぐれてしまったのである。
どうしよう、桜たちとはぐれちゃった……
玲奈は焦りながらも、けれど、路面電車の駅の方へ向かえば少なくともどこかで合流できるはずだ、ととにかく足を進めた。会場を出るための列はあまりにも長く、交通誘導員によって度々足止めを食らいながら歩き続けていると、
「――あっ」
普段歩きなれない下駄で躓いてしまい、玲奈は前のめりに倒れかかった。
その時だった。
「危ない!」
後ろから、玲奈の腕を引く手があったのだ。
寸でのところで玲奈は転ばずにすみ、胸を撫で下ろしながら、
「あ、ありがとうございます!」
と振り向けば、
「大丈夫だった? 気を付けなよ?」
あの若い男女グループの中で、玲奈のことをにやにやしながら見つめていた男が立っていた。
玲奈はその男の姿に一瞬ぞわりと寒む気を感じたが、けれど転げそうになったところを助けてもらったのは事実だと、軽く会釈した。
「他の子たちは? はぐれちゃったの?」
「え? いや、そんなことは――」
否定しようとしたけれど、この男もこちらをじっと見ていたのだから、玲奈の周りに明らかに桜や村田、木村の姿がないことには気づいているはずだ。
「まぁ、こんだけ人が居たら仕方がないよね。俺が一緒に探してあげるよ」
「え? い、いいです、自分で探しますから……!」
「そんなこと言わないで、だいじょーぶ、だいじょーぶ。絶対、悪いようにはしないからさ」
わ、悪いようにはしないって、どういう意味?
男は怯える玲奈の腕を掴んだまま、ぐいっと人ごみから抜けるように引っ張って歩き始めた。
「あ、離して!」
「ダイジョーブ、ダイジョーブ! イタイノワ、サイショダケダカラ!」
その言葉に、玲奈は男の手を必死に振りほどこうとしたのだけれど、強く握るその男の手は痛いほど玲奈の腕に食い込んでくる。
「こ、コトラ!」
手にした巾着袋に吊り下げているコトラに声をかけてみたのだが、コトラはあの人ごみに酔ってしまったらしく、
「……う、うぅ……めが、目が回ります」
とまるで役に立たない。
どうしよう、どうしよう――! このままじゃ、どこかに連れてかれちゃう!
焦る玲奈に、男は振り向きながら、
「コレカラワ、ズットイッショダ! ズット、ズット、ズット……!」
玲奈は人ごみから引っ張り出され、そのまま男に引きずられるようにして真っ暗な海辺に連れてこられた。
壊れた街灯、打ち捨てられて廃屋となった倉庫、錆びた金網フェンス。
ここから先は立ち入り禁止と書かれたボロボロの看板の下で、玲奈は投げ捨てられるように地面に突き飛ばされた。
玲奈は小さく叫び声をあげ、すぐに態勢を立て直しながら、それでも尻を地面につけたまま、巾着袋を胸に抱いた。
「コトラ、コトラ!」
「うぅ……臭います……この人……」
やはり、と玲奈は思いながら、男を見上げた。
男は眼をぎらぎらと輝かせながら、口の端から涎を垂らしていた。ニタニタと嗤うその口が、あまりにも不気味で気持ちが悪い。
一見すればただの人だ。けれど、気配が違う。臭いが違う。
玲奈を守るように、コトラは『ファオン!』と小さく吠えた。
けれど、酔っているためか、そこにはまるで覇気というものがなくて。
「ジャマダ、クソイヌ!」
男は玲奈の巾着袋を奪い取ると、勢いをつけて地面に叩きつけた。
キャインッ! とコトラの悲鳴が聞こえて、
「コトラ!」
玲奈は叫ぶ。
そんな玲奈の首を、男は思いっきり締め上げた。
「――あっぐうぅっ!」
「イタイノモ、クルシイノモ、サイショダケ。キミモコッチニオイデ。ミンナイッショ、ヒトツニツナガッテ、グチャグチャニナッテ、ナニモカモワスレテ――」
玲奈は首を締め上げられながら、男の背後に何人もの人影を見た。
――女だ。
たくさんの女の影が、男の後ろに立っていた。
玲奈のことを、男と同じように、ニタニタと嗤いながら見つめていた。
誰一人として、生者ではない。
首の角度が明らかにおかしい女がいた。
口が大きく裂けている女がいた。
目玉がくりぬかれている女がいた。
腹から内臓がだらりと垂れている女がいた。
全身がずぶ濡れで、身体が膨れ上がっている女がいた。
そんな女たちが、玲奈のことを、じっと見下ろしていた。
「うっ――ぐうぅっ――っ!」
ギリギリと、玲奈の首を絞める手の力が強くなっていく。
このまま、絞め殺されてしまうのか――そう絶望しかけたときだった。
「ちょっとさ、私の妹になにしてくれてんの?」
そんな声とともに、男の肩に手をかける姿があった。
薄れ始めた意識の中で、玲奈の眼は、確かにその姿をとらえていた。
結奈である。
結奈は、一瞬狼狽えた男に向かって右拳を振り上げると、そのまま一気に男の天頂にその拳を振り下ろした。
その瞬間、男の身体が地面にめり込むかのような勢いでバタンと倒れた。玲奈の首を絞めていた手が解かれ、力なく地面に横たわる男の姿がそこにはあった。
――これが、気合いパンチ?
玲奈は咳き込みながら喉をさすり、完全に動かなくなってしまった男を見下ろした。
結奈は続けて男を取り囲んでいた女たちに、次々回し蹴りやパンチを繰り出していった。
女たちの姿は結奈に一撃を食らわされた瞬間、バラバラに砕け散り、そのまま海風に乗ってさらさらと消えていった。
全ての女の霊を蹴散らしたあと、結奈は地面の上で伸びている男の頭を力いっぱい踏みつけながら、
「……さっさと消えな、デキソコナイ」
――ぐちゃり。
玲奈が実際に、結奈のいう気合いパンチを目にしたのは、中学校も二年生に上がってからのことだった。
季節は夏真っ盛りで、玲奈は桜に誘われて、村田や木村と共に、港で行われる大きな花火大会を見に行くことになった。
桜の提案でわざわざ浴衣に着替えて駅に集合。そこから路面電車に乗って港へ向かうと、すでにたくさんの見物客で賑わっていた。
様々な露店が立ち並び、花火のよく見える席を取ろうと、我先にとレジャーシートを広げる人たちの間を縫うように、玲奈たちは会場の隅にある小さな浜辺の方へ向かった。
浜辺もまたたくさんのカップルや子供連れに溢れかえっていたが、それでもまだシートを広げればなんとか四人は座れそうな場所が残っていた。
桜は村田と木村に屋台への買い出しを命じ、玲奈と並んで夜空を見上げた。
まだ薄っすらと広がるオレンジ色の空には鳥たちが羽ばたき、時折吹く風は磯の香りを運んでくれた。
玲奈はそんななか、自分たちと同じように、レジャーシートを広げる若い男女のグループに眼を向けた。明らかに自分たちとは毛色の違う集団で、大きな笑い声を響かせながら、やはり屋台で買ってきたのであろう焼きそばやたこ焼きにかぶりつきつつ、缶ビールを飲んでいた。
その集団のなかに、ひとりだけこちらに視線を向けてくる男の姿があった。男は車座になったグループの中にあって、ひとりだけ飲み食いもせずただこちらをじっと見つめていた。口元には笑みを浮かべ、そればかりか玲奈に向かって手招きしてくる。
玲奈はそれに気づかないふりをして、ふたたび桜に顔を戻したところで、村田と木村が両手に抱えきれない量の食べ物を買ってきてくれた。
ほどなくして花火大会が始まり、大きな音と煌びやかな光が空を覆い尽くした。そのころには空もすっかり暗くなっていて、その美しさに玲奈はすっかり魅了されていた。辺りからは花火に合わせて歓声が広がり、件の若い男女のグループに至っては大きく手を叩きながら、やはり大騒ぎを続けていた。
その集団にちらりと視線を向けてみれば、あの男がまだ玲奈の方を見つめながら、にやにやと笑みを浮かべていた。
「……どうしたの、玲奈」
桜に訊ねられたけれど、その時は別段、報告するようなことでもないと玲奈は判断して、
「ううん、なんでもない」
「そう?」
ふたり並んで、夜空を見上げたのだった。
やがて花火大会が終了した、その帰り道のことだった。
路面電車の駅やバス停、駐車場へ向かう人ごみの中で、玲奈は桜たち三人とはぐれてしまったのである。
どうしよう、桜たちとはぐれちゃった……
玲奈は焦りながらも、けれど、路面電車の駅の方へ向かえば少なくともどこかで合流できるはずだ、ととにかく足を進めた。会場を出るための列はあまりにも長く、交通誘導員によって度々足止めを食らいながら歩き続けていると、
「――あっ」
普段歩きなれない下駄で躓いてしまい、玲奈は前のめりに倒れかかった。
その時だった。
「危ない!」
後ろから、玲奈の腕を引く手があったのだ。
寸でのところで玲奈は転ばずにすみ、胸を撫で下ろしながら、
「あ、ありがとうございます!」
と振り向けば、
「大丈夫だった? 気を付けなよ?」
あの若い男女グループの中で、玲奈のことをにやにやしながら見つめていた男が立っていた。
玲奈はその男の姿に一瞬ぞわりと寒む気を感じたが、けれど転げそうになったところを助けてもらったのは事実だと、軽く会釈した。
「他の子たちは? はぐれちゃったの?」
「え? いや、そんなことは――」
否定しようとしたけれど、この男もこちらをじっと見ていたのだから、玲奈の周りに明らかに桜や村田、木村の姿がないことには気づいているはずだ。
「まぁ、こんだけ人が居たら仕方がないよね。俺が一緒に探してあげるよ」
「え? い、いいです、自分で探しますから……!」
「そんなこと言わないで、だいじょーぶ、だいじょーぶ。絶対、悪いようにはしないからさ」
わ、悪いようにはしないって、どういう意味?
男は怯える玲奈の腕を掴んだまま、ぐいっと人ごみから抜けるように引っ張って歩き始めた。
「あ、離して!」
「ダイジョーブ、ダイジョーブ! イタイノワ、サイショダケダカラ!」
その言葉に、玲奈は男の手を必死に振りほどこうとしたのだけれど、強く握るその男の手は痛いほど玲奈の腕に食い込んでくる。
「こ、コトラ!」
手にした巾着袋に吊り下げているコトラに声をかけてみたのだが、コトラはあの人ごみに酔ってしまったらしく、
「……う、うぅ……めが、目が回ります」
とまるで役に立たない。
どうしよう、どうしよう――! このままじゃ、どこかに連れてかれちゃう!
焦る玲奈に、男は振り向きながら、
「コレカラワ、ズットイッショダ! ズット、ズット、ズット……!」
玲奈は人ごみから引っ張り出され、そのまま男に引きずられるようにして真っ暗な海辺に連れてこられた。
壊れた街灯、打ち捨てられて廃屋となった倉庫、錆びた金網フェンス。
ここから先は立ち入り禁止と書かれたボロボロの看板の下で、玲奈は投げ捨てられるように地面に突き飛ばされた。
玲奈は小さく叫び声をあげ、すぐに態勢を立て直しながら、それでも尻を地面につけたまま、巾着袋を胸に抱いた。
「コトラ、コトラ!」
「うぅ……臭います……この人……」
やはり、と玲奈は思いながら、男を見上げた。
男は眼をぎらぎらと輝かせながら、口の端から涎を垂らしていた。ニタニタと嗤うその口が、あまりにも不気味で気持ちが悪い。
一見すればただの人だ。けれど、気配が違う。臭いが違う。
玲奈を守るように、コトラは『ファオン!』と小さく吠えた。
けれど、酔っているためか、そこにはまるで覇気というものがなくて。
「ジャマダ、クソイヌ!」
男は玲奈の巾着袋を奪い取ると、勢いをつけて地面に叩きつけた。
キャインッ! とコトラの悲鳴が聞こえて、
「コトラ!」
玲奈は叫ぶ。
そんな玲奈の首を、男は思いっきり締め上げた。
「――あっぐうぅっ!」
「イタイノモ、クルシイノモ、サイショダケ。キミモコッチニオイデ。ミンナイッショ、ヒトツニツナガッテ、グチャグチャニナッテ、ナニモカモワスレテ――」
玲奈は首を締め上げられながら、男の背後に何人もの人影を見た。
――女だ。
たくさんの女の影が、男の後ろに立っていた。
玲奈のことを、男と同じように、ニタニタと嗤いながら見つめていた。
誰一人として、生者ではない。
首の角度が明らかにおかしい女がいた。
口が大きく裂けている女がいた。
目玉がくりぬかれている女がいた。
腹から内臓がだらりと垂れている女がいた。
全身がずぶ濡れで、身体が膨れ上がっている女がいた。
そんな女たちが、玲奈のことを、じっと見下ろしていた。
「うっ――ぐうぅっ――っ!」
ギリギリと、玲奈の首を絞める手の力が強くなっていく。
このまま、絞め殺されてしまうのか――そう絶望しかけたときだった。
「ちょっとさ、私の妹になにしてくれてんの?」
そんな声とともに、男の肩に手をかける姿があった。
薄れ始めた意識の中で、玲奈の眼は、確かにその姿をとらえていた。
結奈である。
結奈は、一瞬狼狽えた男に向かって右拳を振り上げると、そのまま一気に男の天頂にその拳を振り下ろした。
その瞬間、男の身体が地面にめり込むかのような勢いでバタンと倒れた。玲奈の首を絞めていた手が解かれ、力なく地面に横たわる男の姿がそこにはあった。
――これが、気合いパンチ?
玲奈は咳き込みながら喉をさすり、完全に動かなくなってしまった男を見下ろした。
結奈は続けて男を取り囲んでいた女たちに、次々回し蹴りやパンチを繰り出していった。
女たちの姿は結奈に一撃を食らわされた瞬間、バラバラに砕け散り、そのまま海風に乗ってさらさらと消えていった。
全ての女の霊を蹴散らしたあと、結奈は地面の上で伸びている男の頭を力いっぱい踏みつけながら、
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――ぐちゃり。
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