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第2部 第1章 闇に犇く

第4回

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 日の出間際の空から一瞬射した陽の光は、けれどあっという間に厚い雲に遮られ、今では鈍色の空がどこまでも続き一面空を覆い隠していた。

 すぐ目の前に迫る山々には古くからの住宅街が広がっており、家々の合間を縫うように山越えの道が始まる。その手前の空き地と化した田畑の向こう側には犬の散歩をしている人々の影が眼に入り、その当たり前の光景を見ていると、昨晩から体験している怪異がまるで夢か幻だったかのように感じられた。

 いや、夢だ。夢以外に有り得ない。有るはずがない。

 けれど、今でもはっきりと思い出せるアレらの姿は鮮明で、どこからが夢でどこまでが現実か、全く判らないほど眼に焼き付いて離れなかった。

 響紀はとぼとぼと道を歩きながら、何度目かの溜息を漏らした。胸の奥がつっかえているような感覚がして妙に気持ちが悪く、足も鉛のように重く憂鬱だった。

 今にも雨の降りそうな空がまるで自分の今の心境を表しているようで、それがまた鬱陶しくて仕方がない。せめて晴れてさえいてくれたら、少しは気も楽になっただろうに。

 そんなことを考えながら歩いていると、徐々に傾斜が上がってきた。重たい足が更に重くなり、一歩前に足を進めるだけでも億劫でならない。けれどこの山を越えなければ目的地である会社には辿り着けない。響紀は息も絶え絶えになりながら、一歩、また一歩、ゆっくりと坂道を登っていった。

 やがて響紀はやっとの思いで山を越え、自身の勤めていた会社に辿り着いた。すでに何人もの社員が出勤しており、会社の中には社長や常務の姿も見える。

 響紀は居辛い思いの中、先輩や同僚に向かって意を決したように声を掛けた。

「お、おはようございます……!」

 けれど、その誰からも返事がない。無視を決め込むように言われているのか、先輩はおろか、同僚ですら振り向こうとはしなかった。

 それでも響紀はめげなかった。とにかく一人一人に挨拶を投げ掛け、これまでの非礼を詫びていく。

 けれど、誰一人として響紀に顔を向けるものはいなかった。

 それまで必至に屈辱に耐えていた響紀だったが、しかし最早我慢の限界だった。

 社内で親しかった同僚のもとへ行き、パソコンに向かう同僚に向かって「お前も俺をシカトすんのか!」と声を張り上げて叫び、力の限りに書類の山をバンッと叩いた。

「わっ!」

 途端に驚いたように体を震わせる同僚に、睨みを利かせる響紀。

 ところが同僚の次の行動に思わず目を疑った。

 辺りを見回し、首を傾げ、不思議そうに眉を顰めたのだ。

 その動作は余りにも自然で、わざとそうしているようには見えなくて。

「……おう、朝からどうした?  机なんか叩いて」

 向かいのデスクに座る先輩が同僚に話し掛けた。
 それに対して、同僚は答える。

「お、俺じゃないですよ!  なんか勝手に机から音がして……」
「あん?  なんだそりゃ。意味がわからん」
「俺だってわかんないっすよ……怖いなー」

 その会話に、響紀は一歩、二歩とあと退った。

 違う。こいつらは、俺を無視してるんじゃない。

 響紀は目を見張り、ばっと社内を見渡した。

 ――こいつらには、俺の姿が、まるで見えていないのだ。

 それから響紀は本当に誰の目にも見えていないのか、他の社員に対しても試みた。すぐ目の前で手を振ってみたり、耳元で話掛けてみたり。挙句最も嫌いな上司の前では、その頭に被ったカツラをズラすなどしてやったが、その上司は風か何かでズレたのだと本気で思っているのか、辺りを見回しながら慌てたように被り直すのだった。

  響紀はその様子を見て笑うどころか逆に青ざめた。間違いなく、自分の姿は誰の目にも入っていない。まるで空気か何かにでもなってしまったかのようだ。響紀は自身の掌を観察し、ついで身体中に触れてみる。そこには確かに感触はあるのだけれど、例えば誰かに触れてみても誰も響紀に接したとは気付きもしない。まるで幽霊になってしまったかのようだと思ったが、かと言って人やモノをすり抜けるなんて事も出来なくて。

 どうやら俺は、全ての感覚から認識されなくなったらしい。

 その事実に気付いた途端、響紀の全身に怖気が走った。

 いつからこうなったのか、どうしてこんな事になってしまったのか。俺の身体に、いったい、何が起きていると言うのか。

 募る不安をよそに、上司や同僚達は淡々と日常の業務をこなしている。響紀の存在など最初からなかったかのように、彼らは一生懸命に働いている。そこに自分の居場所など最早無く、かつての自分の席には雑然と積まれた荷物が物悲しく残されているだけだった。自分一人居なくなったところで誰も困らない。それこそ代わりはいくらでもいる。けれど、それは何も特別なことじゃない。ごく自然な、当たり前のことなのだ。

 響紀は焦燥感に苛まれながら、その場に崩折れた。完全に自分の居場所を失ったような気がして、気付くと響紀は自嘲していた。

 俺がおかしくなったのか、世界がおかしくなったのか。何れにせよ、響紀にはもう行くべき場所は無いように思えてならなかった。

 深い溜息をひとつ吐き、響紀はふらりと立ち上がった。覚束ない足取りで給湯室に向かい、蛇口をひねる。

 とにかく、一度頭を冷やそう。自分に何が起きているのか解らないが、考えるのはそれからにしよう。

 響紀は思いながら腰を屈めて頭から水を被り、次いでその水を飲もうと口に含んだところで。

「――んぐっ!」

 突然嘔吐き、流しの中に盛大に水を吐き出していた。けれどそれは只の水ではなく、響紀はそれを見て目を見張り、あと退った。

 赤黒いドロドロとしたそれは流しの中で苦しげに蠢き、のたうち回り、やがて排水溝の中へと消えていく。

 響紀はその様子を、ただ見ていることしかできなかった。

 今自分が吐き出したものが何であるのか解らず、不気味で、奇怪で、あまりの事に響紀は目にしたものを信じられなかった。まるで巨大なナメクジのようなアレは、いったい何だったのか。どうして俺の中にアイツは居たのか。いったい、いつから。

 ジャァジャァと流れ続ける水の音が、静かな給湯室に響き渡る。流しにはまだ僅かにその残りカスが見て取れたが、それらもまたやがては水に流され消えていった。

 響紀はあまりの衝撃に、いまだ身動きが取れず、その場にじっと固まって居た。

「誰か居るんですかぁ?」

 そんな声と共に、一人の若い女の子が給湯室に入ってくる。響紀よりあとに入社した事務の子だ。彼女にもやはり響紀の姿は見えないらしく、
「もう! 水出しっ放しにして!  誰ですかぁ?」
 と蛇口をひねり、給湯室の外に声をかける。

「俺じゃねぇぞー」「知らねー」という返事に、彼女はぷんすか怒るように眉間に皺を寄せた。

 響紀はそんな彼女の背中を見ながら、大きく溜息を吐いた。

「えっ?」

 その途端、不意に彼女が振り向き、目があったような気がした。まさか見えてるのか、と響紀は期待したが、けれど彼女はすぐにキョロキョロと辺りを見回し、
「……気のせいかなぁ。何だか誰かが居たような気がしたんだけど」
 そう独り言ちて去って行くのだった。

 響紀はそんな彼女の様子に戸惑った。確かに彼女にも俺の姿は見えてはいない。けれど、あの様子だと溜息の音は聞こえていたのではないか。もしかしたら溜息だけではなくて、何かの拍子に姿が見えるようになるのではないか、と根拠もなく期待した。

 だが何れにせよ、どうしてこうなってしまったのか解らないままだ。それが解らない限りはどうしようもない。原因さえ解れば、或いは。

 それなら、と響紀は一つ頷いた。

 まずは昨日の自分の行動を追うべきだろう。奈央を抱き寄せようとした、あの後の記憶がないのがこの件に深く関わっているような気がしてならない。

 自分はあの後どこへ行き、何をしていたのか。まずはそれを思い出す必要がある。その為にはまず自分の家に戻り、奈央を抱き寄せようとしたあの部屋から始めるべきだ。

 響紀は思い、会社をあとにすると、元来た道を引き返し、一路我が家の方へと足を踏み出すのだった。
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