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序章・響紀

第11回

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 奈央はあの彼女と同じ微笑みを湛えながら、響紀を見つめている。余りの事に響紀は思わず奈央の肩を撥ね飛ばす。奈央はよろめく事無く、すっと一歩後ろに下がった。

 響紀は眼を瞬かせ、そして気付くと彼女の姿はやはり奈央ではなくて。

「……どうかしましたか?」

 微笑みながら首を傾げる喪服の彼女に、響紀は首を横に振りながら、小さく「あっ……いいえ、何でも……」と取り繕った。

 何だったんだ、今のは。

 響紀は全身から汗が噴き出してくるのを感じながら、妙な不安に捉われる。

 この女は、もしかして……奈央、なのか?

 しかし、そんなはずはない、と自身の一瞬の迷いを否定する。奈央は今頃うちに居るはずた。こんな所にいる訳がない。何より肌の色が違うじゃないか。

 そうは思いながら、実は化粧か何かで誤魔化しているのでは、という疑念が生まれてくる。

 あの時だってそうだ。谷さんと話をした後、黙って道路の向かいからこちらを見ていた奈央を車で追ったにも関わらず、追いつけなかった。そして、そのすぐ後に俺は喪服の彼女と遭遇している。

 もし彼女が奈央だとしたら……?

 根拠のない疑惑が頭の中を駆け巡り、響紀は狼狽した。彼女の顔を見つめれば、見れば見るほど奈央に見えてくる。最早奈央自身が喪服に身を包み微笑んでいるようにしか思えなかった。

「まさか、お前なのか……奈央?」

 思わず口が動き、問い掛けていた。

 彼女はそれに対し、小さく笑うと答える。

「貴方が私をそう呼びたいなら、私はそれでもかまいません。私に名前はありませんから……」

 それはどういう意味なのか、と問おうとした時、突然どこからともなく人の唸るような音が辺りに響き始めた。ただの風にしては音がおかしい。まるで腹の底から恨み言を言っているかのようだ。

 いったい、どこから。

「時々あんな音がするんです、あの井戸」

 彼女が眉を顰めながら、庭の古井戸を指し示した。確かに耳をすませば、井戸の方からその音は聞こえてくる。余りにも不気味且つ不快な音に、響紀も同じく眉を顰めた。

「……ちょっと、見てもらえませんか?」

 響紀の袖を掴みながら、不安そうに彼女は言った。

 響紀はそんな彼女の顔を直視出来なかった。不気味な音の中にあって、今だ彼の心は彼女が奈央なのではないかという疑念に捉われながら、それを否定し続けていたのだ。

 見れば見る程彼女が奈央に思え、その迷いから逃れるように、響紀は「はい」と頷くと裸足のまま庭に下りた。

 足の裏に砂利が食い込み痛かったが、それに耐えながら井戸まで歩み寄る。次第にその唸り声は大きくなっていき、井戸から発せられていることは明白だった。

 響紀は井戸の枠に手を掛けながら、その奥を覗き込んだ。薄暗い闇の中に、どす黒い水面が見える。そこからにょっきりと伸びる、真っ黒な枝の数々に響紀は眼を細めた。

 どうして井戸の中に、木の枝があんなに?

 鳴り響く唸り声の出所を探るべく、響紀は再び水面に注視する。しかし、どんなに眼を凝らしてもその枝の先は見えなくて。揺れる水面の底は真の闇に染まり、どこまでも続いているかのようだった。

 水面が、揺れている……?

 不思議に思い眼を凝らせば、木の枝が微かに動いている事に気がついた。一本一本の小さな枝までもが、まるでおいでおいでをしているかのように動き、それに合わせて水面が揺らいでいるのだ。

 あれは本当に木の枝なのか?

 もっとよく見て確かめてみようと腰を曲げ、井戸の中に頭を入れた、その時だった。

 トンッと背中を押された感触があった。それはとても軽い力で、けれど次の瞬間には響紀の身体は井戸の中へ投げ出されていた。

 予想だにしていなかった事態に響紀は叫び声を上げることも出来ないまま、暗い水面へと落下していく。

 ザバンッと水を叩く音と共に暗闇に包み込まれた響紀は死に物狂いで態勢を立て直し、水面から顔を出した。思った以上に水は深く、足がつかない。何とか木の枝にしがみつき身体を浮かせ、生臭いにおいの立ちこめる中、上を見上げる。ぽっかりと空いた井戸の口から、こちらを見下ろす人影があった。

 誰、と問うまでもなく、それは喪服の彼女だった。笑顔を浮かべたまま、ずぶ濡れの響紀を嘲るように眺めている。

 まさか、あの人が俺を突き落としたのか?

 何故?

 どうして?

 響紀はショックの余り、声を出せなかった。

 いや、何を言ったら良いのか判らなかったのだ。

 そんな響紀に、喪服の彼女は何事かを口にした。しかしその言葉は、尚も井戸の中に反響する唸り声によって完全に消し去られる。

 彼女はにっこりともう一度響紀に微笑むと、すっとその姿を消した。

 と同時に、それまで鳴り響いていた唸り声が突然止んだ。ただ静寂に満たされ、響紀は井戸の中に一人、取り残された。

 焦りが募り、遂に大声を上げて助けを呼んだ。だが、それに答える者の声はなかった。喪服の彼女も戻っては来なかった。

 このままここから出られないのか。まさかここで死ねと言うのか。

 響紀は何とかして井戸を這い上がろうと壁に手を掛けようとしたが、滑った壁面には手が掛けられそうな凹凸など一つなかった。

 それならばこの木の枝を積み重ねて足場を組めれば、もしかしたら――

 そう思い、木の枝に手を伸ばした時だった。闇の中で、何かが動く気配を感じた。

 えっ、と恐怖を感じながら眼を見張れば、幾本もの木の枝が風もないのに蠢いている。

 ――いや、違う。

 響紀は総毛立った。

 これは、木の枝何かじゃない、人の腕だ!
 炭化して黒くなった、人の手や腕だ!

 響紀は声無き悲鳴を上げた。何が起きているのかまるで解らず取り乱し、必死に壁をよじ登ろうと藻がいた。しかし、つるつると手は滑るばかりで。

 幾本もの腕はゆっくりゆっくりと響紀を取り囲み、やがて服や肩にしがみ付いた。響紀は叫び、その腕を振り解こうと暴れた。

「離せ……! 離せ……!」

 水面には腕の主と思しき腐敗した人の頭が浮かび、ケタケタと音を立てて嗤う。

 水の中へ引きずり込もうとするその腕を払い除けるが、しかし僅かな間を置いてまた別の腕に掴まれた。

 やがて不意に足首を掴まれる感触があり、響紀は驚愕しながら水面に眼を向けた。

「……ひぃっ!」

 そこにあったのは、かつて行方不明になった、あのクラスメイトの顔だった。

 それは楽しげな笑みを浮かべながら響紀の足首をがっしりと掴むと、ぐいっと水底へと引き込んでいく。

 響紀は必死に抵抗したが、しかし次々に襲い掛かる腕に対抗し得るだけの力など、最早残されてはいなかった。口の中に流れ込んでくる生臭い水を吐き出すことも出来ないまま、やがて響紀の身体は完全に水の中に没していった。

 深い闇の中で最期に響紀は、どこかでくすくす笑う、女の声が聞こえたような気がした。

 後に残されたのは、ただ、静寂だけだった。


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