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萎みて落つる名残の紅 8
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「浩ちゃんねえ、熱が出たから今日は帰って来られないって」
彼のお母さんが、お姉さんに話しかける。
「あら、そう? 着替えとか持って行かなくて大丈夫かしら」
「借りられるからって言ってたよ。熱があるなら、向こうにいるほうが安心だわねえ」
母子の会話で、彼がここにいないことを知る。途端に居心地が悪くなり、縁側から立ち上がった。
「ありがとうございました。このままで申し訳ありませんが、失礼いたします」
そう言って頭を下げると、お姉さんに引き留められて、小声で質問された。
「あなた、浩則に会いに来たんでしょう?」
「ええ、いいえ。お約束していたのではありませんし、先生のお加減が気になっただけで」
門のほうに向かおうとすると、お姉さんは声を大きくして、家の中に声をかける。
「お母さん、この子の顔色が悪いから、ちょっと送ってくるわ」
了承の返事があり、並んで道に出た。
「ごめんね、でもあの場所で話すと、お母さんが気にするから。いい年のしょぼくれた男でも、お母さんから見れば若くて魅力のある息子なの」
お姉さんは肩を竦めた。
「著名な小説家ですものね」
「著名なら食い詰めたりしないでしょ」
お姉さんは苦笑いして、それから真面目な顔になった。
「あなたは浩則の恋人?」
「おそらく、そうだと思います。でも確信はありません」
駅までの道を辿りながら、私たちの関係には名前がないのだと改めて思う。
「先生は、入院されているのですか」
迷ったような沈黙のあと、お姉さんは溜息を吐いた。
「浩則が自分の状態をあなたに、どう教えているのかを知らないから。確かに今は入院してるわ。それしか言えない」
「どうして」
「教えたくないから言わないものを、答えるわけにはいかないの。誤解しないでね、危険な状態だから入院してるんじゃないわよ」
ほっとしたところで、駅に続く道に出た。送ってもらった礼を言って、お姉さんと別れる。どこか切なそうな表情が、彼とよく似ていた。
彼は私に、知らせたくなかったのだ。治療が進んで回復に向かっていると思わせたかった。だから最後に旅行に誘って、自分はもう心配ないのだと私に見せた。何故。何故そんなふうに見せる必要があったのか。
本当は、そうでないから。回復どころかもっと酷い状態になっていると言えば、私が余計に彼にしがみつくのを恐れていたのだ。だから彼は、私から大きく距離を置くことにした。そう考えれば、納得できる。
実際のところ、所得を得ずに彼の傍にいることは、数年ならばできそうな気がする。手をつけずに残っている慰謝料と財産分与、そして出歩くことの少なかったここ数年の預金で、充分とは言えないけれど蓄えはある。私が勝手に動いてしまえば、可能なのだ。
けれど彼は、そんなことは望んでいない。彼が望んでいるのは、続く平凡な日常を歩くだけの私だ。
そんなこと、知ってた。そう呟いて、電車のシートに凭れて唇を噛む。彼が私に望んでいるものと、私が彼に望んで欲しいものは、違うのだ。どこまでも一緒にいて欲しいと望まれたかったのに、決してそうは言ってくれない。もしも私の年齢がもう少し上で、彼が小説家としてもう少し所得があれば、言ってくれたろうか。一緒に来ませんかと言ってくれたあの日に、彼の手を握り返していたら、今日は違う日になっていたのか。
もしもなんて話は、何の役にも立ちはしない。だから私にできることは、彼の望む私になるのか、それともまだ彼を困らせ続けるのかの二択しかないのだ。
彼に未来があるかどうかなんて、わからないんだよ。自分の中の冷たい囁きが、私を凍りつかせる。本当に未来はいらないと思ってる? 私だって明日は交通事故に遭うかも知れないけど、遭わない確率の方が高いじゃない。そうやって明日を迎えて、いつか来るかも知れない未来を夢見ないでいられるつもり? 自分の中で聞こえる冷静で冷酷な声は、打ち消そうとしてもなかなか消えなかった。
翌日の晩、珍しく彼のほうから電話が来た。
「昨日、家まで来てくれたんだって? 留守してて、申し訳ないことをした」
「いいえ。勝手に伺って、申し訳ありませんでした」
彼はくすりと笑って、陽気な口調で続けた。
「酔芙蓉の下で、貧血を起こして座ってたんだって? 同じことを繰り返す人だ」
「不覚でした。あんなに何年も前のことで、フラッシュバックを起すとは思っていませんでした」
「僕は思っていましたよ。だから来るはずなんてないと、まあ高を括っていたわけだ」
「そうですね、ご迷惑でした」
短い沈黙のあと、小さな溜息が聞こえた。
「姉から、どこまで聞きました? あの人、お喋りだから」
「何も教えてくださってはいません。駅まで送っていただいただけです」
「でもあなたは、何かに気がついてしまった。そうでしょう?」
今度は私が溜息を吐く番だった。
「先生に騙されたことに気がついただけです」
これ以上、電話で重要な話をしたくない。身勝手になれと言ったのは彼なのだから、もう一度くらい押しかけても良いと思う。
「先生のお顔を拝見してからお話を伺います」
今度は受話器の中から、盛大な溜息が聞こえた。
「意外に強情ですね」
彼のお母さんが、お姉さんに話しかける。
「あら、そう? 着替えとか持って行かなくて大丈夫かしら」
「借りられるからって言ってたよ。熱があるなら、向こうにいるほうが安心だわねえ」
母子の会話で、彼がここにいないことを知る。途端に居心地が悪くなり、縁側から立ち上がった。
「ありがとうございました。このままで申し訳ありませんが、失礼いたします」
そう言って頭を下げると、お姉さんに引き留められて、小声で質問された。
「あなた、浩則に会いに来たんでしょう?」
「ええ、いいえ。お約束していたのではありませんし、先生のお加減が気になっただけで」
門のほうに向かおうとすると、お姉さんは声を大きくして、家の中に声をかける。
「お母さん、この子の顔色が悪いから、ちょっと送ってくるわ」
了承の返事があり、並んで道に出た。
「ごめんね、でもあの場所で話すと、お母さんが気にするから。いい年のしょぼくれた男でも、お母さんから見れば若くて魅力のある息子なの」
お姉さんは肩を竦めた。
「著名な小説家ですものね」
「著名なら食い詰めたりしないでしょ」
お姉さんは苦笑いして、それから真面目な顔になった。
「あなたは浩則の恋人?」
「おそらく、そうだと思います。でも確信はありません」
駅までの道を辿りながら、私たちの関係には名前がないのだと改めて思う。
「先生は、入院されているのですか」
迷ったような沈黙のあと、お姉さんは溜息を吐いた。
「浩則が自分の状態をあなたに、どう教えているのかを知らないから。確かに今は入院してるわ。それしか言えない」
「どうして」
「教えたくないから言わないものを、答えるわけにはいかないの。誤解しないでね、危険な状態だから入院してるんじゃないわよ」
ほっとしたところで、駅に続く道に出た。送ってもらった礼を言って、お姉さんと別れる。どこか切なそうな表情が、彼とよく似ていた。
彼は私に、知らせたくなかったのだ。治療が進んで回復に向かっていると思わせたかった。だから最後に旅行に誘って、自分はもう心配ないのだと私に見せた。何故。何故そんなふうに見せる必要があったのか。
本当は、そうでないから。回復どころかもっと酷い状態になっていると言えば、私が余計に彼にしがみつくのを恐れていたのだ。だから彼は、私から大きく距離を置くことにした。そう考えれば、納得できる。
実際のところ、所得を得ずに彼の傍にいることは、数年ならばできそうな気がする。手をつけずに残っている慰謝料と財産分与、そして出歩くことの少なかったここ数年の預金で、充分とは言えないけれど蓄えはある。私が勝手に動いてしまえば、可能なのだ。
けれど彼は、そんなことは望んでいない。彼が望んでいるのは、続く平凡な日常を歩くだけの私だ。
そんなこと、知ってた。そう呟いて、電車のシートに凭れて唇を噛む。彼が私に望んでいるものと、私が彼に望んで欲しいものは、違うのだ。どこまでも一緒にいて欲しいと望まれたかったのに、決してそうは言ってくれない。もしも私の年齢がもう少し上で、彼が小説家としてもう少し所得があれば、言ってくれたろうか。一緒に来ませんかと言ってくれたあの日に、彼の手を握り返していたら、今日は違う日になっていたのか。
もしもなんて話は、何の役にも立ちはしない。だから私にできることは、彼の望む私になるのか、それともまだ彼を困らせ続けるのかの二択しかないのだ。
彼に未来があるかどうかなんて、わからないんだよ。自分の中の冷たい囁きが、私を凍りつかせる。本当に未来はいらないと思ってる? 私だって明日は交通事故に遭うかも知れないけど、遭わない確率の方が高いじゃない。そうやって明日を迎えて、いつか来るかも知れない未来を夢見ないでいられるつもり? 自分の中で聞こえる冷静で冷酷な声は、打ち消そうとしてもなかなか消えなかった。
翌日の晩、珍しく彼のほうから電話が来た。
「昨日、家まで来てくれたんだって? 留守してて、申し訳ないことをした」
「いいえ。勝手に伺って、申し訳ありませんでした」
彼はくすりと笑って、陽気な口調で続けた。
「酔芙蓉の下で、貧血を起こして座ってたんだって? 同じことを繰り返す人だ」
「不覚でした。あんなに何年も前のことで、フラッシュバックを起すとは思っていませんでした」
「僕は思っていましたよ。だから来るはずなんてないと、まあ高を括っていたわけだ」
「そうですね、ご迷惑でした」
短い沈黙のあと、小さな溜息が聞こえた。
「姉から、どこまで聞きました? あの人、お喋りだから」
「何も教えてくださってはいません。駅まで送っていただいただけです」
「でもあなたは、何かに気がついてしまった。そうでしょう?」
今度は私が溜息を吐く番だった。
「先生に騙されたことに気がついただけです」
これ以上、電話で重要な話をしたくない。身勝手になれと言ったのは彼なのだから、もう一度くらい押しかけても良いと思う。
「先生のお顔を拝見してからお話を伺います」
今度は受話器の中から、盛大な溜息が聞こえた。
「意外に強情ですね」
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