芙蓉の宴

蒲公英

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萎みて落つる名残の紅 3

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 あっさりとしたものだった。
「肝臓への転移があります。今のところ肺や大腸には転移していないようですが、膵臓に一か所と肝臓に二か所、これの成長が早い」
 若い医師が言う。
「肝臓自体は再生能力があるので、切除することもできます。でもその前に、薬で叩いて小さくしたいところです。それから少し黄疸が出ていますから、早急に胆汁をドレナージ」
 今までの経口の抗がん剤でなく、肝臓に直接注入するらしい。治療に関しては、医師の方針にお任せするしかない。こちらは門外漢の、俎板の上の鯉だ。
「効果は、どれくらいでハッキリするのでしょう」
「治療を終えて一ヶ月後に、もう一度検査をします。そこで効果を見ながら方向を考えましょう」
 そして付け足したように言った。
「寛解まで持って行くのは時間が掛かるでしょうが、可能性はあります。その中でクォリティオブライフを上げていくこともできます。一緒に頑張りましょう」
 いくつかの日程を決め、頭を下げて診察室を出た。
 事務的なやりとりで、救われた。少なくとも余後の話などなかったし、治療をすれば或いはと希望を持たせてくれた。クォリティオブライフというのは、面白い言葉だなと思う。生の質。少なくとも私の生活は、高品質じゃない。

 こんな、いつまで掛かるのかどう終わるのか、先が見えず終わりの保証のないことに、彼女をいつまでもつきあわせてはいけない。私が彼女を大切に思うならば、もっと前に決断しなくてはならなかった。わかっていて、どうしようもなくなるまで曖昧な態度をとってきたのだ。年上の私が、事情を抱える私が決定するしかない。
 今度の入院をきっかけにしよう。どちらにしろしばらく休職しなくてはならず、実家には戻ることにしよう。見えない場所を心配するより、家で世話を焼きたいと母も言っていたことだし、買い物などは姉に頼めるだろう。
 彼女の白い顔が、脳裏でふわりと揺れる。できることなら、もっと笑顔を見たかった。心配させるためではなく、癒すための存在でありたかった。大切にしてやり、飛び立つのを笑顔で見送りたかった。

「遠いところには行けませんし、贅沢もできませんが、花の美しい寺にでも行ってみませんか」
 私の言葉に、彼女は訝し気な顔をした。胆汁を抜いてもらったあとで幾分体調は良く、夏の日差しの中を歩いても耐えられそうな気がする。盆よりも少し後で、観光地の宿泊施設はいっぱいだが、近場でひっそりとした旅ならばできそうだ。
「お身体は、大丈夫なのですか」
「副作用も落ち着いてきましたし、ずっと籠っていたので羽根を伸ばしたいところです」
 彼女の何か問いたそうな視線は、あえて見ないことにした。彼女はもう、私が何を考えているのか知っていると思う。いつも通り駅まで送って改札口で手を振ると、何度も何度も振り返りながらホームへの階段を下りて行った。

 今度の旅を終えたら、一週間おきに三日ずつ入院を四度繰り返し、その後体力回復のために二週間自宅療養をする。それからどうなるのかは、私にも医師にもわからない。わかっているのは、血液に乗った細胞が次にどこかで大きくなる可能性が高いということと、五年後に私が生きている可能性が極めて低いということだ。治療を繰り返して細々と命を繋いでいても、寛解して健康を取り戻していても、五年は五年だから、どんな日々を過ごして五年後の日を迎えるのか、それとも迎えることができないのか。
 先の保証の何もない日々を、彼女と共有したくない。金銭的に生活が不安なだけでなく、検査の結果に一喜一憂するような不安さを、与えることはできないのだ。あの優しい人は、必死に寄り添おうとしてしまう。もう十分に、そんな生活をしたというのに。
「会えなくなるのか」
 ぽつりと口からこぼれた途端、血液が冷えた気がした。告げなければ、ずっとこのまま彼女を引き留めておける。彼女の提案通り近所に住まって、休みの日にも夜にも好きなときに会い、互いの体調や生活を気遣いあいながら……一方的に気遣ってもらうのは、私のほうだ。そしてそんな生活を続ければ、私は完全に彼女を自分の中に取り込みたくなるだろう。

 未来ではなく今の幸福が欲しいと、彼女は言った。けれど不安含みの未来が目の前に見えていて、曇りのない幸福などあろうはずがないのだ。せめて穏やかな優しい日々の見える日常を、彼女に得て欲しい。それが叶うのならば、私の寂しさなど飲み込んでみせる。
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