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淡く咲きて宴を待つ 4
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彼の新しい本が出るらしい。私は以前読ませてもらったけれど、それが本の形になって書店に並ぶのならば、とても嬉しいことだ。これで外で稼がなくても良くなるのではないかと思ったら、そんなことにはならないらしい。私には本を売ってお金になる仕組みはよくわからないのだけれど、彼が言うところによれば、文筆だけで食べて行けるなんてひと握りしかいないと。あの細い身体で栄養ゼリーを啜りながら、毎日電車に乗っているのだと思うと、たまらなくなる。けれど私には、どうすることもできない。
弁護士さんから、念書は取れたという連絡が来た。それでもまだ納得しきれてはいないようだから、直接の連絡を禁止するときっちり言い聞かせたとのこと。
「今度何かあったら、私から奥さんに連絡して、全部の事情を話してやります」
「おっと、接触禁止は守ってくれよ」
結局あの家を売って、奥さんの実家近くにアパートを借りることになるようだ。そうなると、もうあの庭はなくなるのか。私が花の手入れをしていると、幼児に戻った義母はそのときだけおとなしく、それを見ていた。
赤いお花、黄色いお花、トミちゃんは春が好きよ。トミちゃんのお庭に蝶々が遊びに来てね、ひらひら、ひらひら……
夜中に何度も起され、粗相の後始末をし、どこで汚してきたのかわからない服を脱がせる。デイで入浴してきてくれるのは有り難かったけれど、歯磨きを嫌がるので口臭がひどかった。家の中でも迷子になり、テレビ番組が気に入らないと癇癪を起し、鍵のついた冷蔵庫の前で開かないと泣いた。元気なころに気に入ってよく着ていた服に、鋏を入れたこともあった。
悼むことより先に、電池が切れた。記憶が途切れ途切れのあの期間に、私は義母や家を思い出したことがあったろうか? 自分がひどく冷たい人間に思え、唇を噛む。
あの家で私は、何をしていたのだろう。結婚相手の母だというだけの、病気を抱えた痴呆老人の介護をするために、私は何を犠牲にした? そして得た大金は、何に対する慰謝なの? 口座のお金は触れることすら厭わしく、実家の金庫に通帳だけがある。
終わったことだ、もう全部私には無関係なのだ。義母の可愛らしい声だけが、ときどき愛しく耳の中だけに囁く。お母さん、ありがとね。
休薬の期間だからと、彼と一緒に電車に乗って出掛ける。美術館を一回りして、ベンチで休憩した。もうコーヒーだって飲めるんだよ、と嬉しそうに缶のアイスコーヒーを傾ける彼の首は、筋が浮き出ている。ガラス窓に流れる梅雨の雨を眺め、黙って隣に座っていることが、こんなに満ち足りた気持ちになるなんて、想像もしなかった。
湿度の高い畳の部屋、外の強い雨の音。彼への気持ちの帰着点はそこだと思っていたのに、それ以上に重要なことがあるような気がする。
元夫と結婚する前は、どうだったろう? 言葉もない時間が重要だなんて考えたことがあった? それでも結婚したときに、彼を好きだったことには変わりはないのだけれど、少なくとも彼が単身赴任したころにだって、黙って座っていても満足しているかどうかなんて、気にもしていなかったように思う。キラキラした恋の時間は、楽しく一緒に笑えることばかりを考えていた。もちろん外見も大切で、一緒に歩くときのお互いの服装が場面にそぐうものかどうかとか、知り合いと顔を合わせたときに馬鹿にされないかとか、そんなことも考えた。
彼は今、骨の上に皮が張り付いているかのように痩せてしまって、それでなくとも差のある年齢よりも更に離れて見えるだろう。外から見れば私と彼は、一緒に歩いて似合いの間柄ではなく、共通の話題は、そんなに多くない。それにもかかわらず、彼の隣に座っていたいと思う。
これはやはり、恋だ。知っている恋と形は違うけれど、愛欲や情ではなくて恋なのだ。
帰りの電車の中で、彼がウトウトと目を閉じる。乗り換え駅近くになり、ここで別れなくてはならないのが惜しくて、彼の横顔をしばらく見ていた。
「先生、そろそろ到着ですよ」
声を掛けて起こすと、彼は目をしばたいて背筋を伸ばした。
「お疲れになりましたか。家まで大丈夫ですか」
「少しウトウトしましたね。ああ、今日は楽しかった」
私の乗換駅はもう少し先なので、窓越しに手を振った。顔まで痩せて眼鏡の幅が合わなくなったと、スポーツ用の眼鏡ストラップをつけた髪に、白髪が目立った。ここまで白髪の多い人だったのか、それとも最近増えたのか。痛々しい顔をしてみせてはいけない。不安なのは彼なのだから。
弁護士さんから、念書は取れたという連絡が来た。それでもまだ納得しきれてはいないようだから、直接の連絡を禁止するときっちり言い聞かせたとのこと。
「今度何かあったら、私から奥さんに連絡して、全部の事情を話してやります」
「おっと、接触禁止は守ってくれよ」
結局あの家を売って、奥さんの実家近くにアパートを借りることになるようだ。そうなると、もうあの庭はなくなるのか。私が花の手入れをしていると、幼児に戻った義母はそのときだけおとなしく、それを見ていた。
赤いお花、黄色いお花、トミちゃんは春が好きよ。トミちゃんのお庭に蝶々が遊びに来てね、ひらひら、ひらひら……
夜中に何度も起され、粗相の後始末をし、どこで汚してきたのかわからない服を脱がせる。デイで入浴してきてくれるのは有り難かったけれど、歯磨きを嫌がるので口臭がひどかった。家の中でも迷子になり、テレビ番組が気に入らないと癇癪を起し、鍵のついた冷蔵庫の前で開かないと泣いた。元気なころに気に入ってよく着ていた服に、鋏を入れたこともあった。
悼むことより先に、電池が切れた。記憶が途切れ途切れのあの期間に、私は義母や家を思い出したことがあったろうか? 自分がひどく冷たい人間に思え、唇を噛む。
あの家で私は、何をしていたのだろう。結婚相手の母だというだけの、病気を抱えた痴呆老人の介護をするために、私は何を犠牲にした? そして得た大金は、何に対する慰謝なの? 口座のお金は触れることすら厭わしく、実家の金庫に通帳だけがある。
終わったことだ、もう全部私には無関係なのだ。義母の可愛らしい声だけが、ときどき愛しく耳の中だけに囁く。お母さん、ありがとね。
休薬の期間だからと、彼と一緒に電車に乗って出掛ける。美術館を一回りして、ベンチで休憩した。もうコーヒーだって飲めるんだよ、と嬉しそうに缶のアイスコーヒーを傾ける彼の首は、筋が浮き出ている。ガラス窓に流れる梅雨の雨を眺め、黙って隣に座っていることが、こんなに満ち足りた気持ちになるなんて、想像もしなかった。
湿度の高い畳の部屋、外の強い雨の音。彼への気持ちの帰着点はそこだと思っていたのに、それ以上に重要なことがあるような気がする。
元夫と結婚する前は、どうだったろう? 言葉もない時間が重要だなんて考えたことがあった? それでも結婚したときに、彼を好きだったことには変わりはないのだけれど、少なくとも彼が単身赴任したころにだって、黙って座っていても満足しているかどうかなんて、気にもしていなかったように思う。キラキラした恋の時間は、楽しく一緒に笑えることばかりを考えていた。もちろん外見も大切で、一緒に歩くときのお互いの服装が場面にそぐうものかどうかとか、知り合いと顔を合わせたときに馬鹿にされないかとか、そんなことも考えた。
彼は今、骨の上に皮が張り付いているかのように痩せてしまって、それでなくとも差のある年齢よりも更に離れて見えるだろう。外から見れば私と彼は、一緒に歩いて似合いの間柄ではなく、共通の話題は、そんなに多くない。それにもかかわらず、彼の隣に座っていたいと思う。
これはやはり、恋だ。知っている恋と形は違うけれど、愛欲や情ではなくて恋なのだ。
帰りの電車の中で、彼がウトウトと目を閉じる。乗り換え駅近くになり、ここで別れなくてはならないのが惜しくて、彼の横顔をしばらく見ていた。
「先生、そろそろ到着ですよ」
声を掛けて起こすと、彼は目をしばたいて背筋を伸ばした。
「お疲れになりましたか。家まで大丈夫ですか」
「少しウトウトしましたね。ああ、今日は楽しかった」
私の乗換駅はもう少し先なので、窓越しに手を振った。顔まで痩せて眼鏡の幅が合わなくなったと、スポーツ用の眼鏡ストラップをつけた髪に、白髪が目立った。ここまで白髪の多い人だったのか、それとも最近増えたのか。痛々しい顔をしてみせてはいけない。不安なのは彼なのだから。
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