芙蓉の宴

蒲公英

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戻り霜の降りる枝 2

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 一時間も歩いただろうか。逆側の駅に歩きつくころ、今まで怒りの感情が湧いていなかったことに気がついた。ただ閉じてしまっていただけで、夫に対しての感情はうすぼんやりとしていたのだ。こんなに時間を経ての怒りに戸惑い、それでも私の中に夫を罵る言葉が渦を巻く。治まらない怒りに翻弄され、気が狂いそうだ。耳を塞ぎ、大きく息を吐いてみる。こんな状態でひとりの部屋は耐えられない。もう少し歩いてみようと、夕暮れが近くなった国道を歩き出した。
 私に何の関係もなく走り去っていく車たちの音は単調で、私を宥める囁きのようだ。今更怒ったって、どうしようもないじゃないの。夫が言った通り、復讐をしようとでもいうの? そんなことはしたくない。ただ膨れ上がってしまった感情の出口がなくて、苦しいだけ。暗くなり始めた国道を歩く人は少なく、人影の見えない瞬間すらある。ここで叫ぼうか。そうすれば少しは気が晴れるかも知れない。足を止めて、車道に顔を向けてみる。けれど言葉は浮かばずに、大きく息を吐いただけだった。
 寒い。そろそろ帰らなければ。思った瞬間身体がぶるりと震え、上着の襟を締め直した。いつの間にか、日がとっぷりと暮れていた。

 スマートフォンで地図を表示すると、自分が思っているよりも線路から逸れて歩いていたようだ。怒りに任せて、ずいぶん無茶に歩いてしまった。車の行き交う国道に空のタクシーなど通るわけもなく、正気に戻りつつある足が急に重くなる。
 馬鹿は、私も同じだ。夫が私を使い捨てようとしているなんて、少し考えればわかることだった。介護義務のない人にかまけて、自分を蔑ろにすることが正しいと思っていた。その結果自分の生まれた家に手間と心配をかけ、更にまだ別れた夫によって迷惑をかけている。呆けていたときも今も、守られているだけで満足している。だから夫は私を弱いものと認識し、攻撃対象にしようと思ったのだろう。自分が悪くなくとも、責めれば自分を曲げるだろうと。ずっとそんなふうに認識させて放っておいた馬鹿は、私だ。

 そのとき、手の中でスマートフォンが震えた。液晶に表示されたのは、彼の名前だった。
「もしもし、北岡さんですか」
「先生、ですか」
「先生と呼ばれるような人間ではないですね。須々木です」
 相手の声は淡々としている。国道を走るトラックが、ガタガタと大きな音を立てた。
「外にいらっしゃるのですか。用事があるわけではないので、また今度に」
 彼の言葉を遮った。
「先生、何か話していただけませんか」
 道路の案内標識に、駅の方向が示されていた。この場所からたっぷり三十分は歩くはずで、その間に自分をもう少し宥めておきたくて、他人の力を借りられればと思った。
「どちらにおられるのですか」
「知らない道です。感情に任せて歩いてきてしまって、軽く迷子です」
「こんなに寒いのに」
 彼の低く笑う声は、夏の縁側を思い出させた。
「家の近所に、梅畑があるのですよ。もうちらほらと咲きはじめていたので、春が近いのだなあと」
「今通り過ぎた庭にも、白いものが見えました。梅なのですね」
「春に先駆けて咲いて、実でも人間を楽しませてくれる。非常に有難い樹木です」
「梅のジャムが好きです、私」
 長閑な会話が、私を戻していく。こんなに何もない日常会話に、救われている。実家に戻ってからも人付き合いをしようとしなかった私には、用もなく連絡をする相手もいなかったのだ。

 建物が混みはじめ、駅が近づいてきたことを知る。
「もうじき駅です、先生。すっかり気持ちが落ち着きました。ありがとうございます」
「何かあったのですか」
「いつかお話するときが、あるかも知れません」
 そこで話が途切れた。
「先生?」
 思い浮かんだ言葉を、スマートフォンに向かって発してみた。
「私も梅畑が見たいです。白い花と紅い花、両方咲いているような」
「尾形光琳の屏風みたいですねえ。どこかに出かけますか」
「ご一緒させてください」
 住宅地を抜けると商店が増え、ここがこの土地のメインストリートらしい。
「もう、駅に到着するようです。今度はこちらからお電話します」
 では、と通話を終えた。自分の表面に出ていた怒りの感情が、何層か下に畳まれた気がする。その代わりのように浮かんできたのは、彼の腕だった。
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