芙蓉の宴

蒲公英

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須々木浩則の記憶 5

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 その後私は離婚を成立させ、本格的にひとりの生活をはじめた。何かのバラエティ番組で芸能人が私の著書を紹介してくれたらしく、急に何やら依頼が来てバタバタしたり、書きたい内容について取材ついでにアルバイトをしてみたりと、相変わらず死なない程度に稼ぎつつ日々が過ぎて行く。
 二年の間に何度か母の家には訪れたが、彼女と顔を合わせることはなかった。忘れたわけではなく、折に触れて私の脳裏には白い貌があらわれたが、探しに行こうとは思わなかった。介護する生活が続いているかも知れず、疲れた彼女をますます煩わせるかも知れない。もしかするとご主人が戻って一緒に生活している可能性もある。少しでも彼女が癒されるのならば、私が強引に連れ出すよりも余程良い。

 夏に、公園で酔芙蓉が咲いているのを見た。途端に私の身体は、雨上がりの湿った空気に包まれた気がした。あの薄暗い部屋の中で、ここで死にたいと言った彼女は、何を考えていたのだろうか。自分の手を広げて、眺める。この腕の中に抱えた細い身体は、私が思っていたよりも多くのものが詰まっていて、それがあの言葉になったのか。
 もう一度会いたいと、強く思う。芙蓉の薄い花びらのように淡く儚い記憶のままではなく、彼女の表情が見たい。名前も知らぬ女、ただ一度きり身体で会話した女が、記憶の中で鮮明に私の背を掴む。
 恋だというのか。あんな淡い繋がりが、恋だったとでもいうのか。酔芙蓉の花の赤みが、私の下で目を閉じた彼女の目蓋の色のようだ。

 そしてその年の秋の終わりに、姉と待ち合わせて母の家を訪れた。骨が脆くなっているらしく、転んで腰椎を圧迫骨折したという。これからできなくなることが増えていくだろうと、先の相談をするためだった。家庭のある姉の家に母を入れることはできず、今すぐではなくとも生活を介助する人間を頼むのか、それとも母の住居環境をまるっと変えるのか、それとも。ゆっくりと確実に、母は老いていく。あまりリアルでなかった呑気な息子にも、現実は容赦がないのだ。
「そういえばさ、こっちに住んでる友達に聞いたんだけど、ひっどい話があるんだ」
 煎餅を齧っていた姉が、茶飲み話をはじめた。
「痴呆の母親を嫁に押しつけて単身赴任してた男が、母親が死んでから一年もしないうちに子供連れて帰ってきたらしいよ」
「単身赴任なのに子供を連れてって、どういうこと?」
 母が興味津々に身を乗り出す。
「嫁が介護してる間に、自分は向こうで違う女と子供作ってたんじゃない? 嫁が見えなくなったのは、葬式から三ヶ月も経ってなかったらしいから。いっくら近所づきあいの薄い新興住宅地だって、嫁がひとりで介護してたのは、みんな見てるからね。知っててあの家に入ったんなら、新しい嫁も相当だわ」
 夫が単身赴任で、ひとりで介護をしていた。掴んでいた湯呑みが、沸騰しているような気になった。その人は、俺の知っている人か。
「やだ、浩ちゃんが怖い顔してる。夫婦のことなんてもう無縁なくせに」
 姉の言葉が、頭の左斜め上に浮いた。

 散歩してくるとサンダルをつっかけると、門柱の横の酔芙蓉が目に入った。花はもう終わり、萎んだ花びらが数日前には咲いていたのだと告げる。二年前に門柱に凭れていた人は、どうしているのか。姉の話が彼女のことならば、それはどれほどひどい仕打ちだろう。
 記憶の彼女が歩いて行った方向に、歩いてみる。比較的新しい住宅の並ぶ一角の表札を見て歩いたが、高橋の姓は見当たらなかった。確認してどうしようというのではない筈なのに、私の心はひどく揺れていた。
 思い浮かぶのは、微笑みながら大粒の涙を零している顔。意外なほど闊達な笑い声も半泣きに走ってくる姿も、忘れていない。そして雨の日の畳の部屋の空気や、私を取り込んで熱く波打った身体を、すべて覚えている。

 あのとき、名前だけでも訊けば良かった。こちらの連絡先を教えておけば、彼女が救いを求める相手になれたかも知れない。いやせめて家の場所だけでも知っていれば、ここに残っている幼馴染に何か頼めたかも。
 遠くから気にしているだけでは、何の役にも立たない。何があってどうしたのかなんて、そして彼女がどんな状態なのかなんて、私は知りようがないのだ。
 僕と一緒に来ませんか。自分の言葉が自分の背を打つ。問いかけるだけでなく、来て欲しいと望めば良かった。

 薄暗くなって街灯が灯った狭い道で、門柱の横の酔芙蓉の葉が揺れた。後悔は後悔でしかなく、ざわめいた心のまま、私にはどうすることもできない。

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