芙蓉の宴

蒲公英

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須々木浩則の記憶 2

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 三日目のことだった。あとから考えれば、ほんの数分のタイミングではあった。寝惚け眼で雨戸を開けたとき、柵の外側からこちらを窺っている老女が見えた。母の知り合いが、留守だと知らないで訪れたのかと思い、家の中から声を掛けた。
 老女は途方に暮れたような顔であたりを見回し、それからボソボソと何か言った。こちらに向かって話しているので知らぬ顔もできず、サンダルをつっかけて外に出た。
「ここは、誰のおうち?」
 発音は明瞭だったが、様子がおかしい。
「トミちゃん、迷子になっちゃったみたい。ここはトミちゃんのおうちじゃない?」
 幼い子供のように、視線をあちこちに向ける。おかしな人なのかとも思ったが、彼女の身形は綺麗だった。
「どちらから見えたのですか」
「ねえ、このお花ちょうだい」
 柵越しに庭の花を毟り、手にしっかり握る。どうもこれは、訊きだせそうもない。洗濯物を干していた隣の主婦が、何事か顔を見せた。
「あっちに新しい建売がたくさんできたから、その中の人だと思うんだけど、わからないねえ。迷子札か何かつけていないかしら」
 胸に高橋と姓だけが縫いつけてあり、隣の主婦とどうしようかと相談しているうちに、老女はまた歩きだそうとする。引き留めようと話しかけると、しくしくと泣き出した。
「おうちに帰りたい」
 困り顔の隣の主婦が、警察に連絡すると家に入って行った。

 半泣きの彼女が走って来たのは、そのときだった。
「トミちゃん!」
 老女の肩に手を置き、彼女は息を切らしていた。
「見つかって良かった。ひとりで外に出てはいけないでしょう」
 老女は子供のような顔で笑い、握っていた花を彼女に差し出した。
「おかあさん、あげる」
「それ、どこから持ってきたの? よそのお庭からちぎってしまったの?」
  老女は首を傾げ、おうちに帰ると言う。そこにパトロールカーがあらわれ、警官は彼女と何か話したあとに、ふたりを送っていくと言った。
 彼女は私と隣の主婦に何度も頭を下げ、パトロールカーに乗り込んだ。

 その日のうちに隣の主婦が警官から聞き出した話だと、彼女は家で認知症の母親の介護をしており、病院に連れていくために玄関の鍵を掛けている僅かな隙に、老女は庭から出てしまったらしい。そして老女老女と連呼してしまっているが、まだ還暦を迎えたばかりの年頃だという。
「旦那さんは単身赴任らしいわよ。奥さんのほうのお母さんなのかしらねえ。だとしたら旦那さんも大変だわね」
 私自身母が七十をいくつか過ぎており、ここにひとりで住まわせておくことについて、姉と何度か話したことがある。介護は少しずつ近づいてくる問題ではあった。
「僕も帰って来たほうが良いのかな」
「あら、だって奥さんは東京の人でしょう? シゲちゃんなら大丈夫よ、私たちがいるもの」
 離婚することは、別に話していなかった。地元の密な人間関係は、年配者の多い地域では心強い。

 午後の遅い時間に、彼女は挨拶に来たらしい。隣の主婦が言うには、すごいスピードで来てすごいスピードで帰って行ったそうだ。生憎と私は買い物に出ており、彼女と会うことはなかった。
「とても礼儀正しい奥さん。須々木さんにもくれぐれもよろしくって言ってたわ」
 ペンネームではなく、家の表札を覚えてくれていた。


 その翌日は、大型のドラッグストアだった。彼女はカート一杯に紙オムツだの消臭スプレーだの住宅用の洗剤だのを積んでおり、やたら忙し気に歩いていた。
「やあ、先日は」
 声を掛けた私の籠には数本の発泡酒と鎮痛剤だけで、彼女の大荷物との対比は激しかった。
「あ、先生。昨日はありがとうございました」
 彼女は丁寧に頭を下げた。
「先生はやめてください。それより大変な荷物ですね」
「買える日に買っておきたいんです。いつ、何があるかわかりませんから」
 母親が還暦を迎えたばかりということは、彼女はまだ三十代前半か二十代ではないだろうか。レジ台まで一緒に歩いたので、ついでに車への積み込みを手伝った。
「歩いて来られたのでしたら、乗っていきませんか。どうせ通り道ですもの」
 お言葉に甘えて後ろの座席に乗ろうとすると、助手席に乗ってくれという。
「母の通院のために、チャイルドロックしてあるんです。安全運転しますので、どうぞ助手席へ」

 誘われるがままに車に乗せてもらい、少しだけ話をした。母親は週に五度ほどデイサービスに通い、その間に家事を片付けるのだと言った。
「母が顔を認識できるのは、私しかいないんです。私を母親だと思っているので、家の中でも後追いするのですよ。デイサービスのバスにも乗りたがらなくて、朝は大変です。でも、素直なので」
 彼女は明るく言ったが、買いこんだ商品を考えれば、それほど生易しいことでないことは察せられた。それにこの痩せ方は、健康的とは言えないと思った。
「手伝ってくれる人は、いないのですか」
「デイには通っていますし、ときどき民生委員さんが訪ねてくださいますから。単身赴任で頑張ってくれている主人に、これ以上負担を掛けたくありませんし」
 何の知識もない私が、彼女に何を言ってやれたろう。気がつけば彼女は、化粧をしていない。流行のないTシャツやジーンズも、新しいものとは言い難かった。傍目から見ればどこか危うく見える生活の上に、彼女は必死に踏ん張って立っていたのだ。

「ご本、すぐにお返しできると思ったのですが、なかなか進まなくて」
「あれは差し上げます。いつか暇つぶしにでも」
 そう答えながら、この人の手が空くということは、母親が亡くなることなのだろうなと思った。
「ずっと読書から離れていたので、読解力も集中力も落ちてしまっているようです」
「疲れているのですよ。活字を追うよりも、コーヒーでも淹れたほうがいい」
 家の前で車が止まり、私は礼を言って降りた。
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