47 / 54
もう一声
しおりを挟む
研修にスライドが使えるので、テキストは書き込めるように簡単に作り、PowerPointで画像やチャートを入れてみた。一通り見直した後に、明らかに説明不足だと思える部分を差し替えたりする。久しぶりのデスクワークは目が疲れて肩が凝るけれど、意外に楽しい。
無駄じゃなかったんだなあ。仲間内の会話に入れなくて悲しかった記憶しかない会社員生活でも、まったくの無駄じゃなかったんだ。だって今、自分の中に残っているものはあるじゃないか。少なくとも事務経験がなければ、こんな風に複数のソフトを使いながらのプレゼン資料なんてできない。そしてまた、違うことに気がついた。
これが使えるようになったのって、自力で勉強したんじゃない。誰かに教えてもらったから、操作できているのだ。複雑なテクニックは使えなくとも、基本操作を教えてもらったことは間違いない。パソコンの操作に嫌悪感がないってことは、それについてイヤな記憶がないってことだ。新入社員だったから親切にしてもらっていただけだったのか?
固まっていく仲良しグループ、同じロッカールームにいるのに自分だけ誘われない夕食の相談、ついていけない話題の盛り上がり。隣に誰もいないことに気がついてもらえず、孤独感ばかり膨らませていたけれど、何か間違ってた?
昼休憩に入る時間に、今日は自分からキッチンでお茶を淹れてみた。一緒に昼食を摂るつもりで、あらかじめ朝からベーカリーでパンを買って来ている。
「そこのお店、私も好き。デニッシュ系がカリカリで美味しいよね。パンが好きなの?」
「カロリーが高いのはわかってるんですが、好きなんです」
そこでもう一声、がんばれ和香。
「おすすめのお店ってありますか。同じ店ばっかりグルグルしてるから、新規開拓したいです」
たった一言で、話は広がるのだ。気に入ったベーカリーの話からケーキ屋の話になり、またパン屋の話に戻る。あちこち飛ぶ会話で、賑やかになる。
「そのお店、気になります。行ってみようかな」
和香の言葉に、反応する人がいる。
「結構近いから、帰りに寄ってく? 案内するよ」
おそらく一歳か二歳若い女の子が、にこにこする。
「じゃ、頑張って定時に帰れるように資料作るね」
会社でのスムーズな会話なんて、はじまりはこんなものだ。返事を言い切りの形で終わらせなければ、雑談に参加できる。雑談に参加できれば、その中で気が合う人ができるかも知れない。
これで良いだろうと作った資料をプリントアウトして、副社長に提出した。
「現場なんて一番詳しいのは和香ちゃんなんだから、誰が作るのより正解だよ。あとは竹田に見てもらってね」
ざっと見ただけでオーケーをもらうのは、信用されているのか投げやりなのかわからない。戻ってきた片岡・菊池ペアは和香に大甘で、すごいねえ大したもんだねえと褒めるだけ褒めて帰り支度をしているし、少し遅れた由美さんは学童保育の用事があると慌てて帰ってしまった。竹田さんと植田さんが遅いなーと思いながら待っていたら、ノックがあって事務さんが顔を出した。
「榎本さん、出られる? パン屋さんに行こ、お茶飲むスペースもあるから」
定時はもう過ぎているのだから、帰っても大丈夫。
「出られます! お茶も飲めるの?」
バッグを掴み、すれ違うように戻ってきた竹田さんにチェックしてくれるように頼んだ。
「何、俺にだけ残業させて帰るわけ?」
途端に申し訳なさそうな顔になる和香に、竹田さんは笑う。
「ウソだよ、まったく。トクソウ以外とも喋れるようになって、良かったじゃん」
社内にいるときにトクソウ部の部屋から出ない和香に、竹田さんは気がついていたのか。
紹介されたベーカリーは、小麦の香りが強くて美味しかった。少しずつ話していくうちに、お互いに好きな漫画が被っていることを知った。そうなれば会話を続けるのは簡単で、お茶なんかすぐに飲み終わってしまう。
「ああ、楽しかった。まさか社内で漫画の話ができると思わなかった」
「私も」
「榎本さんっていつも挨拶だけしてトクソウの部屋に籠っちゃうし、なんか謎の人だったんだよね。もっと出てくれば良いのに」
嬉しい。和香のアクションは一言だけで、おすすめのパン屋を訊いたってことだ。そんな小さな一歩すら気がつかなかった自分は、なんて大回りをしたんだろう。
「さっき言ってた紅茶の専門店、今度一緒に連れてって。興味あるんだ」
「もちろん! 素敵な店なの!」
どうせ行くのなら、水木先生よりも彼女と行きたい。
無駄じゃなかったんだなあ。仲間内の会話に入れなくて悲しかった記憶しかない会社員生活でも、まったくの無駄じゃなかったんだ。だって今、自分の中に残っているものはあるじゃないか。少なくとも事務経験がなければ、こんな風に複数のソフトを使いながらのプレゼン資料なんてできない。そしてまた、違うことに気がついた。
これが使えるようになったのって、自力で勉強したんじゃない。誰かに教えてもらったから、操作できているのだ。複雑なテクニックは使えなくとも、基本操作を教えてもらったことは間違いない。パソコンの操作に嫌悪感がないってことは、それについてイヤな記憶がないってことだ。新入社員だったから親切にしてもらっていただけだったのか?
固まっていく仲良しグループ、同じロッカールームにいるのに自分だけ誘われない夕食の相談、ついていけない話題の盛り上がり。隣に誰もいないことに気がついてもらえず、孤独感ばかり膨らませていたけれど、何か間違ってた?
昼休憩に入る時間に、今日は自分からキッチンでお茶を淹れてみた。一緒に昼食を摂るつもりで、あらかじめ朝からベーカリーでパンを買って来ている。
「そこのお店、私も好き。デニッシュ系がカリカリで美味しいよね。パンが好きなの?」
「カロリーが高いのはわかってるんですが、好きなんです」
そこでもう一声、がんばれ和香。
「おすすめのお店ってありますか。同じ店ばっかりグルグルしてるから、新規開拓したいです」
たった一言で、話は広がるのだ。気に入ったベーカリーの話からケーキ屋の話になり、またパン屋の話に戻る。あちこち飛ぶ会話で、賑やかになる。
「そのお店、気になります。行ってみようかな」
和香の言葉に、反応する人がいる。
「結構近いから、帰りに寄ってく? 案内するよ」
おそらく一歳か二歳若い女の子が、にこにこする。
「じゃ、頑張って定時に帰れるように資料作るね」
会社でのスムーズな会話なんて、はじまりはこんなものだ。返事を言い切りの形で終わらせなければ、雑談に参加できる。雑談に参加できれば、その中で気が合う人ができるかも知れない。
これで良いだろうと作った資料をプリントアウトして、副社長に提出した。
「現場なんて一番詳しいのは和香ちゃんなんだから、誰が作るのより正解だよ。あとは竹田に見てもらってね」
ざっと見ただけでオーケーをもらうのは、信用されているのか投げやりなのかわからない。戻ってきた片岡・菊池ペアは和香に大甘で、すごいねえ大したもんだねえと褒めるだけ褒めて帰り支度をしているし、少し遅れた由美さんは学童保育の用事があると慌てて帰ってしまった。竹田さんと植田さんが遅いなーと思いながら待っていたら、ノックがあって事務さんが顔を出した。
「榎本さん、出られる? パン屋さんに行こ、お茶飲むスペースもあるから」
定時はもう過ぎているのだから、帰っても大丈夫。
「出られます! お茶も飲めるの?」
バッグを掴み、すれ違うように戻ってきた竹田さんにチェックしてくれるように頼んだ。
「何、俺にだけ残業させて帰るわけ?」
途端に申し訳なさそうな顔になる和香に、竹田さんは笑う。
「ウソだよ、まったく。トクソウ以外とも喋れるようになって、良かったじゃん」
社内にいるときにトクソウ部の部屋から出ない和香に、竹田さんは気がついていたのか。
紹介されたベーカリーは、小麦の香りが強くて美味しかった。少しずつ話していくうちに、お互いに好きな漫画が被っていることを知った。そうなれば会話を続けるのは簡単で、お茶なんかすぐに飲み終わってしまう。
「ああ、楽しかった。まさか社内で漫画の話ができると思わなかった」
「私も」
「榎本さんっていつも挨拶だけしてトクソウの部屋に籠っちゃうし、なんか謎の人だったんだよね。もっと出てくれば良いのに」
嬉しい。和香のアクションは一言だけで、おすすめのパン屋を訊いたってことだ。そんな小さな一歩すら気がつかなかった自分は、なんて大回りをしたんだろう。
「さっき言ってた紅茶の専門店、今度一緒に連れてって。興味あるんだ」
「もちろん! 素敵な店なの!」
どうせ行くのなら、水木先生よりも彼女と行きたい。
0
お気に入りに追加
30
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
思い出を売った女
志波 連
ライト文芸
結婚して三年、あれほど愛していると言っていた夫の浮気を知った裕子。
それでもいつかは戻って来ることを信じて耐えることを決意するも、浮気相手からの執拗な嫌がらせに心が折れてしまい、離婚届を置いて姿を消した。
浮気を後悔した孝志は裕子を探すが、痕跡さえ見つけられない。
浮気相手が妊娠し、子供のために再婚したが上手くいくはずもなかった。
全てに疲弊した孝志は故郷に戻る。
ある日、子供を連れて出掛けた海辺の公園でかつての妻に再会する。
あの頃のように明るい笑顔を浮かべる裕子に、孝志は二度目の一目惚れをした。
R15は保険です
他サイトでも公開しています
表紙は写真ACより引用しました
ターゲットは旦那様
ガイア
ライト文芸
プロの殺し屋の千草は、ターゲットの男を殺しに岐阜に向かった。
岐阜に住んでいる母親には、ちゃんとした会社で働いていると嘘をついていたが、その母親が最近病院で仲良くなった人の息子とお見合いをしてほしいという。
そのお見合い相手がまさかのターゲット。千草はターゲットの懐に入り込むためにお見合いを承諾するが、ターゲットの男はどうやらかなりの変わり者っぽくて……?
「母ちゃんを安心させるために結婚するフリしくれ」
なんでターゲットと同棲しないといけないのよ……。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
【完結】一夜の関係を結んだ相手の正体はスパダリヤクザでした~甘い執着で離してくれません!~
中山紡希
恋愛
ある出来事をキッカケに出会った容姿端麗な男の魅力に抗えず、一夜の関係を結んだ萌音。
翌朝目を覚ますと「俺の嫁になれ」と言い寄られる。
けれど、その上半身には昨晩は気付かなかった刺青が彫られていて……。
「久我組の若頭だ」
一夜の関係を結んだ相手は……ヤクザでした。
※R18
※性的描写ありますのでご注意ください
雨音
宮ノ上りよ
ライト文芸
夫を亡くし息子とふたり肩を寄せ合って生きていた祐子を日々支え力づけてくれたのは、息子と同い年の隣家の一人娘とその父・宏の存在だった。子ども達の成長と共に親ふたりの関係も少しずつ変化して、そして…。
※時代設定は1980年代後半~90年代後半(最終のエピソードのみ2010年代)です。現代と異なる点が多々あります。(学校週六日制等)
私と継母の極めて平凡な日常
当麻月菜
ライト文芸
ある日突然、父が再婚した。そして再婚後、たった三ヶ月で失踪した。
残されたのは私、橋坂由依(高校二年生)と、継母の琴子さん(32歳のキャリアウーマン)の二人。
「ああ、この人も出て行くんだろうな。私にどれだけ自分が不幸かをぶちまけて」
そう思って覚悟もしたけれど、彼女は出て行かなかった。
そうして始まった継母と私の二人だけの日々は、とても淡々としていながら酷く穏やかで、極めて平凡なものでした。
※他のサイトにも重複投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる