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勝手口の扉を開き、中を覗いた。機の音がしない。
「誰もいない……」
勢い込んだ分だけ拍子が抜け、サウビは懐かしい木の椅子に座り込んだ。父さんとラツカは農作業だろうが、母さんはどこに行ったのだろう。イケレは? イケレはもうこの家には住んでいないのだ。新しい住まいの場所を、サウビは知らない。
待っているうちに五日間も荷車に揺られた疲れが出て、ウトウトと眠くなる。家族を探しに行きたいと思う心とは裏腹に、サウビは立ち上がることさえできなくなっていた。
「そこに座っているのは誰だい?」
夢うつつの中で声が聞こえたとき、頭の中だけが覚醒して身体が追いつかないサウビは、椅子から大きくよろけた。
「おや、おや、まあ、まあ。この美しい娘は、私のサウビかしら」
娘の身体を支えようと手を差し出した母さんが、顔を覗き込む。
「そうよ、そうよ母さん。やっと帰って来られたわ!」
母さんの身体に手を回し、サウビは叫んだ。記憶よりも小さくて細い身体は、懐かしい匂いがした。
「そんなに力一杯抱きついてないで、ようく顔を見せておくれ。ああ、サウビだ。ここにいたときはもっと子供っぽい顔をしていたのに、すっかり大人になったね」
何度も何度も顔を撫でる手に、自分の手を重ねた。母さんの手だ。
「泣くんじゃないよ。せっかく久しぶりに会ったのに、台無しじゃないか」
そう言う母さんも涙ぐんでいる。しばらく会わないうちに、顔の皺が深くなった気がする。
大きな家ではないから、居間なんてない。みんな竈の横で食卓を囲み、暗くなれば床に就くのだ。農作業から戻って来た父さんは、サウビの顔を見て大声を出した。そしてそれを恥じるようにうっすらと笑い、いつも腰の薬を送っている感謝の言葉があった。
四人の食卓は暖かく、野菜とキノコだけのスープに固いパンでも、贅沢に感じる。食後のお茶だってけして良いものとは言えないのに、こんなに香り高く美味しいお茶は飲んだことがない。けして賑やかでない食卓なのに、小さな燭台で照らすみんなの顔は、輝いているように見える。
「明日はイケレとキズミも呼ぼう。まだ鹿の肉が残っていただろう?」
父さんが言い、母さんが頷く。
「特別な食事なんていらないのよ、父さん」
そう言うサウビに、父さんは大きな手を広げて答えた。
「何年も会っていなかった娘が帰って来たんだ。歓迎しなくてどうする」
やはり変わらずに森は貧しく、塩漬け肉は客にふるまう馳走なのだ。
懐かしい眠るための部屋は、ラツカの専用になっていた。イケレの寝台は残っていたが、詰め物の薄いマットは擦り切れ、いくつも補修したあとがある。何度も継ぎをあてたシーツをかけたあと、母さんが出してきたのは真新しい毛織物だった。
「これは母さんに使って欲しくて送ったのよ。何故使ってくれないの」
「娘にもらったものなんて、もったいなくて使えないよ。おまえが懸命に働いて、買ってくれたんだろう?」
「いやだ、母さんがこれを使ってよ。私は母さんが使っているものがいいの」
強引に交換した母さんの毛織物は、サウビが小さな頃から見知っているものだった。
「母さん、母さんの織った布は高く売れているでしょう? それなのに、まだ生活は変わらないの?」
サウビがいたころと変わらない家の中は、あの高価な布の織り手が暮らす場所には感じられない。母さんは、にっこり笑いながら言った。
「自分だけが良い暮らしをしたら、他の人に申し訳ないだろう? お金はちゃあんと貯めてある。みんなの暮らしぶりが上がったら、小出しに使うさ」
それを聞いてがっかりした顔になったサウビの肩を叩き、おまえががんばっているのは聞いているよ、と労ってくれた。
翌日はイケレとキズミも訪れ、賑やかな食事になった。馴染みのある顔も何人か訪れ、再会を喜んでくれる。森の人々は変わらずに陽気で働き者で、サウビも一緒になって焚き付けを拾いに行ったり山羊の乳を火にかけたりする。
その合間に森の中を歩いて、見覚えのある風景をもう一度確認したりする。昔のように、母さんが機を織っている間に竈の前に立ち、家の中の煤を払った。一日一日が忙しく、夕方に全員揃って食事を摂るのが幸福で、このまま森で生活しても許されるような気になったころ、母さんがふいに質問した。
「サウビはいつ、バザールに戻るんだい?」
父さんもラツカも、サウビの顔を見る。皺の増えた母さんの顔と、白い髪ばかりになった父さんと、独立しようとしているラツカがいた。ここはもう、サウビを育む家ではなかったのだ。
「次にニヨカイの使者が来るまでよ、母さん。女ひとりでは、旅はできないもの」
無理に明るく答え、スープを喉に流し込んだ。
扉を開けて、暗くなった外に出た。
「寝るような時間に、何をしている」
家の中から父さんが言う。
「父さん、バザールでは月も星もこんなに美しくないのよ。森を抜ける風の音だって、聞こえないわ。これを覚えておこうと思って」
「身体が冷えてしまう前に、家に入るんだぞ」
その言葉に頷きながら、数歩前に歩いた。
もうサウビは、森の人間ではないのだ。みんなの暮らしぶりがと母さんが言ったときに、サウビはそれに気がついた。自分は森を離れた生活に馴染んでしまって、同じようには戻れない。
森の人々の考えを違うと思い、バザールの人々に馴染むこともできない。では自分は一体、どこに行けば自分でいられるのだろう。森の風は刺すように冷たく、サウビのショールをはためかせる。それでは、自分が行きたい場所は?
場所じゃない、とサウビの中で声がする。場所なんて、どこでもいい。
翌日の午後、サウビはバザールから手紙を受け取った。二日後に使者が来るので、納品があれば纏めておいて欲しいと書いてあった。何故自分宛てなのかと不思議には思ったけれど、母さんから他の織り手や刺し手に話を伝えてもらうことにする。
「私も店に帰らなくては。手紙を書くわね」
そう言ったとき、北の森の中では不思議な生き物が、窓の外を行くのが見えた。
「馬なんて、買った人がいるのかしら」
その馬の上で翻っているマントの柄を、サウビは知っている。草原の村で、あのマントの後姿が小さくなるのを見送った。あれは。
「誰もいない……」
勢い込んだ分だけ拍子が抜け、サウビは懐かしい木の椅子に座り込んだ。父さんとラツカは農作業だろうが、母さんはどこに行ったのだろう。イケレは? イケレはもうこの家には住んでいないのだ。新しい住まいの場所を、サウビは知らない。
待っているうちに五日間も荷車に揺られた疲れが出て、ウトウトと眠くなる。家族を探しに行きたいと思う心とは裏腹に、サウビは立ち上がることさえできなくなっていた。
「そこに座っているのは誰だい?」
夢うつつの中で声が聞こえたとき、頭の中だけが覚醒して身体が追いつかないサウビは、椅子から大きくよろけた。
「おや、おや、まあ、まあ。この美しい娘は、私のサウビかしら」
娘の身体を支えようと手を差し出した母さんが、顔を覗き込む。
「そうよ、そうよ母さん。やっと帰って来られたわ!」
母さんの身体に手を回し、サウビは叫んだ。記憶よりも小さくて細い身体は、懐かしい匂いがした。
「そんなに力一杯抱きついてないで、ようく顔を見せておくれ。ああ、サウビだ。ここにいたときはもっと子供っぽい顔をしていたのに、すっかり大人になったね」
何度も何度も顔を撫でる手に、自分の手を重ねた。母さんの手だ。
「泣くんじゃないよ。せっかく久しぶりに会ったのに、台無しじゃないか」
そう言う母さんも涙ぐんでいる。しばらく会わないうちに、顔の皺が深くなった気がする。
大きな家ではないから、居間なんてない。みんな竈の横で食卓を囲み、暗くなれば床に就くのだ。農作業から戻って来た父さんは、サウビの顔を見て大声を出した。そしてそれを恥じるようにうっすらと笑い、いつも腰の薬を送っている感謝の言葉があった。
四人の食卓は暖かく、野菜とキノコだけのスープに固いパンでも、贅沢に感じる。食後のお茶だってけして良いものとは言えないのに、こんなに香り高く美味しいお茶は飲んだことがない。けして賑やかでない食卓なのに、小さな燭台で照らすみんなの顔は、輝いているように見える。
「明日はイケレとキズミも呼ぼう。まだ鹿の肉が残っていただろう?」
父さんが言い、母さんが頷く。
「特別な食事なんていらないのよ、父さん」
そう言うサウビに、父さんは大きな手を広げて答えた。
「何年も会っていなかった娘が帰って来たんだ。歓迎しなくてどうする」
やはり変わらずに森は貧しく、塩漬け肉は客にふるまう馳走なのだ。
懐かしい眠るための部屋は、ラツカの専用になっていた。イケレの寝台は残っていたが、詰め物の薄いマットは擦り切れ、いくつも補修したあとがある。何度も継ぎをあてたシーツをかけたあと、母さんが出してきたのは真新しい毛織物だった。
「これは母さんに使って欲しくて送ったのよ。何故使ってくれないの」
「娘にもらったものなんて、もったいなくて使えないよ。おまえが懸命に働いて、買ってくれたんだろう?」
「いやだ、母さんがこれを使ってよ。私は母さんが使っているものがいいの」
強引に交換した母さんの毛織物は、サウビが小さな頃から見知っているものだった。
「母さん、母さんの織った布は高く売れているでしょう? それなのに、まだ生活は変わらないの?」
サウビがいたころと変わらない家の中は、あの高価な布の織り手が暮らす場所には感じられない。母さんは、にっこり笑いながら言った。
「自分だけが良い暮らしをしたら、他の人に申し訳ないだろう? お金はちゃあんと貯めてある。みんなの暮らしぶりが上がったら、小出しに使うさ」
それを聞いてがっかりした顔になったサウビの肩を叩き、おまえががんばっているのは聞いているよ、と労ってくれた。
翌日はイケレとキズミも訪れ、賑やかな食事になった。馴染みのある顔も何人か訪れ、再会を喜んでくれる。森の人々は変わらずに陽気で働き者で、サウビも一緒になって焚き付けを拾いに行ったり山羊の乳を火にかけたりする。
その合間に森の中を歩いて、見覚えのある風景をもう一度確認したりする。昔のように、母さんが機を織っている間に竈の前に立ち、家の中の煤を払った。一日一日が忙しく、夕方に全員揃って食事を摂るのが幸福で、このまま森で生活しても許されるような気になったころ、母さんがふいに質問した。
「サウビはいつ、バザールに戻るんだい?」
父さんもラツカも、サウビの顔を見る。皺の増えた母さんの顔と、白い髪ばかりになった父さんと、独立しようとしているラツカがいた。ここはもう、サウビを育む家ではなかったのだ。
「次にニヨカイの使者が来るまでよ、母さん。女ひとりでは、旅はできないもの」
無理に明るく答え、スープを喉に流し込んだ。
扉を開けて、暗くなった外に出た。
「寝るような時間に、何をしている」
家の中から父さんが言う。
「父さん、バザールでは月も星もこんなに美しくないのよ。森を抜ける風の音だって、聞こえないわ。これを覚えておこうと思って」
「身体が冷えてしまう前に、家に入るんだぞ」
その言葉に頷きながら、数歩前に歩いた。
もうサウビは、森の人間ではないのだ。みんなの暮らしぶりがと母さんが言ったときに、サウビはそれに気がついた。自分は森を離れた生活に馴染んでしまって、同じようには戻れない。
森の人々の考えを違うと思い、バザールの人々に馴染むこともできない。では自分は一体、どこに行けば自分でいられるのだろう。森の風は刺すように冷たく、サウビのショールをはためかせる。それでは、自分が行きたい場所は?
場所じゃない、とサウビの中で声がする。場所なんて、どこでもいい。
翌日の午後、サウビはバザールから手紙を受け取った。二日後に使者が来るので、納品があれば纏めておいて欲しいと書いてあった。何故自分宛てなのかと不思議には思ったけれど、母さんから他の織り手や刺し手に話を伝えてもらうことにする。
「私も店に帰らなくては。手紙を書くわね」
そう言ったとき、北の森の中では不思議な生き物が、窓の外を行くのが見えた。
「馬なんて、買った人がいるのかしら」
その馬の上で翻っているマントの柄を、サウビは知っている。草原の村で、あのマントの後姿が小さくなるのを見送った。あれは。
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