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バザールには、南から来た春の果実が並び始めている。
「やあ、サウビ。パンが焼きたてだよ」
「知ってるわ。通りに良い香りが漂っているもの」
パン屋の包みを抱え、通りを歩く。下ろしたままの蜂蜜の髪が、風に靡いてキラキラと舞った。まだしばらく毛織のショールは必要だが、暖かくなったときのための服は、点検して風を通しておいた方が良いかも知れない。北の森の布などサウビには高価過ぎるが、少々古くなった服にリボンを縫い付けるくらいはと、店の在庫を頭に思い描いた。季節の変わり目というのは、なんとウキウキすることだろう。
ラツカの手紙を届けているうちに、医者とも懇意になってきた。男手ひとつで育てた娘が、ときどき家の中を整えてはくれているらしい。
「来なくていいと言ってあるんだが、実際のところはありがたいよ。自分のことってのは案外と億劫だからね」
そしてこう言った。
「娘の結婚相手だって俺はちゃんと見極めたつもりだが、それでも顔を見ると安心するよ。あんたも、一度や二度は帰ったことがあるだろう?」
サウビが顔を横に振ると、医者は気の毒そうな顔をした。
「親はね、贈り物より何通の手紙よりも、顔を見たいものさ。たまには顔を出してやりなさいよ」
曖昧な顔で頷き、サウビは場を辞した。医者の言葉は、子を持つ親としてのものだ。ラツカからの手紙に、母さんが会いたがっていると書いてあった。
女がひとりで旅をするには、森は遠すぎる。乗り合いの馬車も通わない道に出るのは、獣だけではない。
「サウビに紹介したい人がいるのだけれど」
何度か高額の買い物をしている客が言った。
「嫁を取りたがっている知り合いがいるのよ。お金を持っているし、穏やかな良い人なの。会ってみてくれないかしら」
普段なら話を遮ってくれるニヨカイは留守で、他の客もいなかった。
「私は誰にも、嫁入りするつもりはないのです」
「あら。女は綺麗なうちに、高く買ってくれる男に嫁ぐのが幸せですよ。あなたは綺麗なのだから、どんなお金持ちの男だって選べるわ」
金持ちに嫁いだからといって、幸福を得られるはずがない。見本は自分自身だ。
「私は自分を養うことができますし、嫁入りする相手を探してもおりません。奥様、良いお話は良いお嬢様にお持ちくださいな」
客は少々不機嫌な顔になったが、関心もない相手に会う時間があるのならば、鍋の底を磨いたほうが良いと思った。何も買わずに店を出る客を見送り、溜息を吐く。
火の村からの荷物の中に、別の梱包が入っていたらしい。それには以前と同じく、宛先もなしに渡してくれと書いてあったと、アマベキは笑った。
「あいつは俺を、自分の欠片か何かのように思っているらしい。せめて誰に渡すのかくらい書いておけ」
ガサガサした紙を解くと、中から出てきたのは首飾りだった。
「あら、綺麗な色ね。朝焼けの空みたい」
繋がった小さな薔薇は、ノキエの屋敷の庭に咲く花の色だ。ノキエが火の村に行ったときに、薔薇はまだ咲いていなかった。そして今年の薔薇は、これからの季節になる。それならばこの色は、ノキエの記憶の色だ。サウビが薔薇の手入れをしていたとき、ノキエは横に立っていた。その花を、ガラスで咲かせたのか。
サウビの中で何かが溢れ、それがそのまま涙になった。ノキエに会いたい。会ってどうしたいわけではなく、ただ顔を見て存在を感じたい。贈り物より何通の手紙よりも、顔を見たい。医者の言葉が、そのまま自分の言葉になった。
そんなサウビの様子を、ニヨカイとアマベキは黙って見ていた。
「やあ、サウビ。パンが焼きたてだよ」
「知ってるわ。通りに良い香りが漂っているもの」
パン屋の包みを抱え、通りを歩く。下ろしたままの蜂蜜の髪が、風に靡いてキラキラと舞った。まだしばらく毛織のショールは必要だが、暖かくなったときのための服は、点検して風を通しておいた方が良いかも知れない。北の森の布などサウビには高価過ぎるが、少々古くなった服にリボンを縫い付けるくらいはと、店の在庫を頭に思い描いた。季節の変わり目というのは、なんとウキウキすることだろう。
ラツカの手紙を届けているうちに、医者とも懇意になってきた。男手ひとつで育てた娘が、ときどき家の中を整えてはくれているらしい。
「来なくていいと言ってあるんだが、実際のところはありがたいよ。自分のことってのは案外と億劫だからね」
そしてこう言った。
「娘の結婚相手だって俺はちゃんと見極めたつもりだが、それでも顔を見ると安心するよ。あんたも、一度や二度は帰ったことがあるだろう?」
サウビが顔を横に振ると、医者は気の毒そうな顔をした。
「親はね、贈り物より何通の手紙よりも、顔を見たいものさ。たまには顔を出してやりなさいよ」
曖昧な顔で頷き、サウビは場を辞した。医者の言葉は、子を持つ親としてのものだ。ラツカからの手紙に、母さんが会いたがっていると書いてあった。
女がひとりで旅をするには、森は遠すぎる。乗り合いの馬車も通わない道に出るのは、獣だけではない。
「サウビに紹介したい人がいるのだけれど」
何度か高額の買い物をしている客が言った。
「嫁を取りたがっている知り合いがいるのよ。お金を持っているし、穏やかな良い人なの。会ってみてくれないかしら」
普段なら話を遮ってくれるニヨカイは留守で、他の客もいなかった。
「私は誰にも、嫁入りするつもりはないのです」
「あら。女は綺麗なうちに、高く買ってくれる男に嫁ぐのが幸せですよ。あなたは綺麗なのだから、どんなお金持ちの男だって選べるわ」
金持ちに嫁いだからといって、幸福を得られるはずがない。見本は自分自身だ。
「私は自分を養うことができますし、嫁入りする相手を探してもおりません。奥様、良いお話は良いお嬢様にお持ちくださいな」
客は少々不機嫌な顔になったが、関心もない相手に会う時間があるのならば、鍋の底を磨いたほうが良いと思った。何も買わずに店を出る客を見送り、溜息を吐く。
火の村からの荷物の中に、別の梱包が入っていたらしい。それには以前と同じく、宛先もなしに渡してくれと書いてあったと、アマベキは笑った。
「あいつは俺を、自分の欠片か何かのように思っているらしい。せめて誰に渡すのかくらい書いておけ」
ガサガサした紙を解くと、中から出てきたのは首飾りだった。
「あら、綺麗な色ね。朝焼けの空みたい」
繋がった小さな薔薇は、ノキエの屋敷の庭に咲く花の色だ。ノキエが火の村に行ったときに、薔薇はまだ咲いていなかった。そして今年の薔薇は、これからの季節になる。それならばこの色は、ノキエの記憶の色だ。サウビが薔薇の手入れをしていたとき、ノキエは横に立っていた。その花を、ガラスで咲かせたのか。
サウビの中で何かが溢れ、それがそのまま涙になった。ノキエに会いたい。会ってどうしたいわけではなく、ただ顔を見て存在を感じたい。贈り物より何通の手紙よりも、顔を見たい。医者の言葉が、そのまま自分の言葉になった。
そんなサウビの様子を、ニヨカイとアマベキは黙って見ていた。
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