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サウビ
北の森の冬は、とても寂しいのだね。
火の村に帰る途中に立ち寄った春告げの木は、ゴツゴツした幹を風に晒しているだけだった。
雪の下の農地からほんの少しだけ緑色が覗いて、それを収穫している人がいたよ。
一軒だけの宿屋にはストーブこそあったが、部屋には隙間風が吹き込んで、窓が鳴った。
けれど出されたスープは暖かく、宿のご主人は気持ちの良い人だったな。
寒さしのぎにと強い酒を勧められて、久しぶりに酔った気がする。
あなたがここで育ったことが、なんとなく納得できたような気分だ。
貧しい生活が苦しくて森を出たことも、けれど森が恋しくて仕方ないことも。
俺はあなたではないから、想像することしかできない。
でも結局、共感というのは想像だ。そうじゃないかい?
そんなわけで、はじめて手紙を書いてみた。
別に大した意味を持たない内容で、申し訳ないね。
ただあなたに、北の森に行ったことを報告したかっただけだ。
それでは。
ノキエ
目を丸くして手紙を受け取ったサウビは、一度中身を読んだあとにそれを胸に抱えて、自分の部屋に走りこんだ。階下にはニヨカイとアマベキがいるが、ふたりがどんな表情をしているのか気にする余裕がない。渡されたときアマベキは明らかにニヤニヤしていたし、ニヨカイは横から手紙を覗こうとした。それだけは覚えている。
すぐに読み終わってしまう短い文章を、何度も読み返す。冬の森の強い風にマントを翻して立つ、ノキエの姿が見たい。
会いたいのだ。ノキエに会いたい。そう望む自分の心に戸惑う。慕わしいと思い、懐かしいと思うその気持ちとは別の、身体ごと揺すられるような感情は何だ。自分の育った場所にノキエがいたというだけで、喜びたがるこの心は何だ。
手紙を胸に押し当てたまま、寝台に座り込む。そしてまた何度か読み返して、ようやっと階段を降りた。
本屋の内儀から紹介されて、ひとりで訪れた医者の家は、世辞にも儲かっていそうには見えなかった。
「妻が早く死んでね。この前まで娘が手伝ってくれていたんだが、嫁に行ってしまった。まあ小さな家だから、どうにでもなるんだが」
痩せて小さな初老の男は、片付かない部屋でそう言った。
「こんなちっぽけな医者でも、自分なりに蓄えた知識があってさ。死んだらそれが消えちまうってのも、もったいない話で」
重要な話になったわけでもないのに、サウビには確信があった。この人ならば、ラツカに知識を授けてくれる。ラツカも懸命に、この人に仕えるだろう。
「急いた話でもないから、弟さんと手紙のやりとりでもしてみるか。言っておくが、大した給金は出せないぞ。寝る場所と食うものくらいはどうにかするが、あとは患者の懐次第だよ」
よろしくお願いしますと言い、ラツカに手紙を書かせる約束をして場を辞した。愛想の良い相手ではなかったし、金回りも良くはないだろう。けれど予感でしかないが、ラツカはあの初老の医者の良い片腕になって、楽しく働けると思う。
取り急ぎで手紙を書き、北への便を探す。森に馬を預かる駅はないので、いつもなら商売の使いに持って行ってもらうのだが、それを待っていられないと思った。早く、早くラツカに知らせたい。
いくつかの貸し馬屋をまわり、近くの村まで行く客をやっと見つけたときは、足が痛くなっていた。駄賃として手を出された額はサウビの考えていた倍ほどあったが、腰のポケットから袋を出すことには躊躇わなかった。
この高揚感、こんな喜びを、誰かと分かち合いたい。まだラツカがここに来ると決まったわけではないから、大きな声で良かったと叫ぶわけでなく、ただ浮き立った気持ちを誰かにわかって欲しい。
気がつけば、サウビのまわりには人が増えた。草原の村の人はもちろん、バザールでの雇い主がいて、よく顔を合わせる商店の人たちや、親しくなった客たちもいる。懐かしい北の森の家族たちは、いつでもサウビの中にいる。
けれど喜びを共有したい人として、サウビの中に一際強く光を放つ名があった。
「ノキエ……」
たったひとりの、自分の心臓の欠片のような。そんな感情は、生まれてはじめてだった。
逃げること、生き延びること、そして立ち上がること。今までそれに精一杯で、自分の心の声に耳を傾けてやれなかった。草原の村を出て、自分にも生きてゆく力があるのだと、他人と自分の生活が同じでないことは不幸ではないのだと、知りはじめただけだ。知ることがこんなにも心豊かに、たくさんのものを感じられることだなんて。
ノキエが火の村で感じたのは、同じようなことなのだろうか。彼の長い苦しみは、おそらくもっと大変な困惑があったに違いない。何年にも渡っての恐怖や憎悪を身体から引き剥がすのは、また違う苦しみがあったのではないだろうか。
その話を聞きたい。できれば草原の村のノキエの屋敷で、長椅子に腰掛けたノキエの長い話を、サウビは聞きたいと思った。
手紙の返事を書こう。ノキエのように、内容なんかなくて良い。ただバザールでの生活で感じたことを手紙に書こう。ノキエなら、それで私が変わったのだと理解してくれる。
サウビは紙を広げ、インク壺を開けた。
北の森の冬は、とても寂しいのだね。
火の村に帰る途中に立ち寄った春告げの木は、ゴツゴツした幹を風に晒しているだけだった。
雪の下の農地からほんの少しだけ緑色が覗いて、それを収穫している人がいたよ。
一軒だけの宿屋にはストーブこそあったが、部屋には隙間風が吹き込んで、窓が鳴った。
けれど出されたスープは暖かく、宿のご主人は気持ちの良い人だったな。
寒さしのぎにと強い酒を勧められて、久しぶりに酔った気がする。
あなたがここで育ったことが、なんとなく納得できたような気分だ。
貧しい生活が苦しくて森を出たことも、けれど森が恋しくて仕方ないことも。
俺はあなたではないから、想像することしかできない。
でも結局、共感というのは想像だ。そうじゃないかい?
そんなわけで、はじめて手紙を書いてみた。
別に大した意味を持たない内容で、申し訳ないね。
ただあなたに、北の森に行ったことを報告したかっただけだ。
それでは。
ノキエ
目を丸くして手紙を受け取ったサウビは、一度中身を読んだあとにそれを胸に抱えて、自分の部屋に走りこんだ。階下にはニヨカイとアマベキがいるが、ふたりがどんな表情をしているのか気にする余裕がない。渡されたときアマベキは明らかにニヤニヤしていたし、ニヨカイは横から手紙を覗こうとした。それだけは覚えている。
すぐに読み終わってしまう短い文章を、何度も読み返す。冬の森の強い風にマントを翻して立つ、ノキエの姿が見たい。
会いたいのだ。ノキエに会いたい。そう望む自分の心に戸惑う。慕わしいと思い、懐かしいと思うその気持ちとは別の、身体ごと揺すられるような感情は何だ。自分の育った場所にノキエがいたというだけで、喜びたがるこの心は何だ。
手紙を胸に押し当てたまま、寝台に座り込む。そしてまた何度か読み返して、ようやっと階段を降りた。
本屋の内儀から紹介されて、ひとりで訪れた医者の家は、世辞にも儲かっていそうには見えなかった。
「妻が早く死んでね。この前まで娘が手伝ってくれていたんだが、嫁に行ってしまった。まあ小さな家だから、どうにでもなるんだが」
痩せて小さな初老の男は、片付かない部屋でそう言った。
「こんなちっぽけな医者でも、自分なりに蓄えた知識があってさ。死んだらそれが消えちまうってのも、もったいない話で」
重要な話になったわけでもないのに、サウビには確信があった。この人ならば、ラツカに知識を授けてくれる。ラツカも懸命に、この人に仕えるだろう。
「急いた話でもないから、弟さんと手紙のやりとりでもしてみるか。言っておくが、大した給金は出せないぞ。寝る場所と食うものくらいはどうにかするが、あとは患者の懐次第だよ」
よろしくお願いしますと言い、ラツカに手紙を書かせる約束をして場を辞した。愛想の良い相手ではなかったし、金回りも良くはないだろう。けれど予感でしかないが、ラツカはあの初老の医者の良い片腕になって、楽しく働けると思う。
取り急ぎで手紙を書き、北への便を探す。森に馬を預かる駅はないので、いつもなら商売の使いに持って行ってもらうのだが、それを待っていられないと思った。早く、早くラツカに知らせたい。
いくつかの貸し馬屋をまわり、近くの村まで行く客をやっと見つけたときは、足が痛くなっていた。駄賃として手を出された額はサウビの考えていた倍ほどあったが、腰のポケットから袋を出すことには躊躇わなかった。
この高揚感、こんな喜びを、誰かと分かち合いたい。まだラツカがここに来ると決まったわけではないから、大きな声で良かったと叫ぶわけでなく、ただ浮き立った気持ちを誰かにわかって欲しい。
気がつけば、サウビのまわりには人が増えた。草原の村の人はもちろん、バザールでの雇い主がいて、よく顔を合わせる商店の人たちや、親しくなった客たちもいる。懐かしい北の森の家族たちは、いつでもサウビの中にいる。
けれど喜びを共有したい人として、サウビの中に一際強く光を放つ名があった。
「ノキエ……」
たったひとりの、自分の心臓の欠片のような。そんな感情は、生まれてはじめてだった。
逃げること、生き延びること、そして立ち上がること。今までそれに精一杯で、自分の心の声に耳を傾けてやれなかった。草原の村を出て、自分にも生きてゆく力があるのだと、他人と自分の生活が同じでないことは不幸ではないのだと、知りはじめただけだ。知ることがこんなにも心豊かに、たくさんのものを感じられることだなんて。
ノキエが火の村で感じたのは、同じようなことなのだろうか。彼の長い苦しみは、おそらくもっと大変な困惑があったに違いない。何年にも渡っての恐怖や憎悪を身体から引き剥がすのは、また違う苦しみがあったのではないだろうか。
その話を聞きたい。できれば草原の村のノキエの屋敷で、長椅子に腰掛けたノキエの長い話を、サウビは聞きたいと思った。
手紙の返事を書こう。ノキエのように、内容なんかなくて良い。ただバザールでの生活で感じたことを手紙に書こう。ノキエなら、それで私が変わったのだと理解してくれる。
サウビは紙を広げ、インク壺を開けた。
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