薔薇は暁に香る

蒲公英

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 足を踏み鳴らして歩み寄ってくる人影は、怒りを発していた。
「女か。どうやってこの家に入った」
 その距離が寝台の長さほどになったとき、サウビはやっと声を出すことができた。
「私よ、サウビです」
 急いで机の上の燭台に火を灯し、もういちど入って来た男を見る。間近に迫っていた男の表情からは、みるみる怒りが抜けて行った。
「何故、火も焚かずに、ひとりでこの家に……」
「私は寒い土地の出です。自分だけのために薪を使うのはもったいないと思いました。お帰りになると知っていれば、ストーブに火を入れておきましたのに」
 蝋燭のおぼろな灯りの中に、懐かしいノキエの姿がある。マントだけを外したらしく、寒い時期に歩くための、長い靴を履いている。サウビが見ている前で、ノキエの表情がぐらりと揺れた。
 ノキエは両手を軽く開いて前に差し出そうとしたあと、躊躇うように小指から指を握って下に戻した。その一連の動作の間、ノキエはずっとサウビを見たままだった。

「ストーブを焚きます。どうぞ旅装を解いていらしてください」
 先に動き出したサウビを、ノキエは止めなかった。着替えに立ち会うわけにもいかないので、居間を暖めたあとにノキエの部屋のストーブに手をつけようと、サウビはすぐに算段をする。これはこの家で生活していた半年で身に着けた習い性のようなもので、使用人だからという自覚があるわけじゃない。
「いや、俺が火を熾そう。眠っているのに邪魔をして、悪かった」
「早い時間から、横になっていたんです。それに目が覚めてしまいましたもの。お腹はいかがですか、少しでしたらお菓子があります」
 ここでやっと、ノキエから笑いを含んだ声が漏れる。
「相変わらずあんたは働き者だ、サウビ。お言葉に甘えて、靴を履き替えてくるよ」
「足を洗う湯は、お持ちしたほうが?」
「台所に用意しておいてくれ。俺の部屋は寒い」
 すっかり打ち解けたやりとりが、サウビの気持ちも軽くした。自分がここにいることを、ノキエは拒否しなかった。

 焚き付けを重ねてストーブに火を点け、水を入れた鍋を上に置いた。足を洗う盥と麻布を出しているうちに、ノキエが居間に入ってくる。
「手間をかけて申し訳ない。あとは自分でやるから、休んでくれ」
 サウビの知らないシャツを着ていた。火の村で作ったものだろうか。男が自分で仕立てるはずはないから、仕立て屋に頼んだのか。それとも。
 今まで、何故それに思い至らなかったのか。ノキエは以前確かに、嫁は取らないと言っていた。けれどそれについて気が変わらないと、何か保証や確信があるか? 火の村で変わっていくノキエを、サウビは見ていないではないか。
「目が覚めてしまったと申し上げましたでしょう? お茶の仕度くらい、させてくださいな」
 棚から茶碗を二客出し、サウビは微笑んだ。ノキエの顔を、もう少し見ていたい。

「兄さんからの返事がないと、マウニがとても不安がっていましたよ」
 ノキエの前に茶碗を出しながら、サウビが言う。
「だから急いで帰って来たんじゃないか。滋養をつけさせようと途中でチーズやら木の実やらを買いこんで、大荷物を背負ってしまった」
「馬ではなかったのですか」
「老いぼれてしまって、もう長い距離を歩かせることは難しいんだ。こっちに戻ってくるときに、連れて帰って来られないだろう」
 そのときだけ、ノキエは切なそうな顔をした。
「俺の友人に、会ったそうだな」
「ええ、バザールで名を呼ばれました。人違いでなくて、却って驚きましたわ」
 アマベキの店の近くだったとはいえ、あとから考えれば人違いでも不思議のない場所だった。
「話通りの人だったと言っていたよ。目立つほど綺麗で、穏やかな話しぶりでと。あれでは引く手数多だろうとも」
「まあ、買い被りですね」
 褒められてはにかむサウビを、ノキエは微笑んで見ていた。

 夜更けの暖まった部屋は、眠気を誘う。まだ眠りたくないと抗うサウビは、長椅子の端に腕を乗せたまま、必死で目を開く。
「誰もいないはずの家で、よく私の部屋に気配を感じましたね」
 そう質問を投げかけたのは覚えている。けれどその答えは、耳には届いても頭には届かなかった。
「戻ってくるたびにあんたの部屋を見て、いないことを確認していたんだ」
 そのときにノキエがどんな顔をしていたのかも、サウビは知らない。
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