薔薇は暁に香る

蒲公英

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 草原の村を訪れると、マウニは洗濯物を入れた盥を運んでいるところだった。
「こんなに寒いのに、こんなに重くて冷たいものを運ぶなんて」
 手の中のものをひったくり、サウビはマウニの家に入った。もう午後になっており、洗濯をするには遅すぎる時間だ。
「朝は水が冷たすぎるから午後にしなさいって、イネハムが。それにこのごろ週に一度は来て、敷布みたいに大きなものは洗ってくれるのよ。余所のおうちの奥さんは、自分で全部やってるわ。みんなで私を甘やかして」
 膨れっ面で上目遣いのマウニは、まったく変わっていない。
「みんな楽しみにしているからよ。これはどこに干せばいいの?」
 洗濯物の皺を伸ばしながら、サウビは振り返った。マウニはいつも通り、ニコニコしているはずだった。
 居間の隅に、ギヌクが工夫したらしい物干しが設えてあった。ストーブの熱でよく乾く場所なのは、マウニが希望したのかイネハムの意見なのか。これから背伸びができなくなるのを見越して、低い位置に干せるようにしてある。これだけ見ても、どんなに大切にされているかよくわかる。
「どうしたの、マウニ」
 マウニは泣きそうな顔をしていた。

 マウニを長椅子に座らせて、手土産の菓子を広げた。普段ならばすぐに手を伸ばすマウニは、サウビの肩に身体をもたせかけた。
「兄さんは、祝福してくれないのかしら。ギヌクからの手紙は、もう受け取っているはずなのに」
「なぜ、そんなことを思うの? ノキエはマウニを一生懸命育てたんじゃないの」
 膝の上でマウニの手を握り、サウビは問い返した。
「私がいたから、兄さんは他人と同じように過ごせなかったのよ。火の村にいたとき、師匠の家に住み込む少年はたくさんいたの。兄さんは彼らと過ごすこともできずに、少しでも時間が空くと家に帰ってきていたわ。だから私が嫁入りしてしまえば、あとはもうどうでもよくなったのよ。お役御免って喜んで、私のことなんか思い出しもしないんだわ」
 子を生したことのないサウビでも、はじめて身籠った不安を汲むことはできる。けれど男にそれは、理解できないのではないだろうか。そしてマウニは、イネハムやギヌクが心配するからと、弱音を吐かずに溜め込んでいたに違いない。
 サウビはマウニを抱き、背中をゆっくり擦った。まだふくらみの小さな腹は、これから動きの邪魔になるほどせり出してくるのだろう。
「ノキエがマウニを忘れるなんて、あるわけがないじゃないの。きっととても喜んでいるわ」
 くすんと小さく鼻を鳴らして、マウニはサウビの肩に顔を埋める。
「私、サウビは兄さんと一緒になって、ずっとあの家にいてくれると思っていたのに。サウビはバザールに行ってしまうし、兄さんは戻って来ない。ねえ、私はちゃんと子供を育てられると思う? 母さんが何をする人なのか知らないのに」
 大丈夫だと、何度も繰り返すしかなかった。イネハムが来てくれるし、ギヌクはやさしいからと。
「でも兄さんは、手紙の返事すらくれないの」
 子供がむずかるように、マウニはそれを繰り返した。

 ノキエが留守なのにノキエの家で眠るのはおかしな話だけれど、サウビの部屋がまだ残っている家を整えるのは、当然な気がする。人がいない家の中は寒いけれど、自分だけのために薪に火を起すのは億劫で、服を脱ぐと慌てて寝台に飛び込んだ。翌日は一日、マウニのために費やそう。話を聞き、滋養のある食べ物を用意してやり、生まれてくる子供のために準備するものを数えよう。そう決めながら、目を閉じる。
 自分の中に芽生えた羨望が、マウニを余計に輝かせて見せる。幸福な結婚をして何ひとつ不足のない夫の子を授かって、今は不安定になっていたって、すぐに女としての自信をつけてゆくだろう。
 自分は、得られなかったのに。自分が得られなかったことを、さも訳知りに慰めたり補助を申し出たり、なんて滑稽なんだろう。生命を繋ぐことも家に仕えることもできない女が、何をしようというのか。

 ウトウトしかけたとき、台所でガタンと音がした。目を開けたサウビは息を殺し、家の中の気配を窺う。冬の強い風が扉を叩いたのだと自分に言い聞かせ、目をギュッと閉じる。こんな夜更けに、誰かが訪れるはずはないのだ。家の中を歩く足音に、全身の血が冷えた。ならず者の物取りが、家の中にいるのは間違いない。
 人がいると悟られてはならない。幸い大切なものは、ずべてマウニが持ち帰って管理しているはずだ。ノキエの大切な工具は作業小屋で、頑丈な鍵をつけてある。だから人がいないとなれば、家を荒らすだけで出て行くだろう。
 頭から毛織物を被り、息を潜めて足音が通り過ぎるのを待った。外から見ても当主の部屋らしい扉のついているノキエの部屋で何も見つけられなければ、おとなしく出て行くかも知れない。けれど、もしもこの部屋を開けようとしたら?
 ならず者はまだ台所にいるらしく、ガタガタと音がする。寝台の上で身体を起し、サウビは窓を見た。もしも扉に手をかける音がしたら、窓から逃げよう。音がしないように気をつけながら服を引き寄せ、靴を履いた。
 家の中を歩く音がする。廊下をこちらに向かって進んでくる。ああ、どうぞ行き過ぎてくれますように。祈るように扉を見つめ、ショールを握りししめる。今逃げ出したほうがいいのか、それとも。

 サウビの部屋の前で足音が止まったとき、サウビは窓に走り寄っていた。慌てて閂を上げていると、扉の開く音が聞こえる。
「誰だ、何をしている!」
 それは、聞き覚えのある声だった。
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