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今回の森からの使者はキズミだと聞いて、サウビは心待ちにしていた。森から誰かが納品に来るたびに手紙を託けてはいても、たびたび贈り物を預けるわけにはいかない。森から来るのが誰とは決まっていないし、火の村に行くアマベキの使者が森に寄ることもあり、商売がきちんと回るにはまだ時間がかかりそうだ。
荷車を引いたロバが店の前に着いたのは、午後の遅い時間だった。森に何頭もいないロバを、借りてきたのだろう。ロバを引きながら歩いて来たキズミを労おうと、サウビは店の扉を開けた。納品の商談ができるような大きな店ではないので、普段ならアマベキの店で部屋を借りるのだが、キズミならばサウビの部屋に入ってもらっても構わないと、ニヨカイにも言ってあった。そのとき荷車の脇にもうひとり、男が立っているのが見えた。細いが、痩せているわけではない。まだ薄い肩と細い足、それに荷物を持ち上げるには頼りない高い腰の位置は、少年のものだ。
「ああ、なんてこと」
サウビは口を押さえた。
「誰が来たのか、ひと目でわかってしまったわ。こんなに大きく育ったのに」
「やっぱり姉さんは、ぼくを見分けてくれた」
身体の大きさの逆転を喜ぶように、ラツカはサウビの肩を抱いた。
「ラツカにバザールを見せてくれと、父さんに頼まれたのだよ」
キズミが言い訳のように言う。
「秋の種蒔きは終わったよ。木の実を干すのは、きっとイケレ姉さんがやってくれるさ。ぼくは冬の間に、来年の春の計画を立てたいんだ」
サウビの部屋に入ってもらって、用意しておいた菓子でもてなしはじめたとき、階下のニヨカイに呼ばれた。
「お客様のようだわ。ゆっくりしていてちょうだい」
何年ぶりかの弟の顔を眺めていたいのは山々でも、ここが店である以上、サウビは客の相手をしなくてはならない。
これがもしも森であったなら、針を使う手を止めて、キノコを探す足を止めて、ラツカやキズミと座っていただろう。けれどここはバザールで、自分には懐かしい人よりも優先しなくてはならないことがある。ずいぶん遠くに来てしまったものだ。贅沢な嫁入り仕度を望む母子に、惜しみなく刺繍を施したショールを出して見せる。森に住む人たちは、これを作るだけで纏うことなど生涯ないのだ。
早めに店仕舞いをしてニヨカイと一緒に部屋に戻ると、寝台の上一面に布が並べられていた。
「あら、ずいぶんたくさん運んできてくれたのね。店に置くには多いかしら」
子供をアマベキの店に置いて来たニヨカイが、品物を見ながら腕を組む。キズミが、困った顔で説明しはじめた。
「今、村で意見が分かれているのです。この店に売れば、手から離すときの金額は小さくても、売れれば結構な儲けになる。けれど売れなければ買い付けに来る商人から支払われるよりも、小さな金額になるのです。結局豊かになっているのは、名手と言われている人ばかり。たまたま上手く売れた人間も、次は売れないかも知れない。それでは公平ではないと言い出した人間がいる」
「そんなの、当たり前じゃないの。お客様は自分が欲しいものを選ぶのよ。魅力的でないものなんて売れないわ」
言葉を返すサウビに、キズミは残念そうに頭を振ってみせた。
「森を思い出して欲しい。みんな、知らないのだよ。森の小さな雑貨屋のように客が勝手に来て、必要なものを売ることが商売だと思っている。店を選んだり商品を吟味したりするなんて、考えていないんだ。俺だって来て実際に見るまでは、旅人たちの話は大袈裟だと思っていたよ。大袈裟なんかじゃなくて、もっと競争的なものだった」
ラツカは何も聞き逃すまいとするかのように、じっと耳を傾けている。確かにどの客も手に取らない商品はあって、それを預けている織り手には、金が入っていない。
「この店で売りたい人だけが、預けてくれれば良いじゃないの。買い付けの商人に売りたい人は、そっちにすればいい」
言い放ったサウビを止めたのは、ニヨカイだった。
「落ち着きなさい。もう少しキズミさんの話を聞いて」
サウビに遮られたのが残念だと言うように、キズミは続ける。
「サウビはもう、森を忘れてしまったのか。全員が同じように貧しくて、だからこそ同じように助け合って生きてきたんだ。自分だけ儲け口があるからといって他の人と違うことをすれば、途端に均衡を崩す人間だと陰口を利かれる。そんな中で生きていかれると思っているのか」
サウビは開きかけた口を噤んだ。忘れたのかと訊かれたことを、本当に忘れていたのだ。横一列の繋がりだけで生きている人たちは、同じ価値観しか持っていない。自分のことしか考えない人間は、爪弾きにされ孤立する。
「私は急いではいないのよ、サウビ。しばらくは同じように、ひとり当たりの商品の枚数を決めて店に置きたいの。そのうちに火の村みたいに、職人ごとに客がつくようになる。どうすれば上手く回るのか、森の人たちと考えましょう」
ニヨカイが締めくくり、持ってきた品物を全部引き取ると言い切った。
「アマベキに借金するわ。これを売り捌くのに、サウビも働いてちょうだい」
頼もしい店主の姿だった。
キズミとラツカが宿に引き上げ、サウビは部屋の中でひとりポツンと座っていた。ラツカにバザールを見せるために、キズミも数日滞在すると言う。おそらく両親は、ラツカを森から出すつもりなのだ。イケレが両親の近くで子を産めば、ラツカは継ぐ土地もなく財産もない。寂しいことでも、森でラツカが生きていくには糧がない。
私はもう、森の人間ではなくなってしまったのか。森の人たちの考えそうなことなど、頭の片隅にも浮かばなかった。では私は一体、どこに立っているのだろう。
そしてつい先刻の感情に、サウビの中に不思議な感覚がある。キズミの言葉に瞬間的に反発し、自分の言い分だけが正しいような気になった。ニヨカイが止めなければ、キズミやラツカが傷つくことも気がつかず、森の人々を貶めていたかも知れない。問題は、それに爽快感を覚えそうだと思ったサウビ自身にある。
荷車を引いたロバが店の前に着いたのは、午後の遅い時間だった。森に何頭もいないロバを、借りてきたのだろう。ロバを引きながら歩いて来たキズミを労おうと、サウビは店の扉を開けた。納品の商談ができるような大きな店ではないので、普段ならアマベキの店で部屋を借りるのだが、キズミならばサウビの部屋に入ってもらっても構わないと、ニヨカイにも言ってあった。そのとき荷車の脇にもうひとり、男が立っているのが見えた。細いが、痩せているわけではない。まだ薄い肩と細い足、それに荷物を持ち上げるには頼りない高い腰の位置は、少年のものだ。
「ああ、なんてこと」
サウビは口を押さえた。
「誰が来たのか、ひと目でわかってしまったわ。こんなに大きく育ったのに」
「やっぱり姉さんは、ぼくを見分けてくれた」
身体の大きさの逆転を喜ぶように、ラツカはサウビの肩を抱いた。
「ラツカにバザールを見せてくれと、父さんに頼まれたのだよ」
キズミが言い訳のように言う。
「秋の種蒔きは終わったよ。木の実を干すのは、きっとイケレ姉さんがやってくれるさ。ぼくは冬の間に、来年の春の計画を立てたいんだ」
サウビの部屋に入ってもらって、用意しておいた菓子でもてなしはじめたとき、階下のニヨカイに呼ばれた。
「お客様のようだわ。ゆっくりしていてちょうだい」
何年ぶりかの弟の顔を眺めていたいのは山々でも、ここが店である以上、サウビは客の相手をしなくてはならない。
これがもしも森であったなら、針を使う手を止めて、キノコを探す足を止めて、ラツカやキズミと座っていただろう。けれどここはバザールで、自分には懐かしい人よりも優先しなくてはならないことがある。ずいぶん遠くに来てしまったものだ。贅沢な嫁入り仕度を望む母子に、惜しみなく刺繍を施したショールを出して見せる。森に住む人たちは、これを作るだけで纏うことなど生涯ないのだ。
早めに店仕舞いをしてニヨカイと一緒に部屋に戻ると、寝台の上一面に布が並べられていた。
「あら、ずいぶんたくさん運んできてくれたのね。店に置くには多いかしら」
子供をアマベキの店に置いて来たニヨカイが、品物を見ながら腕を組む。キズミが、困った顔で説明しはじめた。
「今、村で意見が分かれているのです。この店に売れば、手から離すときの金額は小さくても、売れれば結構な儲けになる。けれど売れなければ買い付けに来る商人から支払われるよりも、小さな金額になるのです。結局豊かになっているのは、名手と言われている人ばかり。たまたま上手く売れた人間も、次は売れないかも知れない。それでは公平ではないと言い出した人間がいる」
「そんなの、当たり前じゃないの。お客様は自分が欲しいものを選ぶのよ。魅力的でないものなんて売れないわ」
言葉を返すサウビに、キズミは残念そうに頭を振ってみせた。
「森を思い出して欲しい。みんな、知らないのだよ。森の小さな雑貨屋のように客が勝手に来て、必要なものを売ることが商売だと思っている。店を選んだり商品を吟味したりするなんて、考えていないんだ。俺だって来て実際に見るまでは、旅人たちの話は大袈裟だと思っていたよ。大袈裟なんかじゃなくて、もっと競争的なものだった」
ラツカは何も聞き逃すまいとするかのように、じっと耳を傾けている。確かにどの客も手に取らない商品はあって、それを預けている織り手には、金が入っていない。
「この店で売りたい人だけが、預けてくれれば良いじゃないの。買い付けの商人に売りたい人は、そっちにすればいい」
言い放ったサウビを止めたのは、ニヨカイだった。
「落ち着きなさい。もう少しキズミさんの話を聞いて」
サウビに遮られたのが残念だと言うように、キズミは続ける。
「サウビはもう、森を忘れてしまったのか。全員が同じように貧しくて、だからこそ同じように助け合って生きてきたんだ。自分だけ儲け口があるからといって他の人と違うことをすれば、途端に均衡を崩す人間だと陰口を利かれる。そんな中で生きていかれると思っているのか」
サウビは開きかけた口を噤んだ。忘れたのかと訊かれたことを、本当に忘れていたのだ。横一列の繋がりだけで生きている人たちは、同じ価値観しか持っていない。自分のことしか考えない人間は、爪弾きにされ孤立する。
「私は急いではいないのよ、サウビ。しばらくは同じように、ひとり当たりの商品の枚数を決めて店に置きたいの。そのうちに火の村みたいに、職人ごとに客がつくようになる。どうすれば上手く回るのか、森の人たちと考えましょう」
ニヨカイが締めくくり、持ってきた品物を全部引き取ると言い切った。
「アマベキに借金するわ。これを売り捌くのに、サウビも働いてちょうだい」
頼もしい店主の姿だった。
キズミとラツカが宿に引き上げ、サウビは部屋の中でひとりポツンと座っていた。ラツカにバザールを見せるために、キズミも数日滞在すると言う。おそらく両親は、ラツカを森から出すつもりなのだ。イケレが両親の近くで子を産めば、ラツカは継ぐ土地もなく財産もない。寂しいことでも、森でラツカが生きていくには糧がない。
私はもう、森の人間ではなくなってしまったのか。森の人たちの考えそうなことなど、頭の片隅にも浮かばなかった。では私は一体、どこに立っているのだろう。
そしてつい先刻の感情に、サウビの中に不思議な感覚がある。キズミの言葉に瞬間的に反発し、自分の言い分だけが正しいような気になった。ニヨカイが止めなければ、キズミやラツカが傷つくことも気がつかず、森の人々を貶めていたかも知れない。問題は、それに爽快感を覚えそうだと思ったサウビ自身にある。
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