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ある日、ひとりの夫人が訪ねてきた。
「ああ、買い物ではないのよ。そのお嬢さんに用があるの」
勝手に接客用の椅子に座り、サウビに向かって言う。他人に命令することに慣れた、尊大な態度だ。警戒したニヨカイが、子供を抱き寄せてサウビの隣に立った。夫人は鼻先で小さく笑い、ささやかな商売だこと、と呟く。
「店主はお留守かしら」
「私ですが」
一歩前に出たニヨカイは、迷惑顔を隠そうともしなかった。
「あら、女が店を持つだなんて。しかも幼い子供を抱えて働くなんて、ご主人は余程稼ぎがないのかしら」
夫人は失礼なことを言っているつもりはないらしく、世間話のような調子で言う。
「喉が渇いたわ。お茶を出してちょうだい」
用意しようとするサウビを止め、ニヨカイに言う。
「あなたに話があるの。女店主さん、あなたに言ったのよ」
そしてサウビに、向かいに座るように指示した。
買い物ではないと最初に断っているのだから、客ではない。客ではない相手に出す茶などなく、店を整える時間は必要でも、話し相手をする義理もないのだ。
「店主を立ち働かせて、私が座るわけにはまいりません、奥様」
サウビはやんわりと拒否をした。この嵩高い夫人と向かい合って、何かを命じられるのは嫌だ。
「面倒なのね、まあいいわ。率直に言うと、私の息子があなたを嫁に欲しいと言うの。そうなればこんな小さな店であくせく働かなくても、夫に仕える生活ができるのよ。あら、お茶はまだ?」
ニヨカイは店の奥に入ったきり、顔を出さない。当たり前に不愉快で、顔も見たくないのだろう。サウビが自分で断るしかない。
「奥様。私はこの店に満足していますし、誰かに嫁入りするつもりはありません。先程ご子息とおっしゃいましたが、そのかたの見当がつきません。お引き取りください」
「知らないですって? それならこれから、ここに呼ぶわ」
勢い込む夫人の言葉を、サウビは遮った。
「ここは女のための店です。そんな場所に男を呼ぼうとする家になど、ますます嫁入りしたくありません。お引き取りください」
騒ごうとする夫人を、押し出すように扉まで連れて行く。
「なんて生意気なの。こんな店は使わないように、友達に言って歩いてやるわ」
「それなら私も適齢期のお客様に、自分で求婚することもできない男の話をしますわ、絨毯屋の奥様」
身元は知っているのだぞと強調し、サウビは夫人を店の外に出した。外に出す時に夫人の腕を掴んだ手が、汚れたような気がした。
奥からニヨカイがケタケタ笑いながら、顔を出した。子供を長椅子に寝かしつけたらしい。
「良い手並みだったわ、サウビ。でも少し惜しいわね。あの絨毯屋なら、一生贅沢な生活ができるのに」
「お金を持った家に嫁いだからって、贅沢な生活ができるとは限りませんよ。それにあの奥様のいる家に嫁に入ったりしたら、一日中あれこれ命令されそうだわ」
ニヨカイはまだ笑い、サウビの顔を覗き込んだ。
「サウビはもう、大丈夫そうね。あなたは強気な相手に対して、怯まなかった」
他人を受け入れることが上手だと、以前褒められた。けれど自分の意にそぐわないことを拒否することも、同じくらい大切なのだとニヨカイは言う。そうでないと流されてしまうと。
またあるとき、通りでひとりの男に声をかけられた。初老の男は、サウビをジロジロと上から下まで眺めた。
「あんた、ツゲヌイの内儀さんだった女だろう?」
サウビはその男に見覚えがない。
「後家だとか言って、布を商っているらしいじゃないか。亭主は乞食になり下がったのにねえ」
曖昧に返事して場を離れようとしたサウビの前に、男はまわりこむ。
「北の布の店だってな。俺ならあんたに、店を一軒持たせてやるよ。北の田舎者から俺が安く買い付けて来て、あんたが売る。ツゲヌイに卸していたものさえ買ってくれりゃ、俺も元が取れる。店の家賃は、俺が週に一度通うことでチャラにしてやるよ」
下衆な視線をサウビの胸のあたりに留め、男は楽しそうに笑う。
「女盛りを持て余してるんじゃないのか? え? どうだい、男の身体と金の両方が手に入る」
瞬間的に、殴りかかってしまいそうだった。握りしめた拳をどうにかこらえ、怒りで震えてくる足を宥めるのが精一杯だ。そんなサウビに頓着せず、男は続ける。
「最近は北の田舎者たちも生意気になって、売値を吊り上げようとしやがる。なあに、ちょっと買い控えて脅してやれば、元の通りになるさ。儲けが減るのは、お互いに面白くないだろう?」
殴りかかるかわりに、サウビは持っていたパンの包みを男に投げつけた。
「なんて下衆な男なの。私を北の森のサウビだと知らないのね。北の森は、あんたになんて二度と布を扱わせないわ」
足を踏み鳴らし、怒りをあらわにする。
「女のくせに、男に逆らうのか」
「男に逆らうことなんて、もう怖くないのよ。あんたもツゲヌイのように、物乞いをして歩くようになればいいんだわ」
男はサウビの肩を掴み、路地まで追い詰めようとする。そうか、こんなときは声を出せば良いのだ。
「助けて! この男が私に乱暴しようとする!」
サウビの叫びを耳にした数人が寄ってくると、男は舌打ちして逃げて行った。駆けつけた人に大丈夫かと労られながら、サウビは腹の奥から息を吐いた。
大丈夫、ちゃんと自分で助けを求めることができた。ノキエの名を呼ばなくても。
「ああ、買い物ではないのよ。そのお嬢さんに用があるの」
勝手に接客用の椅子に座り、サウビに向かって言う。他人に命令することに慣れた、尊大な態度だ。警戒したニヨカイが、子供を抱き寄せてサウビの隣に立った。夫人は鼻先で小さく笑い、ささやかな商売だこと、と呟く。
「店主はお留守かしら」
「私ですが」
一歩前に出たニヨカイは、迷惑顔を隠そうともしなかった。
「あら、女が店を持つだなんて。しかも幼い子供を抱えて働くなんて、ご主人は余程稼ぎがないのかしら」
夫人は失礼なことを言っているつもりはないらしく、世間話のような調子で言う。
「喉が渇いたわ。お茶を出してちょうだい」
用意しようとするサウビを止め、ニヨカイに言う。
「あなたに話があるの。女店主さん、あなたに言ったのよ」
そしてサウビに、向かいに座るように指示した。
買い物ではないと最初に断っているのだから、客ではない。客ではない相手に出す茶などなく、店を整える時間は必要でも、話し相手をする義理もないのだ。
「店主を立ち働かせて、私が座るわけにはまいりません、奥様」
サウビはやんわりと拒否をした。この嵩高い夫人と向かい合って、何かを命じられるのは嫌だ。
「面倒なのね、まあいいわ。率直に言うと、私の息子があなたを嫁に欲しいと言うの。そうなればこんな小さな店であくせく働かなくても、夫に仕える生活ができるのよ。あら、お茶はまだ?」
ニヨカイは店の奥に入ったきり、顔を出さない。当たり前に不愉快で、顔も見たくないのだろう。サウビが自分で断るしかない。
「奥様。私はこの店に満足していますし、誰かに嫁入りするつもりはありません。先程ご子息とおっしゃいましたが、そのかたの見当がつきません。お引き取りください」
「知らないですって? それならこれから、ここに呼ぶわ」
勢い込む夫人の言葉を、サウビは遮った。
「ここは女のための店です。そんな場所に男を呼ぼうとする家になど、ますます嫁入りしたくありません。お引き取りください」
騒ごうとする夫人を、押し出すように扉まで連れて行く。
「なんて生意気なの。こんな店は使わないように、友達に言って歩いてやるわ」
「それなら私も適齢期のお客様に、自分で求婚することもできない男の話をしますわ、絨毯屋の奥様」
身元は知っているのだぞと強調し、サウビは夫人を店の外に出した。外に出す時に夫人の腕を掴んだ手が、汚れたような気がした。
奥からニヨカイがケタケタ笑いながら、顔を出した。子供を長椅子に寝かしつけたらしい。
「良い手並みだったわ、サウビ。でも少し惜しいわね。あの絨毯屋なら、一生贅沢な生活ができるのに」
「お金を持った家に嫁いだからって、贅沢な生活ができるとは限りませんよ。それにあの奥様のいる家に嫁に入ったりしたら、一日中あれこれ命令されそうだわ」
ニヨカイはまだ笑い、サウビの顔を覗き込んだ。
「サウビはもう、大丈夫そうね。あなたは強気な相手に対して、怯まなかった」
他人を受け入れることが上手だと、以前褒められた。けれど自分の意にそぐわないことを拒否することも、同じくらい大切なのだとニヨカイは言う。そうでないと流されてしまうと。
またあるとき、通りでひとりの男に声をかけられた。初老の男は、サウビをジロジロと上から下まで眺めた。
「あんた、ツゲヌイの内儀さんだった女だろう?」
サウビはその男に見覚えがない。
「後家だとか言って、布を商っているらしいじゃないか。亭主は乞食になり下がったのにねえ」
曖昧に返事して場を離れようとしたサウビの前に、男はまわりこむ。
「北の布の店だってな。俺ならあんたに、店を一軒持たせてやるよ。北の田舎者から俺が安く買い付けて来て、あんたが売る。ツゲヌイに卸していたものさえ買ってくれりゃ、俺も元が取れる。店の家賃は、俺が週に一度通うことでチャラにしてやるよ」
下衆な視線をサウビの胸のあたりに留め、男は楽しそうに笑う。
「女盛りを持て余してるんじゃないのか? え? どうだい、男の身体と金の両方が手に入る」
瞬間的に、殴りかかってしまいそうだった。握りしめた拳をどうにかこらえ、怒りで震えてくる足を宥めるのが精一杯だ。そんなサウビに頓着せず、男は続ける。
「最近は北の田舎者たちも生意気になって、売値を吊り上げようとしやがる。なあに、ちょっと買い控えて脅してやれば、元の通りになるさ。儲けが減るのは、お互いに面白くないだろう?」
殴りかかるかわりに、サウビは持っていたパンの包みを男に投げつけた。
「なんて下衆な男なの。私を北の森のサウビだと知らないのね。北の森は、あんたになんて二度と布を扱わせないわ」
足を踏み鳴らし、怒りをあらわにする。
「女のくせに、男に逆らうのか」
「男に逆らうことなんて、もう怖くないのよ。あんたもツゲヌイのように、物乞いをして歩くようになればいいんだわ」
男はサウビの肩を掴み、路地まで追い詰めようとする。そうか、こんなときは声を出せば良いのだ。
「助けて! この男が私に乱暴しようとする!」
サウビの叫びを耳にした数人が寄ってくると、男は舌打ちして逃げて行った。駆けつけた人に大丈夫かと労られながら、サウビは腹の奥から息を吐いた。
大丈夫、ちゃんと自分で助けを求めることができた。ノキエの名を呼ばなくても。
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