薔薇は暁に香る

蒲公英

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 何度か店の前まで通ってくる男がいる。サウビ自身はどこで会ったのか覚えていないが、男は親密に言葉を交わしたことがあると言う。ニヨカイがいれば追い返してくれるが、そのときのサウビはひとりだった。客が途切れる時間を、見計っていたらしい。
「このお店は男のお客さまは」
 扉を背に入店を拒否するサウビに、男は言った。
「結婚相手の仕事場を確認するのは、必要だろう」
「私はあなたを知らないし、結婚なんてしないわ」
 ツゲヌイを追い返してから、サウビは自分自身でもはっきりと断れるようになっていた。あの恐ろしい男を除けることができたのだから、自分の意思を言葉にすることに躊躇う必要はない。
「おまえはしょっちゅう俺の店に来て、俺を見ているじゃないか」
 知らないと言いかけて、男の顔をもう一度見る。
「花を」
 数日に一度、店に飾る花を買いに行く。その店に、店主に命じられて花を束ねる男がいた。
「花屋はいくつもあるのに、いつもウチの店を使うじゃないか。そして俺を見て、嬉しそうに笑うじゃないか。俺に会いたくて来ているんだろう?」
 男が花屋の店員だということすら、今気がついたのだ。会いになんて通っているわけがない。けれど男は、冗談を言っている風ではなかった。
「さあ、中に入れてくれ。嫁入りの話をしなくてはならん」
 男はサウビの手首を握った。

 通りに人通りがないわけではないが、ニヨカイが言った通りバザールの人間は、他人にあまり関心がない。困った顔の女が男に手首を握られていても、どうしたのかと声をかけてくれる人はいないのだ。
「あなたのことなんて、本当に知らないのよ。離して」
 男の手を振り払おうと、サウビは大きく腕をくねらせた。けれど男の力は強く、片手でサウビの手首を握ったまま、店の扉を開けようとする。店に入れば、奥の扉はサウビの住む部屋の階段に通じる。施錠してあっても、その鍵は売上金と一緒に店の中に置いてある。
「では知らない男に笑いかけて、媚を売っていたのか。思わせぶりな淫売め」
 聞き覚えのある言葉にサウビの動きがかたまり、男は先刻までとうって変わった表情になっている。サウビの腕を捩じりあげ、男は扉を開くことに成功した。引き摺られることに激しく抵抗しながら、サウビの声は音にならない。
 人気がないわけではない道で、数軒先にはアマベキの店があるのに。男の気を引こうと考えたこともなく、ただ生活をしているだけなのに、何故またこんな思いをしなくてはならないのか。やっと自分を模索しはじめたのに。
 同じ思いをしてはならない。自分ではどうしようもなく、助けが欲しいのなら、助けを求めて叫ぶのだ。それを学ぶために、バザールに来たのではなかったのか。言葉でそう考えたわけではなく、サウビの頭はひとつの言葉を掴み取っただけだ。
「……ノキエ」
 一度声に出すと、それはすべてを解決する言葉に思えた。
「ノキエ! 助けが必要なの! ノキエ! ノキエ!」
 驚いた男の手が少し緩み、抜け出そうとしたサウビの腰を慌てて巻き取る。そのとき、サウビの目が大きく開いた。

 あの髪の色、あのシャツの形。自分に向かって走ってくるのは、自分が救って欲しいと思ったその人だ。サウビを扉の中に引き込むことに夢中になっている男は、自分を止める者が近づいていることに気がつかない。
「サウビ!」
 男の腕からもぎ取られ、サウビはノキエの脇に抱え込まれた。

 数歩遅れて走って来たアマベキが男の腕を後ろに捩じりあげ、腰を膝で押さえて動きを止める。
「どうした、サウビ。この男はどこの男だ」
 解放されたと同時に震えが来たサウビは、アマベキに返事ができない。自分の左側に感じる体温に驚くよりも、その安心感に気を失いそうだ。
「アマベキの店にいたら、あんたが呼んだ気がした。怪我はないか」
 サウビの声の届かない場所から、サウビの声を聞いたと言う。身体に力が入らずに、立っているのがやっとのサウビは、ノキエに抱えあげられた。
「おまえの店に運ぶぞ、アマベキ。小僧を寄越すから、その男を頼む」
 ノキエに抱えられたまま、サウビはまだ震えていた。
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