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マウニは泣いた。
「まだ教えてもらっていないことが、たくさんあるのよ。こんなに素敵なお友達は、二度と現れない。それに私ひとりじゃ、兄さんの家と私の家の二軒なんて、とても管理できないわ。どうしても行かなくてはならないの?」
取り縋るマウニの髪を、サウビは撫でる。サウビが森を出るときに、まだ幼かったイケレがこうして泣いていた。
「私は嫁入りするまで育った里に、何も残して来られませんでした。生活に余裕ができれば送ろうと思っていたあれこれは叶えられず、吝嗇な夫は自分の利益のために里の商売品を安く融通させていたのです。私が家族のために働ける機会を、逃すようなことはしたくない。草原の村を離れるのは残念ですが、ノキエは私の部屋を残しておいてくれると言います。一日歩けば戻れる距離です、お休みをいただいたら必ず戻りますから」
ノキエは忙しく僧院に行ったり、ギヌクと打ち合わせをしたりしている。マウニは同行しなくて良いのかと尋ねると、冷淡とも言える表情で返事があった。
「私にとってはいない人だもの。いない人なんて、死んだ人よりも関心は持てないわ」
そして表情を変えて、こう続けた。
「少しだけ、兄さんが羨ましいのよ。私にとっては憎しみの対象でしかないあの人でも、兄さんには惜しむだけの記憶があるのね。そして本当に、サウビやギヌクが羨ましい。家族に囲まれて同じ思い出を語れるなんて、どんな幸福なのかしら」
暖かい家庭はすぐにギヌクと作ることができる、そんな無責任な言葉は出せなかった。嫁入りすればライギヒとイネハムの近くに住むつもりだったマウニが、家族を切望しているのは知っているつもりだったから。ようやく近い場所に甘える場所を見出したマウニを、放り出してしまうような申し訳なさで、サウビはせつない顔になる。
ライギヒに託けた手紙は、今日中にバザールに届くはずだ。返事が来れば、ノキエの留守中にサウビは移動することになる。
もとより自分の荷物は身の回りのものだけで、麻袋ひとつで動くことのできるサウビは、ノキエの支度を優先した。薬をいくつか入れた箱の中に、スミレの砂糖漬けを忍ばせる。咳込んだときに、これを作った女がいたなと思い出せばいい。
今生の別れではない。ノキエは商売でバザールを訪れているし、アマベキとは仲が良い。自分が考えるよりも、顔を見る機会は多いのではないだろうか。マウニだって、バザールに買い物に出ることはあるはずだ。そのときは一緒に、食事をする機会だってあるだろう。
手を止めてしまえば、この家に来てからあったさまざまな出来事が、ひとつひとつ浮かんできてしまう。事情を訊きだすこともなくサウビを受け入れたマウニの笑顔や、ツゲヌイに攫われたときに馬で追って来てくれたノキエの慕わしさに、手が震えそうになる。
ようやっと腰を落ち着けて続くと思った生活は、こんなに短い期間でしかなかった。雇い主と親しくなりすぎた自分が悪かったのだろうか。けれど、楽しかったのだ。サウビ自身をサウビが動かし、その結果が感謝であったり美しく整った部屋であったり、誰かと囲む食卓であることが、とても楽しかった。こんな生活を、夢見ていた気がする。
どこで夢を見ていたのか。自分の思考に、サウビは驚いた。どこで? そうだ、北の森でそう思っていた。やさしく強い旦那さまに守られて、寒い思いもひもじい思いもせずに、穏やかに微笑んで暮らすこと。ツゲヌイに嫁げば、それが自分のものになると思っていたのだ。草原の村で続けるつもりだった生活は、自分が結婚生活に望んでいたことだった。雇い主は自分の旦那さまではなく、雇い主の妹は自分が産んだ子供や妹ではない。
雇い主に距離を置かれたからといって、縋る使用人がどこにいるだろう。それを詫びる雇い主が、どこにいるというのか。何かが最初から間違っていて、その間違いによってサウビは救われたのだけれど、少しずつ大きくなるひび割れは、いつか亀裂になる。
これしかない。ここで離れなければ互いに寄りかかりあって、どちらかが崩れるだけだ。ノキエの苦しみを、これ以上大きくしてはいけない。支度を終えた行李の蓋を閉め、手で撫でながら旅の無事を祈った。
春の祭のはじまった日に、ノキエは旅立って行った。広場で花冠の少女たちが歌っている最中に、北に向かって馬を歩かせはじめる。
「あんたのことは、ライギヒが送ってくれる。働き者のあんたには、本当に世話になった」
馬に乗る前に、サウビの手を取って跪いてみせた。
「サウビ、あんたは綺麗だ。きっと俺は戻って来たとき、あんたがいないことを悲しむに違いない」
サウビが言葉を探しているうちに、ノキエは馬に乗って腹を蹴った。
「行ってらっしゃいませ。お気をつけて」
それだけ言うのが精一杯だった。残りの声は、喉の奥に張り付いてしまったから。
「まだ教えてもらっていないことが、たくさんあるのよ。こんなに素敵なお友達は、二度と現れない。それに私ひとりじゃ、兄さんの家と私の家の二軒なんて、とても管理できないわ。どうしても行かなくてはならないの?」
取り縋るマウニの髪を、サウビは撫でる。サウビが森を出るときに、まだ幼かったイケレがこうして泣いていた。
「私は嫁入りするまで育った里に、何も残して来られませんでした。生活に余裕ができれば送ろうと思っていたあれこれは叶えられず、吝嗇な夫は自分の利益のために里の商売品を安く融通させていたのです。私が家族のために働ける機会を、逃すようなことはしたくない。草原の村を離れるのは残念ですが、ノキエは私の部屋を残しておいてくれると言います。一日歩けば戻れる距離です、お休みをいただいたら必ず戻りますから」
ノキエは忙しく僧院に行ったり、ギヌクと打ち合わせをしたりしている。マウニは同行しなくて良いのかと尋ねると、冷淡とも言える表情で返事があった。
「私にとってはいない人だもの。いない人なんて、死んだ人よりも関心は持てないわ」
そして表情を変えて、こう続けた。
「少しだけ、兄さんが羨ましいのよ。私にとっては憎しみの対象でしかないあの人でも、兄さんには惜しむだけの記憶があるのね。そして本当に、サウビやギヌクが羨ましい。家族に囲まれて同じ思い出を語れるなんて、どんな幸福なのかしら」
暖かい家庭はすぐにギヌクと作ることができる、そんな無責任な言葉は出せなかった。嫁入りすればライギヒとイネハムの近くに住むつもりだったマウニが、家族を切望しているのは知っているつもりだったから。ようやく近い場所に甘える場所を見出したマウニを、放り出してしまうような申し訳なさで、サウビはせつない顔になる。
ライギヒに託けた手紙は、今日中にバザールに届くはずだ。返事が来れば、ノキエの留守中にサウビは移動することになる。
もとより自分の荷物は身の回りのものだけで、麻袋ひとつで動くことのできるサウビは、ノキエの支度を優先した。薬をいくつか入れた箱の中に、スミレの砂糖漬けを忍ばせる。咳込んだときに、これを作った女がいたなと思い出せばいい。
今生の別れではない。ノキエは商売でバザールを訪れているし、アマベキとは仲が良い。自分が考えるよりも、顔を見る機会は多いのではないだろうか。マウニだって、バザールに買い物に出ることはあるはずだ。そのときは一緒に、食事をする機会だってあるだろう。
手を止めてしまえば、この家に来てからあったさまざまな出来事が、ひとつひとつ浮かんできてしまう。事情を訊きだすこともなくサウビを受け入れたマウニの笑顔や、ツゲヌイに攫われたときに馬で追って来てくれたノキエの慕わしさに、手が震えそうになる。
ようやっと腰を落ち着けて続くと思った生活は、こんなに短い期間でしかなかった。雇い主と親しくなりすぎた自分が悪かったのだろうか。けれど、楽しかったのだ。サウビ自身をサウビが動かし、その結果が感謝であったり美しく整った部屋であったり、誰かと囲む食卓であることが、とても楽しかった。こんな生活を、夢見ていた気がする。
どこで夢を見ていたのか。自分の思考に、サウビは驚いた。どこで? そうだ、北の森でそう思っていた。やさしく強い旦那さまに守られて、寒い思いもひもじい思いもせずに、穏やかに微笑んで暮らすこと。ツゲヌイに嫁げば、それが自分のものになると思っていたのだ。草原の村で続けるつもりだった生活は、自分が結婚生活に望んでいたことだった。雇い主は自分の旦那さまではなく、雇い主の妹は自分が産んだ子供や妹ではない。
雇い主に距離を置かれたからといって、縋る使用人がどこにいるだろう。それを詫びる雇い主が、どこにいるというのか。何かが最初から間違っていて、その間違いによってサウビは救われたのだけれど、少しずつ大きくなるひび割れは、いつか亀裂になる。
これしかない。ここで離れなければ互いに寄りかかりあって、どちらかが崩れるだけだ。ノキエの苦しみを、これ以上大きくしてはいけない。支度を終えた行李の蓋を閉め、手で撫でながら旅の無事を祈った。
春の祭のはじまった日に、ノキエは旅立って行った。広場で花冠の少女たちが歌っている最中に、北に向かって馬を歩かせはじめる。
「あんたのことは、ライギヒが送ってくれる。働き者のあんたには、本当に世話になった」
馬に乗る前に、サウビの手を取って跪いてみせた。
「サウビ、あんたは綺麗だ。きっと俺は戻って来たとき、あんたがいないことを悲しむに違いない」
サウビが言葉を探しているうちに、ノキエは馬に乗って腹を蹴った。
「行ってらっしゃいませ。お気をつけて」
それだけ言うのが精一杯だった。残りの声は、喉の奥に張り付いてしまったから。
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