薔薇は暁に香る

蒲公英

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 自分の部屋の扉を閉めた途端、サウビはそこにヘナヘナと座り込んだ。ノキエの行動も言葉も意味は掴めず、ただ自分に自分に何かを訴えているのだとは認識できた。ここに自分がいると、ノキエに何か害を及ぼすというのか。何が、どんな風に。
 ここしばらくのノキエの態度は、自分を遠ざけるためのものだったのかと、合点がいく。ただ遠ざけられなくてはならない理由を知らないだけ。それをノキエに問うて、答えが得られるものだろうか。苦しそうだったノキエが、聞き分けのないサウビに苛立ちを感じたら――
 ぞくりと背筋が冷えた。ノキエの怒りの爆発を、サウビは知っているのだ。もしもあれが自分に向けられたとき、自分はどうするのか。一度でもあれを受けたら、それ以降のすべての行動は、ノキエの顔色を窺いながらになるだろう。そしてそれは更に、忙しいノキエを苛立たせることにはならないか。今まで彼が封じ込めていた怒りが日常的になっても、不思議ではない。この推測で、何か間違った個所はあるか。

 日が昇る前に起き出して、部屋に置いた洗面器ではなく、井戸の水で顔を洗った。一晩眠ると昨晩の出来事が夢のように感じるが、自分の皮膚の表面にノキエの手が張り付いているような気がする。サウビの知っているノキエのやさしい手ではなく、父さんの手でもなく、憎むべきツゲヌイの手でもない。拭うための布を顔に当てて、目に見えるものを遮断する。全部夢であればいい。もう一度、北の森のサウビの場面からやりなおしたい。

 庭に立って、手入れをした薔薇の前に立つ。新芽が綺麗な葉を開き、花をつける準備をはじめているようだ。この苗を買い求めたとき、少年のノキエは以前に戻ることを夢見ていた。やさしい両親との、穏やかな生活を。叶えられない絶望と壊れていく母に、少年が何をできたろう。懇願できる相手は母親しかなく、それを受けた母はますます弱っていく。取り戻したい生活を叫ぶ以外に、少年には為す術などなかったのだ。
 悲壮な顔をして薔薇の苗を植え付ける少年が、そこにいるような気がした。まだ手足の細い身体で、桶に入れた水を運ぶ。心の内には、半分以上の諦めと爪の先のような希望があったろう。せめて母が微笑んでくれれば何かが変わるような気がして、そこに一縷の望みを繋いだのかも知れない。父親が変わってしまったと認めたくなかった少年は、必死で原因を探ろうとし、そしてどんどん失望していった。
 愛した父親がもういないのだと認めるのに、勇気は必要だったろうか? 少年もまた、壊れかけていたに違いない。

 助けたい。ノキエを救いたい。その方法は、誰にもわからない。今まで触れ合ってきた人々や、マウニですら彼の救いにはならなかった。それを昨日今日一緒にいただけの使用人が、何をできるというのか。ましてサウビは、ノキエに厄介をかけるだけかけている。
 自分にできることが何もないと認めることもまた、苦しいことだ。せめてノキエの言いつけ通り、この家を出るしかないのか。

 そのとき、マントを羽織ったノキエが家から出てきた。
「僧院へ行ってくる」
 顔色はひどく、目が落ち窪んでいる。僧院で祈るのか、春の祭の打ち合わせか、それすらわからない。
「行ってらっしゃいませ」
 食事もせずに出て行くノキエを、見送るしかなかった。

 留守の間に掃除をしてしまおうと、ノキエの部屋に入った。丸めて捨てられた紙が、書き損じた手紙のようだ。私信を覗くなんて、酷く罪なことはわかっている。けれどこれからは、何かの示唆を得られるのではないか。指と唇を震わせながら、サウビは紙を開いた。
 目に入ったのは、本人のしたいように過ごさせて欲しいという言葉だった。無理に治療する必要はないから、苦しませないでくれと書いてある。身の回りを整える人への感謝と、手間をかけることへの礼。そしてすべてが終わったら、ノキエ本人が片付けに訪れること。くれぐれもよろしく頼むと、末筆に記してある。
 これ以上深く読んではいけない。サウビは他の屑と一緒にそれを纏め、あとで燃やすように物置に運ぶ。

 夕方になると、ノキエは帰って来た。昨晩は済まなかったと短い詫びがあり、口数少なく食事を済ませて部屋に引き上げる。その前に、一言だけ翌日の予定が告げられた。
「明日、もう一度バザールへ行ってくる」
 おそらく便りを出すためだ、とサウビは思う。草原の村では市に出店する商人に言伝るしかない便りも、バザールなら誰かしらが行き来している。急いで連絡したいのなら、自分が動くことが一番早いのだ。父親の具合を気遣う便りを、早く出したいのか。
 違う、とサウビの中の何かが言った。すべてが終わったら片付けに訪れると、ノキエ本人が書いていたではないか。それはつまり、生きている父親とは会わないと、訣別の便りだということだ。自分の人生から、二度目の追放をするということだ。
 それをあんなに苦しむのならば。サウビは唇をギュッと噛んだ。
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