薔薇は暁に香る

蒲公英

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 食事中もノキエは口を利かなかった。ともすれば千切ったパンを口に運ぶことも忘れ、そのまま皿の上に置いてしまう。そして半分以上残して、席を立った。
「食欲がない」
 それだけ言って食堂を出て行くノキエに、サウビは何も言えない。父親が死にかけているのならば、憎んでいるとて平常ではいられないだろう。マウニに伝えなくても良いのだろうかとは思ったが、それはノキエの考えることだ。自分も食事を終えて皿を片付けながら、最近少し長くなってきた日に春を知る。まだ外は薄明かりだ。

 庭に出て、夕暮れの空を見た。翌日の晴れを約束するように赤く染まった空は、森の夕暮れを思い出す。両親と妹と弟を、食事の支度ができたと呼ばわり、小さなランプを真ん中に置いた食卓を囲んだ。秋に森で探したキノコと、大事にしていた乾燥肉。貧しい食事だった。
 あの人たちのために働けるのならば、幸福かも知れない。少しくらいの息苦しさは、日々に紛れてしまうような気がする。良い記憶のないバザールにだって、良い人たちはいる。
 やっと立ったと思う地面は、流砂ででもできていたのだろうか。この場に立っているだけでは、砂に捲かれて飲まれてしまう。空っぽの自分の中に砂が入り込み、動けなくなるのか。

 金で囲われている女だと蔑まれても、サウビ自身はまったく構わない。誰かに嫁入りしたいわけではないし、ノキエの家にいる限りは、外の人間と直接会うことはとても少ない。けれどそれは、ノキエが金で女を囲う男だと認識させることでもある。僧院に嫁取りの報告もしていない女を、家に住まわせている。僧院が理解していても、すべての人がそうではないのだ。そしていつかマウニの子育てに関わるようになれば、だらしない女に子供を任せていると言い出す人間がいるだろう。まだ、もう少しここにいたい。けれどもう少しとは、どれくらい?
 空は徐々に暗さを増し、夜が訪れる。

 いつの間にか、作業場の煙突から煙が出ている。もうランプを使わなくては足元の危ない時間なのに、これから何かの作業を始めるのかと、サウビはぼんやりと顔を向けた。窓から灯りは漏れてきておらず、ストーブの火の光では絵も描けないのに。
 と、何かが壊れる音を聞いた。続く獣のような咆哮。驚いて作業場に駆け寄り、扉を開けようとしたが、閂が下ろされているらしい。
 作業場の鍵は、ノキエしか持っていない。壊された形跡はないのだから、中にいるのはノキエだ。入っても構わないときには、閂はされていない。つまり、今は入ってはいけないのだ。何かを踏んでいるのか、断続的に高い音が聞こえる。そしてまた、叫びが聞こえる。
 自分の行く末にばかり気が行っていたサウビは、ノキエの感情の激しさに慄き、作業場の扉を離れた。あれはおそらく、他人に見せたくない顔で聞かせたくない声だ。家の中にサウビがいるから、作業場でひとり叫んでいるのだ。

 何故。憎んでいる相手ならば、何故あんなに苦しそうな声を出しているのだろうか。たとえばツゲヌイが死にかけていても、サウビは可哀想だとは思わないだろう。喜びはしなくとも、多少の悼みがあるだけ。
 けれど死にかけているのは、ノキエの父親なのだ。北の森で父が大きな病を患っていたら、自分はどうするだろう。もう一度会いたいと便りがあれば、どんな無理をしても行きたいと叫ぶのではないか。
 そのとき、サウビの中でいろいろな断片が繋がった。

 ノキエは父親を愛しているのだ。幼いころの幸福な記憶を抱えて、虐げられても追放しても、それを手放していない。父親が昔に戻っているかも知れないと、僅かな希望を持って妹と共に村に帰り、叶えられないことを知って憎しみは増した。けれども父親は幼かった自分を抱き上げ、絵の手解きをした、その人であることに変わりはない。
 十歳の子供が引き千切られた愛情は、ノキエの中で行き場を失って生きている。愛したくて愛されたくて、その分だけ余計に憎しみが深い。死んでしまえば良かったと言う口が、叫びを発する。ノキエの中の愛情は、十歳の子供のままなのだ。記憶にも留めておけない幼さで母を失ったマウニには、どうしてもそれを告げることはできなかったろう。自分の中の鬩ぎ合いを、抱え込んだまま生きてきた。

 この苦しみを、取り除いてやる術はないのか。慕わしく頼れる雇い主のために。自分の寝台の上で、サウビは自分の肩を抱いた。
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