薔薇は暁に香る

蒲公英

文字の大きさ
上 下
67 / 107

67.

しおりを挟む
 草原の村に戻ったノキエは、また作業場に籠ってしまう。いつもよりも長く籠っているノキエがどうやって身体を休めているのかと、サウビは心配する。火を使う部屋の外にあるのは小さな机と椅子、それに作業台だけだ。身体を横たえる場所もないのに、睡眠はどうしているのだろう。一緒に住んでいるわけではないマウニは、作業場に籠っていると言えば納得してしまう。
「兄さんははじめると、昼も夜もなくなってしまうのよ。気が済めば出てくるわ」
「でももう、一週間も出てきていないの」
「ちょっと長いのね。何か難しい細工を考えついたんでしょう」
 心配しているのはサウビだけで、マウニもギヌクも気にしていない。作業場からは音がするし、届けた食事はちゃんとなくなっている。自分だけがヤキモキしているようで、サウビは落ち着かない。
 不思議なほど訪ねてくる人もいず、来客の予定がないから籠っているのか、籠るために時間を空けたのかもわからない。まさか来週の市まで出てこないつもりではないかと、サウビは馬に飼葉を運びながら作業場の扉を見た。ノキエもギヌクも世話ができない日のために人を頼んでいるのだが、桶が空になって腹を空かせていては可哀想だ。

 家の中にひとりだと、つい食事を摂ることを忘れそうになる。夢中になって床を磨いていたら、空気が冷たくなっていることに気がついた。どうせノキエは籠ったまま冷めた食事をしているのだから、パンとチーズだけ届ければ良いのではないかと一瞬思い、自分の仕事はそれではいけないと否定する。家族ではなくて使用人なのだと自分を戒めておかなくては、この家の居心地の良さに流されてしまう。
 野菜を刻んで鍋に入れ、バターを落としたところで勝手口の開いた音がした。やっとノキエが戻ったのかと息を吐き、台所に入ってくるのを待っていたが、来ない。自分の部屋に入って、眠ってしまったのだろうか。

 ノキエの部屋を控えめにノックすると、中から返事があった。
「お食事の支度ができています」
「ここに運んでくれ」
 マウニが出て以来、ノキエが家の中にいるときはずっと一緒の食卓だった。使用人と雇い主ではおかしなことなのかも知れないが、ノキエとサウビにはごくごく当然のことのような気がしていた。だから部屋で食事をするのは、何か急ぎの仕事があるのだと思った。
 盆に食事を乗せて運ぶと、ノキエは長椅子に寄りかかって座っていた。執務机の上は綺麗なままだし、何かをしていた様子もない。
「お疲れになったのですか」
「いや、ときどきは床で横になっていたし」
「それでは十分に休まりませんわ。あまり根を詰めてしまっても」
 サウビが言いかけると、ノキエはそれを遮った。
「放っておいてくれ」
 ノキエの表情は見えなかった。

 部屋を辞しながら、サウビは怯えていた。放っておいてくれ。なんと冷たい言葉だろう。笑う顔も怒りの顔も傷ついた顔も、この短い期間で見てきた。けれどサウビを拒絶する言葉は、はじめて聞いた気がする。
 疲れて気が荒くなっているのだろうと自分に言い聞かせ、暗い食堂でひとり食事をしたためた。不愛想ではないが口数の多くはないノキエとでも、一緒に食事するのは楽しい。ツゲヌイの家の台所で目を盗みながらする食事は、ただただ生きるためだけだった。この家で、味覚があるのだと思い出した。けれど耳の奥に、ノキエの声が反復するのだ。
 放っておいてくれ。放っておいてくれ。放っておいてくれ、と。

 何かノキエの気に障ることをしたろうか。黙って部屋の前に出されていた盆を下げ、食器を拭き上げる。もう眠ってしまったのか、部屋の中からはコトリとも音がしない。思ったように細工ができなくて、苛ついていたのかも知れないと思い、自分を落ち着けようとする。きっと一晩眠ればいつものノキエで、自分が籠っていたときに済んだあれこれに、礼を言ってくれる。
 もしもノキエが自分を、不必要な荷物だと思っていたら? 縁談が持ちかけられていると言ったとき、ノキエはすでにサウビを家から出したいと思っていたのだとしたら。それともバザールで寝込んだときに、世話の焼ける使用人はいらないと思ったのか。
 怯えと不安がサウビを覆う。大丈夫、きっと明日はノキエの態度は戻るはず。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

エイミーと旦那さま ② ~伯爵とメイドの攻防~

トウリン
恋愛
※『エイミーと旦那さま』の第二部です。 遠く離れていた旦那さまの2年ぶりの帰還。ようやくまたお世話をさせていただけると安堵するエイミーだったけれど、再会した旦那さまは突然彼女に求婚してくる。エイミーの戸惑いを意に介さず攻めるセドリック。理解不能な旦那さまの猛追に困惑するエイミー。『大事だから彼女が欲しい』『大事だから彼を拒む』――空回りし、すれ違う二人の想いの行く末は?

茶番には付き合っていられません

わらびもち
恋愛
私の婚約者の隣には何故かいつも同じ女性がいる。 婚約者の交流茶会にも彼女を同席させ仲睦まじく過ごす。 これではまるで私の方が邪魔者だ。 苦言を呈しようものなら彼は目を吊り上げて罵倒する。 どうして婚約者同士の交流にわざわざ部外者を連れてくるのか。 彼が何をしたいのかさっぱり分からない。 もうこんな茶番に付き合っていられない。 そんなにその女性を傍に置きたいのなら好きにすればいいわ。

死に役はごめんなので好きにさせてもらいます

橋本彩里(Ayari)
恋愛
フェリシアは幼馴染で婚約者のデュークのことが好きで健気に尽くしてきた。 前世の記憶が蘇り、物語冒頭で死ぬ役目の主人公たちのただの盛り上げ要員であると知ったフェリシアは、死んでたまるかと物語のヒーロー枠であるデュークへの恋心を捨てることを決意する。 愛を返されない、いつか違う人とくっつく予定の婚約者なんてごめんだ。しかも自分は死に役。 フェリシアはデューク中心の生活をやめ、なんなら婚約破棄を目指して自分のために好きなことをしようと決める。 どうせ何をしていても気にしないだろうとデュークと距離を置こうとするが…… お付き合いいただけたら幸いです。 たくさんのいいね、エール、感想、誤字報告をありがとうございます!

望まれない結婚〜相手は前妻を忘れられない初恋の人でした

結城芙由奈 
恋愛
【忘れるな、憎い君と結婚するのは亡き妻の遺言だということを】 男爵家令嬢、ジェニファーは薄幸な少女だった。両親を早くに亡くし、意地悪な叔母と叔父に育てられた彼女には忘れられない初恋があった。それは少女時代、病弱な従姉妹の話し相手として滞在した避暑地で偶然出会った少年。年が近かった2人は頻繁に会っては楽しい日々を過ごしているうちに、ジェニファーは少年に好意を抱くようになっていった。 少年に恋したジェニファーは今の生活が長く続くことを祈った。 けれど従姉妹の体調が悪化し、遠くの病院に入院することになり、ジェニファーの役目は終わった。 少年に別れを告げる事もできずに、元の生活に戻ることになってしまったのだ。 それから十数年の時が流れ、音信不通になっていた従姉妹が自分の初恋の男性と結婚したことを知る。その事実にショックを受けたものの、ジェニファーは2人の結婚を心から祝うことにした。 その2年後、従姉妹は病で亡くなってしまう。それから1年の歳月が流れ、突然彼から求婚状が届けられた。ずっと彼のことが忘れられなかったジェニファーは、喜んで後妻に入ることにしたのだが……。 そこには残酷な現実が待っていた―― *他サイトでも投稿中

英雄になった夫が妻子と帰還するそうです

白野佑奈
恋愛
初夜もなく戦場へ向かった夫。それから5年。 愛する彼の為に必死に留守を守ってきたけれど、戦場で『英雄』になった彼には、すでに妻子がいて、王命により離婚することに。 好きだからこそ王命に従うしかない。大人しく離縁して、実家の領地で暮らすことになったのに。 今、目の前にいる人は誰なのだろう? ヤンデレ激愛系ヒーローと、周囲に翻弄される流され系ヒロインです。 珍しくもちょっとだけ切ない系を目指してみました(恥) ざまぁが少々キツイので、※がついています。苦手な方はご注意下さい。

芙蓉の宴

蒲公英
現代文学
たくさんの事情を抱えて、人は生きていく。芙蓉の花が咲くのは一度ではなく、猛暑の夏も冷夏も、花の様子は違ってもやはり花開くのだ。 正しいとは言えない状況で出逢った男と女の、足掻きながら寄り添おうとするお話。 表紙絵はどらりぬ様からいただきました。

エイミーと旦那さま ① ~伯爵とメイドの日常~

トウリン
恋愛
※『エイミーと旦那さま』の第一部です。 父を10歳で亡くしたエイミーは、ボールドウィン伯爵家に引き取られた。お屋敷の旦那さま、セドリック付きのメイドとして働くようになったエイミー。旦那さまの困った行動にエイミーは時々眉をひそめるけれども、概ね平和に過ぎていく日々。けれど、兄と妹のようだった二人の関係は、やがてゆっくりと変化していく……

【完結】貴方のために涙は流しません

ユユ
恋愛
私の涙には希少価値がある。 一人の女神様によって無理矢理 連れてこられたのは 小説の世界をなんとかするためだった。 私は虐げられることを 黙っているアリスではない。 “母親の言うことを聞きなさい” あんたはアリスの父親を寝とっただけの女で 母親じゃない。 “婚約者なら言うことを聞け” なら、お前が聞け。 後妻や婚約者や駄女神に屈しない! 好き勝手に変えてやる! ※ 作り話です ※ 15万字前後 ※ 完結保証付き

処理中です...