薔薇は暁に香る

蒲公英

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 結局サウビがしっかり動けるようになったのは、森の人々が帰った翌々日だった。ノキエは最後までサウビに付き添って宿に滞在し、預けていた馬で一緒に帰る。自分の身体の不甲斐なさを嘆くサウビを、ノキエは宥めるように言う。
「おかげでゆっくり商売の話ができたし、面白い調査ができた。悪いことばかりじゃないさ」
「今回、たくさんお金を使ってしまいました。今の蓄えではお支払いが足りないかも知れないので、今月の給金から引いてください」
 申し訳なさそうに言うサウビに、ノキエが噴き出す。
「もう少しちゃっかりしても良いんだぞ。あんたは働き者の上に、生真面目に過ぎる」
 意外によく笑う人なのは知っていたが、バザールに訪れてからのノキエはヤンチャ坊主みたいに陽気だ。アマベキと過ごした何日かが、彼の時間を巻き戻しているのか。

「あんたの育った村は、ずいぶん人の好い人間ばかりのようだ」
 ノキエの言葉に、サウビは驚いた顔を向けた。
「まあ、何故?」
「誰もあんたを責めないどころか、あんたが紹介したというだけで、俺やアマベキに気を許す」
「私は何か責められるようなことをしたかしら」
 ノキエは口の端に笑いを浮かべる。
「あんたのご亭主が商人だったのなら、あんたが自分が良い生活をするために、森に売値をわざと知らせなかったのだと思う人間がいても、無理はなかったんだよ。そしてアマベキが何軒か連れて行った店が、実は懇意な店で嘘を教えられたと疑っても、不思議じゃなかった」
 そう言われてみれば、そう受け取る人間がいても不思議じゃない気がする。けれど森に暮らす人たちが、そんなことを考えるはずはないと、サウビは思う。
「森はとても貧しくて、どの家も助け合わなくては生活できないんです。誰かを出し抜いたり騙したりすれば、次は自分に降りかかってくるわ。だからこそ結びつきは強くて」
 だからこそ息苦しく、野望を抱いた人間はどこかへ出て行ってしまう。サウビのように外に嫁いでいく女や、豊かな土地を求めて森を出る家族。
 加速していく貧しさをどうにかしようと森から出てきた人たちは、藁にも縋る思いでいるのだ。きっとノキエやアマベキを疑うことよりも、焦燥感が勝っているに違いない。
「今回バザールに訪れたことが、良い転機になることを祈ります」
 ノキエの瞳が、一瞬やさし気に細くなった。

 馬に無理をさせぬように草原の道を休み休み進むと、枯れた草の下の新しい芽が、数日前よりよく見えるような気がする。
「春が近づいているのですね。こちらの春は、森より早く来ますから」
「そうだな、春から夏の草原は、たくさんの花が咲く。その花をライギヒが届けてくれ、父さんが――」
 言いかけて、ノキエは口を閉ざした。そしてバザールから続いていた陽気さが、消える。口を閉ざしたまま前を見るノキエの心のうちは、サウビが覗くことを許していない。
「また連絡をせずに留守したと、マウニに叱られるな」
「今回は私のせいです。お小言はいただきますわ」
 ときどきサウビは、ノキエはマウニを子供扱いし過ぎると思う。十九になり嫁に出した妹は、もう婚家のものではないのだろうか。
「マウニには、幸福しか与えたくない」
「マウニはもう、おとなですよ。伴侶に恵まれて、これから子だって産むでしょう」
「そうだ。だから誠実で賢いギヌクを選んでくれて、俺は心から嬉しかった」
 長い草原の道で、ノキエはポツリポツリと話す。

「俺は十までは、とても恵まれた子供だったんだ。爺さんは厳しかったが、父さんと母さんには可愛がられた。使用人もいて、俺は小作の子供みたいに働かなくても、家の中はごくごく穏やかだった。父さんは僧院で育った孤児でね、算術に長けていると爺さんが家に入れた人だったんだよ。きっとその時分から、爺さんの資産を手に入れるつもりだったんだろう」
 旅人のマントに包まったまま、サウビはただ聞いていた。
「火の村で修行をはじめたとき、スケッチを褒められたことがある。形を捉えることがしっかりできていると。俺の絵はね、サウビ。俺に絵を描くことを教えたのは、父さんだったんだよ」
 苦しそうに、ノキエは吐き出した。風の中に母親の声を聞くノキエは、サウビしか知らない。マウニにはもうギヌクがいるが、ノキエには誰もいないのだ。
「俺が逃げるのに反対したから、マウニから母さんを奪ってしまった。マウニの子供時代に、知らない人たちの中で寂しい思いをさせたのは俺だ。父さんが変わったことを認めずに、母さんを死なせたのは俺なんだ。もう償うことのできる相手は、マウニしかいないんだよ」
 涙も嗚咽もない慟哭だった。
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