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誰を探していたのかと問うよりも、この風の中からノキエを連れ戻さなくてはならない。腕を引いて家の中に入れ、自分に巻きつけていたショールを肩から被せた。ストーブに火を入れ、お茶を沸かそうと竈の前まで来て、自分もまた眠るために下着姿だったことに気がついた。慌てて自室に戻って服を着けて食堂に戻ると、ノキエが茶碗にお茶を注いでいるところだった。
「手間をかけた。これを飲んだら眠ってくれ」
蝋燭の炎では顔色がわからないが、普段の様子に戻っているように見える。蜂蜜の壺からひと掬いの甘さを加え、サウビの前に出してくれる。
「ノキエ……?」
問いかける言葉が見つからず、サウビはノキエの手の動きを見ていた。
肩から外したサウビのショールを脇に置き、ノキエは寂しく笑った。
「風の音なのは、わかっているんだ。強い風の中に、母の声がする。そんな筈なんかないことも、知っているんだ。けれど我慢ができない」
自分の肩を抱き、ノキエはぶるりと身を震わせる。
「マウニがまだ赤ん坊だったころ、母は俺に逃げようと言ったんだ。いずれ俺が大人になったら戻ってくれば良いって。だけど俺は、拒絶した」
ノキエは今、懺悔をしようとしている。知らなかったノキエの扉が開く。
「俺はまだ、祖父がいたころの優しい父に戻ると思っていた。母が祖父の土地を父に管理させれば、父は母を殴らなくなると思っていたんだ。だから母にもそう言った。俺はそのころは父に打たれたりしていなかったし、母は常にマウニを抱えていたから、マウニに害は及んでいなかった。僕はどこにも行かない、父さんと母さんが一緒にいなくちゃ嫌だってね」
一度言葉にすると堰が切れたように、ノキエは続ける。
「俺が幾度も強硬に拒絶すると、母は何も言わなくなった。父の暴力は日を追って酷くなり、母はどんどん窶れていった。それでもまだ俺は、いつか父が戻ると思っていて」
声が詰まった。
「ノキエ、苦しければ思い出さなくても良いのよ」
聞き続けることが苦しいほどの呼吸音がする。
大きく息を吐いて、ノキエが言う。
「続けさせてくれ。今まで誰にも言えなかった」
一度唇をぎゅっと噛み、それから口を開く。
「言えなかったんだ。俺が母を壊したと、責められるのが怖くて。小作たちの前では父は前と同じようにふるまっていたから、はじめは誰も気がつかなかった。俺がもう父は戻らないのだとわかったときには、もう手遅れだったんだ。母は表情を失くして、手も足も弱ってしまっていた。マウニは大声ではしゃぐどころか笑い声を立てることすらせず、家の中の至るところに何かが投げつけられた跡があって。俺は俺で、何もしないことが最善のように家の中で父親の目から逃げ回っていた」
「あの日は少し、母の調子が良かった。マウニの言葉に耳を傾け、微笑みさえした。小さいマウニは喜んで、イネハムから教えてもらった歌を歌ってみせた。俺も嬉しかったんだと思う。部屋の中でそれを見ていたんだ」
サウビは自分の手で自分の手を握っていた。ノキエの白いシャツの中に、蝋燭の炎が揺らいで見える。
「うるせえ、と怒鳴り声がした。扉が開くと同時に父が入ってきて、手近にあった燭台を振りかぶったのが見えた。母はマウニを抱き寄せ、俺はそこに走り寄った。そこから先は、あまり覚えていない。気がついたら寝台にうつ伏せに寝かされていて、母とマウニが横に立っていた。痛くて苦しくて、泣きながら母に逃げたいと言った。自分が拒否したことは棚上げにしてね。母は声を抑えて俺の耳元で、新しく逃げ道を探さなくてはならないから待ってくれと。前につけていた道筋は、断ってしまっていたんだね。数日後の市が立った日、許可証を受け取りに来たライギヒと長いこと話していたのは覚えている」
ノキエは言葉を切って、冷めたお茶を飲んで呼吸を整えた。淹れ替えようとするするサウビを手で制し、座るように言う。
「頼む、最後まで聞いてくれ。そしてできれば、忘れてくれ。もう二度と口にしないから」
自分の経験より、酷いものを目にしてきた人がいるのだ。自分は死んでいないし、残るような傷もない。けれどそれが、何の救いになろうか。怯えた記憶は消えない。
目の前にいる男は今、自分の過ちで母が苦しんだと懺悔しているのに、サウビの中にはノキエを責めたい気持ちと庇いたい気持ちが相反する。子供だったのだからと慰めることは簡単だが、それが救いになることもまた考えられない。聞くことしかできないのだ。
「普段よりも小作たちが来る回数が増えて、父は訝しんだらしい。何を企んでいるんだと母をひどく打ったけれど、母は家の手伝いを頼んでいるとしか言わなかった。ライギヒだけを呼ぶと、父に感づかれてしまうからね。それでも話が進んでくると、母の表情は柔らかくなってきていた。もうじき助かるんだと、俺も思った。冬の冷たい雨の降っている日に、金を出せと暴れた父が母を庭に投げ捨てるまで」
ああ、そこに繋がって行くのか。もうじきだと希望を抱えたまま、ノキエの母親は。
「弱っていた母に、冬の悪魔は容赦なかった。父は看病を俺やイネハムに任せ、変わらずに遊び歩いていた。回復したらすぐに動けるようにと、母は俺に継承者の証を出すように言った。祖父の墓石の下を少し掘って、隠されていたんだ。そして父が女を買うために身形を整えて出て行ったとき、僧を呼びに行ったんだ。結局は母逃げることができず、母が弱ることに手を貸した俺が生き延びた。母はね、俺にマウニを頼むと言ったんだよ。せめてもの償いのために、俺は生きていなくてはならなかった」
「母に言いたかったんだ。マウニは花のように育って、守ってくれる男がいると。でもやっぱり、声がしたと思ったのに、庭にはいなかった」
言葉を閉じたノキエを、母のように抱きしめてやりたい。けれどそんなことはできるはずもなく、サウビはお湯を沸かし直してお茶を差し出しただけだった。
「手間をかけた。これを飲んだら眠ってくれ」
蝋燭の炎では顔色がわからないが、普段の様子に戻っているように見える。蜂蜜の壺からひと掬いの甘さを加え、サウビの前に出してくれる。
「ノキエ……?」
問いかける言葉が見つからず、サウビはノキエの手の動きを見ていた。
肩から外したサウビのショールを脇に置き、ノキエは寂しく笑った。
「風の音なのは、わかっているんだ。強い風の中に、母の声がする。そんな筈なんかないことも、知っているんだ。けれど我慢ができない」
自分の肩を抱き、ノキエはぶるりと身を震わせる。
「マウニがまだ赤ん坊だったころ、母は俺に逃げようと言ったんだ。いずれ俺が大人になったら戻ってくれば良いって。だけど俺は、拒絶した」
ノキエは今、懺悔をしようとしている。知らなかったノキエの扉が開く。
「俺はまだ、祖父がいたころの優しい父に戻ると思っていた。母が祖父の土地を父に管理させれば、父は母を殴らなくなると思っていたんだ。だから母にもそう言った。俺はそのころは父に打たれたりしていなかったし、母は常にマウニを抱えていたから、マウニに害は及んでいなかった。僕はどこにも行かない、父さんと母さんが一緒にいなくちゃ嫌だってね」
一度言葉にすると堰が切れたように、ノキエは続ける。
「俺が幾度も強硬に拒絶すると、母は何も言わなくなった。父の暴力は日を追って酷くなり、母はどんどん窶れていった。それでもまだ俺は、いつか父が戻ると思っていて」
声が詰まった。
「ノキエ、苦しければ思い出さなくても良いのよ」
聞き続けることが苦しいほどの呼吸音がする。
大きく息を吐いて、ノキエが言う。
「続けさせてくれ。今まで誰にも言えなかった」
一度唇をぎゅっと噛み、それから口を開く。
「言えなかったんだ。俺が母を壊したと、責められるのが怖くて。小作たちの前では父は前と同じようにふるまっていたから、はじめは誰も気がつかなかった。俺がもう父は戻らないのだとわかったときには、もう手遅れだったんだ。母は表情を失くして、手も足も弱ってしまっていた。マウニは大声ではしゃぐどころか笑い声を立てることすらせず、家の中の至るところに何かが投げつけられた跡があって。俺は俺で、何もしないことが最善のように家の中で父親の目から逃げ回っていた」
「あの日は少し、母の調子が良かった。マウニの言葉に耳を傾け、微笑みさえした。小さいマウニは喜んで、イネハムから教えてもらった歌を歌ってみせた。俺も嬉しかったんだと思う。部屋の中でそれを見ていたんだ」
サウビは自分の手で自分の手を握っていた。ノキエの白いシャツの中に、蝋燭の炎が揺らいで見える。
「うるせえ、と怒鳴り声がした。扉が開くと同時に父が入ってきて、手近にあった燭台を振りかぶったのが見えた。母はマウニを抱き寄せ、俺はそこに走り寄った。そこから先は、あまり覚えていない。気がついたら寝台にうつ伏せに寝かされていて、母とマウニが横に立っていた。痛くて苦しくて、泣きながら母に逃げたいと言った。自分が拒否したことは棚上げにしてね。母は声を抑えて俺の耳元で、新しく逃げ道を探さなくてはならないから待ってくれと。前につけていた道筋は、断ってしまっていたんだね。数日後の市が立った日、許可証を受け取りに来たライギヒと長いこと話していたのは覚えている」
ノキエは言葉を切って、冷めたお茶を飲んで呼吸を整えた。淹れ替えようとするするサウビを手で制し、座るように言う。
「頼む、最後まで聞いてくれ。そしてできれば、忘れてくれ。もう二度と口にしないから」
自分の経験より、酷いものを目にしてきた人がいるのだ。自分は死んでいないし、残るような傷もない。けれどそれが、何の救いになろうか。怯えた記憶は消えない。
目の前にいる男は今、自分の過ちで母が苦しんだと懺悔しているのに、サウビの中にはノキエを責めたい気持ちと庇いたい気持ちが相反する。子供だったのだからと慰めることは簡単だが、それが救いになることもまた考えられない。聞くことしかできないのだ。
「普段よりも小作たちが来る回数が増えて、父は訝しんだらしい。何を企んでいるんだと母をひどく打ったけれど、母は家の手伝いを頼んでいるとしか言わなかった。ライギヒだけを呼ぶと、父に感づかれてしまうからね。それでも話が進んでくると、母の表情は柔らかくなってきていた。もうじき助かるんだと、俺も思った。冬の冷たい雨の降っている日に、金を出せと暴れた父が母を庭に投げ捨てるまで」
ああ、そこに繋がって行くのか。もうじきだと希望を抱えたまま、ノキエの母親は。
「弱っていた母に、冬の悪魔は容赦なかった。父は看病を俺やイネハムに任せ、変わらずに遊び歩いていた。回復したらすぐに動けるようにと、母は俺に継承者の証を出すように言った。祖父の墓石の下を少し掘って、隠されていたんだ。そして父が女を買うために身形を整えて出て行ったとき、僧を呼びに行ったんだ。結局は母逃げることができず、母が弱ることに手を貸した俺が生き延びた。母はね、俺にマウニを頼むと言ったんだよ。せめてもの償いのために、俺は生きていなくてはならなかった」
「母に言いたかったんだ。マウニは花のように育って、守ってくれる男がいると。でもやっぱり、声がしたと思ったのに、庭にはいなかった」
言葉を閉じたノキエを、母のように抱きしめてやりたい。けれどそんなことはできるはずもなく、サウビはお湯を沸かし直してお茶を差し出しただけだった。
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