薔薇は暁に香る

蒲公英

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 ノキエの家には、驚くほど何もない。少なくとも七年はノキエとマウニが生活していたはずだが、最低限のランプと燭台や目隠し布だけで、丁寧にしまわれた来客用の食器以外は余計なものがないのだ。たとえば飾り壺や壁掛け、人数分より多くあるはずの椅子の背当て布団、寝台の上の花飾り、そんなものがまるでない。ノキエは家を飾ることが嫌いなのだろうか。
 食事をしながら質問するとノキエは自分の部屋を見回し、はじめて気がついたような顔をした。
「気が回らなかったな。マウニは女の手の入っている家で、生活したことがないんだ。おそらくギヌクの家も、女から見たら殺風景に違いない」
 そして、サウビの好きなように整えてくれて構わないと言った。

 家の中を暖かく見せるにはどうしたら良いかと考えながら洗濯を終え、寒い庭に広げる。風が通り抜けて、じきに乾かしてくれるだろう。かじかんでしまった手をさすりながら家の中に戻り、外出しているノキエのために野菜スープを作りはじめる。牛乳を運んでくれる人が、今日はパンも持って来てくれた。こんなに寒いのに、よく膨らむものだ。次に会ったときに、何をしたら良いのか聞いてみよう。
 自分から他人に声を掛けることに、躊躇いがなくなった。もう顔を隠して逃げなくとも、ここに住むことができるのだ。


  懐かしい妹、イケレ
 森には雪が降ったでしょうか。ストーブの薪は足りていますか。
 私のほうは、ツゲヌイと離縁することができました。
 あまり素敵なことではありませんが、もうこれで怯えて生活しなくて済みます。
 我慢が足りないと責める人がいることは知っていますが、その人たちが私と交代してくれるわけではないことも知っています。
 とにかくもう、私は自由です。
 機嫌の悪い夫に殴られることも、自分の持ち物を取り上げられてしまうこともありません。
 なんて素晴らしいんでしょう。
 これから考えなくてはならないことはたくさんあるけれど、自分を覆っている靄が晴れたような気分よ。
 先日イケレに送ってもらったリボンのが素敵だったので、私も久しぶりに針を持っています。
 縫物や刺繍をするたび、古布に手を入れて使い道を考えるたび、母さんやイケレを思い出すわ。
 そして考えるの。森にいるときは気がつかなかったけれど、私はとても幸福に育ってきたのだと。
 ねえイケレ、悪い人っていうのは悪い顔をしているわけじゃないわ。
 ツゲヌイだって、森を訪れるときは素敵だったでしょう?
 私だけじゃなく、父さんも母さんも騙されるほどね。
 だから今の私の雇い主に巡り会えたことは、本当に幸運でした。
 この人については、いずれゆっくりお話しします。火の村で修業した飾り職人とだけ。
 さて、イケレの嫁入りは決まったのでしょうか?
 先日の便りには私の知っている人だとあるけれど、誰なのかしら。
 森の男たちは働き者で陽気だから、きっと暖かな家庭を築けると思います。
 どうぞ家族の誰もが、美しい春を楽しめますように。
          草原の村より サウビ


 ペンを置いてインク壺に蓋をすると、ずいぶん夜が更けていた。今晩は風が強い。庭を吹き抜ける風が女の悲鳴のように叫び、何かの不安を煽るのだ。
 未来を考えれば何も見えて来ず、ただただ現在の安穏に身を委ねている。もしもこの家に居場所がなくなったら、どこへ行ったら良いのだろう。もしかしたら森に帰って、父さんや母さんに迷惑をかけながらでも、機を学んだ方が良いのだろうか。そうしたほうが縁談は来そうな気がする。そしてまた、酷い男に請われたら? 
 風の音が耳について眠れない。幾度も寝返りを打ち、冷えた肩を自分で抱く。

 ふと玄関で、音がしたような気がした。こんな夜更けに誰かが来るわけがないと自分に言い聞かせていると、今度は扉を開ける音がする。眠る前に閂は確認したので、外から誰かが入ってくることはない。
 寝台を降りて、窓の目隠し布を少しだけ寄せて、そっと外を見た。夜目に白いシャツが、庭の中を歩いている。強い風にシャツが靡き、月の光にぼんやりと天を見上げる横顔の輪郭が見て取れた。
 ノキエ? こんなに寒いのに、あんな薄着で夜の庭にいるなんて。

 何かを考えるより早く、靴を履いてショールを身体に巻き付けていた。あの姿で外に長くいたら、凍えてしまう。玄関を開けて自分も外に走り出る。
「ノキエ!」
 腕を掴んだサウビに、ノキエはうっそりと笑った。
「いなかったよ」
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