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ライギヒの上の息子は、ライギヒにとてもよく似ている。店は表通りに構えているが、住まいは静かな通りにあるという。ノキエが店に顔を出すと、奥にいた少年に店番を言いつけて、店の外に出てきた。
「アマベキだ。こちらはサウビ。マウニが嫁に出たあと、家の中のことをしてもらってる」
互いに会釈をして初対面の挨拶をすると、アマベキのアパートに案内された。
「まあ、ノキエ。よく来てくれたわ」
迎えてくれた奥さんは、おなかが大きい。後ろには可愛らしい幼女がはにかんでいた。眩しい幸福な家庭の光景。こんな生活をしたかったのだと、何か苦いものが喉を掠めた。
湯をたくさん沸かしてもらい、髪と身体を洗った。身体を洗ったら肌着も変えたいのではないかと、アマベキの奥さんが洗濯済のものを出してくれた。念入りに洗ったからといって、殴られた自分を忘れるわけでもなく、夫を箒で打ったことも消えない。けれどようやく、朝が来ることを怖がらずに眠れる。
乾いた布で髪を拭い、綺麗な肌着を身に着ける。高揚していく気分とは裏腹に、自分の足元の床が崩れていきそうな心許なさがじわじわと訪れ、それを無理に笑顔に変えて鏡に向かい、髪を結った。もう森の人間でもバザールの人間でもなく、まだ草原の村の人間だとも言い切れない。
私はどこに行けば良いの? ノキエと一緒に草原の村に戻るのだと決めてはいたけれど、その後に何があるのか見えない。
居間に入ると、ノキエとアマベキがお茶を飲んでいた。話の邪魔をしてはいけないと少し離れた場所に座ると、幼女がもじもじと菓子を持って来てくれた。礼を言って受け取ると、嬉しそうににっこり笑う。その可愛らしさに、思わず頭を撫でる。
アマベキの奥さんが隣に座り、自分も草原から来たのだと言った。やはりノキエの小作の家の出なのだという。
「ノキエが火の村にいたとき、アマベキが連絡役だったのよ。ノキエの土地は僧院が管理していたから、細かい連絡は全部彼が五日間ロバに乗って伝えに行ったの。アマベキが商売を学んで自分の店を持つときに、お金を出してくれたのもノキエ。とても仲が良いの」
おなかを撫でながら話す彼女は、サウビよりいくつか年上だろうか。愛想の良い人だ。サウビが北の森で生まれたと言うと、嬉しそうに目を輝かせた。
「火の村の隣ね。とても美しい織物を作るところだわ。私ね、やりたいことがあるの」
ノキエとアマベキが話を止め、こちらを見る。
「花嫁のためだけの商売って、できないかしら。上質の織物と刺繍とリボン、髪飾りや首飾り。仕立てを頼める人を置いてもいいわ」
やれやれと言うようにアマベキは首を振り、笑った。
「嫁入りのためだけなんて、金にならないだろう」
「バザールの中なんて、店主は男ばっかり。お内儀さんたちは男の後ろに隠れて、見立てなんてしてくれない。女が欲しいものを知っているのは女なのに、仕入れるのも売るのも男だけ」
薄笑いの男たちとは違い、サウビには彼女の意見が理解できる。まるで夢物語ではあるけれど、素敵な話だ。
「あのね、私はときどきアマベキが死んでしまったらと考えるのよ。女が焼物を扱うのは難しいし、村に戻っても両親は老いているわ。自分にできることを考えるのは当然じゃない?」
こんな幸福そうな家庭の主婦さえ先行きに不安があり、そのための手当てをしようとしている。なんて逞しいんだろう。アマベキの奥さんを見るサウビの瞳は、輝いていた。
自分もこんな風に、逞しく生活を考えよう。もう逃げる必要もなく、自分で自分を動かすことができるのだから。
アマベキの家を辞して、サウビとノキエは宿に戻った。僧院からの言伝で、使者はロバで村に戻ったという。サウビも戻ったら礼を言いに行かなくてはならない。翌日は草原を一日歩く覚悟をしていたら、ノキエが宿の主人に馬借を頼んでいる。
「あんたの簪がタイルの上に割れて落ちていたときから、たくさんの人が心配している。一日でも早く戻って、安心させてやるべきだ。あんたは自分が思っているよりもずっと、村の人間になっているんだよ、サウビ」
ノキエの顔は、以前の通り落ち着いていた。うなされていたノキエが隠れている場所を、サウビはまだ知らない。
「アマベキだ。こちらはサウビ。マウニが嫁に出たあと、家の中のことをしてもらってる」
互いに会釈をして初対面の挨拶をすると、アマベキのアパートに案内された。
「まあ、ノキエ。よく来てくれたわ」
迎えてくれた奥さんは、おなかが大きい。後ろには可愛らしい幼女がはにかんでいた。眩しい幸福な家庭の光景。こんな生活をしたかったのだと、何か苦いものが喉を掠めた。
湯をたくさん沸かしてもらい、髪と身体を洗った。身体を洗ったら肌着も変えたいのではないかと、アマベキの奥さんが洗濯済のものを出してくれた。念入りに洗ったからといって、殴られた自分を忘れるわけでもなく、夫を箒で打ったことも消えない。けれどようやく、朝が来ることを怖がらずに眠れる。
乾いた布で髪を拭い、綺麗な肌着を身に着ける。高揚していく気分とは裏腹に、自分の足元の床が崩れていきそうな心許なさがじわじわと訪れ、それを無理に笑顔に変えて鏡に向かい、髪を結った。もう森の人間でもバザールの人間でもなく、まだ草原の村の人間だとも言い切れない。
私はどこに行けば良いの? ノキエと一緒に草原の村に戻るのだと決めてはいたけれど、その後に何があるのか見えない。
居間に入ると、ノキエとアマベキがお茶を飲んでいた。話の邪魔をしてはいけないと少し離れた場所に座ると、幼女がもじもじと菓子を持って来てくれた。礼を言って受け取ると、嬉しそうににっこり笑う。その可愛らしさに、思わず頭を撫でる。
アマベキの奥さんが隣に座り、自分も草原から来たのだと言った。やはりノキエの小作の家の出なのだという。
「ノキエが火の村にいたとき、アマベキが連絡役だったのよ。ノキエの土地は僧院が管理していたから、細かい連絡は全部彼が五日間ロバに乗って伝えに行ったの。アマベキが商売を学んで自分の店を持つときに、お金を出してくれたのもノキエ。とても仲が良いの」
おなかを撫でながら話す彼女は、サウビよりいくつか年上だろうか。愛想の良い人だ。サウビが北の森で生まれたと言うと、嬉しそうに目を輝かせた。
「火の村の隣ね。とても美しい織物を作るところだわ。私ね、やりたいことがあるの」
ノキエとアマベキが話を止め、こちらを見る。
「花嫁のためだけの商売って、できないかしら。上質の織物と刺繍とリボン、髪飾りや首飾り。仕立てを頼める人を置いてもいいわ」
やれやれと言うようにアマベキは首を振り、笑った。
「嫁入りのためだけなんて、金にならないだろう」
「バザールの中なんて、店主は男ばっかり。お内儀さんたちは男の後ろに隠れて、見立てなんてしてくれない。女が欲しいものを知っているのは女なのに、仕入れるのも売るのも男だけ」
薄笑いの男たちとは違い、サウビには彼女の意見が理解できる。まるで夢物語ではあるけれど、素敵な話だ。
「あのね、私はときどきアマベキが死んでしまったらと考えるのよ。女が焼物を扱うのは難しいし、村に戻っても両親は老いているわ。自分にできることを考えるのは当然じゃない?」
こんな幸福そうな家庭の主婦さえ先行きに不安があり、そのための手当てをしようとしている。なんて逞しいんだろう。アマベキの奥さんを見るサウビの瞳は、輝いていた。
自分もこんな風に、逞しく生活を考えよう。もう逃げる必要もなく、自分で自分を動かすことができるのだから。
アマベキの家を辞して、サウビとノキエは宿に戻った。僧院からの言伝で、使者はロバで村に戻ったという。サウビも戻ったら礼を言いに行かなくてはならない。翌日は草原を一日歩く覚悟をしていたら、ノキエが宿の主人に馬借を頼んでいる。
「あんたの簪がタイルの上に割れて落ちていたときから、たくさんの人が心配している。一日でも早く戻って、安心させてやるべきだ。あんたは自分が思っているよりもずっと、村の人間になっているんだよ、サウビ」
ノキエの顔は、以前の通り落ち着いていた。うなされていたノキエが隠れている場所を、サウビはまだ知らない。
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