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一夜明けるとツゲヌイは、店を開けろと言った。
「メシの支度をしろ、ウスノロ。そしてとっとと店にハタキをかけるんだ」
サウビが家の中にいることで、まだ主導権は自分にあると思っている愚かさ。指示された通りに店を開ければ、自分はどっかりと店主の位置に足を伸ばして座るだけ。
「メシを持って来い! 何をグズグズしているんだ、役立たず!」
切り分けたパンとチーズを持って行けば、今度は茶を寄こせと言う。
「あら。私はウスノロですもの、間違えて淹れたてのお茶をこぼしてしまうかも知れないわ」
なんだと、と気色ばむツゲヌイに、サウビは笑顔を向けた。
「ここに、沸いたお茶を」
一日経って腫れが引くどころか、ますます熱を持っているような膝を叩いてみせた。
苦痛に呻くツゲヌイは、歪んだ表情のままサウビを見た。あくまでも穏やかに微笑む妻の姿を見て、やっと自分の状態を把握したらしい。自分の腫れあがった膝と、今まで与え続けてきたものを思い返し、大きく目を開いた。
「驚くほど頭が悪いのね。逃げ回っていた私が、何故わざわざあなたの世話をすると思ったの? まして命令を聞くとでも?」
力という恐怖だけでサウビを従わせてきた男は、それでもまだ自分が上にあると思いたがっている。
「女が男に従うのは、当然だ。女は考えが浅く、掃除洗濯しか能がない」
サウビは笑う。
「あら、あなたの商売品は誰が織っているの? これも、これも」
咄嗟に立ち上がることができないことを知っていて、棚から出て畳まれていた冬物のショール地を、何枚も投げつけた。重い生地の塊が、ツゲヌイの身体に当たる。
「売り物に何をする! さっさと棚に戻さないと、承知しないぞ」
「承知なんてしなくても、困らないのよ。まだわからないの?」
店にはツゲヌイが座っているので、サウビは台所に戻る。自分のためにスープを温め、お茶に蜂蜜を入れた。竈に火を入れたままなので台所は暖かいが、何か息苦しい。
この家の中のどの部屋にも、サウビの悲鳴が空気になって漂っている。何が起こったのかはっきり覚えていないのは、痛みを堪えることに必死だったからだ。痛くて辛くてツゲヌイの一挙手一投足が怖くて、息を殺すように歩いても尚、振り上げられた拳。耳を塞いで、目をぎゅっと瞑ってみても、苦しさが増すばかりだ。
ショールを肩に掛け家の外に出ると、風を頬に受けた。村のように強くはないのに、この風は酷く冷たい。
「もしかしたら、サウビなの?」
通りから声が聞こえた。
「お内儀さん」
飾り物屋の内儀が、目を丸くしてこちらを見ている。
「連れ戻されちゃったのかい。もう逃げられたと思っていたのに」
「ええ、見つかってしまったの。でも一度こちらの僧院に行かなくては、離縁ができないから」
内儀はツゲヌイの店のほうを窺う。
「家に戻ってしまったら、また酷いことをされるんじゃ」
「それは大丈夫なの。ツゲヌイは今、満足に歩けないから」
店を振り返りながら、サウビは微笑んだ。
「いい気味」
あとでおいでと言う内儀に挨拶して、サウビは店に入り、ただ座ってウトウトしているツゲヌイの膝を、ハタキの柄で打った。
「埃っぽいところを、掃わないといけないものね。それが終わったら、床も掃除するわ」
折良く入って来た客ににこやかに綿の生地を売り、サウビは売上金をポケットに入れた。
「その金を寄こせ」
手を伸ばしたツゲヌイは、サウビが箒を握ると黙った。昼になったのでサウビは自分の昼食だけをして、遠慮がちに空腹を訴えたツゲヌイに、台所にあると答えた。そして使った食器がそのままになっていると、壁伝いに歩くツゲヌイの腰を箒で打った。
自分を見るツゲヌイの怯えた目が楽しくて、高揚する。身体の奥で、この高揚は間違っていると囁く声がする。それはツゲヌイの膝に打ち下ろすハタキの柄に打ち消される。
午後になって、ツゲヌイの頬が赤いことに気がついた。おそらく発熱しているのだと見当はついたが、寒そうに丸まりはじめたのは放っておくことにした。
飾り物屋の内儀にお茶をご馳走になり、村の話をする。ノキエとマウニの兄妹の話や、籠を持って野菜や卵を分けてもらいに行く話、そして母や妹と連絡ができるようになったこと。家の管理をして賃金を受け取ってはいるけれど、とても良くしてもらっていると。飾り物屋の夫婦は喜んでくれ、それがサウビにも嬉しい。
そうしてゆっくりした時間を過ごして、店に帰った。
店に戻ると、ツゲヌイは震えていた。大分熱が高いらしく、売り物のマントまで身体にかけている。普段のサウビならば、医者を呼びに走るだろう。
店を閉め、目を閉じたまま洗い呼吸をしているツゲヌイを一瞥し、サウビは自分のためにだけ、台所に入って行った。
「メシの支度をしろ、ウスノロ。そしてとっとと店にハタキをかけるんだ」
サウビが家の中にいることで、まだ主導権は自分にあると思っている愚かさ。指示された通りに店を開ければ、自分はどっかりと店主の位置に足を伸ばして座るだけ。
「メシを持って来い! 何をグズグズしているんだ、役立たず!」
切り分けたパンとチーズを持って行けば、今度は茶を寄こせと言う。
「あら。私はウスノロですもの、間違えて淹れたてのお茶をこぼしてしまうかも知れないわ」
なんだと、と気色ばむツゲヌイに、サウビは笑顔を向けた。
「ここに、沸いたお茶を」
一日経って腫れが引くどころか、ますます熱を持っているような膝を叩いてみせた。
苦痛に呻くツゲヌイは、歪んだ表情のままサウビを見た。あくまでも穏やかに微笑む妻の姿を見て、やっと自分の状態を把握したらしい。自分の腫れあがった膝と、今まで与え続けてきたものを思い返し、大きく目を開いた。
「驚くほど頭が悪いのね。逃げ回っていた私が、何故わざわざあなたの世話をすると思ったの? まして命令を聞くとでも?」
力という恐怖だけでサウビを従わせてきた男は、それでもまだ自分が上にあると思いたがっている。
「女が男に従うのは、当然だ。女は考えが浅く、掃除洗濯しか能がない」
サウビは笑う。
「あら、あなたの商売品は誰が織っているの? これも、これも」
咄嗟に立ち上がることができないことを知っていて、棚から出て畳まれていた冬物のショール地を、何枚も投げつけた。重い生地の塊が、ツゲヌイの身体に当たる。
「売り物に何をする! さっさと棚に戻さないと、承知しないぞ」
「承知なんてしなくても、困らないのよ。まだわからないの?」
店にはツゲヌイが座っているので、サウビは台所に戻る。自分のためにスープを温め、お茶に蜂蜜を入れた。竈に火を入れたままなので台所は暖かいが、何か息苦しい。
この家の中のどの部屋にも、サウビの悲鳴が空気になって漂っている。何が起こったのかはっきり覚えていないのは、痛みを堪えることに必死だったからだ。痛くて辛くてツゲヌイの一挙手一投足が怖くて、息を殺すように歩いても尚、振り上げられた拳。耳を塞いで、目をぎゅっと瞑ってみても、苦しさが増すばかりだ。
ショールを肩に掛け家の外に出ると、風を頬に受けた。村のように強くはないのに、この風は酷く冷たい。
「もしかしたら、サウビなの?」
通りから声が聞こえた。
「お内儀さん」
飾り物屋の内儀が、目を丸くしてこちらを見ている。
「連れ戻されちゃったのかい。もう逃げられたと思っていたのに」
「ええ、見つかってしまったの。でも一度こちらの僧院に行かなくては、離縁ができないから」
内儀はツゲヌイの店のほうを窺う。
「家に戻ってしまったら、また酷いことをされるんじゃ」
「それは大丈夫なの。ツゲヌイは今、満足に歩けないから」
店を振り返りながら、サウビは微笑んだ。
「いい気味」
あとでおいでと言う内儀に挨拶して、サウビは店に入り、ただ座ってウトウトしているツゲヌイの膝を、ハタキの柄で打った。
「埃っぽいところを、掃わないといけないものね。それが終わったら、床も掃除するわ」
折良く入って来た客ににこやかに綿の生地を売り、サウビは売上金をポケットに入れた。
「その金を寄こせ」
手を伸ばしたツゲヌイは、サウビが箒を握ると黙った。昼になったのでサウビは自分の昼食だけをして、遠慮がちに空腹を訴えたツゲヌイに、台所にあると答えた。そして使った食器がそのままになっていると、壁伝いに歩くツゲヌイの腰を箒で打った。
自分を見るツゲヌイの怯えた目が楽しくて、高揚する。身体の奥で、この高揚は間違っていると囁く声がする。それはツゲヌイの膝に打ち下ろすハタキの柄に打ち消される。
午後になって、ツゲヌイの頬が赤いことに気がついた。おそらく発熱しているのだと見当はついたが、寒そうに丸まりはじめたのは放っておくことにした。
飾り物屋の内儀にお茶をご馳走になり、村の話をする。ノキエとマウニの兄妹の話や、籠を持って野菜や卵を分けてもらいに行く話、そして母や妹と連絡ができるようになったこと。家の管理をして賃金を受け取ってはいるけれど、とても良くしてもらっていると。飾り物屋の夫婦は喜んでくれ、それがサウビにも嬉しい。
そうしてゆっくりした時間を過ごして、店に帰った。
店に戻ると、ツゲヌイは震えていた。大分熱が高いらしく、売り物のマントまで身体にかけている。普段のサウビならば、医者を呼びに走るだろう。
店を閉め、目を閉じたまま洗い呼吸をしているツゲヌイを一瞥し、サウビは自分のためにだけ、台所に入って行った。
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