薔薇は暁に香る

蒲公英

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 よく手入れされた僧院の裏庭は、夕暮れの色になっている。ギヌクに導かれてドアを開けると、若い僧が部屋に案内してくれた。それではここで、とギヌクは場を離れ、サウビだけが部屋に取り残される。ツゲヌイの外面に上僧が欺かれ、サウビを非難するかも知れない。もしかするとサウビの酷い有様すら、他の原因だと主張しているかも。ランプの灯りの中で、サウビはまだ熱を持つ顔の皮膚に触れた。

 前日の疲れと室内の暖かさで、うっかり眠ってしまっていた。髪を掴んで引っ張られた衝撃に目を開けると、ツゲヌイの顔があった。
「さすがに僧院の呼び出しには知らん顔できなかったと見える。だらしなく眠りこけやがって、帰ったらたっぷり躾け直してやる」
 ツゲヌイの顔もまた腫れており、サウビが立てた爪の痕が頬に赤い筋を作っている。ヒッと小さく悲鳴を上げて、サウビは身体を丸めた。
「だからおまえは馬鹿だって言うんだ。僧院でなど、やるわけないだろう。身体は痛むが、明日になればバザールに帰れる。もちろんおまえも一緒にな」
 笑いながら部屋から出て行くツゲヌイに、サウビはまた怯えた目を向けた。やり返したり助けを呼んだりすると決めていたのに、染みついてしまった怯えが剥がれない。やはり僧院には、来るべきでなかったのだ。あのまま逃げてしまえば――どこへ?
 どこにも逃げられなかったから、こうなったのだ。幸運にも逃してもらって、少しだけ自分を取り戻して、けれどまた捕まってしまって。同じように何度も捕まるくらいなら、どこへ逃げようというのだろう。

 身体を丸めたまま頭を抱えていると、またドアが開いた。ツゲヌイが戻って来たかと身構えると、僧の長い衣だった。
「ああ、聞いた通り、ずいぶんと酷い。痛みますか」
 老年の僧は、サウビの頬に手を当てた。暖かく柔らかな掌に、心が解れていく。
「上僧様。私は死にたくないのです」
 何よりも言いたかった言葉が、一番最初に零れた。
「上僧様よりも前に、主人がこの部屋に入ってきました。あれは上僧様のご意向でしょうか」
「そんな筈はありません。あなたが到着したことも伝えていないのですから」
 上僧は驚いて、若い僧を呼んだ。妻に一刻も早く会いたいからと懇願されて案内したと答える若い僧を叱り、上僧はサウビに詫びた。
「最初にきつく言いつけておくべきでした。あの者はあの者で、気を利かせたつもりなのです」
 ツゲヌイに言いくるめられれば、きっと誰だってそう思うだろう。商人の如才なさで織物を買い取っていくツゲヌイは、北の森でも歓迎されていたのだ。
「夫に好意を持つのは、仕方のないことなのです。けれど上僧様」
 サウビの見上げた視線を、僧は受け止めた。
「本当のことだけを、言ってください」
 この僧になら預けてもいいと思えるほど、慈愛に満ちた声だった。

 長く続いた話が終わるころ、僧は言った。
「ノキエの母親が亡くなる前に、こっそりと呼ばれました。父親が村で女を買っているから今のうちに、とノキエが呼びに来たのです。彼女はもう高熱の譫言なのか意識があるのか区別がつかないような状態で、私に継承者の証を預けたのです。けして連れ合いには渡さないでくれと、そしてノキエとマウニを逃がしてくれと。何故もっと早くに僧院を頼ってくれなかったのかと、私はそれを若いころから悔いてきた。あなたは私に会ったとき、死にたくないと言った。僧院は人を死なせはしません」
 力強い言葉だ。
「あなたを呼んだのは、ご主人と一緒にバザールに戻すためです」
 続いた言葉に悲鳴を上げるサウビに、僧はやさしく微笑んだ。
「ふたりで、ではありません。こちらからの使いの者も同行します。離縁はこちらではできませんから、バザールの僧院に手紙を書きます。村の人になってしまえば、僧院もあなたを守ってあげられる。自由になっていらっしゃい」
 自由になる。本当に、そんな日が訪れるのか。怯えたりせずに暮らしていける日が。
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