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茶道具を片づけてあてがわれた部屋に下がり、サウビは服を脱いだ。宴に間に合うように仕立てたブラウスは、マウニが選んでくれた青い色のものだ。街から持ち出した母のスカートを目の前に掲げ、刺繍を指で辿る。朝から働きづめで身体は疲れていても、眠れそうにない。
ノキエの言葉は、自分の父親を否定しているようだった。食べるものに困らない暮らしをし、馬を操ることも読み書きも不自由のない育ちかたをしているはずなのに、聞きかじった断片ですら幸福の香りはしない。自分の雇い主について何も知らないのだと、改めて思う。
翌朝、ライギヒ夫婦と庭の片づけを始めたところで、ノキエが起き出してきた。しばらく一緒になって椅子を運んだりしていたが、ふいに驚いた顔でサウビを正面から見た。
「あんた、年齢はいくつだ?」
マウニには二歳違いの二十一だと言った記憶があるが、考えてみればノキエとはまともに話したことがない。
「ずいぶんな年増を連れて帰って来たつもりでいたんだが、もしかしたら若いのか」
「もうじき二十二になります」
窶れて老けて見えていたのは、知っている。どれくらいに見えていたというのか。
「まだ娘じゃないか!」
狼狽えた声は、イネハムが振り向くほど大きかった。
頬に赤みが戻ってきたと自覚したのは、つい何日か前だ。髪の手入れはもっと前からできるようになっていたが、自慢だった蜂蜜色はまだ、光を撥ねるほどの艶はない。常に腰の痛みを庇って歩いていたため背が丸まり、ブラウスを縫いはじめてから肩の線に気がついた。
「あらあら、そんなに若かったのかい。家に来たときは顔もひどいもんだったから、思っていたより若いんじゃないかって、この前気がついたんだけど」
イネハムが会話に参加する。
「短い時間で年をとってしまうほど、辛い思いをしたんだろうさ。瞳に光がなくなった顔がどんなだか、私らも知っていたのにね」
それを聞いたノキエが一瞬、唇を噛み締める。それから思い直したように、サウビに向き直った。
「悪かった。若い女が男の家に住み込むのは、不安だったろう」
ひどく真摯な表情に驚いたのは、サウビのほうだ。男が自分の非を口にし、女の心情を慮っている。こんなことのできる男を、見たことがない。サウビの父親は生活のために一生懸命働いてくれていたが、家の中では誰よりも強かったから。
片付けが終わってイネハムとライギヒが帰ってから、残った食器を纏めているサウビをノキエは呼んだ。ノキエの部屋で向かい合うのは息苦しいだろうとここでも気遣いがあり、食堂での会話になった。
「マウニが嬉しそうにしているのに安心して、つい後回しになってしまった。あんたの話をしよう」
ノキエが口を開いた。
「勝手に連れてきてしまったが、実はあんたを買ったのは一晩だ。弱った女を自由にしたいと言って、鶏三羽分の金しか払っていない。最初は少し休ませてやるだけのつもりだったが、気を失ったあんたを見て気が変わった。逃げるように街を出たのは、そういう理屈だ」
椅子に腰掛けて膝の上で手を重ねたままのサウビは、改めてノキエの顔を見た。マウニと同じ褐色の髪に灰色の瞳は、静かな話し方と似合っている。
「幸いあんたのご亭主は酔っぱらっていたから、おそらく俺の顔は覚えていない。バザールには遠くからもたくさんの買い物客が来るから、俺だと特定できるのは飾り物屋の夫婦だけだ。だから一度確認しておく。ご亭主の元に戻りたいか?」
戻りたいかと訊かれただけで、身体が震える。戻ったら、今度こそ自分で自分を殺すだろう。首を横に振り、否定の意思だけを表した。
「では、行きたい場所はあるか。里に帰れるようなら」
「私はとても貧しい里で生まれ育ちました。一度外に出た娘が戻っても、食い扶持が増えて貧しさを増すだけです」
これも力なく否定した。
「男の家で、居難くはないか」
「それでも、行く場所はないのです」
ここを追い出されたら、身体を売るか野垂れ死ぬしかない。
「街の人間ではないと思っていた。どこから来た?」
「北の森です」
道理で、とノキエは言う。
「布の扱いに慣れているはずだな」
それから不思議なことを言った。
「北の森の織物は高価だろう? 機が使えるなら稼ぐこともできるだろう」
機だけでは生活できないと答えると、ノキエは逆に不思議な顔をした。
「里に便りの行き先が変わったと、教えなくて良いのか」
ノキエの言葉に、はっと顔を上げた。今まで何度かツゲヌイに渡してくれるように頼んだが、嫁に入った娘は里に連絡をせぬものだと吐き捨てられたのだ。けれど母はサウビのスカートをツゲヌイに預けていた。もしや誰かに頼んで、便りを書いてもらっていたかも知れない。そしてスカートを受け取ったツゲヌイは、それを捨てたかも。おそらくその憶測は、間違っていない。
ノキエの言葉は、自分の父親を否定しているようだった。食べるものに困らない暮らしをし、馬を操ることも読み書きも不自由のない育ちかたをしているはずなのに、聞きかじった断片ですら幸福の香りはしない。自分の雇い主について何も知らないのだと、改めて思う。
翌朝、ライギヒ夫婦と庭の片づけを始めたところで、ノキエが起き出してきた。しばらく一緒になって椅子を運んだりしていたが、ふいに驚いた顔でサウビを正面から見た。
「あんた、年齢はいくつだ?」
マウニには二歳違いの二十一だと言った記憶があるが、考えてみればノキエとはまともに話したことがない。
「ずいぶんな年増を連れて帰って来たつもりでいたんだが、もしかしたら若いのか」
「もうじき二十二になります」
窶れて老けて見えていたのは、知っている。どれくらいに見えていたというのか。
「まだ娘じゃないか!」
狼狽えた声は、イネハムが振り向くほど大きかった。
頬に赤みが戻ってきたと自覚したのは、つい何日か前だ。髪の手入れはもっと前からできるようになっていたが、自慢だった蜂蜜色はまだ、光を撥ねるほどの艶はない。常に腰の痛みを庇って歩いていたため背が丸まり、ブラウスを縫いはじめてから肩の線に気がついた。
「あらあら、そんなに若かったのかい。家に来たときは顔もひどいもんだったから、思っていたより若いんじゃないかって、この前気がついたんだけど」
イネハムが会話に参加する。
「短い時間で年をとってしまうほど、辛い思いをしたんだろうさ。瞳に光がなくなった顔がどんなだか、私らも知っていたのにね」
それを聞いたノキエが一瞬、唇を噛み締める。それから思い直したように、サウビに向き直った。
「悪かった。若い女が男の家に住み込むのは、不安だったろう」
ひどく真摯な表情に驚いたのは、サウビのほうだ。男が自分の非を口にし、女の心情を慮っている。こんなことのできる男を、見たことがない。サウビの父親は生活のために一生懸命働いてくれていたが、家の中では誰よりも強かったから。
片付けが終わってイネハムとライギヒが帰ってから、残った食器を纏めているサウビをノキエは呼んだ。ノキエの部屋で向かい合うのは息苦しいだろうとここでも気遣いがあり、食堂での会話になった。
「マウニが嬉しそうにしているのに安心して、つい後回しになってしまった。あんたの話をしよう」
ノキエが口を開いた。
「勝手に連れてきてしまったが、実はあんたを買ったのは一晩だ。弱った女を自由にしたいと言って、鶏三羽分の金しか払っていない。最初は少し休ませてやるだけのつもりだったが、気を失ったあんたを見て気が変わった。逃げるように街を出たのは、そういう理屈だ」
椅子に腰掛けて膝の上で手を重ねたままのサウビは、改めてノキエの顔を見た。マウニと同じ褐色の髪に灰色の瞳は、静かな話し方と似合っている。
「幸いあんたのご亭主は酔っぱらっていたから、おそらく俺の顔は覚えていない。バザールには遠くからもたくさんの買い物客が来るから、俺だと特定できるのは飾り物屋の夫婦だけだ。だから一度確認しておく。ご亭主の元に戻りたいか?」
戻りたいかと訊かれただけで、身体が震える。戻ったら、今度こそ自分で自分を殺すだろう。首を横に振り、否定の意思だけを表した。
「では、行きたい場所はあるか。里に帰れるようなら」
「私はとても貧しい里で生まれ育ちました。一度外に出た娘が戻っても、食い扶持が増えて貧しさを増すだけです」
これも力なく否定した。
「男の家で、居難くはないか」
「それでも、行く場所はないのです」
ここを追い出されたら、身体を売るか野垂れ死ぬしかない。
「街の人間ではないと思っていた。どこから来た?」
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それから不思議なことを言った。
「北の森の織物は高価だろう? 機が使えるなら稼ぐこともできるだろう」
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「里に便りの行き先が変わったと、教えなくて良いのか」
ノキエの言葉に、はっと顔を上げた。今まで何度かツゲヌイに渡してくれるように頼んだが、嫁に入った娘は里に連絡をせぬものだと吐き捨てられたのだ。けれど母はサウビのスカートをツゲヌイに預けていた。もしや誰かに頼んで、便りを書いてもらっていたかも知れない。そしてスカートを受け取ったツゲヌイは、それを捨てたかも。おそらくその憶測は、間違っていない。
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