薔薇は暁に香る

蒲公英

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 目が覚めると、日は高くなっていた。ここはどこだろうと辺りを見回してから、自分が知らない場所に連れて来られたことを思い出した。身体はあちこち痛んだが、壁伝いに歩くことはできる。そっと開けたつもりのドアは建付けが悪いのか、大きな音を立てた。
「起きたのかい」
 女が顔を出した。どうも食堂に続く部屋らしい。
「手洗いは外だよ。歩くのに手伝いが必要なら、男手を呼ぶけど」
「大丈夫です」
 場所を教えてもらい、家の外に出る。思っていたよりも更に日は高く、目の前に黄金色の実をつけた木が見えた。
「マルメロだよ。喉の薬になる」
 隣に立った女が教えてくれた。その奥にはいくつかの養蜂箱、後ろには農地がある。
「案内をしてやりたいところだけど、歩けるようにならないとね。さ、食事したらまた休めばいいよ」
 食堂に戻ると、暖かいスープと蜂蜜を塗ったパンが並べられた。他人から供される食事は、何故こんなにやさしいのだろう。

 ふと、自分をここに運んだ男がいないことに気がついた。視線を巡らせるサウビに気がつき、女が言葉にする。
「ノキエなら、朝早くに出たよ。あんたのことは、次の市が立つ日にライギヒが連れていくことになってる」
 市? 売り物として市に並べられるの? 怯えた顔になったサウビに、女は笑い出した。
「あんたを売るわけじゃない、荷物を運びがてら送っていくだけだよ。ライギヒっていうのはうちの人。私はイネハムって名前よ、あんたは?」
「サウビ」
 イネハムはおそらくサウビの母親と同じくらいの年回りだろうが、ずっと若く見える。機の名手の母親は一日中背を丸めて機を織り、それが終われば家族のために働いた。全員が同じくらい貧しかった北の森では当然の光景だったが、あの生活は人間を早く老いさせるものなのだ。
「さあ、心配せずに寝て傷を癒すことさ。弱っている人間は、良くないことを引き寄せるものだからね」
 元の部屋に押し込まれて、背に当てた薬草を交換してもらってから、この家に来てはじめて鏡を見た。おそらく倒れたときに擦ったのであろう頬と額の傷と、青と黄に変色した肌の中の虚ろな瞳がサウビを見返した。

 鏡を覗いても、映っているものが見えていなかったのか。自分はずっとこんな顔を他人に見せて歩いていたのか、とサウビは呆然とする。今まで自分が鏡の中に見ていたのは、記憶の自分の顔だったのだ。そそけた髪も艶のない頬も、まったく気がつかなかった。
 飾り物屋の内儀は、もう一度綺麗な娘に、と言った。つまり今のサウビは、綺麗な娘ではないと言っていたのだ。自分が見えなくなるほど、追い詰められていた。
 もうツゲヌイはいない。新たな自分の持ち主は、少なくとも自分をツゲヌイから離してくれたのだ。それだけでも感謝しなくてはならない。ツゲヌイはもういないのだ。
 寝床に横たわり、サウビは大きく深呼吸した。胸に空気を入れるだけのことが、こんなに解放されることだと知らなかった。今は息を潜めなくても良い、浅い眠りの中で隣を窺わなくても良い。そう考えた途端、急速に眠りがやってきた。

 夕暮れ近くまで眠って、目が覚める。部屋から出ても、家の中には誰もいなかった。眠っていると安心して目を離したのか、それとも逃げても構わないと思っているのか。とりあえず見張られているのではないことだけは確かで、草原で昼寝をしたノキエを思い出した。サウビが牙を隠していないと、何か確信があるのだろうか? イネハムの家から金を奪って、逃げ出すこともできるのに。
 台所からは甘い香りが漂っている。マルメロを煮ているらしい。ぶくぶくと煮立ってしまっているのを見て、焦げ付かないようにとサウビはヘラを持ち上げた。
「おや、少し目を離してしまったね」
 音を立てずに台所に入ってきたイネハムの声に、飛び上がりそうになる。やはり見張られていて、サウビから目を離したと言っているのか。
「ああ、まだ焦げてないね。ゆっくり掻き混ぜてくれるかい」
 その言葉で、火から目を離したと言っているのだと安心して、鍋にヘラを入れる。とろりと蜜色になったマルメロがヘラの先で揺れるのを見ると、空腹を感じる。それもまた、久しぶりの感覚だった。
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