7 / 107
7.
しおりを挟む
目が覚めると、日は高くなっていた。ここはどこだろうと辺りを見回してから、自分が知らない場所に連れて来られたことを思い出した。身体はあちこち痛んだが、壁伝いに歩くことはできる。そっと開けたつもりのドアは建付けが悪いのか、大きな音を立てた。
「起きたのかい」
女が顔を出した。どうも食堂に続く部屋らしい。
「手洗いは外だよ。歩くのに手伝いが必要なら、男手を呼ぶけど」
「大丈夫です」
場所を教えてもらい、家の外に出る。思っていたよりも更に日は高く、目の前に黄金色の実をつけた木が見えた。
「マルメロだよ。喉の薬になる」
隣に立った女が教えてくれた。その奥にはいくつかの養蜂箱、後ろには農地がある。
「案内をしてやりたいところだけど、歩けるようにならないとね。さ、食事したらまた休めばいいよ」
食堂に戻ると、暖かいスープと蜂蜜を塗ったパンが並べられた。他人から供される食事は、何故こんなにやさしいのだろう。
ふと、自分をここに運んだ男がいないことに気がついた。視線を巡らせるサウビに気がつき、女が言葉にする。
「ノキエなら、朝早くに出たよ。あんたのことは、次の市が立つ日にライギヒが連れていくことになってる」
市? 売り物として市に並べられるの? 怯えた顔になったサウビに、女は笑い出した。
「あんたを売るわけじゃない、荷物を運びがてら送っていくだけだよ。ライギヒっていうのはうちの人。私はイネハムって名前よ、あんたは?」
「サウビ」
イネハムはおそらくサウビの母親と同じくらいの年回りだろうが、ずっと若く見える。機の名手の母親は一日中背を丸めて機を織り、それが終われば家族のために働いた。全員が同じくらい貧しかった北の森では当然の光景だったが、あの生活は人間を早く老いさせるものなのだ。
「さあ、心配せずに寝て傷を癒すことさ。弱っている人間は、良くないことを引き寄せるものだからね」
元の部屋に押し込まれて、背に当てた薬草を交換してもらってから、この家に来てはじめて鏡を見た。おそらく倒れたときに擦ったのであろう頬と額の傷と、青と黄に変色した肌の中の虚ろな瞳がサウビを見返した。
鏡を覗いても、映っているものが見えていなかったのか。自分はずっとこんな顔を他人に見せて歩いていたのか、とサウビは呆然とする。今まで自分が鏡の中に見ていたのは、記憶の自分の顔だったのだ。そそけた髪も艶のない頬も、まったく気がつかなかった。
飾り物屋の内儀は、もう一度綺麗な娘に、と言った。つまり今のサウビは、綺麗な娘ではないと言っていたのだ。自分が見えなくなるほど、追い詰められていた。
もうツゲヌイはいない。新たな自分の持ち主は、少なくとも自分をツゲヌイから離してくれたのだ。それだけでも感謝しなくてはならない。ツゲヌイはもういないのだ。
寝床に横たわり、サウビは大きく深呼吸した。胸に空気を入れるだけのことが、こんなに解放されることだと知らなかった。今は息を潜めなくても良い、浅い眠りの中で隣を窺わなくても良い。そう考えた途端、急速に眠りがやってきた。
夕暮れ近くまで眠って、目が覚める。部屋から出ても、家の中には誰もいなかった。眠っていると安心して目を離したのか、それとも逃げても構わないと思っているのか。とりあえず見張られているのではないことだけは確かで、草原で昼寝をしたノキエを思い出した。サウビが牙を隠していないと、何か確信があるのだろうか? イネハムの家から金を奪って、逃げ出すこともできるのに。
台所からは甘い香りが漂っている。マルメロを煮ているらしい。ぶくぶくと煮立ってしまっているのを見て、焦げ付かないようにとサウビはヘラを持ち上げた。
「おや、少し目を離してしまったね」
音を立てずに台所に入ってきたイネハムの声に、飛び上がりそうになる。やはり見張られていて、サウビから目を離したと言っているのか。
「ああ、まだ焦げてないね。ゆっくり掻き混ぜてくれるかい」
その言葉で、火から目を離したと言っているのだと安心して、鍋にヘラを入れる。とろりと蜜色になったマルメロがヘラの先で揺れるのを見ると、空腹を感じる。それもまた、久しぶりの感覚だった。
「起きたのかい」
女が顔を出した。どうも食堂に続く部屋らしい。
「手洗いは外だよ。歩くのに手伝いが必要なら、男手を呼ぶけど」
「大丈夫です」
場所を教えてもらい、家の外に出る。思っていたよりも更に日は高く、目の前に黄金色の実をつけた木が見えた。
「マルメロだよ。喉の薬になる」
隣に立った女が教えてくれた。その奥にはいくつかの養蜂箱、後ろには農地がある。
「案内をしてやりたいところだけど、歩けるようにならないとね。さ、食事したらまた休めばいいよ」
食堂に戻ると、暖かいスープと蜂蜜を塗ったパンが並べられた。他人から供される食事は、何故こんなにやさしいのだろう。
ふと、自分をここに運んだ男がいないことに気がついた。視線を巡らせるサウビに気がつき、女が言葉にする。
「ノキエなら、朝早くに出たよ。あんたのことは、次の市が立つ日にライギヒが連れていくことになってる」
市? 売り物として市に並べられるの? 怯えた顔になったサウビに、女は笑い出した。
「あんたを売るわけじゃない、荷物を運びがてら送っていくだけだよ。ライギヒっていうのはうちの人。私はイネハムって名前よ、あんたは?」
「サウビ」
イネハムはおそらくサウビの母親と同じくらいの年回りだろうが、ずっと若く見える。機の名手の母親は一日中背を丸めて機を織り、それが終われば家族のために働いた。全員が同じくらい貧しかった北の森では当然の光景だったが、あの生活は人間を早く老いさせるものなのだ。
「さあ、心配せずに寝て傷を癒すことさ。弱っている人間は、良くないことを引き寄せるものだからね」
元の部屋に押し込まれて、背に当てた薬草を交換してもらってから、この家に来てはじめて鏡を見た。おそらく倒れたときに擦ったのであろう頬と額の傷と、青と黄に変色した肌の中の虚ろな瞳がサウビを見返した。
鏡を覗いても、映っているものが見えていなかったのか。自分はずっとこんな顔を他人に見せて歩いていたのか、とサウビは呆然とする。今まで自分が鏡の中に見ていたのは、記憶の自分の顔だったのだ。そそけた髪も艶のない頬も、まったく気がつかなかった。
飾り物屋の内儀は、もう一度綺麗な娘に、と言った。つまり今のサウビは、綺麗な娘ではないと言っていたのだ。自分が見えなくなるほど、追い詰められていた。
もうツゲヌイはいない。新たな自分の持ち主は、少なくとも自分をツゲヌイから離してくれたのだ。それだけでも感謝しなくてはならない。ツゲヌイはもういないのだ。
寝床に横たわり、サウビは大きく深呼吸した。胸に空気を入れるだけのことが、こんなに解放されることだと知らなかった。今は息を潜めなくても良い、浅い眠りの中で隣を窺わなくても良い。そう考えた途端、急速に眠りがやってきた。
夕暮れ近くまで眠って、目が覚める。部屋から出ても、家の中には誰もいなかった。眠っていると安心して目を離したのか、それとも逃げても構わないと思っているのか。とりあえず見張られているのではないことだけは確かで、草原で昼寝をしたノキエを思い出した。サウビが牙を隠していないと、何か確信があるのだろうか? イネハムの家から金を奪って、逃げ出すこともできるのに。
台所からは甘い香りが漂っている。マルメロを煮ているらしい。ぶくぶくと煮立ってしまっているのを見て、焦げ付かないようにとサウビはヘラを持ち上げた。
「おや、少し目を離してしまったね」
音を立てずに台所に入ってきたイネハムの声に、飛び上がりそうになる。やはり見張られていて、サウビから目を離したと言っているのか。
「ああ、まだ焦げてないね。ゆっくり掻き混ぜてくれるかい」
その言葉で、火から目を離したと言っているのだと安心して、鍋にヘラを入れる。とろりと蜜色になったマルメロがヘラの先で揺れるのを見ると、空腹を感じる。それもまた、久しぶりの感覚だった。
0
お気に入りに追加
220
あなたにおすすめの小説
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
妻がエロくて死にそうです
菅野鵜野
大衆娯楽
うだつの上がらないサラリーマンの士郎。だが、一つだけ自慢がある。
美しい妻、美佐子だ。同じ会社の上司にして、できる女で、日本人離れしたプロポーションを持つ。
こんな素敵な人が自分のようなフツーの男を選んだのには訳がある。
それは……
限度を知らない性欲モンスターを妻に持つ男の日常
お嬢様、お仕置の時間です。
moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。
両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。
私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。
私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。
両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。
新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。
私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。
海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。
しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。
海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。
しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。
連れ子が中学生に成長して胸が膨らむ・・・1人での快感にも目覚て恥ずかしそうにベッドの上で寝る
マッキーの世界
大衆娯楽
連れ子が成長し、中学生になった。
思春期ということもあり、反抗的な態度をとられる。
だが、そんな反抗的な表情も妙に俺の心を捉えて離さない。
「ああ、抱きたい・・・」
[恥辱]りみの強制おむつ生活
rei
大衆娯楽
中学三年生になる主人公倉持りみが集会中にお漏らしをしてしまい、おむつを当てられる。
保健室の先生におむつを当ててもらうようにお願い、クラスメイトの前でおむつ着用宣言、お漏らしで小学一年生へ落第など恥辱にあふれた作品です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる